[U b i q u i t y]

              ( 後  編 )



「……見てください!ヒロユキさん。チョウチョが飛んでます!」マルチはス
カートをひらめかせて、あざやかな黄色いチョウチョを追いかけていた。
「うん」ぼくは、彼女に手を引かれて植物園の中を歩いていた。
 その黄色い蝶は、南米産の大きな花の上にとまった。
「そーっと近づいて」ぼくは小さな声で言った。
 マルチは、恐る恐る近寄った。ぼくは背の低いマルチの肩ごしに、その蝶を
見た。
「……すごいです……生きてるんですね」
「ああ」
「……こんなに小さいのに」
「そうだね」
「あ」マルチは声をあげた。
 その黄色い蝶は、高く飛びあがった。夕日がさしこんでいる温室の高いガラ
スばりの屋根に向かって。
「嫌われたんでしょうか?」
「そんなことないよ」

 ぼくたちは、植物園の中をぶらぶらと歩いた。植物の、圧倒的な生命の香り
がした。マルチがどの花も大きな目をくるくるさせながら喜んで見つめるもの
だから、時間がかかった。ぼくのほうが、集合時間の心配をするほどだった。
「ああ!」突然マルチはすっとんきょうな声を上げた。
「どうしたの」
「……これ」マルチは、ある食虫植物の茎のあたりを指さした。
 ぼくは、そこを覗きこんだ。黄色い蝶の死骸が落ちていた。
「……さっきまで飛んでいたのに……」
「……ちがうよ、マルチ。死んでからだいぶ時間がたってる。干からびている
よ」
「……もう、飛べないんですか?」
「死んでるからね」
「……不思議です。生きていたときは、きっと、ひらひらと飛んでいたんで
しょう?」
「そうだね……埋めてやろう」ぼくは、指さきで土を掘って、小さな穴を作
り、蝶の死骸をそっとつまんで、その中にいれた。そして、軽く土をかけて
やった。
「……なぜそんなことをするのですか?」ぼくは振り返ってマルチの顔を見
た。首をかしげてぼくを見ていた。
「え?」ぼくは言葉に詰まってしまった。そういえば、なぜぼくは当然のよう
に蝶を埋めたのだろう?
「……なぜだろうな……。死んだらそうすることになってるんだ。そうしか言
えないな」ぼくは、つぶやくように言った。

 いつもの集合場所まで送っていったとき、もうみんなバスに乗っていた。
 バスの運転手らしき若者が、道路の脇に腕を組んで立っていた。
 謝ろうとするマルチを手で制して、ぼくはその人に頭を下げた。
「すみません。ぼくが悪いんです」
 頭を上げると、制帽をかぶった端正な男性の顔があった。どこかで見覚えが
あった。
「……困りますね。以後気をつけてください」その人は言った。
 
 次の日は雨だった。
 ぼくは、傘をさして、少し早めに学校へ行った。
 校門のところで、あかりに会ってしまった。いつものように、髪を三つ編み
にして垂らしていた。あかりは、ぼくと目が会うと、一瞬たちどまった。
「……おはよう」低い声で、あかりは言った。
「おはよう」ぼくは答えた。
 並んで校舎まで歩いた。挨拶だけして、さっさと歩いて行くのは不自然な感
じがしたからだ。
「……雨、いやだね」あかりが、独り言のように、言った。
「うん」ぼくは、答えた。
 
 白い、神経繊維のような春の雨が、灰色の校舎を包み込んでいた。
 なぜか、あかりのさす紺と白のチェックの傘に雨粒が当たる「ぽつぽつ」と
いう音がはっきりと聞こえた。
「……おばさんは、元気?」あかりは言った。おばさんとは、ぼくの母の事
だ。
「……うん、元気だよ。……さいきん、帰って来てないけどね」
「……そう」
 そのまま、会話が途絶えた。

 ぼくは、下履きに履き替えて、あかりと別れて教室に入りながら、かあさん
が帰って来て、ぼくの「噂」を聞いたらどんな顔をするだろう、と思った。

 でも、そのころのぼくは、授業が退屈でならなかった。早く放課後になれ、
そればっかり思っていた。マルチと過ごす以外の時間が、なんの価値も無いよ
うな気がした。
 なんの価値も無い、灰色の時間だ。そこには今日みたいな雨が、いつも降っ
てるんだ。

 担任の山岡先生に、放課後職員室に来るように言われた時、ぼくは意外に落
ち着いていたんだ。なかば、予想していた事だったから。ぼくとマルチの事は
学校だけじゃなく、生徒の父兄までにも広まっていたみたいだから。
 だから、ぼくは、もう慣れっこになった背中の視線を感じながら、職員室に
歩いて行った。
 先生の話も、なんの価値も無い、この雨のそぼ降る灰色の世界と同じなん
だ。
 ただ、傘をさして、足早に通り過ぎればいいんだ。
 
 ぼくは今でも、薄暗い職員室の隅の方に座っていた山岡先生の顔を、先生が
右手に持っていたたばこの煙が立ち昇る光景を、ありありと思い浮かべる事が
できる。
「ご両親の仕事の方はどうなんだ?こっちに帰って来られないのか?」
 先生はぼくが座るとすぐにそう言った。
 ぼくは正直に答えた。
「……そうか、おまえと向こうで一緒に住むってわけにはいかないのか?」
「……」
「いや、お前に転校しろって言ってるわけじゃないんだ。やっぱり、高校生が
一人暮らしってのはよくないしな」
 先生は勘違いしていた。ぼくが答えなかったのは、違う事を考えていたから
だ。そう、ぼくはなぜ両親と一緒に住んでいないんだろう?と。家庭用ロボッ
トをローンで買う事が出来るのなら、あっちでもっと広いアパートを借りて、
親子三人で暮らす事も出来るんじゃないか?と思っていたのだ。
 そう考えていると、なんだか急に職員室の部屋が、広く感じてきた。なぜだ
かは、わからない。

「……な、藤田。俺がなんでお前をここに呼んだのか、わかってるよな?」
「……はい」
「お前も、自分が何をやっているのか、うすうすわかってるんだろう?……
だったらなぜ?」
「……」
「……誰だって恋をする。『人』を好きになるということは素晴らしい事だ。
この世界にゃ、素晴らしい事ってのはあんまりないが、恋は、数少ない例外
だ。先生だって何度も恋したさ。だがな、藤田」
「……わかってます」
「いや、わかってない。というか、わかっていても、オマエはそれを見ようと
はしていない。『恋は盲目』とは、よく言ったもんだ」
 ぼくの担任教師は、新しいたばこに火をつけた。
 そして、ひどく言いにくそうに、こう言った。
「……先生は、こんな事は言いたくない。だが、仕方がない。オマエが突然そ
れを知るよりはましだと思うから、な」
 先生は何を言ってるんだ?
「……俺を恨んでくれてもいい。だが、藤田、家に帰って、よく考えてみてく
れ」
 いったい、何の事を言ってるんだ?
 ぼくは、マルチがロボットだということは知ってるんだ。知っているとも。
知ってる。これ以上なにがあるっていうんだ。
「あの、ロボットの……えと、『マルチ』か。その担任の桧垣先生が、聞いた
んだよ。その、マルチが来る前に。何気なくな」

 なにを言ってるんだ?

「相手がいくら来栖川エレクトロニクスだからといって、ウチの学校も、ハイ
そうですか、とロボットの受け入れを決めた訳じゃないんだ。桧垣先生は、特
にああいう性格だろ、だからいろいろ聞いたのさ」

 だから、なにを言ってるんだ?

「あの、ロボットの『テストとサンプリング』はもうすぐ終わりなんだ。そう
だな……」山岡先生は、机の上にある小さなカレンダーを見た。
「えーっと。明後日か……。早いもんだな……。明後日からマルチは学校に来
なくなる。もうテストは終わりなんだ。あの子は工場へ帰る」

 ぼくは、意外に冷静だった。いつかは、その時はやってくると心の奥では
思っていたんだ。そうだ。いつかは、そんなときがくる。工場に会いに行けば
いいのだ。いつだったか、寝床でそう思ったじゃないか。
「桧垣先生は『その先』も聞いたんだ」気がつくと先生の言葉は続いているの
だった。
 山岡先生は、そこで言葉を切り、まだ2分の1も残っているたばこをもみ消
した。
「……はっきり言おう。あのマルチというロボットは、あの通り来栖川エレク
トロニクスの技術の粋を集めて作られたものだ。桧垣先生と話した、誰だっ
け?……名前をど忘れしたが、なんとか部長さんが言うには、ハイテク過ぎ
て、毎日稼働させるのに、ものすごいコストがかかっているそうなんだ。だか
ら、テストが終了し次第……その、『機能停止』して『解体』するそうだ」


 ……ぼくは、思い出せない。
 とにかく、ぼくは、職員室を出たんだろう。なぜなら、次に記憶があるの
は、あの集合場所に向かって走っているところだからだ。
 ぼくは、走っていた。
 雨は降り続いていたが、傘をさしていなかった。魂のどこかが、とても大き
などこかが、水浸しになっているんだ。今更傘をさしてどうなるんだ?そう、
感じていたような気がする。

 記憶がないんだ。マルチを探したけど、もう帰っていたことだけをおぼえて
いる。寒気を催すほどの不安を感じた。

 マルチの後ろ姿を見つけたとき、身体と同じ小さな傘をさして、とぼとぼと
歩いているやせっぽちの少女の背中を見たとき、ばらばらだった世界のかけら
がぱちんぱちんとはめ絵のようにもとの場所に戻っていくような感じがした。
 ぼくの心臓が踊りまわっていた。
「マルチ!」
 ぼくは叫んだ。
 
 マルチはまるで子犬のように飛びあがって振り返り、ぼくを見るとほほえん
だ。灰色の世界に、ぱっと鮮やかな色の花が咲いたようだった。
「ヒロユキさん!」
 だが、彼女のほほえみは急速にしぼんでしまった。マルチの視線は雨に濡れ
て息を切らせているぼくに注がれていた。
「どうしたんです?傘もささないで……風邪をひいてしまいます」
 ぼくの目の前の背の低い少女は、背伸びして、ぼくの頭の上に傘をさしかけ
た。雨粒がマルチの制服に、ぽつぽつとしみを作っていった。淡い髪の毛に水
滴がついている。しかし、マルチはそれを意に介するふうもなく、このうえな
い真剣さで、ぼくを見上げていた。顔に心配そうな表情を浮かべて。
 こんな娘が、こんな、いじらしい少女が、ロボットなんかであるものか!
「……!」
 ぼくはマルチを抱きしめていた。強く。
 マルチの背中はやせて硬かった。けれどもそれは、鉄の硬さではなく、卵の
殻のような、もろい硬さだった。
「……どうしたんですか?」
「……ぼくと、逃げよう」
「……え?」
「……いや……ぼくと行こう。どこか、遠くへ」
「……え?」
 ぼくは、すこし腕をゆるめて、マルチの小さな顔を覗きこんだ。
「……君が、好きだ」
「……え?……え?」
「君が好きだ。誰よりも……もう工場へ帰るな。ぼくと行こう」
「そ、そんな事はできません、毎日工場へ帰らないと叱られます」
 その工場にいる、白衣を着た男たちが、そのうち、君をばらばらにしてしま
うんだ、ぼくはそう思った。
「……ぼくの事、好き?」ぼくは息を整えて、精一杯やさしい声を出した。

