錬金術師ゲンドウ


 第11話「闇の王子(後編)」


  日本は平和だった。
 意外なほど平和だった。日本から遥か離れたアメリカはアリゾナ州の巨大な
要塞のなかで、アメリカ大陸担当の『ウィザード』、『ウィズ・ブリティッシ
ュ』が落胆するほど平和だったと言っていい。彼にしても『闇の王子』が、巨
大な、頭が三つある竜に変身して暴れ回ってほしいと思っていたわけではない
が、全世界のすべての魔女、魔法使いへの至上命令である『能動的介入命令』
まで考慮した自分はいったいなんだったんだろう、と思わずにはいられなかっ
た。
 日本上空の魔法衛星は機能停止していた。しかし、日本からの情報が途絶え
てしまったわけではない。国際電話はちゃんとかかるし、電波だって届く。そ
して観光や経済活動を通して、多くの外国人が日本を訪れていたが、なにも変
わった様子はないのだった。
 赤木博士からのメールも「変わったことはない」という内容だった。『闇の
王子』に接触し、警告まで受けた彼女にそれ以上を要求するのは酷だった。
 彼らはその方法をあきらめた。
 もっとも、『フォート・ローエル』の主任研究員であるウォズニアックは、
妙にこの美人科学者に入れ込んでしまい、毎日、山のようにメールを送りつけ
ているらしいのだが。
「ぼくのカンもあてにはならないってことか」金髪を長髪にし、口ひげを生や
した、若きウィザードは思った。あの時、ホワイトハウスに奴が現れた瞬間、
彼の脳裏に、まるでこの世の終わりを告げるような、まがまがしい巨大な黒い
球体の影が浮かんだのだが、あれは、未来のヴィジョンではなく、たんなる錯
覚だったのか。彼は椅子に座り込む。

 ところが、まったく変化が無かったわけではない。
 唐突だが、ここで、「○山商事」に勤める、梶山ダイキチさん(41才)を
紹介したいと思う。
 梶山さんは、『闇の王子』が町に出現する三日前、会社に出社したとき、と
んでもないものを見つけた。それは「辞令」と書かれた一枚の紙切れで、社内
の掲示板に張られているのだった。
「以下のもの本日付けで東京本社総務部勤務を命ずる」
 その下には自分の名。
 彼は飛び上がった。大変な栄転なのであった。彼はあわてふためき、課長に
確認した。「なんでかはわからんけど、本社から名指しだとよ。…それにして
も、お前が俺より先に帰るか?」課長は恨めしげに言う。
 そのとおりである。梶山さんは、自他共に認めるうだつの上がらない社員の
代表格で、リストラがあればまっさきに対象になるだろうと噂されていたほど
の社員なのだ。
 本来なら単身赴任か、遠いが新幹線で通勤するという手もあった。しかし、
梶山さんたちは東京に引っ越すことにした。信じられないようないいマンショ
ンが信じられないような値段で売りに出ているのを見つけたのだ。おまけに早
く契約しないと、すぐにも売れそうだと言う。中学生の一人娘が、どうしても
都会に住みたいと言い出したのも手伝って、彼ら一家はさっさと東京に行った。

 それだけである。

 あと、変化といえば、それから三日後、町でただ一人の錬金術師の家の息子
が通う中学校に、転校生が一人やってきた。
 その少年は、渚カヲルといった。最初に彼が教室に入ってきた時に、ざわめ
きが起きた。少女と見間違えるような、小柄で色白な美少年だったからだ。
「渚カヲルといいます。父の仕事の関係で、この町に越してきました」
 声もまたよかった。澄み切った風のような、かすかなゆらぎのある、きれい
な声だった。
 初老の担任教師は、女子たちのひそひそ話で教室がざわめいているのを気に
もせず、ちょうど梶山の席が空いてるから、あそこに座れ、と言った。
 その席は偶然にも昨日東京の公立中学校に転校した、梶山メグミという女子
の座っていた席だった。その中学校では、男子女子と入れ子に並んでいるので、
その転校生のところだけは男子が並んで座ることになる。
 転校生はすたすたとその席に向かって歩いている。それを、中学生にして上
級魔女であるアスカという少女が、にらみつけるように見ている。
 碇シンジは、男前だなあ、と、渚という少年の顔を見ていた。一瞬、転校生
と目が合った。転校生はほほえんだ。
 変なやつ。シンジは思った。
 転校生はその席についた。そして隣に座っている男子生徒に声をかける。
「よろしくね」彼はくったくのない笑顔をみせる。
「あ、ああ。こっちこそよろしく」相田ケンスケは言った。

