[U b i q u i t y]




 ……ぼくはいま煉獄にいる。
 中世の版画のような煉獄じゃない。ありふれた町並み、地下鉄の駅、にぎや
かな商店街が、ぼくを責めさいなむんだ。
 いつ、この苦しみが終わるのだろう?
 死ぬまでか。ぼくは、死ぬまでこうして苦しみ続けるんだろうか。
 線路の前で、考え込んでいる自分に気がついた。かんかんかん。電車が近づ
いてくる。飛び込めば、どうだろう?いま、飛び込めば。
 だめだ。 
 だめだ。
 ぼくには、あの「問い」の答えを見届ける義務がある。ぼくは、生きなけれ
ばならないんだ。プレイヤーの最後の一人になるかもしれないぼくが、ゲーム
をおりてはいけないんだ。
 
 物語は苦しみを和らげる。

 ぼくはせめて物語ろう。
 ぼくと「マルチ」の物語を。
 その物語は、ぼくが高校生だった朝から始まるだろう。

 こんなふうに。 



「ヒロユキさん、起きてください。ヒロユキさん起きてください」
 マリアの声が頭上で響く。まずい水道の水のように、かすかに金属の香りが
する声だった。
 ぼくは、目を開けた。
 白くて卵型の女性の顔が、さかさまになって、ぼくの顔を覗き込んでいる。
目は黒い瞳ばかりで白い部分がないみたいだった。そして、人間で言えば耳に
あたる部分が、金属製のヘッドホーンのようになっていて、アンテナのような
ものが突き出ている。
「……う、ううん。もうちょっと」ぼくは言った。
「だめです。もう8時5分前ですよ。食事の時間を考慮すると、もう起きない
と間にあいません」
「……オマエの時計が狂ってるんだろ?……まだ7時半だよ」
「いえ、正確です。その目覚し時計が遅れているのです」
「そんなこと、どうだっていいじゃないか。……あと5分」
「だめです」マリアはぴしゃりと言った。

 ぼくは、ダイニングでトーストを頬張っている。春の日差しが、食卓の上の
塩の瓶に長い影を作っている。
 「マリア」が、背を向けてゴミ袋を広げていた。紺色のスカートに包まれた
丸いヒップを眺めながら、「なんでコイツは女の格好をしているんだろう」と
ぼくは思った。原子力発電所なんかで使われている、光沢のある灰色の男型ロ
ボットでもいいじゃないか。なんで「家庭用」のメイドロボットは、女性の格
好をしてて、おまけにばかばかしいメイドのエプロンドレスを着ているんだろ
う。
 ぼくがマリアと二人きりで住むようになったのは、今年の1月からだった。
あなた一人にしてちゃ、すぐに栄養失調になってしまうでしょ、母さんはマリ
アの前でそう言った。60回払いのローンで買ったんだから、大切にしろよ、
父さんは言った。ぼくは、ロボットなのに、バストが出ているんだ、と思っ
た。
 
「もう行かないとまにあいませんよ」マリアが言った。
 そんなことはわかってる。ぼくは鞄を持って靴を履いていた。
「急がないといけませんが、車には気をつけてください」
「わかってるよ」
「ヒロユキさんの平均歩行速度で約一分前に高校に到着すると予測されます。
走る必要はありません。ですが」
「わかってるってば!」

 ぼくは走った。「平均歩行速度」って言われたって、どの程度の早さで歩け
ばいいか、わかるわけがないじゃないか。公園の近道を走りぬけて、高校の正
門前の坂道で腕時計を見た。
 ……なんだ、楽勝じゃないか。
 ぼくは、呼吸を整えながら、坂道を登った。

「なあ、藤田、帰りにおれんちに寄らないか?」
 目を上げると、鮎川丈二が立っていた。校則違反の茶髪に、ニキビづら。細
い目でぼくを見下ろしている。
 あと1時間で、退屈な学校も終わりだった。特に予定も無かった。だからぼ
くは、「用事があるんだ」と答えた。
「予定もないくせに、なに澄ましてやがるんだよ、来いよ」ぼくの悪友は言っ
た。

「あ、浩之ちゃ、……藤田くん」
 校門のところで、あかりに会ってしまった。
「やあ」ぼくは、幼稚園からずっと一緒の幼なじみに返事した。
「なぁなぁ、今から藤田とおれの家に行くんだ。一緒にどう?」鮎川はさっそ
く、髪を三つ編みのおさげにしたあかりに、馴れ馴れしく話しかけていた。
「い、いえ、今日はまっすぐ家に帰らないとだめだから……じゃ」
 制服のエンジ色のスカートをゆらゆらさせながら、あかりの姿が遠ざかる。

「……嫌われてるんだよな、おれ」鮎川は笑いながら言った。
「そんなこともないんじゃないか」ぼくは言った。
「そんなこと、あるんだよ。あいつ志保と仲いいだろ?きっと、志保の周りの
女子は全滅だよ」
「なんだよ、それ?志保と何かあったのか?」
 鮎川は、スニーカーの後ろを踏んで、ゆっくりと歩きながら、つぶやくよう
に、こう言った。
「いやさ、志保がさ、このあいだ、おれの部屋にきたんさ」そこで鮎川は言葉
を切った。
「……あいつ、あせってるだろう?……ほら、早く初体験したいって」
「え?そうなの」
「……そんなもんだよ、女子なんて。おれ、それ、他の女から聞いててさ。部
屋に来たってことは『OK』ってサインだとおもって……」
 そのときは、ぼくにも、だんだんわかってきた。ぼくは言った。
「……で、なにをやったんだ?鮎川」
「いやなに、その……部屋のベッドに押し倒して、『やらせろ』って」
「志保はどうって」
「枕もとにあった時計で、おれの頭、思い切り殴って、出ていった。まだ腫れ
てるぜ……ここ」鮎川は、ぼくに向かって頭を下げた。たしかに茶髪のまんな
かが膨らんでいる。
「はははははははは」
「な、なに笑ってるんだよ?」
「志保に、やらせろ、なんて馬鹿だよ。あいつは絶対そんなのだめだ」
「なんでだめなんだよ?」
「……うまく言えないけど、あいつは自分が主導権もってなきゃだめなタイプ
さ」
「……?……なーんだよそれ、じゃ、『いまからやりましょ』って向こうから
言わせなきゃだめってか」
 鮎川が結構大きな声で言ったので、校門前の坂を下っていた何人かの生徒た
ちがぼくたちを振り返って見た。
「大声で言うなよ、ばーか。……とにかく、おまえが悪い」
「えーえ、おれが悪いよ。悪いですよ。……でも、藤田、そういうおまえはど
うなんだよ?……あかりと、やったのかよ」
「え?……そ、そんなんじゃないよ、あいつとは、きょうだいみたいなもん
で」
「ばーか、おまえだって偉そうに人のことはいえねぇな。あかりの奴がおまえ
を見る目、ありゃ、『オトコ』を見る目だ。アニキやおとーとじゃない」
「な、なに言ってるんだよ」
「ぜったいそうだよ。今日もそうだった。そんな目をしてた。あいつ、おまえ
に惚れてるぜ」
 ぼくは気がついていた。ぼくは、そんなに鈍いオトコじゃない。だが、その
頃のぼくは、わざとあかりの気持ちに気がつかないふりをしていたんだ。なぜ
だかは自分でも分からない。とにかく、ぼくは、あかりを妹か姉のままにして
おきたかったのだ。

 鮎川は、銀行が並んでいる通りから一本奥に入った賃貸マンションに、母親
と住んでいる。両親は、彼が小学生のときに離婚したのだ。
「ただいま、『ガッターイ・シックスナイン』」
 鮎川はドアを開けると、玄関先に立っているロボットにそう言った。
 ぼくの家のマリアとは比較にならないほど不細工なロボットだった。
 硬質プラスチック製のボディに、派手なステッカーがいたるところに張りつ
けてある。四角いブルーの額には「69」という番号がへたくそな字で書かれ
ていた。おそらく、どれも鮎川がやったのだろう。