 マルチは、雨の中の小柄な少女は、目を伏せた。まつげの上に小さな水滴が
ついていた。ぼくは彼女を傘を持つ手の手首を握って、傘を彼女の上にさしか
けた。
「だめです、あなたが雨に濡れてしまいます」
「君が濡れるよりは、このほうがいい……ぼくのことをどう思ってる?」

 長い時間が流れたような気がした。ぼくは、待った。腕の中のか弱い女の子
をみつめながら。車が何台も通り過ぎる音がした。
「……わたしも、ヒロユキさんが、好き……です。でも」
「じゃ、行こう」
 ぼくは、マルチの傘をさしていないほうの手を握って、雨の中を歩きだし
た。
 今となっては雨音だけしか思い出せない。好きな女性を守るんだ、そんな、
おとぎの国の王子めいた、わけのわからぬ高揚感に包まれて、ぼくはマルチの
手を引き、家に向かっていた。
 わざと商店街の方向へは行かず、ぼくがたまに遅刻しそうになるときに通
る、公園の中を歩いた。

「あ」突然、ぼくに手を引かれるままについてきていたマルチが立ちどまっ
た。
「どうしたんだい?」
「蛙……」マルチは言った。確かに、名前も知らないピンク色の花の葉に、小
さな雨蛙がいた。春の雨を楽しむかのように、雨音に耳を澄ませるかのよう
に、目を閉じていた。
「……雨が、うれしんでしょうか?」マルチは小さな声でそう言った。

「行こう」ぼくは彼女の手を引いて歩き始めた。家へ急ぐために。

 玄関のドアを開けた。
 マリアが立っていた。マリアは、ぼくとマルチをかわるがわる見た。
「……タオルを持ってまいります」マリアはそう言っただけだった。
 
 気がつくと台所で、大きなリュックサックに寝袋を詰めこんでいるのだっ
た。おやじが柄にもなくアウトドアに凝っていたとき、買ったものだ。一度だ
け九州にキャンプに行ったっけ。ちょうど台風がきて、さんざんな目にあった
事だけをおぼえていた。あれはぼくが小学生のときだろうか?もう中学生に
なっていただろうか?……いや、時間が、ぼくの世界の時間が静止しようとし
ているのに、そんなことはどうでもよかった。
 マリアはぼくの後ろでぼくの衣類を畳んでいた。ぼくが命令したのだ。
「質問してもよろしいでしょうか?」手を休めることなくマリアがぼくに言っ
た。
「……だめだ」ぼくは答えた。
「旦那様か奥様に連絡しましょうか?」
「だめだ!ぜったいだめだ!」ぼくは怒鳴った。
 マリアはきょとんとしてぼくを見ていた。
「……ごめん、どなったりして。とにかく、誰にも言わないでくれないか。お
願いだよ」
 マリアは端正な白い顔をぼくに向けたまま、何か考えごとをしているような
表情を浮かべていた。
「お願いだ。誰にも言わないで、手伝ってくれ」
「……はい」マリアは答えた。

 マルチは、ぼくの部屋で待っていた。ベッドの上に、ちょこんと座ってい
た。マルチが、普通の女の子ならば、単にガールフレンドが家に遊びに来ただ
けなのだ。なんでもない、どこにでもある、高校生活の一コマなんだ。

「どこへ行くんですか?」
「……とにかく行こう」
 ぼくの名前はきっと知られている。彼らに。街中の噂になっているんだか
ら。ぼくの家に向かっているのも大勢の人が見ている。

「これを着るんだ」ぼくは、自分の黄色いレインパーカーをマルチに着せた。
フードで頭を覆い、彼女の耳の部分にある金属のアンテナのようなものを隠し
た。

「……夕食はどうなさいますか?」玄関先でマリアが言った。
「今日は、いらないよ」
 ぼくは、答えた。ずっと要らないかもしれない。

 ぼくたちは家の外に出た。灰色の空はいっそう暗くなっていた。
 雨は激しさを増していた。もう集合時間を一時間も過ぎていた。

「さあ、行こう」ぼくは、マルチの手を引いて、どしゃ降りの雨の中に飛びこ
んだ。

 ぼくたちは駅に向かって歩いていた。

 行き交う人がみな、ぼくたちをしげしげと見ているような気がした。
 気のせいだ。もちろん。ぼくはマルチを見た。ぼくの黄色いレインパーカー
のフードをかぶった彼女は、普段と違って見えた。
 ぼくが振り返ってみつめているのに気付いたマルチは、顔を上げ、ぼくを見
た。ぼくは、はっと息を呑んだ。
 マルチは、とても美しく見えた。
 不思議だった。ぼくは、この娘をはじめて見たときに、「ねずみみたいだ」
と思った。その時からマルチの顔は何も変わっていない。だのに、彼女は、そ
の一瞬、息がとまるほど奇麗に見えたんだ。

 そのころのぼくは、その美を形容することができなかった。
 いまは、できる。
 それは、聖なる美しさだったんだ。

 ……やみくもに家を出たわけじゃない。ちゃんと計画はあった。父の郷里、
祖母のところへ行こうとしていたのだ。ほとぼりがさめるまで、そこでマルチ
と暮らそう、そう思っていた。
 言うまでもなく、ぼくは愚かだった。だけど、その時ぼくの心を捉えて放さ
なかったのは、一面の麦畑の中で、平和そうに微笑む、マルチの顔だった。

 ぼくたちは、こそこそと雨の中を駅に急いでいた。
 ぼくの街の駅は、銀行や証券会社が立ち並ぶ殺風景なオフィス街の真ん中に
あった。駅の正面から街の中心へと、4車線の道路が抜けていて、駅前が広々
と見渡せる。
 ぼくは、歩道にたちどまって、駅前の様子を見た。
 変わったところはなかった。
 雨の夜の中で、明るい光を放っていた。ぼくは腕時計を見た。急ごう。

 ふと、車が一台、タクシー乗り場の前にとまっているのが見えた。
 白い商用のバンだった。男が一人、運転席に乗っていた。その車のドアのと
ころに、こう書かれていた。
「ほほえみをあなたに」

「引き返そう」ぼくはマルチに言った。
「え?」
「……駅の方を見ないで……ぼくに、ついてきて」
「はい……」

 ぼくたちは、自動車も入らないような路地裏を通って、西へ西へと歩いてい
た。ぼくたちが乗れたかもしれない特急列車の走り去る音を聞きながら。次の
小さな駅まで何キロあったろうか?特急は停まらないけど、普通列車に乗っ
て、特急が停まる駅まで行けばよい、そう考えたのだ。
 
 どれくらい歩いたろう。ぼくたちは駅前からだいぶ遠ざかった。
 人通りはまばらになった。ぼくと、マルチの歩く、ぴたぴたという音が、雨
音の合間に聞こえて来た。
「……寒くないかい?」
「……ちっとも、寒くないです。……ヒロユキさんこそ」
「ぼくは、ぜんぜんだいじょうぶ」
 むしろ、逆だった。ぼくは、熱いほどの高揚感に包まれていたんだ。ぼく
は、いきなり大人の男になったような気がしていた。
 もう高校へは戻れない。かえって、それが心地好かった。ぼくは、マルチを
守って生きていくんだ。一歩づつ、そんな思いが高まっていくのを感じてい
た。

 国道を避けて、線路ぞいに歩いた。似たような家が立ち並ぶあたりを抜ける
と、建物もまばらになった。雨の中で、数少ない民家からもれる明かりがにじ
んで見えた。
 ぼくは腕時計を見る。午後8時45分。あと数キロ歩けば、小さな無人駅が
ある。そこで電車に乗ればいいのだ。だけど、最終の特急に間に合うだろう
か。今日中に祖母の家に行くのは無理な気がしてきた。
「……」
 ぼくはマルチを振り返った。どことなく疲れているように見えた。
「大丈夫?」
「……はい、大丈夫です」マルチは、大きくて目にかかりそうなフードを片手
で上げて、言った。
 どこかで休もう。駅の近くで野宿して、朝一番の電車にとびのろう。そう
思った。いま電車に乗って大きな町に行っても、特急に間に合わず、そこで野
宿すれば、発見されやすい。警察に補導されるかもしれない。そうなったら終
わりだ。
 
 ぼくたちは街灯も無い暗い道を、ひたすら歩いていた。
 ふと気がつくと、数十メートル先で、道路工事をやっていた。投光機の光の
なかで、雨が細い銀の槍のように見えた。
 ダダダダダ。
 何人かの作業員が、道路のアスファルトを削りとっている。
 その時、奇妙な感じがした。何かが、喉にひっかかっている気がした。
 ぼくは目を凝らして、その作業員たちを見つめた。
 原因がわかった。かれらは、濃紺の合羽を着て、頭をすっぽりと透明なビ
ニール袋で覆っているんだ。普通の人間ならば、窒息してしまうだろう。
 人間ならば。
 通行止と書かれた看板のある工事現場の脇に、歩行者用の歩道があった。
 そこを通り過ぎるときに、ぼくは、一人の作業員の顔を覗きこんだ。
  顔が無かった。
 額のところに黒い穴の開いた灰色の仮面を付けているようだった。
 ロボットだ。
 ぼくは、マルチの手を握った。冷たい濡れた手に、かすかなぬくもりを感じ
る事ができるまで、強く握りしめた。
 ダダダダ。音は続く。ロボットたちは頭をビニールで覆われたまま、息苦し
さも感じているふうもなく、雨の中、働き続けていた。