 またたくまに1週間が過ぎた。
 渚カヲルは、クラスの人気者になっていた。彼は社交的で、話題が豊富で、
なにより明るい笑顔が魅力的な少年だった。勉強や運動はそれほどでもないこ
とはすぐにクラス全員にわかったけれど、転校生の人気急上昇の妨げにはなら
なかった。とくに運動は苦手らしく、体育の授業の時に、もともと鈍いシンジ
やケンスケと、仲良く並んで取り残されるという光景がしばしば見られた。
「ぼく、すごい運動オンチなんだよ」カヲルは隣に立っている、相田ケンスケ
に話しかける。
「あーあ、体育の授業なんかなければいいのになあ、そう思わない?」カヲル
はケンスケに言う。
「うん。ほんと、気が重いよ」ケンスケは答える。
 シンジは二人の会話に加わらず、考え事をしていた。今朝の魔法の「朝練」
でおぼえた事を懸命に反芻していたのだ。

 シンジは、変わった。ほんの少し。母親の一件(第10話参照)いらい、ア
スカに起こされなくても、ちゃんと着替えて庭で待っているようになった。ア
スカもアスカで以前より厳しいメニューをシンジに課しているのだが、シンジ
は、それなりに懸命にこなしていた。
 人にものを教えるのは面白い。ことにその生徒が一生懸命で、わずかながら
でも伸びているのわかるようなときは。
 アスカもまた、シンジを指導するのが面白く思えてきた。わたしも、小学生
のころはこんなふうだったのかな、彼女は思う。だんだんと伸びてゆく感じ。
魔法という途方もない力を手にしつつあるという高揚感。

 シンジは、起きている時間の大部分をアスカと過ごしていると言ってよかっ
た。朝、河川敷の公園。学校の休み時間は、一緒に魔法の教本を読み、お昼休
みもやっぱり並んで弁当を食べながら晩の練習の予習をし、学校が終わると一
緒に帰り、夕食のあと河川敷の公園で練習。
 ここまでくると、全校生徒の間に、まるで枯れ草に火がついたように「ふた
りはデキてる」という、噂と言うよりたんに事実の確認といったような認識が
広まった。
 アスカに群がるように想いを寄せていた男子たちは、だんだんと数が減って
いった。そして、アスカという才色兼備の、おまけに上級魔女であるという少
女に対する評価が微妙に変化していった。
 ワタシはこれをイソップ物語にちなんで、『あのブドウはすっぱいにちがい
ない法則』と命名しよう。手の届かない果実は「酸っぱいに違いない」と思い
こみたがる人間の性(さが)とでもいえようか。
 アスカは確かに可愛いけれど、本当はキツイ女で、シンジぐらいボーっとし
てる男でないとつきあいきれないんだ、男子の間にそんな定評ができたのであ
る。
 面白いことに、あの美少年の転校生が碇シンジに話しかけようとすると、な
ぜかアスカがすっと二人の少年の間に割って入り、用事があると言ってはどこ
かへ引っ張って行くのだ。そして話する事と言えば、別に急ぎの用事とは思え
ないことばかり。けれど彼は師匠たるアスカに絶対服従を誓っていたから、文
句も言わずに、うんうんとうなずきながらその話を聞くのだった。
 しかし、めざとい思春期の女の子たちがこれに気づかないはずはなく、ある
とき、女子の中でもちょっと意地悪で知られた子が、アスカにこう言った。
「いくらカヲルくんが美形だからって、男の子にまでヤキモチやかなくても大
丈夫よ、シンジくんの場合」
 もちろん言外には『シンジはあんたのもんよ=シンジなんて子にちょっかい
を出す子はいない』というイヤミが込められていた。
 アスカは真っ赤になって、いや恥ずかしがってではなく、怒りで真っ赤にな
って、「なんてこというのよ!あんた、ばかぁ」と叫んだ。そのあまりの勢い
にその女子はたじろいで、すごすごと引き下がったが、「図星だったからよ」
という話が女子にも男子にも広まる結果となった。