 彼の部屋の中はぼくの部屋の十倍ほどちらかっている。壁には聞いたことも
ないようなロックバンドのポスターが張られている。勉強机というには参考書
はおろか教科書すらならんでいない机の上に、毒々しい色彩のアメリカのコミッ
クスのキャラクターのフィギアが並んでいた。

「すげえもん、手に入れたんだ」鮎川は目を輝かせながら、ベッドの下から、
小さな紙袋を取り出した。
 また、エロビデオか何かだろう。ぼくは思った。ぼくも男だし、オナニー
だって、たまにする。でも、鮎川の部屋で無理矢理みせられるようなビデオ
は、なんだか汚らしい感じがして、ちっとも興奮しなかった。
 鮎川は、袋の中から、DVDのディスクを取り出した。白いラベルが張って
あり、マジックでいくつかの数字とアルファベットが書かれている。彼はパソ
コンのスイッチを入れて、制服のブレザーのポケットから、タバコを取り出し
た。一本口にくわえ、無造作にぼくにむかってタバコの箱をさし出した。  
 ぼくは、黙って箱から一本取り、口にくわえる。鮎川は緑色の100円ライ
ターで、ぼくと自分のタバコに火をつけた。
「……ふう……ガッコ帰りの一服はうまいぜ」鮎川はきいたふうなせりふをは
く。
 ぼくは、白い天井に昇っていくタバコの煙をながめながら、こんなものの、
どこがうまいんだろう、と思った。
 
「今から、オマエにあるビデオを見せる。……誰にもこの事を言っちゃだめだ
ぞ。これは、マジに『やばい』ものなんだ」
「もったいぶるなよ」ぼくは言った。
「いや、ほんとだって……ほんとにまずいんだ……この事がばれると」鮎川は
DVDをパソコンのドライブの中に入れた。
「ばれるとどうなるんだ」
「いいから、見ろよ……まず、これを作られた時間順に……」鮎川はディスク
の中のファイルを作成時間順に並べた。そして、一番古いファイルから二番目
のファイルをクリックした。

 ……編集前の映画のラッシュのように、シーンナンバーのようなものが映し
出された。暗い、現像室のような部屋。パイプ椅子が一つ。ほんの一秒、何も
おきなかった。
 突然、画面の隅から少女が歩いてきた。目のさめるような金髪を長く腰のあ
たりまで垂らしていた。淡い空色のワンピースを着ていた。彼女は、正面を向
いた。信じられないような美少女だった。ライトが斜め上方から当たっている
らしい。ほとんど黒に見える青い目にハイライトができていて、それがきらき
らと光っていた。
 彼女は、まっすぐにカメラを見つめている。両手は膝の上で、軽く組まれて
いる。

 それで終わりだった。パソコンの中のデジタルビデオ再生ウィンドウはそこ
で暗くなってしまったのだ。
「なんだこりゃ」ぼくは言った。
「まあ、まてよ」鮎川は、その下のファイルをクリックした。
 映像が映し出される。
 また、端正な顔をした少女が座っている。いくつくらいだろう?15〜6と
いったところか?今度は無表情ではなかった。にこにこと笑いながら、こちら
を見ている。画面のフレームの外にいる人物と話しているみたいだ。ときおり、
冗談でも言われたのか、大きく口を開けてわらう。しかし、それは愛らしく、
上品ですらある。

 それで終わりだった。
「おれに無声映画を見せてどうするんだよ」ぼくは文句を言った。あの娘はキ
レイだが、こんなもののために、わざわざぼくを家につれてきたのか?
「わかったよ、じゅんじゅんに馴らしてやろうと思ったんだよ」鮎川はファイ
ルリストの下のほう、つまり後にできたファイルを選んだ。

 女の子はスカートを自分でまくり上げていた。下着を付けていなかった。性
器があらわになっているのだ。彼女はスカートを掴んでいない方の手で、自分
の性器をゆっくりと愛撫していた。目は軽く閉じられ、小さな唇はうっすらと
開けられていた。
 ぼくは、興奮していた。美しい顔とその行為の落差が、ぼくの中の何かを刺
激していた。
「……すごいだろ?……おい、藤田?勃起しちゃったのか?」鮎川はからかう
ように言う。
「し、してねぇよ!」ぼくはあわてて叫んだ。

 ビデオはまた終わった。
「そして、とどめだ。みまたえ藤田くん。でも一人エッチは自分の家でやって
くれ。おれの部屋を汚すなよ」鮎川は言う。

 女の子は、椅子の背に両手をついていた。スカートはまくれ上がっている。
男の下半身が見えた。激しく動いている。いわゆる後背位ってやつだ、ぼくは
思った。女の子は美しい顔を歪めながら、時たま何かを言っている。男の手が、
彼女の胸をワンピースの上から揉んでいる。
 このビデオファイルが一番長かった。
「この男、結構『もつ』よなぁ。……そう思わないか。おえれだったら、とっ
くに漏れちゃってるぜ」鮎川はぼくに向かって言った。
「わかんねぇよ、そんなこと」ぼくは言った。
「……早くあかりとでもエッチして、童貞すてちゃえよ。新婚旅行まで取って
おいたって、だれも誉めてくれないぞ。おれは成田離婚の隠れた原因ナンバー
ワンはそいつかもしれねぇって思うんだ。ははははははは」

 ビデオは唐突におわった。二人の行為は続いていたのに、いきなりぷちんと
切れたって感じだった。

「……これで終わりだ」鮎川はつぶやくように言う。
「これで終わりって、まだファイルはあるみたいだけど?」
「おやぁ?藤田。お気に召したのかい?……だめだよ。他のファイルは始めに
みたように、まるで新人歌手のオーディションか、スクリーンテストみたいな
やつばかりなんだ。泣いたり笑ったり、怒ってるのもあるんだぜ」
 鮎川は、ぼくに向き直り、神妙な顔をしていった。
「で、これを見てどうおもうかね。藤田浩之君?」
「わからないよ。新手のロリコンビデオだろ?その制作現場のメイキングとか
さ」
「ちがうね」鮎川はにやりと笑った。

 その時誰かが鮎川の部屋のドアをノックしたので、ぼくたちはびっくりした。
あわててたばこを消して、鮎川はドアをそっと開けた。
「コーヒーをお持ちしました」マンガに出てくるロボットのような声で、『ガッ
ターイ・シックスナイン』が立っている。
 手に二つのカップの載った盆を持っていた。
「き、気が利くな、ガッターイ。おめーも、おめーの同類のエッチなビデオ観
るか?」鮎川は笑いながら言う。
 鮎川の家の旧式の家庭用ロボットの、鼻にあたる部分に付いている黄色いラ
ンプが点滅した。「理解不能」、つまりご主人様の言うことはわかりません、
てことだ。
 ロボットは、足の踏み場もない部屋に入ってきて、机の上に盆を置いた。
「それでは、ワタシは夕食の買い物に行ってまいります」ロボットは言った。
「おお、行って来い行って来い。ポテトチップとコーラ買うの忘れるなよ」
「はい、承知しました」
 ロボットはドアを閉めて出ていった。

「お前のトコのべっぴんのロボットが羨ましいよ、藤田」鮎川は言う。
「そうか?」
「あれで小遣いくれるんなら、おふくろ要らなねえな……っと、それより、質
問だ。あれはなんだと思う?」
「……わからないってば!もったいぶるなよ」
「じゃ、いきなり結論から見せてやろう。これでわかるだろう」鮎川は、作成
時間順に並んだファイルフォルダの中の、一番てっぺん、つまり最も古いファ
イルをクリックした。