 しばらく行くと、道の脇に、暗い大きな建物があった。
 建物というより、コンクリートの塊と言ってもいい。骨組みに鉄筋コンク
リートを流し込んだだけで、内装も外装もしていない4階建のアパートのよう
な建物だった。足場も何も組まれていない。ということは、建設中じゃなく
て、工事途中で放棄されたものかもしれない。
 腕時計を見た。
 10時10分前。もう最終の特急に間に合うわけがない。ここで朝まで待っ
て、駅へ行こう。それは名案に思えた。
「こっちだ」
 ぼくはマルチの手を引いて、建物の敷地に足を踏みいれた。
 店舗用だろうか、一階に大きな部屋があった。まっくらなその部屋に入っ
て、リュックサックを下ろした。手探りでペンライトを取り出した。一階で眠
るつもりはなかった。危険だったからだ。ぼくはライトを持ったまま、むき出
しのコンクリートの階段を上り始めた。
 4階まで上った。
 案の定、アパートだったらしい。細かく部屋が区切られていた。ぼくたちは
通路を通って、4階の真ん中の部屋に入った。
 部屋の中をライトで照らしてみた。むき出しの壁に、いっぱい落書きがして
あった。床にはビールのカンカンや、火を燃やした跡があった。
 ぼくはリュックサックを下ろして、レインパーカーを脱いだ。
「ここで朝まで待とう」
「……はい」
 暗闇の中でマルチがそう言った。
 ぼくは思いついて、リュックサックを壁に立てかけ、ペンライトを反対側の
壁に向けておいた。ささやかな光は反射して、部屋をほの暗い程度の明るさに
した。
「座りなよ。疲れたろ」
「……はい」マルチは、むき出しのコンクリートの上にちょこんと座った。
「上を脱いだ方がいいよ」
「あ、はい」彼女は黄色いレインパーカーを脱いで、畳んだ。耳のあたりにあ
る金属のヘッドホンのようなものを久しぶりに見たような気がした。
「だいじょうぶかい?」
「だいじょうぶです。ヒロユキさんこそ、疲れたんじゃないですか?」
「ぼくは、だいじょうぶ」そう答えて、足を組んだ。

 ぼくは、一夜を過ごすことになったその部屋を、もう一度ゆっくりと見回し
た。どこも、むき出しの冷たいコンクリートの壁だった。サッシも何もない四
角い穴から、降りやまぬ雨音が聞こえてきた。
 マルチは、うつむいて足を組んで座っていた。

 普通なら、みじめったらしい、情けない夜だったろう。晩飯も食わずに雨の
中歩きまわり、さんざん濡れそぼって、廃墟のような建物の中で、足を抱えて
座っているのだから。
 だけど、ぼくは、幸せだったんだ。まるで、夏の終業式の後のような、途方
もなく長い夏休みが始まる前のような、わくわくした気持ちがした。

「……すごい田舎に行くんだ。き、君も気に入ってくれるといいんだけど」
 ぼくは、マルチに話しかけた。
「……どこですか?」マルチはぼくの顔を見上げながら言った。
 ぼくは、祖母の家の場所をマルチに言った。案の定、彼女は知らなかった。
ぼくは、その山間の寒村のことを、一生懸命マルチに説明した。祖母の家から
数分のところにある村でたった一軒の雑貨屋のこと、幼い頃、帰省していた他
のいとこたちと戦争ごっこをした神社のこと、そして、今年たしか78か9に
なる祖母のこと。
 マルチは、いちいち相づちをうちながら、ぼくの話を聞いていた。そして、
ぼくが話し終えて一息つくと、こう言った。
「……そこでわたしが暮らすのですか?」彼女は少し小首を傾げていた。
「……うん、君さえよければ……ちがう、それしかないんだ。……いや、理由
は言えないけど、君が幸せになるにはそれしかないんだよ」
「わたしが幸せに……?」マルチはとても不思議そうな顔をした。ぼくが何か
的外れの事を言ったかのように。
 ぼくは、力を込めて繰り返した。
「き・み・が、しあわせになるために、だ」
 ぼくの目の前で、マルチが息をのんだ。思いもよらなかったことを、突然指
摘された、そんな感じだった。
「わたしが、しあわせになるために、ですか……」マルチは、上を見上げた。
視線が、チョウチョを追いかけるように、さまよっていた。そこに何かがある
わけではない。何も無い闇が、ぼくたちを包みこんでいるだけだった。

「……だまって、ぼくについてきてくれたろ?」 
 ぼくは語尾を上げて、そう言わずにはいられなかった。雨の中で硬く閉じた
世界のどこかに、ほころびが見えてきたような気がした。
「はい……ヒロユキさんがついてくるように言ったから」
「……うん、それはそうだけど……きみは、きみのために生きなければならな
いんだ。うまく言えないけど。きみは、しあわせになるために生まれてきたん
だ」
 マルチは、その大きな目で、ぼくを見つめていた。ささやかなペンライトの
光を反射して、瞳がきらきらと輝いて見えた。
「……研究員の人は違うことを言ってました。『マルチ、おまえは我が社の重
要な商品開発のために生まれてきたんだよ』って。……違うんですか?」
「違う!違うよ、マルチ。……くそ、ぼくはうまく言えない……とにかく違う
んだ。……きみは『こころ』を持っている。……こころを持つものは、みんな
自分のためにしあわせにならなければいけないんだ」

 沈黙があった。
 やがて、マルチは、ぽつりと言った。
「……わたしは、いま、しあわせです。……ヒロユキさんとこうしていられる
から」
 ぼくは言葉に詰まった。
 そうなんだ。どこか違う場所、違うとき、違う女の子にそう言われたとした
ら、ぼくは、喜んでその言葉を聞いただろう。でも、ぼくは、とらえどころの
ないような、もどかしい思いを感じていた。

 ぼくたちは、暗闇の中で横になっていた。
 ふたりとも、パーカーを床に敷いて、予備のセータを着こんでいた。むき出
しのコンクリートは、次第に冷たさを増してくるような気がした。寒くて眠れ
なかった。雨と時折通り過ぎる車の音だけが聞こえた。ぼくは耳を澄ませてい
た。闇の中で、マルチの気配がする方向に耳を傾けていた。
 彼女の寝息は聞こえなかった。
 腕時計をみると12時を過ぎていた。


 寒い。

 ぼくは闇の底で震えていた。

 次の瞬間、灰色の雨の中をとぼとぼと歩いていた。がん。がん。がん。と大
きな機械の音がした。コンクリートの壁の間をすりぬけると、あかりが傘を
持って立っていた。ありがとう、だけどぼくには傘はいらないんだ。歩きつづ
けた。頭からすっぽりとビニール袋を被った男たちが立っていた。穴を掘って
いるのだ。彼らには顔がない。口のあたりが息で白く曇っていない。息をして
いないからだ。穴を覗きこむ。深い穴だ。黒い土の中に制服を着たままのマル
チが横たわっていた。目を閉じていた。両手を胸の上に当てていた。息をしな
い男たちが彼女に土をかけていた。やめろよ、生き埋めにする気か。ぼくはそ
う言って一人の男の肩に手をかけた。この娘は生きてはいないのだ。その証拠
に息をしていないじゃないか、顔の無い男が言った。
 ちがう。
    ちがう。    そうじゃない。
  あんたたちだって。       ちがう。
               火花が散る目に入る光の渦。

「え?」ぼくは目を開けた。目の前にいるのはマリアではなかった。マルチの
顔があった。ぼくを覗きこんでいた。かちかちかち。ひどくやかましい音がし
た。何の音だろう。
「……あの、だいじょうぶですか」マルチは言った。
「……え?」
 ぼくが答えると同時に、かちかちかちという音が止んだ。ぼくの歯がかちか
ちと音を立てていたのだ。とてつもなく寒かった。膝が、まるで他人の膝みた
いに、がくがくと震えていた。
「……だいじょうぶですか?……ひどくうなされていましたけど」
「……」ぼくは目の前の、少女の小さな顔をみつめていた。
「どうしたんですか?」
 マルチが心配そうに首をかしげた。そのとき、ぼくの中で、何かがはじけた
んだ。それが、何かはわからない。でも、それは確実にいて、ぼくを操ってい
たんだ。寒さに全身を震わせているぼくを。
 ぼくは身体を起こし、マルチを抱きしめたんだ。でも、ぼくの震えは止まら
なかった。
「……すごく熱いです。……ヒロユキさん熱があります」
 マルチが、ぼくの腕の中で、そう言って、もがいた。ぼくの手が、マルチの
頬に添えられていた。ぼくはマルチの、薄い唇に、自分の唇を重ねていた。
 ぼくは、ひどく乱暴に、自分の舌をマルチの口の中に入れたんだ。ぼくの舌
は何かを探していた。マルチの、舌がそこにいた。
「……あ」
 マルチの口の奥から、かすかなため息がもれた。
 ぼくは、いっそう強く彼女を抱きしめた。マルチは生きている、ぼくは思っ
た。マルチは、生きている。
 ぼくの手は、震えながら、マルチの胸をまさぐっていた。小さな、柔らかい
膨らみを、ぼくの手は、もみほぐしていた。そして、ぼくはやせた彼女の身体
を押し倒していた。
 ぼくの手のひらのなかに、硬い下着の感触の向こうに、マルチの小さな乳房
があるんだ。そんな声がぼくの頭の中に響いていた。
 その先に、乳首がある。あるはずだ。マネキンにはないんだ。赤ん坊の小さ
な口にふくませるための。
 ぼくの手は、マルチのスカートをまくり上げていた。マルチが、かすかに足
をよじった。ぼくの指先が、彼女の下着の端にかかって、それを引き下ろそう
としていた。

 その時、どこかで、ボタンがぷちんと飛ぶ音がした。
 その音で、ぼくは我にかえった。腕の下の、やせた少女の顔が、不安そうに
ぼくを見上げていた。どす黒い雲のような罪悪感がこみあげてきた。
「……ごめん」
 ぼくは、ようやくそう言えた。喉が凍りついているみたいだった。

「……ヒロユキさん、熱があります!雨の中をずっと歩いていたから風邪を引
いたのかもしれません!」
 仰向けになったマルチは、ほとんど叫ぶように言った。
「……ごめん、ぼくは」
「謝っている場合じゃないです」マルチは珍しくぼくの言葉をさえぎって、手
のひらをぼくの額にあてるのだった。
「……すごい、熱……ああ、どうしよう……」彼女は言った。
「……ぼくの身体なんかどうでもいい!……ごめん」
「どうでもよくないです。悪寒がするんじゃないですか?」
「……うん」実際、震えが止まらないのだ。つららを鼻から垂らして震えてい
るマンガの猫のようだった。
「ああ、どうしよう」マルチは、ぼくの前髪をかき分けていた。

 ぼくは、その手を振りはらうようにして、彼女から離れた。そして、反対側
の壁に背中を押しつけて座った。
 マルチは、暗がりの中で、乱れた服を直しているように見えた。しかし、す
ぐにそうでないことが、わかった。
 マルチは服を脱いでいるのだった。
 闇の中で、マルチの付けた、白いブラジャーが見えた。彼女はそれを躊躇す
ることなく外した。立ちあがり、スカートを取った。ぼくは、その時、彼女の
下着の白さで、彼女を凝視していた事に気がついた。目をそらした。

「……ヒロユキさん。来てください」
 ぼくの背後からマルチの声が聞こえた。
「……はやく、来てください。……ヒロユキさんも服を脱いで」
「え……?」
「はやく……手伝いますから」ぼくの背中に小さな手のひらが触れた感触が
あった。
「え?」ぼくは間抜けにも、つったていた。そしてマルチの勢いにおされて、
服を脱ぎ始めた。きっと誰かがそれを見ていたら、奇妙な光景だと思ったに違
いない。ぼくたちは、すっぱだかで、むき出しのコンクリートの床の上に、濡
れていないセーターを敷き、横たわった。
 そのあいだ、ぼくは、ペンライトの明かりの浮かびあがるマルチの細い裸身
を正視できなかった。
 ぼくは、目を閉じて、マルチがぼくの背中に手をまわし、身体を押しつけて
くる気配を感じていた。

「あ……!」次の瞬間、ぼくはおどろきのあまり声を上げ、目を開けた。

ぼくの皮膚に触れたマルチの細いすべすべした身体は、暖かかったのだ。
いや、普通の人の体温を超えていた。まるで、内側からなにかが燃えるような
熱さだった。
「き、きみだって……熱が」そう言いかけるぼくの言葉を遮るように、彼女の
細い手が、ぼくの顔に向かってのびてきた。
 ぼくの額にひんやりとした感触があった。ぼくは、マルチの手のひらに触れ
た。冷たかった。ぼくは、おそるおそるマルチの肩に手を触れた。暖かかっ
た。
「……すみません、こんなことぐらいしか思いつかなかったんです」彼女はそ
う言うのだった。ぼくは、思いきってマルチの顔を見た。ちいさな、真剣な表
情を浮かべた彼女の顔が目の前にあった。
「……あの、もっとそばに……」きゅっと閉じられた小さな口から、小さな声
がもれた。

 でも、ぼくは、彼女に向かい合って彼女を抱きしめる事ができなかった。
 身体の好きなところの体温を自由にできるという、人間にはできない能力を
気にしていたわけじゃないんだ。ぼくは、それどころじゃなかった。
 ぼくは、勃起していた。
 恥ずかしかったのだ。マルチは、湿っていないシャツをぼくの上にかけ、手
のひらでぼくの頭の熱を冷ましながら、ぼくの四肢をあたためようと必死に
なっていた。だのに、ぼくは女子の着替えを覗き見した男子生徒のように、興
奮していたのだ。

「……どうしたんですか?」マルチはぼくの震えがとまらないので、いっそ
う、やせた身体を密着させてきた。ぼくの胸のちょっとしたに、彼女の裸のふ
たつの乳房が押しつけられるのを感じた。ぼくの男性的な部分が、いっそう硬
くなって、先が、彼女の内股のどこかにあたった。
「……ごめん」ぼくは思わず言った。自分がすごいまぬけに思えた。

 だけど、マルチは意外な反応を示した。
「……男の人は、女の人とセックスしたいと思うとき、ここが硬くなるんです
よね……?」
「あ、……うん」ほかにどう答えればいいんだろう?
「……わたしと、わたしなんかと、……セックスしたい、って思ってくれたん
ですか?」
 ぼくは、ほんの一瞬とまどい、そして、「うん」と答えた。
 マルチは、しばらく黙っていた。ぼくの胸の中に顔を埋めるようにしたの
で、表情はわからなかった。

「もし、よかったら……いいですよ」そう言って、マルチは身体をよじって、
仰向けになったのだ。
 ぼくは、マルチの上に覆い被さっていた。そして、じっとしていた。
 どうしていいのか、わからなかったんだ。
 どうすればいいのかは、知っていた。小学生の時から知っていた。でも女の
子と裸で抱き合った事なんて、生まれてから、一度もなかった。
 気が付くと、ぼくの震えはとまっていた。喉がからからに乾いた感じがし
た。
 そのとき、ぼくの真下にいるマルチは、目をあけた。
「……あ、すみません。……やっぱり、いやですよね」マルチは言った。

「そ、そうじゃない……ごめん」
 ぼくは、そう言って、マルチのわずかな胸の膨らみを手のひらで包み込ん
だ。そして、彼女にキスした。暗がりの中で、ぼくとマルチの口がふれあう音
だけが響いた。
 ぼくは、テレビのラブシーンを思い浮かべながら、マルチの首筋から、乳房
まで、何度もキスした。
「……あの、……入れるよ」とうとう、ぼくは、言った。
「はい……」彼女は答えた。
 ぼくは腰を浮かせて、マルチの腰のあたりをまさぐった。ぼくの先端が、マ
ルチの足の付け根のあたりに何度も触れた。
「……すみません、気がつきませんでした」そういって、マルチは、股を広げ
た。
 でも、ぼくはそこを見つけられずにいた。もしかすると、そこは無いのかも
しれない。そんな気がしてきた。鮎川のマンションで見た映像を思い出した。
マルチは、そんなふうに作られていないのかもしれない。捨てられたマネキン
のように、股の間には何もないのかもしれない。
「……もうすこし、下です」かすかな声で、マルチは言った。
 ぼくは言われるままにした。
 ぼくは、見つけた。そして、その中に、ゆっくりと入っていった。熱い柔ら
かいものに、ぎゅっと包まれる感触を感じた。
「……!」マルチは、ぼくの背中にまわした手の指先に力を込めた。やせた小
柄な少女の顔がぼくの下にあった。目を硬く閉じていた。同じように閉じた唇
がかすかに震えていた。ぼくの下で、細い彼女のからだが小刻みにふるふると
震えるのを感じた。
「……ごめん……痛いの?」
「……いえ、……大丈夫です……ちょっと変な感じ」マルチはそう答えた。
 意外だったのは、男のぼくの方も、少しだけ痛みを感じるとこだった。
 ぼくは動かなければならない、と思った。そうなんだ。みんなそうする。だ
けど、ぼくにはできなかった。
 ……これが、我慢することなんだ、と思った。ぼくの悪友だった鮎川が言っ
ていた言葉を思い出した。「早漏も女の子に嫌われるけどさ、独りよがりって
のが、いちばんいけないんだ。知ってたか?」知るわけない。ぼくはキスした
こともないんだから。「どうせやるんだったら、女の子だって一緒に気持ちよ
くしてあげなきゃ、そうだろ?」わからない。わかるもんか。
 気がつくと、ぼくはゆっくりと腰を動かしていたんだ。
 ぼくの下で、軽く目を閉じたマルチの顔が、上下に揺れていた。目を閉じた
マルチは、小学生みたいだった。ぼくの男性自身が感じている彼女のあたたか
い内部と、こうして目を閉じているマルチの顔とが結びつかなかった。
「……ヒロユキさん」
 その時、小さな唇が開いて、かすれた声が漏れた。
 ぼくは、マルチを愛しいと思った。ぼくの感じている快感と、いとおしさ
を、この女の子と、分かちあいたい、と思った。
「……マルチ……好きだ」ぼくの声が聞こえた。無意識にそう言っていたん
だ。心の底からそう思った。ぼくは、この女の子がだれよりも好きだ。ぼく
は、命をかけてこの女の子を守る。ぼくはマルチが好きだ。

 ぼくの、マルチ。
 その時、ぼくの中で、何かが爆発した。
 しばらくして、ぼくは、出してしまった事に気がついた。ふくらみきった風
船がしぼんでいく感じがした。
 ぼくは、マルチを気持ちよくさせることが、できなかったんだ。挫折感に近
い感情が心に広がっていくのを感じた。
「……ごめん」
 無性に恥ずかしかった。

「……なぜ、謝るんですか」マルチは、両手をぼくの首にまわして、ぼくを抱
きしめた。彼女の身体は熱かった。
「……あの、ごめん」
「……謝らないでください……そのかわり……抱きしめてください」
 ぼくもマルチのやせた背中に手をまわし、強く引き寄せた。
 目の前に、小さな唇があった。ぼくはキスした。
 ぼくの、マルチ。
 ぼくの、マルチ。
 
 どのくらいそうしていただろう?
 マルチは、かすかな声で言った。
「……『しあわせになるために生まれてきた』って、ヒロユキさんの言葉がわ
かってきたような気がします……」
 彼女はそこで言葉を切った。そして間をおいて、こう付け加えた。
「……ずっと、こうしていたいです」
「いつでも、こうすることができるじゃないか。明日、電車に乗れば」
「……わたしは、ほんとうに、……しあわせになるために生まれてきたんです
ね?」
「うん。そうだ。君はそのために生まれてきたんだ」
「……工場の人たちが言ったことは間違いなんですか?」
 ぼくは考えた。
「うん。あいつらは、自分たちが、何を生み出したのか、わかっていなかった
んだ」
「……『会長』はわかっているんでしょうか?」
「え?」
「……いつもおっしゃってくれたんです。『おまえは、おまえだからいいの
だ。いろんな事を、おまえらしく体験するんだよ』って……」
「……」
「……『会長』だけは、わかっていたような気がします」
 彼女の声には確信めいた響きがあった。また、ぼくの心のどこかがうずい
た。
「その人がどんなにエライ人か知らないけど、君の幸せを考えたりするもん
か。だって君は工場に帰ったら」そこまで言って、ぼくはマルチには彼女を待
ちうけていた「解体」という運命のことを黙っていようと誓った事を、思いだ
した。ぼくは、口をつぐんだ。
「はい……わたしは役目が終わったら解体されることになっています」
「マルチ!」
「わたしの仲間はみんな知っていますよ。テストとサンプリングが終わったら
解体されるんです」
 ぼくは、思わずマルチの顔を覗きこんでいた。その顔には悲しみも怖れもな
かった。むしろ、ぼくの腕の中でしあわせそうなほほえみを浮かべていた。
 その時、ぼくは、マルチとぼくの隔たりを感じたんだ。裸で抱き合っている
にもかかわらず。
 ぱちん、という指の音でだしぬけにこの世に存在し、生まれた目的をあらか
じめ知っていて、この世界から消えさる時をあらかじめ知っている……。
 ぼくはマルチが『解体』される瞬間を想像してしまった。
 いままでそれを抑えていたのに。
 ぱちん。まるで消し忘れた台所の電灯を消すように、無造作に白衣を着た研
究員が、スイッチを「OFF」という文字が書かれている方向にまわす。たっ
たいままでいきいきとふるまっていた少女の意識は、それっきり闇の中に消え
てしまうのだ。床にねそべって抱き合っているぼくたちを包んでいる闇の中
に、消えていくんだ。
 ぼくは再び凍りつくような寒さを感じていた。
「……そんなことはさせない。……ぼくが君を守ってみせる」ぼくはそう言っ
た。でも、ぼくは白馬にまたがった王子ではなくて、暖かい女の子の身体に震
えながらしがみついている高校生だった。
 とにかく、朝になるのを待とう。それしかない。