 灰色の手術台のようなものの上に、全裸の少女が横たわっていた。
 少女の首は、奇妙な角度に折れ曲がっていた。首の骨が折れているかのよう
に、不自然に傾いているのである。
 その首の付け根のところから透明な太いパイプが、天井に向かって伸びてい
た。少女の目は閉じていた。死んでいるのか?ぼくは思った。人間ならばあん
なことをすれば死んでしまうだろう。形容しがたい不快感がこみ上げてきた。
何か死体解剖を見せられているような感じがした。
 見ていると、ミルクを思わせる白い液体がパイプを通って、その少女に流れ
込みだした。パイプと首のつなぎ目にある金属のわっかが、細かく震えている
のが見えた。
 次の瞬間、ぼくは飛び上がるほどびっくりした。死んでいるかのようだった
少女が目を開けて、あたりをきょろきょろと見回し始めたのだ。首がねじ曲
がっているのに。まるで首だけが別の意志を持つかのようだった。
 鳥肌が立った。まるで出来の悪いホラービデオのようだった。しかし、おど
ろおどろしい音楽も、セリフもなかった。それがかえって、目の前のこれが現
実に起きているのだ、という感じを強めていた。
 そしてビデオは消えた。
「……わかったろう?……こいつはロボットなんだ。人間そっくりのな。そし
て、この変なビデオは、そのロボットの性能テストかなにかを記録したものな
んだ」
「でも、なんで、そんなものをおまえが持ってるんだよ?」
「……そいつがこの話の『やばい』ところなんだ。おれのいとこが来栖川に勤
めてたのを知ってるだろう」
「ああ……じゃ」『来栖川』というのは、日本を代表する、とてつもない大企
業だ。「東芝」や「松下」や「日立」と同じく「来栖川」で通じるほどの巨大
な会社。鮎川の家のふざけたニックネームのロボットも、ぼくの家のマリアも、
来栖川エレクトロニクスの製品だ。
「……そうだ。勤めてたってのは去年の暮れまでの話だ。くびになっちまった
んだ。なんでもここ数年『来栖川』じゃものすごいリストラをやっててな。そ
れに巻き込まれたんだ。おれのいとこはまさか自分がくびになるとは思ってな
かったんだな。だからどーにも腹にすえかねて、辞める間際に企業秘密ってや
つをちょろまかして辞めてやろうとしたんだ」
「……それって、これか?」
「そうだ」
「……おまえ、それじゃ、これ犯罪じゃ」
「……だから『やばい』って言っただろーが。間抜けなことに、いとこは、い
ま警察にひっぱられてる。窃盗容疑だそうだ」
「なんだって?」
「はははは、そうさ。でも技術者肌の研究馬鹿のくせに、みょうに知恵がまわっ
てな。捕まる前に、おれの名前でありもしない地名に小包を出してたんだ。そ
して、おととい、宛先不明でおれに連絡があった」
「よくわかったな」
「そのいとことおれは9つ違いだが、気があってな。よく遊んでたんだ。ほ
ら、よくやるだろう。『暗号』あそび。地名が懐かしい暗号になってたんだ
よ」
「は……なるほどね」
「『来栖川』もあせるはずさ。家庭用ロボットの世界シェアナンバーワン企業
が、すげーセックス用ロボットを研究してる、……なんてことが世間に知れりゃ
大変だもんな」
「やっぱり、そうかなあ」
「そうに決まってるぜ。人間そっくりのロボットが買えるとなりゃ、人は最初
に何を欲しがると思う?……口をあんぐりとあけた、間抜けなビニール製の
ダッチワイフよりも、現実の女の子そっくりロボットだ。それが人間てもんだ
よ」
「ふうん……」そうかもしれない。ぼくは思ったのだ。
「……おまえんちのロボット、妙に女っぽいけどさ。こいつのプロトタイプ
だったりしてよ」
「そんなことないよ」
「わかんねーぞ。こんど命令して服を脱がしせてみろよ。『付いて』るかもし
れんぜ。だいいちメイドの服ってのがそそるじゃないか」

 ぼくが家に帰ったのは、日が暮れてからだった。
「……何かご用でしょうか?」メイドの服を着たマリアが立っていた。ぼくの
脳裏に、あのビデオの光景が浮かんだ。もしかしたら、このマリアと同じタイ
プを、その用途に使っている寂しい男もいるのかもしれない、ぼくは初めてそ
の可能性に思い当たった。
「なんでもないよ」ぼくは答えた。
 食事を済ませ、風呂に入って、勉強部屋のベッドに横たわった。
 電気を消した。
 鮎川のやつ、あいつも捕まるんじゃないか、と思った。立派な共犯だ。
 ……ひょっとしてぼくも。そんなバカな。ぼくは無理矢理見せられただけ
で。
 あの、どうみても人間にしか見えない少女の顔が浮かんだ。ほほえみなが
ら、こちらを見ていた。そして、下半身は裸だった。
 ぼくは、自分がその少女とセックスしているところを思い浮かべた。
 数分後。ぼくは罪悪感とともに、こんなふうに考えていた。
 でも、心がなければ、愛し合う気持がなければ、それこそ、ぼくが今さっき
やったことや、「ダッチワイフ」を抱いているのと同じじゃないか。ぼくは、
そんなのは、いやだ。
 そうなんだ。ぼくは、間近に迫っている運命を、ぼくのすべてを変えてしま
う運命を予見していたのかもしれない。


「あ、アホの鮎川の『連れ』!」ショートカットがとてもよく似合う長岡志保
が、ぼくを見て叫んだ。
 珍しく余裕で学校に間に合った朝だった。校門の前の坂道をゆっくりと歩い
ているぼくを、中学生の頃からの同級生、志保が見つけたのだ。
「な、なんだよ、それ」ぼくは抗議した。
「だって、そうでしょ。アンタ。昨日だって仲良く歩いて帰ってたでしょ?お
おかた、家にでも行ったんでしょ?一緒にエッチビデオでも見たんでしょ?
だったら親友じゃない。『ツレ』じゃない」
「な、なんだよそれ」
「あんな奴とつきあってると同類だと思われちゃうよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。あかりにもそう思われるとまずいでしょ、あんたも」志保はぼく
と並んで歩きながら、そう言った。
「それは、おまえが言いふらしてるからだろ」
 志保は突然立ち止まった。
「ちょっと、藤田。……あたしが何を『言いふらしてる』のよ」
「歩けよ。間に合わないぞ」
「質問に答えなさいよ。アンタ……言ったのね!あのアホ。……もう男子った
らキスしたらしたで、おれアイツとキスしたんだ、エッチしたらしたで、おれ
アイツとやったんだって、自慢しまくる……ほんとーに、馬鹿な生き物だわ」
「でも、なんにもなかったんだろ?」
「あるわきゃないでしょ、あんなのと」志保は、歩道から車道にはみ出して、
ぼくを睨みつけた。
「あぶない」その時ぼくは、とっさに志保の肩に手をやって、歩道側に引っ
ぱった。
「わわ」志保はすっとんきょうな声をあげた。
 全長6メートルはありそうな、巨大なリムジンが、ぼくたちの前に停止し
た。
「お怪我はありませんか?お嬢さん」車の運転席から、黒い服に白い手袋をは
めた、端正な顔をした若い運転手が降りてきて、志保に向かって言った。
 どこか芝居のセリフのような、張りのある声だった。
「いえ、べつに」志保は相手がハンサムなので「ヨソイキ」の声で答えた。
 その運転手はぼくたちに会釈すると、後部座席のドアを開けた。
 中から一人の女子生徒が降りてきた。
 名札の字は読めなかったが、色でぼくの上級生であることがわかった。
 その子はぼくたちに向かって、運転手と同じように軽く会釈した。
 そして、黒く長い髪を揺らせながら、校門へ向かって歩き始めた。あたりの
温度が何度か下がったような気がするほど、綺麗で静かで、上品な女の子だっ
た。
 校門の中に入ったのを見届けて、リムジンは走り去った。
「あれが……『来栖川』のお嬢様ね」志保がつぶやいた。
「『来栖川』」ぼくは、びっくりした。昨日その企業秘密ってやつを見てし
まった会社の名前と同じだったからだ。
「……知らないの?……『あなたにほほえみを』の、『来栖川エレクトロニク
ス』よ」志保は、家庭用ロボットのコマーシャルのキャッチフレーズを真似て
みせる。
「知ってるよ」ぼくは言った。そう、もっといろんな事も知っているかもしれ
ない。
「あの大企業の会長の孫娘が、なんと新学期からウチの高校に通うことになっ
たの、知ってる?」ぼくたちは、校門から下駄箱までの石畳の上を歩いてい
た。
「知らなかった」
「……あんたはほんとーに情報に疎いわね。少しはわたしを見習いなさい。…
…あのね、あの子、ずーっと両親つまり会長の息子夫婦とアメリカにいたの
よ。でも、かわいそうにその両親が自家用飛行機の事故で死んでしまったの。
去年の暮れに。それで、祖父のいる日本に帰ってきたの」
「へえ……」そういえば、新聞にそんな事が書いてあったような気もする。大
会社の御曹司が事故で死んだとか、なんとか。
「いっけなーい。はじまっちゃう。早く行こうよ」
 ぼくたちは校舎の中に駆け込んだ。