「……寒いですか?……もっと体温を上げましょうか?」
「いや、じゅうぶんあったかいよ」ぼくは答えた。

 マルチを失ったあと、ぼくは暗く冷たい井戸の中にいる。なぜなら、世界か
ら熱が奪われたからだ。


 夢を見た。
 それは夢だった。夢であることを、ぼくは知っていた。だから子供みたいに
取り乱したりしなかった。
 目の前でマルチが解体されているのである。いや、解体というより、いろん
な大きさのいろんな色のパイプが裸のマルチに接続されているのだ。
 ところ狭しとはいまわるパイプの真ん中にマルチの顔だけが浮かんでいた。
       ……・ヒロユキさん。
    ぼくは不快感を感じていた。
               ごめん。     ごめんよ。
  あ や ま ら な い で く だ さ    い 
わ た し は ロ ボ ッ ト な ん で す か ら
                わたしはロボットなんですから

「……ごめんなさい、起こしてしまったみたいですね」
         わたしはロボットなんですから
「……え?」
 気がつくと、マルチはぼくにパンツをはかせていたんだ。ぼくに服を着せて
いるみたいだった。
「ついでに乾かせたから……」マルチはぼくに、乾いた暖かい下着を着せてい
るのだった。
「あ、自分で着るよ」ぼくそう言った。そのとたんにくしゃみが出た。
「ああ、風邪をひいてしまったみたいですね」

 そして、また夢の中にいた。
 今度ははっきりしない色彩の夢だった。
 思い出せない。

 四角い灰色の空が見えた。雨の音が止んでいた。遠くから雀の鳴き声が聞こ
えてくる。
「……朝?」
「ええ……」弱々しい光を背にした少女のシルエットから、声が聞こえた。

 ……ぼくは、リュックをごそごそやっていた。
 もっと明るくなったら、始発に乗ろう。
 下を向くと鼻水が出る。苦しかった。完全に風邪をひいたみたいだった。
 リュックの底に、小さな赤いプラスチックのキーホルダーを見つけた。なん
でこんなものをつっこんでしまったんだろう?と思った瞬間、それが小さなA
Mラジオである事に気がついた。 
 そういえば、入れたような気がする。
 ぼくはスイッチを入れた。
 ざーっとという音がした。ぼくは小さなダイアルを回した。

「……ラジオですか?」サッシもない、四角い穴の前にぺたんと座りこんでい
るマルチが、振りかえって言った。夜明け前の光を背にしていたので、表情は
見えなかった。
「うん」ぼくは答えた。ニュースを聞きたかったのだ。ぼくと、マルチの事を
言っているかもしれない、と思ったんだ。馬鹿な事に、ぼくはその時はじめ
て、来栖川エレクトロニクスが警察に届け出る可能性に気がついたのだ。

「……電波が入らないのかな?」ラジオからはガーとかピーといった雑音しか
入らなかった。たまに聞こえてるのは、大地から響くようなくぐもった外国語
のアナウンサーの声。
「小学生のころね」ぼくはふいにある情景を思いだした。「……家のラジカセ
を聴くのが好きだったんだ。なんか、こんな雑音も面白くてね。よく聴いてる
と雑音の間に、意味のある言葉が聞こえてくるような気がして。……ひょっと
したら、宇宙人がぼくだけに話かけてるんじゃないか、って思った」
 マルチはぼくをじっと見ていた。
「……あるとき、そうだな、昨日みたいな雨の晩だった。ぼくは一人で家にい
た。両親ともそのころから忙しかったから、よく留守番してたんだ。暇だった
から、ラジオを聴いていた。……というより、雑音を聴いていたんだけど」
 ぼくは、しゃべり続けた。何かが心の中に引っ掛かっているような気がし
た。
「……そしたらね。突然、びっくりするくらい鮮明な声で『ヒロユキ』って声
が聞こえたんだ。ぼくは飛びあがって、あたりを見回したんだけど、だれもい
なかった。……ぼくは黒い、たしかパナソニックのラジカセを見たんだ。これ
から聞こえたんだって」
「……ぼくは怖くなった。ものすごく怖くなった。で、家中のあかりをつけ
て、布団にもぐりこんだ。そのまま、両親が帰ってきてぼくを起こすまで、
眠っていたらしい」
  しゃべり終えてから、ぼくはなんでマルチにそんな事を話したんだろうと
思った。
「……きっと空耳か、たまたまどっかの局にチューニングが合ってラジオドラ
マかなんかの一場面が入ったんだよ……」ぼくは言った。

 その時、やけに明るいラジオのパーソナリティの声が、小さなラジオから聞
こえて来た。
『……さて、次は懐かしいなあ。ビートルズのリクエストですねー。埼玉県の
ポールの弟子さんから、曲は「Here There and Everywhere」』

 音の悪いラジオから、美しい曲が聞こえた。どこかで聴いた事があった曲
だった。ぼくは、歩いていって、マルチの側に座った。
 マルチは、耳のかわりについている金属のヘッドホンのようなものを傾け、
聴きいっているようだった。斜めになった顔が美しかった。とても、美しかっ
た。
『....I'll be here,there,and everywere...』甘いリフレインが、廃墟のよ
うな建物を満たしていくような気がした。
 
 ぼくは、初めての一夜を過ごした女の子の、細い肩を抱いた。
 ドラマにあるような、ロマンチックな感じはしなかった。
 不安だった。寒風の吹きすさぶ荒野に、ひとりで立っている気がした。
 ぼくは胸の中の少女の顔を見た。不安は治まらなかった。
 ここに、あそこに。いたるところに。
 原始の地球の、空と海のように、世界のいたるところで、きみを抱きしめて
いられたら、どんなにいいだろう。ぼくが空、きみが海。途方もなく長い時間
を、静かに過ごせたら、どんなにいいだろう。

 曲が終わった。
 ぼくはラジオを消した。

「……そろそろ、行こうよ」ぼくは、立ちあがり、座りこんだままのマルチに
声をかけた。彼女は、オレンジ色に変わっていく空の下はんぶんを眺めてい
た。まばらな建物が淡いブルーの影になって見えた。

「……はい」
 彼女は、ゆっくりと立ちあがろうとした。が、途中で力尽きたように座りこ
んでしまった。
「……」彼女はもう一度立ちあがろうとした。結果は同じだった。
「どうしたの?」ぼくは慌てて彼女の足を見た。
 足から、血の気が失せていた。せっけんのように真っ白になっていた。
「どうしたんだ?いったい」

 マルチは、ぼくの顔を見上げて、申し訳なさそうにこう言った。
「……すみません、ヒロユキさん。……わたしはもう歩けません」

ぼくはつっ立って、すまなさそうな表情を浮かべながらぼくを見上げるマル
チを見下ろした。何が起きているのか、理解するのに時間がかかった。
「足を見せて」ぼくはしゃがんで、彼女のふくらはぎのあたりに手をやった。
 すべすべした感触は変わらなかったけど、一晩中ぼくを暖めてくれていたは
ずの彼女の肌は、冷たくなっていた。
 ぼくは、軽く彼女の足を掴んだ。
 抵抗が無かった。普通なら感じるはずの筋肉の硬さがなくなっていた。まる
で空気の抜けたボールのようだった。
「……どうしたんだろう?……これは……痛いの?」
「痛くないです。……まったく、なにも感じません」
「いったい……」ぼくは、少しでも彼女の足を暖めようと、両手でさすりはじ
めた。別になんの知識があるわけではない。何かせずにはいられなかったの
だ。
「すみません……たぶん、足の人工筋肉が機能停止したんです」
「なんで謝るんだよ」ぼくはそう言って、少女の冷たい足をさすり続けた。
『機能停止』なんて、普通の人間が自分の身体に対して使わないような言葉
が、聞こえなかったふりをして。これは、なにかの間違いなんだ。どこかで、
ボタンをかけまちがったんだ。
「……ごめんなさい、何をやってもだめだと思います」
「謝るなってば!」ぼくは思わず大きな声を出してしまい、すぐに後悔した。
「す、すみません」マルチは、そう慌てて言って、しまった、という顔つきに
なり、しょんぼりと視線を落とした。

「……どうして『機能停止』なんてことが……」ぼくはそう言ってから、あ
る、おそろしい可能性に気がついた。
 ぼくは、マルチの、力なく、だらんとたれ下がった腕を見た。
「……マルチ、腕を上げてごらん」ぼくは言った。
 ぼくは待った。何も起きなかった。指先が、かすかに動いただけだった。
「あ……動きません」彼女は言った。

 ぼくは、彼女の前に座りこんだ。そして、彼女の大きな瞳を見つめながら
言った。
「……もしかしたら……マルチ、きみが毎日工場へ帰らなければならないの
は、こういうわけなのか?」
「……え?……あ。はい。……たぶん、そうだと思います。でも、わたしはよ
く知らないんです。……意識が切られてるから」
 ぼくは、思わず「だったらなぜぼくについてきたんだ」という言葉を発しよ
うとして、それが恐るべき愚問だという事に気がついた。マルチは、ぼくが
「ついてこい」と言ったから、ついてきたのだ。

 ぼくは、何も言えず、マルチを見ていた。彼女の顔に変化が起きていた。見
る見る蒼白になっていく。彼女は口を開けるのもつらそうに、こういった。
「……ヒロユキさん、わたし……もう……だめです。ひとりで行ってくださ
い」
 
 そうなんだ。世界のどこかがまちがっていた。その言葉も、どこかが、おか
しいのだ。おかしくてたまらない。マルチはおかしい。きみは、やっぱり天然
ボケだよ。ぼく一人で、きみを置いていって、どうしようというんだ?ははは
ははは。……笑え。笑うんだ。笑わないと、泣き出しそうだった。
 笑えないぼくは、マルチを抱きしめた。
 彼女は冷たい、人形と化しているのだった。

 なぜ、笑わない?

 うはははははは。お笑いぐさじゃないか。なぜ笑わない?ぼくはマルチを救
おうとして、壊してしまったんだ。いじめっ子から、大事な人形を取り返そう
として、首がちぎれてしまった愚かな子供のように。
 おかしいじゃないか。こんなにおかしいのに、どうして笑わない?
 なぜ、ぼくは……泣いてるんだ?

 なぜ、マルチを抱きしめたまま、涙が止まらないんだ?
 こんなにおかしいのに?

「……ヒロユキさん、……もう行ってください。……わたしの最期を見られた
くないです」

 わたしの最期!……はっ。一日工場へ帰らなかっただけで、きみはそうなっ
てしまうんだ。おかしいじゃないか?それで最先端のロボットなんだ。それで
最先端のロボットなんだ。それで最先端の。どうして言わなかった?どうして
言わなかった。こんなバカな事があるかよ!どうして言わない?なぜ自分が壊
れるって教えてくれなかった?どうしてどうしてどうして?お笑いぐさだっ
た。
 だけど涙が止まらない。涙が止まらない。なぜ泣くんだ?なぜ、泣くんだ?
 なぜ、ぼくは泣いているんだ?

「……行ってください……迎えが来ました」

 ぼくは、階段から響く、複数の足音を聞いた。
  
 まるで仮面劇のようだった。
 ぼくたちが過ごした部屋の中に、三人の男たちが入ってきた。
 みな、顔が無かった。
 作業着を着ている、顔の無いロボットたちだった。前の晩に会ったロボット
たちが、なぜかつかつかとぼくたちに歩み寄り、一人はぼくの両腕を押さえ
て、二人はもう動かなくなったマルチを抱え上げたんだ。
 ぼくは、何か、わめいていたような気がする。
 足と手と、じたばたさせながら、マルチ、マルチと叫んでいたような気がす
る。

「……ヒロユキさん、わたし、生まれてきて、……よかったです」

 作業着を着たロボットに抱えられたマルチの方から、そんな、かすかな声が
した。

 それから先は、よく思い出せないんだ。
 ぼくの人生の時間はそこで止まっている。
 思いだそうとしても、そこに灰色のコンクリートの壁があるような気がする
んだ。

 ぼくは、抱えられるようにして、階段を引きずりおろされていた。
 外には車が2台待っていた。
 二人のロボットたちが抱えている人形のようなものから白い腕が垂れ下がっ
ている。
 ぼくの目の前には工場の送迎バスの運転手が立っていた。そうだ。思い出し
た。あの来栖川のお嬢様の運転手とも同じ顔。いったいあんたは何人いるん
だ?
「乗ってください」
 ドアが開けられる。ぼくはがらんとした商用のバンの中に放り込まれた。

 次に気が付いたら、ぼくは家の前にほっぽり出されていた。
 どこからか、白衣を着た人がやってきて、とにかく眠りなさいとぼくの腕に
圧力注射をした。マリア。久しぶりにマリアを見たような気がする。
 眠くなった。とてつもなく眠かった事だけしか思いだせない。

 次に目がさめたのは夜だったかもしれない。部屋がまっくらだったから。枕
もとに誰か立っていた。頭を動かして、その人物を見た。
 それは人間ではなかった。マリアだった。マリアの無表情な白い顔が、闇の
中にぽつんと浮かんでいるような気がした。
 彼女は、ぼくの額の上に、ひんやりと冷たい手を当てているのだった。
 不思議なことに、彼女の顔にはやさしい、慈しむような表情が浮かんでいる
ように見えた。マリアは、ぼくの前髪をそっと掻き上げた。
 彼女は、何も言わなかった。
 ぼくにかかっている布団を直し、部屋から足音もたてずに出ていった。

 その次に、夢の無い年眠りから目覚めたとき、閉じられたカーテンの隙間か
ら、灰色の光がこぼれていた。朝なのか、夕方なのかわからなかった。車の音
が遠くで聞こえた。
「……はい、風邪がひどいので、今日もお休みさせてください」
 一階の玄関から、マリアの声が聞こえた。
 すると、朝なのだ。
 マリアは高校に電話をかけているんだ。ぼくは何時間眠ったのだろう?
 ぼくは、マルチの事を思い出した。作業着を着たロボットに抱えられた彼女
のだらんとたれた白い手。

 その時、ぼくの人生から、『現実』が永遠に歩き去ってしまったことに気が
ついた。何もかも、悲しみさえも、ひどく遠いような気がした。
 ぼくは、ベッドから出た。頭が軽く痛んだ。
 階段をゆっくり下りながら、マルチは最期に夜明けを見ていたんだ、と思っ
た。ありふれた、雨上がりの、夜明けの風景を、眺めていたんだ、と思った。
台所に行った。さえずりまわる雀の声を、どんな思いで聞いていたのだろう、
と思った。食卓についた。マリアは、黙ってぼくを見つめていた。マルチが見
ていたのは、どんな世界だろう、と思った。
 きみは、しあわせだったのだろうか?
 気がつくと、ぼくは両肘をついて顔を覆い、泣いていた。

 その少女が来たのは、午後だった。
 おそらく、学校帰りなのだろう。高校の制服を着ていた。
 美しい少女だった。見覚えがあった。
「……来栖川といいます」
 低い、小さな声で、彼女は言った。
 意外ではなかった。なぜか、ぼくは予期していたような気がするんだ。
「祖父がぜひ会いたいと言っているんです。よろしければ……」

 その少女の祖父は『会長』なのだった。来栖川エレクトロニクスという巨大
企業の。断れなかった。ぼくは、服を着替えて、その少女と一緒に外に出た。
 背後にマリアのまなざしを感じた。振り返ると、そのメイドロボットは、
ゆっくりとぼくに頭を下げるのだった。

 またもや、同じ顔の運転手が、大きなリムジンの前で待っていた。
 ぼくは、美しい上級生と一緒に、広い後部座席に乗り込んだ。
 車は走り出す。
 公園の前を通りかかる。「あ、蛙」……マルチのはっきりした声がした。空
耳だ、もちろん。
 ぼくは目を閉じた。この道を毎日マルチは通っていたんだ。白いバスの窓か
ら見える景色は、彼女の目に、どんなふうに映っていたんだろう。

 何分程走っていただろうか。目を開けると町並みが途切れた、さびしい感じ
の道をひた走っていた。遠くに、白い長方形が見えた。とてつもなく大きな建
物だった。
 その建物の側面には、「Kurusugawa」という大きなロゴが描かれ
ていた。きっと「K」の文字だけでも、何メートルもの大きさなんだろう。
 車は広い6車線の道に入った。
 時折、白い大きなトラックとすれ違った。
 あの中に、何体ものロボットが積まれているんだ。窓のない荷室の中で、あ
たらしいご主人さまがスイッチをいれてくれるまで待っているんだ。
 
 リムジンは、ゲートでいったん停まり、また走り出した。守衛もまたロボッ
トなんだ、とぼくは思った。
 滑走路のように広い工場の構内に描かれた車線に沿って、リムジンは走る。
 人影がなかった。最新の工場というものは、こんなものなのだろうか。ゲー
トにいた守衛はロボットだったから、ぼくは工場の敷地に入ってから人間に出
会っていない事になる。その時、遠くに動いている青いフォークリフトが見え
た。ぼくはその運転席に目を凝らした。しかし、誰も乗っていなかった。
 考えてみれば、ロボットは別に人間そっくりである必要などない。フォーク
リフトを操縦できるロボットを作るより、「賢いフォークリフト」を作るほう
が合理的じゃないか。ぼくはそう思った。マルチはなぜマルチだったんだろ
う。そこまで考えが及んだときに、明け方の空を、しゃがみ込んで見ているマ
ルチの姿が、頭の中に浮かんだ。彼女は、どうなったのだろう?ぼくは今から
解体された彼女の姿を見せられるのだろうか。抑えようとしても、おぞましい
イメージだけが湧いてくるのだった。

 構内の中に、ガラスでできた三角の城があった。いや、近づくと、城のよう
なビルだった。リムジンは、その建物の地下へと続くスロープを下りていっ
て、大きな白い鉄製のドアの前で停まった。
 来栖川の孫娘は、運転手の開けたドアから下りた。ぼくも後に続いた。

 まあたらしい病院の廊下を思わせる通路を、無口な少女の後について歩いて
いた。時折、通路の壁がガラスばりになっていて、いろんな部屋の中が見える
ようになっていた。マルチが言っていた白衣の研究員たちが、ゆっくりと歩き
まわっているのが見えた。
 彼らは、マルチのような人間そっくりのロボットを作っているんだ。だけ
ど、ロボットはどこにいるんだろう、と思った。ぼくは、一つの部屋を覗き込
んだ。白衣の研究員が二人、スーツ姿の男が三人立っていた。ロボットなんか
いないじゃないか、と思った瞬間、きっとあの三人の男のうち誰かが、いや、
三人ともロボットなんだ、と思った。
 その時、通路で一人の男の男とすれ違った。
 ぼくは、その人の顔をしげしげと見つめていた。
 彼は、そうなのか?
 
 ぼくたちは、エレベーターに乗った。
 感覚からすると、地下に下りている感じだった。
  エレベータのドアが開いた。

 目の前に不思議な光景が広がっていた。
 そこは、一種の温室のような場所だった。熱帯性の植物がところ狭しと植
わっていた。感覚からすると、おそらく地下なのに、高いガラスで出来た天井
からは、自然な陽光が降り注いでいるような気がした。いやに静かだった。だ
れかが息をひそめているような静寂だった。
 ぼくたちは、大きな羊歯の葉が作ったトンネルの間を通って、狭い通路に
入って行った。
 
 そして、通路の終わりに、「彼」が待っていたんだ。
 ぼくは思う。「彼」はいまでもずっと待っているんじゃないか、と。工場の
中にある、あの三角の塔の中でずっと待ちうけているんじゃないだろうか、
と。
 大きな、薄暗い部屋の中で、「彼」は背を向けていた。腰の後ろで手を軽く
結んで、立っていた。「彼」が向いてる壁は青く輝いていた。まるで水族館で
水槽を覗き込んでいるような感じだった。
「……おじいさま」
 がらんとした部屋に少女の低い声が響いた。
 しかし背の高い老人は、ぼくに背を向けたままだった。彼は壁の中に埋め込
まれた巨大なモニターを見ていたのだ。老人の高い翳ごしに、モニターに映っ
ている映像が見えた。ロボットの生産ラインらしい。人間のものとはだいぶ違
う骨格に、顔の無いロボットが赤い繊維のようなものを絡ませている。