 数日間、なにも起きなかった。隣のクラスにいる鮎川が逮捕されるというこ
ともなかった。ぼくは、あのロボットの奇妙な性能テストの事を忘れていた。
 
 例年にも増して暖かい春だった。暑いといってもいい。5月の連休並の気温
の日が続いていた。
 ある時、ぼくは用事があって校舎の三階へ行き、いつか見た『来栖川』の会
長とやらの孫娘を見た。といっても、口をきいたわけではない。向こうはぼく
を知らなかったし、ぼくもその子の事は志保に聞いた事しかしらなかった。極
端に無口な子らしい。身体が弱く、体育の授業はずっと見学しているそうだ。
 その、ぼくより年上の美しい女生徒は、窓を開けはなって、外を見ていた。
向かいの校舎や、青空の向こうの雲を見ているという感じではなかった。なに
か、たましいを置き忘れた、というふうだった。
 きっと、自家用飛行機の事故で死んだという両親のことを考えているんだろ
う、と勝手に解釈して、ぼくは、足音を忍ばせて行き過ぎた。
 そして、それっきりそのことは忘れてしまった。

 判で押したような毎日が続いた。ぼくは同じようにマリアにたたきおこさ
れ、同じように学校に走っていった。
 でも、その日だけは忘れられない。4月15日の朝の事だった。ぼくは、廊
下で、志保と並んで歩くあかりとばったりと出会った。
「ねえ、ねえ、藤田、あんた今日からロボットがこの学校に通い始めるの、
知ってる?」
「え?」
「 ほーら、知らないでしょ?こんなやつなのよ」志保は隣にいるぼくの幼な
じみのあかりの腕を軽くこづいた。
「なんだよ?それ」
「『来栖川エレクトロニクス』の新型ロボットのテストと、……なんて言っ
たっけ、あかり?」
「……『テストとサンプリング』のためって、言ってたよ」あかりは自信なさ
そうに言った。
「……テストとサンプリングなぁ……」ぼくは、脳裏に浮かんだある映像をあ
わてて追い払いながら、そう、つぶやいた。

「なあ、藤田、ロボット見にいこうぜ」予想していたとおり、休み時間に鮎川
丈二がぼくの席までやってきた。
「おまえ、何を期待してるんだ?」ぼくは言った。
「べつに、何も。とにかく行こうぜ。一年C組だってよ」

 そして、ぼくは生まれて初めて「マルチ」を見たのだ。

 1年C組の前には何人かの、ものずきな上級生たちがたむろしていた。
「惜しいなあ、さっきまでテレビ局が取材に来てたんだとよ」鮎川は言う。
「へえ」
「でも一社だけだったらしい。看護ロボットを病院でテストするとか、最近は
そんなの珍しくないからな」鮎川は残念そうに言う。
「で、背後でピースサインでもしたいのかよ?」ぼくは言った。
「ばかいえ、ガキじゃあるまいし」鮎川は教室の中を覗き込んだ。ぼくも、そ
うした。
 そして、ぼくは、マルチを見たのである。

「……なんだ、ありゃ」肩をならべて、2年の教室へ向かいながら、鮎川は
言った。鮎川の言いたい事は、すぐにわかった。ぼくたちの見たロボットは、
確かに人間そっくりだった。耳のところに付いている、金属製の奇妙なヘッド
ホンのようなものが無ければ、まったく人間そのものと言っていいだろう。
 しかし、鮎川が期待していた、あのビデオに写っていた美少女と、目の前の
女の子とは、まるで違っていたのだ。
 そう、そのロボットは、女の子の格好をしていた。それも、小柄で、やせっ
ぽちの、みずぼらしい感じのする女の子だった。一番小さなサイズの制服でも
ぶかぶからしく、辛うじて指先だけが出ているといった感じだった。足は、ま
るで小枝のようだったし、胸はどうみてもぺたんこで、髪は短く乱暴に切りそ
ろえてあった。
「……いまどき、チューボーだって、もっとナイスバディだぜ」鮎川は2年の
教室に入ってからも、まだ言っていた。

「おまけに、あいつ、頭も悪いらしいぜ」昼休みになっても、鮎川は文句を
言っていた。
「午前中の数学の授業で、連立方程式が解けなかったらしい」鮎川はカツサン
ドをほおばる。
「おまえは解けるのかよ」
「いや、おれは数学は捨ててるからな。でもあいつはロボットだぜ。おれみた
いなノーミソじゃなくて、コンピュータが入ってるはずなんだぞ」
「そりゃそうだ」
「……あーあ、『テスト』って言うからよ、すげー美人でナイスバディで、お
まけにエッチし放題だと思ってたのによ」
「……大きな声で言うなよ」ぼくは、言った。ぼくたちがいる校庭の10メー
トルほど離れたところに、女子の一団がいて、何人かがこっちをちらちら見な
がらひそひそと話をしていたのだ。
「あ、いとこの事か?ありゃ、大丈夫。警察からは出てきたよ。返すもの返し
たら訴訟せずに勘弁してくれたらしい。むこうだって大企業だから、イメージ
に傷がつくような事は避けたんだろうよ。……でも、あのビデオは気付かれて
ないけどな……だけどよ、『来栖川』ともあろう会社も面白いこと、するよ
な」
「え?」
「あの、みそっかすのロボットのことさ。考えたらおもしろいじゃん」
「なんでだよ」
「……つまり、さ。『パシリ』だよ。『パシリ』専用ロボだぜ。ありゃ」
「え?」
「わかんねーか?……女子でも、男子でも、『パシリ』にされるやつって、あ
んなタイプ多くないか?ほら、だれだってさ、のろまだけど図体のでかいやつ
には命令しにくいじゃん。でもちびで頭もわるいとなりゃ、『おいジュース
買ってこい』って言いやすいだろ?」
「そうかなあ」
「そうだよ、人間の心理ってものを研究してるのさ、『来栖川』は 」
 ぼくは、鮎川にはついていけない時がある。この時もそうだった。けっこう
一緒にいることが多いのに、ぼくはどこか彼に距離をおいていた。
  
  放課後。ぼくは、「ゲーセン行こうぜ」という鮎川の誘いを、ほんとに用
事があるからと断って、教室にいた。べつに用事なんかなかった。『あいつと
つきあってると同類にされるわよ』って志保の言葉がひっかかっていたのかも
しれない。でも、結局何もすることがないので、帰ることにした。

 ぼくは、いまだに思うのだ。
 もし、その日、その時、その放課後、ぼくがマルチに会わなかったら、と。
 もしも。
 だが、「もし〜だったら」という設問には、意味がない。ぼくたちの行動
は、ある意味で、ぜんぶ「とり返しがつかない」んだ。なぜなら、とりつくろ
う、いっさいの行為は、当の行動の上に積み重なるものだからだ。なにかを
「やってしまった」とき、「やってしまった世界」と「やらなかった世界」と
が分岐して、決して交わることがない。ぼくはそう思うんだ。

 だけど、ぼくは、百万回生まれかわったとしても、百万回、同じ事をしただ
ろう。
 階段を、あの、ちびでやせっぽちの女の子ロボットが、山のような荷物を両
手にかかえて、ふうふう言いながらのぼっていたんだ。ほんとうに重そうだっ
たんだ。よろよろしていた。2,3段のぼっては手すりに荷物を置いて、休憩
し、またよろよろとのぼっていく。
 気が付くと、ぼくは荷物を持っていた。確かに重かった。女の子のロボット
がしきりに何かぼくに言っていた。すみません、すみません。おどおどした声
だった。
 ちまちまとした唇、ちまちまとした鼻、すぼんだようなあご。小さな顔に不
つりあいに大きな、くりくりとした瞳で、ぼくを見上げていた。お世辞にも美
人て感じじゃ、なかった。そう、ぼくは最初彼女の顔を見て、なんとなく、
「ねずみ」みたいだ、と思ったのだ。
「どこに置けばいいんだ?」ぼくは言った。
「あの、教室に、1年の教室に入れてください」
 ぼくは、一年生の教室のドアを開けて、それを前の床の上に置いた。
 教室の中には誰もいなかった。机は椅子といっしょに、全部後ろに片付けら
れていた。
「あの、ほんとうにありがとうございました」やせっぽちのロボットは上目づ
かいにぼくを見て、ぴょこんと頭を下げた。
「いや、なに……」ぼくは、なんと答えていいのか、わからなかった。おまけ
に、自分がどうして彼女の荷物を持ってやったのかもわからなかった。

 彼女は、所在なげにつったっているぼくに会釈をして、背を向けた。足もと
に雑巾のかかった、金属製のバケツがあった。そのまえにしゃがむと、雑巾を
バケツにつっこんでから、しぼりはじめた。
 ぼくは、あんなに雑巾を搾るのがヘタクソな人物を見たことがない。
 家にいるマリアとは、雲泥の差だった。マリアが家事をしている動きはまる
で無駄がなく、時たま見とれてしまうほどだった。
 ところが、目の前にいる人間そっくりのロボットの少女は、ひどく不器用に
見えた。よく搾りきっていないから、熱心に雑巾を動かすたびに水しぶきがは
ねるほどたった。ぶかぶかの女子生徒の制服の白い袖に、黒いしみがぽつぽつ
と付いていった。
 しかし、彼女は服が汚れるのも気にするふうもなく、懸命に床を拭いてい
く。というより、ただべとべとに濡らしていると言ったほうがいいかもしれな
い。

 ぼくは、荷物を持ってやったのに続いて、もう一つ、馬鹿なことをしたの
だ。 


「ひとりで掃除をしてるのかい?」愚かにもぼくは、そうはなしかけたんだ。
「あ、はい!……毎日勉強する場所がきれいだと、気持ちがいいですから」
「……ほかのやつは?……その、掃除当番って、いるだろう?」
「はい、みなさん、用事があるからとおっしゃって帰られました。『マルチ、
これは大事な仕事だからおまえでなきゃ』って。そのとおりだとおもいます!
……あ、すみません。助けていただいたのに、なまえ、いわなかったですね。
……わたし、『マルチ』っていいます。ややこしい番号みたいながのついてま
すけど、……そう呼んでください」

 後に、ぼくの世界を覆いつくす「マルチ」の名前をきいたのは、それが初め
てだった。

 数分後、ぼくは、なんとマルチと一緒に雑巾がけをしていた。ぼくが何を
思ってそううしたのか、おもいだせない。とにかく、階段で荷物を持ってやっ
たときから、世界のなにかが変わったとしかいいようがないんだ。
 ぼくは、放っておけなかったのかもしれない。あんまり、マルチが不器用だ
から。家のマリアに比べて、あまりにも手際が悪かったから。
 とにかく、ぼくはマルチと一緒に、一年の教室を掃除した。
 鮎川が先に帰っていて、よかった、ぼくは思った。こんな光景を見られた
ら、なんと言われるだろう。
 
 机をもとどおりにして、バケツの水を捨て、雑巾をしまって、終わりだっ
た。
「……ありがとうございます。なんてお礼をいっていいか。……ほんとうに、
ありがとうございます」
 マルチは何度もぺこぺこと頭を下げた。袖やスカートに汚れがいっぱい付い
ていた。
「……いいんだよ」ぼくは言った。おれはなんて馬鹿なやつんなんだろうと
思った。我にかえったのだ。いそいで、その場から立ち去りたかった。
「じゃ、おれ、帰るから」
「あ……!あの」
「なんだい?」ぼくは振り返る。
「……あの、すみません。よければ、お名前を教えてくださいませんか?」マ
ルチは、大きな目でぼくを見上げながら言った。この子がマリアと同じロボッ
トなんて信じられなかった。まるで、ほんとうの、おどおどした女の子がそこ
にいるようだった。
「すみません、すみません!ぶしつけなこと聞いちゃって」
「2年C組の、藤田浩之」ぼくは答えた。
「え……?、あ。……ふじた、ひろゆきさん……ですね」
 マルチは、ぼくの名前をゆっくりと、大切なものを扱うように繰り返した。
「うん」ぼくは、うなずいた。目の前の、やせっぽちのマルチも、つられたよ
うにうなずいた。小さな唇がほほえみを含んでいるかのように、すこしとがっ
ていた。

 ぼくは家に帰った。
「おかえりなさい」マリアが玄関のドアを開けてそう言った。そう、マリアは
どう見ても「最新型の家庭用ロボット」に見えた。確かに鮎川のマンションに
いる「ガッターイ・シックスナイン」なんてふざけたあだ名の、ロボット然と
したロボットに比べれば、はるかに人間に近かった。だいいち、皮膚は肌色の
柔らかい樹脂でできているし、顔の表情だって豊かだった。会話をしても、ま
あまあ自然な感じだ。
 でも、マリアとマルチは、決定的に違っていた。マルチは、どうみたって普
通の女の子に見えた。それも、ちょっと不器用な、やせっぽちで背の低い女の
子に。

 ぼくは、マリアと向かいあわせて座って、晩ご飯を食べていた。以前は部屋
の隅に立って、ぼくが食べ終わるのを待っていたんだけど、あるとき、「落ち
着かないから座ってくれ」と言ったら、その言い付けを守って、いつもぼくの
向かいに座っている。
 しかし、じっとぼくを眺めるのではなく、顔を横に向けて、壁にかかったテ
レビを見ている。面白がっているのかどうかはわからない。きっと、ただ気を
遣っているだけなんだろう。
 マリアの料理はおいしい。よく分からないけど、栄養も考えられてるみたい
だし、レパートリーも豊富だ。いったいどのくらいのレシピが記憶されている
のか、こと夕食に関しては、同じ料理を食べたことがないほどだ。

「ねえ、マリア」ぼくは話しかけた。
「はい?」
「……人間そっくりのロボットって、作れるものなんだろうか?」
「そっくりというのは、『外見上』そっくりである、という意味でしょう
か?」
「そうだよ。……ああ、それと、話してもロボットって感じしないっていう意
味」
「その質問でしたら、答えは『可能』です」マリアはあっさりと言ってのけ
た。
「そうなの?」 
「はい。私を製造した来栖川エレクトロニクスでは、いかにロボットを人間
そっくりにするかという研究が、日夜、行われています」
「へえー。……でも、なんで?」
「なぜ人間そっくりのロボットを研究しているか、という意味ですか?」
「うん」
「それは」
 マリアは、答えようとした瞬間、壁面のテレビに顔を向けた。
「どうしたの?」
「丁度いいCFが放映されます。ごらんください」

 そう言われたので、ぼくはテレビを見た。インスタント焼きそばのコマー
シャルをやっていた。「ちがうじゃないか」とマリアに文句を言いかけたとこ
ろ、一度見たことのあるコマーシャルが始まった。
 