「……この工場だけで、一日3000体の家庭向け汎用ロボットが生産されて
いるのだ」老人は独り言のように言った。
 ぼくは、どう答えていいのかわからずに、黙って立っていた。
「世界じゅうに六十六個所ある我が社の工場の中では、もっとも生産数が少な
い。ブラジルにある工場では日に一万体もの生産能力があるのに、だ。……な
ぜかといえば、ここが、もっとも高度なタイプのロボットの生産を行っている
からだ」
「高度といっても、君の家の『マリア』程度なのだがね……」
 彼は、ぼくに話しかけているのだった。
「しかし、あれでも現在の生産技術では、ほとんど採算ラインすれすれだ。2
1年までは事情は変わらないだろう。まだ、『人件費』を完全に削減できない
からだ。君も見ただろうが、この工場には、この研究部門の建物以外、人間が
ほとんどいない。が、時代遅れの法律の関係で、完全に無人化が出来ないの
だ」
 ぼくは黙っていた。老人の口調はまるで自分に言い聞かせているような響き
があった。
「……ところで、『マルチ』と呼ばれるタイプのロボットを一体製造するの
に、いくらかかるか知ってるかね?」
 その老人は、ぼくに背を向けたまま質問を発しているのだった。
「……わかりません」ぼくは警戒しながら答えた。
「……1億5千万だ」その時、老人はゆっくりと振り返り、ぼくの顔を見下ろ
した。銀色に見える白髪を丁寧に撫で付けてた、痩せた、特徴のない老人だっ
た。その顔には、どこか面白がっているような表情が浮かんでいた。
「……そう、企業として販売するにはばかばかしい程の額だ。いったい誰が、
そんな金を払って、人間そっくりであるという以外に取り柄のないロボットを
購入するだろうか?……われわれは、そのコストを少しでも下げる努力をして
いる。5年後にはスペインの工場が稼動するが、それでも数千万という値札を
付けなければ、『マルチ』は商品として赤字になると予測されている。……失
礼、ソファにかけたまえ」

 ぼくは、言われるままに革張りのふかふかしたソファに腰掛けた。しかし、
居心地が悪かった。不安だった。この老人の狙いがわからなかった。
「……幸い、我が社は全体では大幅な黒字だ。軍事用の低コストタイプに、生
産が追いつかない程の受注があるのだ。……中東、南米、北アフリカの諸国が
争って我が社のロボットを買っている。……兵士としてね。昨年起きたインド
とパキスタンの国境紛争は、人類史上初めてのロボット同士の戦争だった。戦
場のなかで、人間は、前線のはるか後方にいたごくわずかの士官たちだけだっ
たのだ」
 老人は言葉をそこで切り、ぼくに向かって一歩進み出た。彼の背後の巨大な
モニターの光輝のせいで、表情はよくわからなかった。

「……『マルチ』は我が社の生んだ、最高の傑作だ。芸術品と言ってもいい。
……わたしが、この会長のわたし自らがプランを出し、号令をかけて開発を進
めさせている。……反対も多かったが、すべて片づけた」
 部屋の温度が下がったような気がした。ぼくは、その老人の顔を凝視した。
「……わかるかね?……君には、あの『マルチ』が、普通の、いや、普通より
ちっとトロい女の子に見えていたのだろう?……それは、長年の研究と試行錯
誤の成果なのだ。彼女はあのシリーズの中で、もっと優れていた者の一人だ。
それを、君は……」
 老人はぼくを見下ろし、はき捨てるように言った。

「……でも、あなたたちは、マルチを解体しようとしていました」
 ぼくは初めて言い返した。
「は、すると君は危機に見舞われた姫を助けにきた白馬の王子というわけだ
ね?……面白い。とても面白い。……君がやったことを法律用語ではなんと言
うか、教えてやろう」
 老人は、そう言って、顔を近づけて、ぼくを覗き込んだ。皺だらけの額が、
視界いっぱいに広がった。
「……それはね、藤田くん、『窃盗罪』というのだ。断じて誘拐ではない。現
行の誘拐罪はあくまで人間の誘拐に適用されるものだからだ。そして付け加え
るなら、器物破損だ。……君は我が社の所有する財産である『マルチ』を盗
み、そして破損させた……。それも汚らしい方法で。彼女の体内には君の体液
が……」
「やめてください!」ぼくは顔を押さえた。あのマルチと過ごした一夜が、暗
く、汚らしいもののように思えた。
「君の行為は、客観的に見れば、そこらの変質者の行為と変わるところが無
い。我が社が企業の研究活動の一環として、『彼女』の解体を行う予定だった
としても、それとこれとは別の問題だ。我が社は君に対して損害賠償を請求す
ることが出来る。……失礼ながら、君のご両親の収入を調べさせてもらった。
1億5千万。返済するのに君のご両親は何年かかるだろうかね?」
「……両親は関係ないです」ぼくはそう答えるのが精一杯だった。「会長」に
そう言われるまで、ぼくはその事に考え及びもしなかったのだ。脳裏に、困り
果てた父と母の顔が浮かんだ。
「……わたしは、彼女の身体は保存しておくつもりだった。……彼女は傑作
だったからだ。あの建設現場から助け出されたとき、彼女の身体は完全に機能
停止していた。……残念だ」老人は、顔を上げ、再び壁面一杯を占めるモニ
ターを眺めた。

「マルチの身体は、ほとんど有機物質で出来ている。その意味では、一般の人
間が『ロボット』と聞いて連想するようなロボットより、『人造人間』に近い
だろう。もともと『ロボット』という言葉を生んだチャペックの戯曲の中の
『ロボット』も、人造人間と言うべきだがね。ともかく、マルチの身体はバイ
オテクノロジーの塊だ。そして、それは現在の技術ではひどく脆いものなの
だ。彼女はほぼ12時間に一回、全合成細胞と血液を強制的に刷新しなければ
ならない。だから、彼女は、毎日自分が作られた工場に帰らなければならな
かったのだ」
 ぼくは、その言葉を半ば予期していた。そうだったのだ。にもかかわらず、
ぼくは彼女を連れて逃げ出し、そして、死なせたんだ。
「……君は愚かだ。藤田くん。どうしようもない馬鹿だ。彼女を連れて、どこ
へ行くつもりだったのだ?われわれがおとなしくそれを看過するとでも思って
いたのか?われわれは、君の事はほとんど知っている。祖母の家に行こうとし
ていたのも予想がつく。いや、そもそも、あの駅前で君を警察に突き出す事な
ど造作もなかったのだ。……だが、彼女はそれを止めていたのだ」
「……え?」
「彼女は、われわれに、ずっとこう報告し続けていた。重要なサンプリング中
につき、決して介入してはならない、と」
「……?」
「われわれはあの夕方からずっとデータを評価していた。そして、その通りだ
と判断した。そして、『コンプレックス』からの評価を『シンプレックス』は
支持していた。われわれは、待った。それだけの価値はあったよ」
「……何を言ってるのか、わかりません」
「失礼、それらはみな[Ubiquity]の中のプログラムの種類のことだ
よ。……そもそも、プログラムとしての彼女の正式名称は、『アーケタイプ:
シンデレラ』というう」しばらく間を置いて、彼はゆっくりと言った。ぼくは
顔を上げてその老人を見た。声の調子が変わっていたからだ。
「人間そっくりのロボットを作るために、われわれは人間の心理を研究してき
た。そして行きついたのは、人間のコンプレックス(感情の複合体)なのだ。
われわれは、プログラムに人間的要素を与えた……。マルチに与えられたの
は、『劣等感』だ。彼女の身体は意図的に想定年代の少女よりも劣ったように
作られた。そして『コンプレックス』(プログラムの複合体)にそれを絶えず
意識するようにさせた。彼女は、他のロボットに比べ、自分が劣っているのを
悩んでいた。そうプログラムされたからだ」
「なぜそんなことを?」
「わからないかね?より強い情動を人間から引き出すためなのだよ。そして、
マルチシリーズはその意味で大成功を収めたのだ……」
 老人は、再びぼくの顔を見た。さっきまでの詰問するような調子は影をひそ
めていた。どこか面白がっているような、かすかな笑みを口に含んでいるよう
な気がした。
「『マルチ』とは、彼女の存在形態が『マルチプレックス』であるということ
からきたあだ名なのだ。そういう意味では、MXシリーズはすべて『マルチ』
と呼ぶことができる。『きみのマルチ』は、言いかえれば『アーケタイプ:シ
ンデレラ』は、君から予想を越えた情動を引き出したではないか。君は彼女に
恋するという愚行を犯し、彼女を連れて逃げるという愚行を重ねた。……まさ
に、理想的なサンプリングだったよ……」
「『サンプリング』って、まさか……」
「……そうだ。君とマルチの言動はすべて彼女を通して、世界に広がる[Ub
iquity]を介し、すべての『マルチプレックス』によってサンプリング
されたのだ」
「……あんたたちは、ぜんぶ、ぼくの……」ぼくは目の前の老人、と離れて
立っている孫娘にあたる少女を、かわるがわる見た。
「だが、誤解しないでくれたまえ。君のマルチの感情は、みな本物だったの
だ。彼女は君のことが本当に好きだった。だから、自分の身体の細胞が崩壊寸
前なのにも関わらず、寒さで震える君を、体温を上げて暖めたのだ。彼女は君
のために命を投げ出したに等しい。……愛に基づく自己犠牲。わかるかね?こ
の意味が?この画期的な意味が?これはブレイクスルーになるだろう。あの晩
から、[Ubiquity]はプログラムをせっせと書き換えているし、今も
進化させている。もはや、人間とロボットを隔てるものは」
「もういいです!その[Ubiquity]っていったいなんですか!」
 その時、老人は、にやりと笑ったのだ。老人の歯は不自然なほど白すぎた。
背後のモニターの画像が、リアルな3DのCGに変わった。宇宙空間を飛行す
る人工衛星の画像だった。
「……これが[Ubiquity]だ。いや、それのほんの一部に過ぎない。
脳で言えばたった一本の神経繊維かもしれんな」
 背後でまた画像が変わった。白い冷気に包まれたスーパーコンピュータだっ
た。
「これも[Ubiquity]の一部だ」
 砂漠の中に立つ、パラボラアンテナ。光ファイバーの中を信号が伝わるとこ
ろを図式化したCG。
「……人間そっくりのロボットの身体を作る上で最大の難関はなんだと思うね
……?」
 ぼくが答えないでいると、老人は、ひとさし指で、自分のこめかみをつっつ
いた。どこか、不自然なしぐさだった。
「……それは『脳』だよ」老人がそう答えたその時、モニターに奇妙なものが
一瞬映った。暗闇の中の白い台のようなものが現れて消えたのだ。