 暗いベッドのうえ。一人の老人がせきこんでいる。苦しそうだ。かれは、手
を伸ばし、壁に付いているスイッチを押す。
 画面は一転。がらんとしたナースステーションに、看護婦が一人座ってい
る。いや、普通の看護婦じゃない。ロボットだった。それもマルチくらい人間
らしい感じのロボットだった。あの子と同じように耳のところが金属のヘッド
ホンみたいになっていなければ、ごく普通の看護婦の女性に見えるだろう。
 彼女は、机に向かって何か書きものを指定る。机の隅に時計が見える。午前
3時。突然、彼女は顔を上げる。どこか遠くを見るような、あるいは耳を澄ま
せるような表情。
 立ちあがり、非常用出口の誘導灯だけが付いている廊下を、きびきびとした
足どりで歩いていく。苦しんでいる老人の病室に向かっているのだ。
 また場面が変わった。
 老人は落ち着いた表情で、ベッドに横たわっている。あの看護婦は、老人に
やさしい、暖かみのこもった笑顔で話しかけている。そう、まるで人間の女性
のようだった。
『……24時間、彼女は眠りません。どんなハードワークでも彼女は微笑みを
絶やすことはありません』そのシーンに、そんな男性のナレーションが被さり、
暗転。
 見慣れた「来栖川エレクトロニクス」のロゴ。
 そして、「ほほえみをあなたに」というキャッチフレーズ。
 コマーシャルはそこで終わった。

「このような場合、より人間らしいロボットの方が患者に安心感を与えるので
す。おわかりでしょう」
「うん。……そうだね」たしかに、夜中にナースを呼んで『ガッターイ・シッ
クスナイン』が来たら、さぞかしいやだろうな、とぼくは思った。
「いまのは、実際の映像なの?」
「そうです。ある総合病院にテストとして派遣されたタイプです。でも、まだ
コストがかかり、非常に高価なものになってしまうので、市販されていませ
ん」
「でも、いつか家庭用ロボットもあんな感じになるんだろう?」
「そうですね。わたしのような家庭用ロボットは、平均的な家庭で購入できる
価格でなければ意味がありません。量産効果が現れるのは数年後でしょう。だ
から、わたしはこういう仕様なのです」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」ぼくは思わず誤った。
「?……なぜ、あやまるのですか」
「いや、なんでもないよ……それより、ぼくの高校にもそんなロボットが通う
ことになったんだよ」
「そうですか。汎用ロボットはいろんな場所でテストしなけれなりませんから
ね」
 ぼくは、マルチも「汎用ロボット」なんだ、と思った。この、目の前にいる
マリアと同じ、ロボットなんだと思った。
 食事を済ませて風呂に入り、ちょっとだけ予習をして、音楽を聴いたあと、
ベッドに横になり、もう一度同じ事を考えた。

 マルチは、ロボットなんだ。

 次の朝、マリアに起こされた。
 卵型の白い顔に銀の耳。メイドの服。普段は気にならなかったが、濃い紫色
の髪。まるで大きなマネキンに見えないこともない。

 マルチは、ロボットなんだ。

「最近おまえ、つきあい悪いよな」
「だから、今日は別の用事だってば」
「はー、そうかい」鮎川は言った。

「なぜ今日も一人で掃除してるんだ?」放課後、気が付くとぼくは1年の教室
の中にいて、やせっぽちでちびの女の子に見えるマルチに話しかけていた。
「え?……はい、あの、『おまえは掃除のテストもしなきゃならない。学校に
通っているあいだはずっと掃除当番をやれ』ってみなさんおっしゃいますの
で。わたしもそのとおりだと思います」マルチはそう言って、ほほえんだ。

 その日、ぼくは10秒ともたなかった。いきなり掃除を手伝いはじめた。
「いけません、藤田さん、これはわたしの仕事ですから」
「おれが、やりたいんだ。……べつにいいだろう?……邪魔かい?」
「いえ!とんでもないです!……すごく、うれしいです。でも」
「だったらいいじゃないか。ほら、きみはこれで床を拭いて」
「はい」

 掃除道具を片付けた。
 ぺこぺこ頭を下げるマルチに、ぼくはこう言った。
「そういえば、学校が終わったらどうしてるの?」
「はい、商店街の近くの営業所に集合して、バスに乗って工場に帰ります」
「集合して?」
「あ、はい。わたしと同じように学校や施設に派遣された仲間と集まってバス
に乗るんです」
「商店街だったら、ぼくの家と同じ方向だよ。一緒に帰ろう」だれかの声がそ
う言っていた。驚くべきことにそれは、ぼくの声だった。
「え、えええ?」
 マルチは大きな目を丸くした。

 ぼくは、マルチと肩を並べて歩いていた。
 春の日の夕暮れだった。野球部の練習の間のびした声が、ひとけのない公園
に響いていた。
 一緒に帰ろうと言い出したものの、何を話していいのか、わからなかった。
ふつうの女の子と話するように、趣味の話や何かをするのは、まぬけな感じが
した。趣味もなにも、マルチはこの間生まれたばかりのようなものだからだ。
 かといって、「工場へ帰って何をする?」なんて、きく気にはなれなかっ
た。鮎川の家でみたビデオを、とくに最後の映像を思い出してしまうから。
 同じように、「いつまで学校に来るの」とも、きけなかった。
「『テストとサンプリング』がすんだらどうするの」とも、きけなかった。

 ぼくは思う。そのとき、きいていれば、と。マルチはきっと正直に答えただ
ろう。そして、ぼくは……。やめよう。人生の仮定には意味がない。

「……掃除、たいへんだね」
「はい、わたし不器用ですから。すみません」
「いや、そんな意味で言ったんじゃないよ」
「ありがとうございます。でも、不器用なのは……ほんとですから。どうして
こんなふうに作ったんです?……て『会長』にきいてしまったくらいなんで
す。ぶしつけですよね」マルチは恥ずかしそうに言うのだった。
「『会長』……?」
「あ、来栖川グループの会長です。わたしが生まれたときから、わざわざ声を
かけに来てくださるんです」マルチははにかむように言った。その表情を見
て、ぼくの心の中のどこかが、うずいた。
「会長みずから来るのかい?」
「そうなんです。……わたし、生まれたときから、自分がいろんな面で能力が
劣っているってことを知ってました。わたしには、原子力発電所や、国連の月
面基地で勇敢に働いている仲間がいます。いっぽうで掃除や、洗濯や、お料理
がとても得意な仲間もいます。なのに、わたしは、なんにもできない。生まれ
た瞬間にそれがわかったんです」
「……生まれた瞬間?」
「はい、ある時、『ぱちん』と指を鳴らす音がしたんです。……そしたら、わ
たしはわたしであることに気がついて……。見回すと、研究員のサトウさんや
キタジマさんがいて、『マルチ、起きなさい。おまえは生まれたんだよ』って
おっしゃいました」
 不思議だった。ロボットってそんなふうに生まれるんだ、と思った。ぼくの
脳裏に、ベッドの上で、大きな目で周りを見回す、マルチの姿が浮かんだ。周
りには天使ならぬ、白衣を着た研究員たちが立っているんだ。
 パチン。
 ぼくは指をならした。
 マルチは、すこし飛び上がって、立ち止まった。大きな目でぼくを見上げて
いた。
「ご、ごめん、驚かしちゃったかな?」
「いえ、そっくりな音がしたもので」彼女は再び、てくてくと歩き始める。歩
幅が狭いので、そうしないとぼくと並んで歩けないのだ。

「それから?」ぼくは促した。
「え?……ああ、生まれたばかりのわたしは、自分の能力がすぐに分かりまし
た。……だから、研究員の皆さんに、『どうして、わたしはこんなふうなんで
しょうか?……どうしてもっと役にたつように作られていないんでしょう
か?』って、きいたんです」
「……」
「そしたら、みんなにこにこして、わたしを見てるんです。だれも、わたしが
どうして生まれたのか教えてくれませんでした」

 春の夕暮れだった。ぼくたちは、ある雑貨屋の前の歩道を歩いていた。
 その雑貨屋の前で、つまらないおもちゃが欲しいと言って、だだをこねて叱
られた覚えがあった。ぼくは泣き、なんで子供に生まれてきたんだろう、と
思ったことを覚えていた。
 その雑貨屋を通り過ぎると、大きな交差点があって、向こうが商店街へと続
く道だった。
 中学生のとき、死のう、と思った。ノートのすみに、遺書まで書いた。
 どうして、生まれて来たんだろう。
 そう思った。
 でも、ぼくの問いに答えてくれる人はいなかった。
 でも、マルチには、訊けば答えてくれる人がいるんだ。そう思った。

「あるとき『会長』が来られました。だから、わたしは思いきって、きいてみ
たんです。『どうしてですか?』って」
「どう答えたんだい?」
「ただ、にっこりとほほえんで、わたしの頭をなでてくれたんです。『マル
チ、おまえはいい子だ。おまえはそのままでいいんだよ』って」
 そういって、マルチは黙ってしまった。ぼくはマルチの細い横顔を見下ろし
ていた。頬がわずかに赤らんでいた。
 またもや、ぼくの心のどこかが、かすかにうずいた。

 アーケードが付いている商店街が、大型のスーパーと合流する角に、来栖川
エレクトロニクスの営業所があった。
 ぼくとマルチがそこに着いたとき、いろんな学校の制服の生徒たちが何人か
立ってた。みんな、耳のところがマルチみたいだった。すると彼らはみなロ
ボットなんだ。
 いろんなタイプの女の子や男の子たちだった。つんとすましたタイプ、どこ
か不良っぽいタイプ、まじめそうなタイプ、おとなしそうなタイプ。ぼくは、
マルチとそっくりの女の子が並んでいるんじゃないか、と思っていたのに。な
かば覚悟していたんだけど。
 道行く人がみな、この変わった集団にいちべつをくれていたが、ロボットだ
と気がついた人は何人いるだろう?彼らはみな人間そっくりだったからだ。

「ありがとうございました。あとみんなでバスに乗るんです」マルチはぼくに
向かって頭をさげた。
「いや、いいんだよ。……じゃ、またあした」
「はい!……あの」
「え?」
「……あの、すごく楽しかったです」
 そういって、マルチは微笑んだのだ。すばらしい笑顔だった。
 いまでも、ぼくは、春の夕暮れ、暖かなオレンジ色の光の中で、微笑んでい
るマルチを顔を思い出す。それは、暗い井戸の上から、明るく輝いているよう
な気がする。
 
 ぼくは、来栖川エレクトロニクスのバスとすれ違った。
 それは、白い電気バスで、ボディのわきに、「あなたにほほえみを」という
キャッチフレーズが書かれていた。
 マルチや、ほかのロボットたちはあれに乗って工場に帰るんだ、ぼくは思っ
た。


 ぼくは次の日も、1年の教室に行った。マルチはやっぱりひとりぼっちで掃
除をさせられていた。そして、集合場所まで送っていった。
 次の日もそうした。次の日も。
 並んで歩きながら、ぼくはマルチにいろんな事を話した。高校のこと、中学
生のころのこと。小学校時代。幼稚園のこと。好きなこと、嫌いなこと。
 マルチは大きな目をくるくるさせながら、面白そうにぼくの話を聞いてい
た。
「ねえ、こんな話、面白い?」ぼくは言った。
「面白いです!すごく面白いです!もっと聞きたいです」マルチは答えた。

 次の日は学校は休みだった。さびしかった。ソファに横になって、居間に掃
除機をかけるマリアを眺めていた。

 次の日、ぼくが一年の教室に言ったとき、時間が少し早めだったのか、何人
かの一年生が残っていた。
「おめー、そんなにトロかったら、解体されちまうぞ」ある男子が、あざける
ようにマルチに言った。
「はい、すみません」マルチの声が聞こえた。
「ばーか、けなされてるのに、へらへら笑うなよ。なんかムカつくんだよな」
「はい、すみません」
「……おまえ、おれら人間さまを、なめてんのか?」
「そんなことないです!……すみません」
「それが気にいらねえってんだよ!」
「すみません」
「やめなよ、橋本。ロボットにあつくなって、かっこわるいよ」女子の声がし
た。
「だって、こいつ……」

 その男子が、マルチの胸ぐらを掴むのが見えた。ぼくは足早に近づいた。こ
ういうやつらは、最初が肝心なのだ。ぼくは、軽く息を吸いこんだ。
「おまえら!なにやってるんだ!」
 ぼくは、せいいっぱい、すごんでみせたのだ。
「なんだよ、おまえ」マルチを掴んでいる男子が言った。
「やばいよ、上級生だよ」その男子の横にいた女子がささやくように言う。
「え?」
「ほら、『あの』藤田よ」
「あ、ああ」そいつは手を放した。
「さっさと帰れ」ぼくは言った。

 下級生たちが、ぶつくさ言いながら帰ったあと、ぼくはマルチを見た。
 ひどいありさまだった。
 制服に、チョークの粉がいっぱい付いていた。わざと目立ちやすいピンク色
のチョークで、マルチの白いセーラー服に落書きをしたんだ、ぼくは思った。
おまけに、髪の毛には白いチョークの粉が、べったりと付いていた。黒板消し
で頭を叩いたのだ。
「……フジタさん、……恐いです。……すごく、恐い顔をしてます」マルチは
いじめられた事よりも、その方が恐そうに言った。
「……ごめん。それより、ひどい格好だ」そう答えるのが、やっとだった。怒
りでどうかなりそうだった。でも、ぼくは落ち着いたふりをして、マルチの制
服の袖をパンパンとはたいた。
「あ、すみません、自分でします」
「背中にも付いてる。後ろを向いてごらん」ぼくは、彼女の背中の粉を払い落
とそうと、後ろを向かせた。
 背中に、細長い紙が貼ってあった。
 それにはこう書かれていた。
「処分価格 19,800円」
 どこからパクって来たのか、電気釜に貼ってあるような値札だった。よく見
ると、その値札の隅に「藤田様 売約済」と書かれていた。
 ぼくは、背中のチョークの粉をはらいのけるふりをして、マルチに気付かれ
ぬようにその紙を取り、片手で丸めてポケットにつっこんだ。
「もう、だいじょうぶだ」ぼくの声は震えていなかっただろうか?それだけが
気になった。
「すみません。ありがとうございます」
「髪にも付いてるよ。下を向いて」
「はい」
 ぼくは、初めてマルチの髪にさわった。意外にやわらかい髪だった。ぼくは
廊下の上に、チョークの白い粉を落とした。
「床、掃除しなきゃ」マルチは言った。
「いっしょにやろう」ぼくは言った。

 弱いものいじめをする奴に、「いじめちゃいけない」と言葉で言っても、
しょうがない。泥水が必ず低い方向に流れていくように、やつらは自分より弱
いものにひきよせられていく。ぼくは、その日から暇を見つけてはマルチの教
室の前を通った。にらみを利かせるためだった。
 一年ボーズたちは、ぼくの姿を見ると、何事かひそひそとささやきあうよう
になったが、そんなことはどうでもよかった。
 
 その日も、授業が終わると、ぼくは早めにマルチのいる教室に行った。そし
て、掃除を手伝った。掃除は、ぜんぜん苦にならなかった。むしろ、二人で一
緒に何かするのは、楽しかった。