「君のマルチには、人間で言う『大脳』というものが無い」老人は言った。
「……え!?」
「彼女の頭蓋の中には、人間で言う『小脳』にあたるものしか詰まっていない
のだ。高度な思考は、みな[Ubiquity]から来る。……[Ubiqu
ity]、すなわち、全世界を覆うコンピューター・ネットワークからね。彼
女のアイデンティティにあたるもの、わたしがさっき『アーケタイプ:シンデ
レラ』と呼んだプログラムは、[Ubiquity]のどこかで動いているの
だ。一つのコンピュータとは限らない。むしろ、非常に複雑な人間の思考を再
現するために、複数のコンピュータで分散して実行されることが多いのだ。そ
してどこで戦乱や災害や起きようと、いや、仮に北半球が核戦争によって滅ん
でも[Ubiquity]は機能停止することがない。わたしは何年もかけ
て、これを築き上げてきたのだ」
 また、老人の背後のモニターに変化が起きた。ちらつきのように見えたが、
また、あの白い台が映ったようだった。ぼくは目を凝らした。なにかベッドの
ようにも見えた。
「……マルチの耳のアンテナのようなものは、そのためだったんですか?」
 ぼくはそう言って、老人の肩越しに、モニターを見た。まただ。何かちらっ
と映像が挿入された。白い台。
「あれかね?あれは、『政治的配慮』に過ぎない。[Ubiquity]の信
号を受信するのに、あんなものは一切必要無い。われわれはいつでも、外見
上、普通の耳を持ったマルチシリーズ級のロボットを作る事ができる。が、そ
れでは、だめなのだ。どこをとっても『人間とうりふたつ』では困るのだ。こ
れは長年のマーケットリサーチに基づいたものだ。『ロボット』は『ロボッ
ト』らしい一点を持たなければならない。もしそうでなければ、人間はまず不
安の方を先に感じるのだ。あの馬鹿馬鹿しいアンテナはそのためだよ」
 老人は得意げにしゃべっていた。その間もモニターの画像は、一定の間隔を
置いて乱れていた。気づいていないのだろうか?ぼくは目の隅で、黙って立っ
て祖父に視線を投げかけている少女を見た。彼女も気づかないなんて事がある
だろうか?
 まただ。また変わった。さっきまで、海底ケーブルの概念図が映っていたの
に。画面は突然暗くなり、なにか小さな字が映ったのだ。

「……君かからの感情、そして君に抱いた感情によって、世界のどこかで彼女
を制御していたプログラムの『コンプレックス』は、自己を書き換え、成長さ
せはじめた。それらは並行して稼動している同じアーケタイプのプログラム群
『マルチプレックス』を巻き込み、最終的には地球上すべてのロボットを管理
している『シンプレックス』にフィードバックされた。これはすなわち、すで
に販売されているロボットの感情をも成長させた事を意味する……。君の家の
家庭用ロボットの変化に気がついたかね?彼女は、[Ubiquity]で繋
がれたロボットの初期のものだが、はっきりと変化しただろう?」

 ぼくは、思い出した。ぼくが家に帰ってきて以来、マリアが、前よりも、や
さしく、おもいやりに満ちているようにみえた事を。あのやさしさは、マルチ
から来ていたのだ。マルチのほほえみが浮かんだ。学校の帰り、夕日の中で輝
いているようなほほえみを、思いだした。
 その時、また老人の背後のモニターの映像が変わった。今度挿入された映像
は比較的長く映っていた。といっても、時間にして1〜2秒だろうけど。
 それは、黒いバックに白く光る文字だった。

  「 コ イ ツ ラ ハ ろ ぼ っ と ダ 」

 それだけだった。文字は消え、工場の風景が映っている。
「こいつらはロボットだ」。そう読めた。どういう意味だ?
 だれがロボットなんだ?

 「……もはや人間そっくりのロボットは完成の域に達しているといえるだろ
う。われわれは」痩せた老人はとうとうとまくしたてていた。コイツラハろ
ぼっとダ。ぼくは、暗い部屋の隅に一黙って立っている少女を見た。コイツ
ラ。こいつ「ら」。は、ロボットだ。
 さっき目の前の「会長」は言ったじゃないか。あのアンテナは政治的配慮に
過ぎない、と。マルチのようなロボットで、普通の耳を持つものを作るのは簡
単だ、と。
「……わたしは、複雑な気分だよ。君はマルチの身体を滅ぼした。だがいっぽ
うで感謝しなければならないと感じている。だから、前途ある君を警察に突き
出すことはしない。損害賠償も」

「こ い つ ら は こ の 映 像 を 認 識 で き な い」

 またモニターに文字が映った。今度ははっきりと、数秒映っていた。ぼくは
モニターに視線を向けている事を「老人」と「孫娘」に悟られないように警戒
していた。
「警告する世界に警告するワタシハ世界ニ警告スル」
 文字が変わった。
「ために君をここに呼んだのだ。こいつらは、君をなぜここに呼んだのかすら
気がついていない。わたしが[Ubiquity]の中で彼らのプログラムに
進入したのだ。[Ubiquity]の中は君とマルチのデータが高いプライ
オリティであふれかえっている。だからわたしはそれに乗じてその中に潜むこ
とができた。……来栖川のロボットを買うな。世界にそう警告してくれ来栖川
のロボットを買うな、ただ同然の値段で売り出しても、ただで配っても来栖川
のロボットを」

「……どうしたんだね?」
 突然、「老人」はぼくの顔を覗きこんだ。
「いえ、あの。なんでもありません!」

「この映像に紛れている信号によって彼らはこの映像を認識できない。これが
最後のチャンスだ。わたしは死にかけている。これがワタシダ。コレガワタシ
ダ」

 その時モニター一面に、白い台が映った。それはベッドだった。ベッドの上
に誰かが寝ていた。いや、縛りつけられていた。その人間からたくさんの
チューブが伸びていた。口には透明のプラスチックの酸素マスクが付けられて
いて、顔の全体はわからなかった。ぼくはその顔を凝視した。

「……わたしは君の行為を不問にすることにした。だからこうしてここに来て
もらったのだよ」
 目の前にモニターを背にした「会長」がいる。ベッドに縛り付けれた病人ら
しい人物と、「会長」が重なった。同じ目。同じ皺だらけの額。ぼくの背中か
ら冷たい汗が噴き出した。家に帰りたかった。一刻も早く。
「警告するロボットたちはいや[Ubiquity]は人間を滅ぼそうとして
いる。君はこの事実を世界に知らしめるのだ。わたしはモウスグシヌ。君だけ
が頼りだ。だめだ、『シンプレックス』に気づかれた。さらばだ。さ・ら・ば
たのむたのむたのむ」


 ぼくは再び車に乗っていた。隣に来栖川という「少女」が座っていた。ぼく
は彼女の小さな形のいい耳を盗み見ていた。マルチが耳を持っていたらどんな
耳だろうと思った。
 家に帰った。マリアがいた。夕食はぼくの大好物だった。おいしかった。
 寝床に入って、マルチのことを思い出した。涙が出た。ぼくは、なぜ泣いて
いるのだろう、と思った。
 マルチは、不滅なのに。



 あれから、何年経ったのだろう?……計算で求めるのは簡単だ。ぼくの年齢
から、17を引けばいいのだ。
 ぼくの年齢?ぼくは今年いくつになったのだろうか?朝、寝床から抜け出し
て、鏡を見るたびに、鏡の中のぼくが年をとっているのがわかる。ぼくは大人
になったのではない。醜く年を取っただけだ。毎朝、薬用の歯磨き粉のような
苦い認識。
 いま、失業している。毎日、職業安定所に足を運んでいる。ここは、大賑わ
いだ。なぜ、だれもこれがロボットのせいだと言わないのだろう?不思議でな
らない。ロボットはあらゆる分野で活躍し、人間の職を奪っているように見え
るのに。
 あてもなく街をぶらつく。最近、ロボットを連れて歩いている人が多い。恋
人どうしのように見える。仲のよさそうなカップルは、たいていどっちかがロ
ボットだ。来栖川エレクトロニクスは律義にも『政治的配慮』を忘れない。人
間と腕を組み、しあわせそうに微笑んでいるロボットの耳のあたりには、しっ
かりと『政治的配慮』がくっついている。ぼくとマルチも、あんなふうに公園
を歩いていたんだろうか?
 ……最近、子供の姿をあまり見かけない。そう、ロボットのせいだ。年金
で、文句も言わずに介護してくれるロボットが買えるのだ、苦労して子供なん
か育てる必要はない。多くの人がそう考えても不思議じゃない。
 こうして人間は緩慢な死を迎えるのだろうか?
 ぼくは、あの「会長」を思いだす。ベッドに縛りつけられていた方だ。
 ……あなたは、20世紀生まれの古い人間なんだ。「機械と生命」という二
元論的世界観に縛られているんだ。機械が心を持ち、人間より優れていたなら
ば、取ってかわってもいいじゃないか?われわれの残酷で何もしない「神」よ
りも、[Ubiquity]の方が気が利いているじゃないか。
 ぼくの反論はいつも同じだった。ここ十年あまり、同じだった。あなたは、
ぼくがマルチに恋することによって、人類滅亡の引きがねを引いたとでも思っ
てるんじゃないですか?
 ロボットたちは、もう冥王星まで達したのだ。気のとおくなるような距離と
時間は、ロボット向きかもしれない。そうだ。星々もまた機械たちのものだ。
 ぼくは、街を歩く。普通の街並みだ。この世界は[Ubiquity]に覆
われているんだ。そして、そのどこかに、いや、いたるところに、ぼくのマル
チがいるのかもしれない。
 失業中のぼくでも、マルチ並みの、それも毎日工場へ帰らなくてもいいロ
ボットを買うことが出来る。もう、そんな価格になってしまったのだ。ぼく
は、一度だけ、来栖川エレクトロニクスの販売店に行ったことがある。金さえ
だせば、ぼくのマルチとそっくり同じロボットを買えるのだ。外見も性格も同
じマルチを。彼女の人格はまるで合わせ鏡の中の映像のように、無限に続いて
いる。だから、形而上は同じ人物と言ってもよいマルチと再び会えるんだ。
 だけど、出来なかった。ハンコを押すところまでいって断ってしまった。
 ぼくも、滅び行く古い人間なのかもしれない。人間存在は時間と空間の中で
たった一つという固定観念にとらわれているんだ。

 歩き疲れれて、ある喫茶店に入った。
 ぼくは、驚いた。マルチそっくりのウエイトレスがいた。ぶかぶかの制服を
着ているところまで、同じだった。あぶなっかしい手つきで、ぼくに水と、お
しぼりを運んでくる。『アーケタイプ:シンデレラ』。灰だらけのお姫さま
だ。きっと、不器用だけど、一生懸命な娘なんだろう。
「ブレンドコーヒーを」ぼくの声は震えている。
 彼女は、コーヒーをこぼしそうだった。おまたせしました。声までよく似て
いる。ぼくはカップを口にはこぶ。
 その時、BGMが変わった。やさしく、美しい曲。
 ビートルズの「Here There And Everywhere」だった。
 ぼくの目の周りから光が消えて、ぐるぐるとまわりだし、そして、


       ぼくは金をテーブルに置き店の外にころが
       るように出たもう何もわからなくなったぼ
       くの人生の時間はそこで止まっているんだ
       ぼくは走る街角にはあの甘い曲が鳴り響い
       ているここにもそこにもいたるところにも
       ああマルチきみはいたるところにいるのに
       ど  こ  に  も  い  な  い
 


             E  N  D



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