 掃除道具を片付けて、外に出ようとしたときだった。
「……こーんなことに、なってるとはよ」
 教室の出口のところに、鮎川丈二が立っていた。顔をしかめて、腕を組み、
ぼくをにらみつけていた。
「関係ないだろ」ぼくは言った。
「ああ、関係ないとも。おまえが、そのロボットと仲良く掃除をしようが、そ
いつがいじめられないように教室の前を行ったり来たりするのは、自由だぜ」
「……だったらいいじゃないか」
「よかねーよ!」鮎川は大声を出した。ぼくの背後でマルチがびくっとする気
配がした。
「……おまえ、ガッコでなんて言われてるのか、知ってるのか?……いった
い、どういうつもりなんだよ?」
 ぼくは、彼を無視して、マルチの手を引いて外に出ようとした。
「質問に答えろ。おれはシカトされるのが、一番嫌いなんだ。どういうつもり
なんだよ?……志保も、あかりも、おまえを避けてるの、気がついたろ?……
女子はみんなおまえのことを」
「言うな!」ぼくは言った。マルチの前で言われたくなかったのだ。
 鮎川は腕を組むのをやめて、両手をポケットにつっこみ、ぼくの目の前まで
歩いてきた。
「……なあ、藤田……目、さませよ。そいつは、ロボットなんだ。それもしょ
ぼいガキみたいな格好したやつなんだ。そいつと仲良くなって、どうしようっ
てんだ?」
「言うな」
「言うよ。……カノジョがほしかったら、人間の女にしろ。あかりといい雰囲
気だったじゃないか。……よりにもよってロボットと」
「おまえに言われたくないよ」ぼくは言った。
「ああ、そうだよ。おまえに、あのビデオ見せたの後悔してるよ。おまえが本
気にするとは思わなかった。そんなやつとエッチするくらいならマスでもかく
ほうがましだろ!」
 気がつくとぼくは右手を出して、鮎川の鼻のあたりを殴っていた。
「ああ!」後ろでマルチが叫ぶのが聞こえた。鮎川はよろめいたが、すぐに体
勢をたてなおした。その時、ぼくは鮎川が小学校のころから空手を習っていた
のを思いだした。
「ひとりでいい子ぶってるんじゃねえ!」鮎川の声と同時に、回し蹴りが飛ん
できた。

 がしん、と大きな音がしたところで、記憶がぷつんと切れた。

 次に気がついた時には、マルチがぼくの顔を覗きこんでいた。まっさおな顔
色で、ふるえていた。
「気がついたんですね!……ああ、よかった。……わたし、わたし」
「長いこと倒れていたのか?」頭が痛かった。
「いえ、ほんの1分ほどです」マルチはまだふるえていた。
「……鮎川は?」
「あの人なら、ひどくあわてて、『すまねえすまねえ』って……。『妙ないび
きみたいなのかき始めたら、保健の先生呼びに行け』ってわたしに言って」
 ぼくは、頭をあげた。ずきん、と痛んだ。
 鮎川の姿は無かった。

「大丈夫ですか?」
「……大丈夫、身体だけは頑丈にできてるんだ」ぼくは、上半身を起こして座
り込んでいた。
「ほんとに大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。……帰ろう」
「……」マルチは、ぼくをじっと見つめていた。
「どうした?」
「あの人が言ってたのホントですか?」と言った。
 ぼくはうしろめたい気持になって、「そんなつもりはないよ」と答えた。
「……クラスの人たちが、わたしに変なこと、言ってました。あなたの悪口
だったんですね?」
「……そのことか。いいじゃないか。言いたいやつには言わせておけば」ぼく
は立ち上がった。心のどこかで安堵していたかもしれない。
「だめです!わたしのせいだったら……その」
「ぼくは、自分がしたいから、こうしてるんだ。……きみが迷惑だったらやめ
るよ」
「……そんなことないです!……すごく、すごくうれしいんです。でもそのせ
いで」
「だったら、いいじゃないか。帰ろう。集合場所まで送ってくよ」
「あ」

 ぼくは、マルチの手を握って引っぱるようにして、学校を後にした。
「ほら、急がないとみんな待ってるよ」ぼくは言った。
「おねがいです。わたし、すごくうれしいんです。でも、でも」
 その時、ぼくは自分の気持ちに気がついたのだ。はっきりと。でも、ぼくは
ぼくを疑っていた。その気持は本物だろうか、と。心の中で鮎川がぼくをな
じっていた。

 ぼくたちは、いつもの道を足早に歩いた。マルチの横顔を見た。下を向き、
悩んでいるように見えた。ぼくの事を心配してくれているように見えた。
「……ぼくが守ってやる」ぼくは思った。
「え?」マルチは顔を上げて、ぼくを見た。うっすらと涙をためていたかのよ
うに、瞳がきらきらと光っていた。
「ぼくは、きみを守る。……学校に来ている間、ぼくはだれにも君をいじめさ
せない」

 マルチの小さな顔が、苦しそうに、くしゃくしゃにゆがんだ。

 次の日。
 ぼくは、遅刻寸前で教室に入った。
 クラス全員が、ぴたりと話を止めてぼくを見た。視線がぼくと黒板の両方を
交互に見ている事に気がついた。
 
 黒板に白いチョークで、おなじみの相合い傘が描かれていた。傘のしたの左
側に「藤田」と書かれていた。右側に、まるで大昔のマンガにでてくるよう
な、四角い、へたくそなロボットの絵が描かれていた。
 
 ぼくは席に着いた。腹も立たなかった。むしろ、朝早くからそんなものを描
いて面白がる人間というものが、おかしかったのだ。

 学校へ来るのはぼくより遅い、鮎川がその時教室に入って来た。そして黒板
を見た。
 何人かの、鮎川と親しい男子がにやにやしていた。
「……ったく、小学生みたいなマネ、するんじゃねーよ」鮎川は黒板消しを手
にとって、その絵をさっさと消してしまった。

 何日か経つと、ぼくは慣れてしまった。『うしろ指』などというものは、気
にしなければ何の害もないように思えた。
 ぼくは判で押したように、マルチと一緒に掃除をし、一緒に帰った。
 マルチもぼくを説得するのをあきらめたらしい。最初の頃のように、二人で
いろんな話をしながら、この街から数十キロ離れた工場へとマルチたちを乗せ
て帰るバスの待つ、集合場所まで歩いた。
 ぼくの他愛のない冗談に、笑うようになった。かわいかった。マルチの笑顔
は子どもみたいだった。

 マルチは子どものようなものかもしれない。ついこの間生まれたばかりの赤
ん坊のようなものだ。プログラム、なんて考えたくなかったけど、生まれて、
いや生まれる前からいろんな事を知っていたけど、現実にその知識の中で生き
てきたわけじゃないんだ。

 ぼくはよく、虫の話をした。マルチが喜ぶからだ。スズムシ、カマキリ、ゾ
ウリムシ、セミ。いろんな大きさ、いろんな色の虫。
 ちょっとだけ寄り道をして公園に行き、テントウムシを見せてやったときの
喜びようといったらなかった。
「ええーーー!……生きてるんですか!?」大きな目が輝いていた。
「そうだよ。ほら。歩いてるじゃないか」
 マルチは、木の枝に止まっている小さなテントウムシを熱心に見ていた。
「ね。言ったとおりの水玉模様だろ?」
「……はい……」
 マルチはゆっくりとうなずいた。
 ぼくは、目の前の、小柄な女の子を見つめていた。そうだ。そのころ、ぼく
はマルチをロボットだとは思っていなかった。ずいぶん世間知らずの女の子だ
と思っていた。
「今度、もっと虫のいっぱいいるところへ行こう」ぼくは言った。
「え?」
「早めに学校を出ればいいのさ。バスに乗って10分くらいのところに植物園
があるんだ。そこに行けばもっといるよ」
「……でも集合時間に遅刻したら叱られます」
「なに、ちょっと見て回って、すぐにバスに乗って帰ってくれば大丈夫だよ。
怒られたらぼくが謝るから」
「そんな!そんなこといいです」
「こんど行く?」
「……はい」

 ぼくは、幸せだったのかもしれない。家に帰ってマリアを見ても、なんにも
思わなくなった。マルチとマリアは違うのだ。というより、そんなことは意識
に上らなくなっていた。
 ぼくは、ベッドに寝そべって、マルチをいろんなところに連れていってやろ
うと思った。学校から近くでマルチの喜びそうな場所をタウンマップで調べた
りした。マルチの喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。
 そのうち、みんなぼくとマルチの噂にも飽きるだろう。
 そしたら、なんの問題もない。
 なんの、問題もない。


 もちろん、ぼくは間違っていた。
 その時には、ぼくは、断崖の淵に立っていたのだ。

 目の前に深淵はあった。ただぼくは、見えないふりをしていたんだ。




              [Ubiquity](後編に続く)

inserted by FC2 system