 しかし、どんな事にも例外はあって、相田ケンスケがそうだった。
 彼だけは、あいも変わらずこの少女に想いを寄せていた。日曜日の朝、犬の
散歩途中に偶然通りかかったふりをして河川敷の公園へ行き、アスカに話しか
けるのは、ほとんど習慣になっていた。おかげで散歩嫌いだった彼の犬、エン
タープライズは、足腰の丈夫な犬になってしまった。
 去年のクリスマスみたいに、Wデートできないかなあ。ケンスケは思う。
 けれど肝心な、トウジとヒカリの二人は、あれ以来ちょくちょく二人っきり
で会っているらしく、いまさらWデートという感じでもないように見えた。
 もちろん、自分一人で告白したり、デートに誘ったりする勇気はなかった。
 いつもシンジと一緒にいる、亜麻色の髪の、美しい少女を、ずーっと遠くか
ら眺めているのが関の山。

 けれど最近うれしいことがひとつあった。親友が出来たのだ。あの転校生だ
った。容姿も、女子生徒の人気もまるで違う二人だが、成績と運動オンチな点、
そして隣に座っているという点が、二人を結び付けた。
 彼らはちょくちょく一緒に下校し、ゲーセンに行ったり、アニメ映画を見に
行ったりした。べつにそれで箔がつくというわけでもないけれど、この新しい、
学校で人気のある親友は彼のプライドをくすぐった。直情型で、人と衝突する
ことの多いトウジより、カヲルと仲良くしているほうが、なんだか自分が一緒
に人気者になったような気がして、楽しかった。
 ケンスケはカヲルのいろんなことを知った。両親が小さな貿易会社を経営し
ていること。その都合で、家を留守にすることが多いこと。そしてこの町は東
京近郊に比べると地価が安かったから、こちらに引っ越すことに決めたこと。
前の学校では、ちょっといじめられていて、転校したかったこと。
「ほんと、転校しきてよかったよ。みんな仲良くしてくれるし、それに君と知
り合えたもんね」あるときカヲルがそういった。
「そ、そう。…ぼくもよかったよ」ケンスケはほとんど有頂天になりながら思
った。

「こんど家に遊びに行ってもいいかな?」そう言ったのはケンスケの方からだ
った。
「うん。いいけど、よければ君の家に遊びにいきたいな」カヲルは言った。
 人のいいケンスケは、カヲルくんは両親が留守がちなので「家庭の雰囲気」
に飢えているのだと思った。断る理由なぞどこにもない。
「いいよ。じゃ、今度の金曜日、うちに来る?」ケンスケは言った。
「ありがとう、ケンスケくん。言葉では言えないほど感謝してるよ」カヲルは
大げさな礼を言った。
 ケンスケは照れた。

 ここに教訓がひとつある。大昔のことわざだ。どれくらい古いかは、「もと
の文章は粘土板に『楔形文字』で刻まれていた」と言えば、おおよその見当は
つくだろう。…それはこうだ。
『悪魔を家に招いてはいけない』
 深い意味はない。そのまんまである。

 さて、金曜日がやってきた。
 カヲルは、真新しいデイパックを抱えていた。
「どうしたの、それ」とケンスケは聞きながら、ひょっとしてウチに泊まるつ
もりで来るんじゃ?と思った。
「あ。これ。おみやげだよ。中身はあとで渡してあげるから」カヲルは言った。
 二人は中学校からあるいて15分ほどの、ケンスケの家まで歩いていった。
それは、市内のややはずれにある造成地で、似たようなプレハブの家が建ち並
ぶ一角だった。
「ここだよ」ケンスケはこれといって特徴のない家の前で言った。
「ふーん」カヲルは言った。
 ケンスケがドアを開ける。お座敷犬のエンタープライズが出迎えに奥から走
ってくる。いつもならケンスケに飛びつき、じゃれるのだが、今日はなぜか様
子が違う。
 廊下で立ち止まり、見知らぬ少年を睨みつけて、歯を剥きだしてうなりだし
た。足を踏ん張り、いつでも飛びかかって噛みつけるような体勢。
「おいおい、お客さんだよ、エンプラ」ケンスケは言った。
「ぼくが嫌いみたいだね」カヲルが笑いながら言う。
「おかしいな、いつもは人見知りなんかしないのに」

 カヲルに悪い印象を持ったのは、この犬だけだった。ケンスケの母も、夕暮
れに家に帰ってきた父も、なんて礼儀正しいおとなしそうな子だろう、と思っ
た。あの関西弁の、乱暴そうな子より、もっと早くこんな子のほうとつきあっ
てくれればよかったのに。ケンスケとそっくりな顔をした母親がそう思ったほ
どだった。

 二人はケンスケの勉強部屋にいた
「ちらかってるけど」ケンスケは入るときにそう言ったけれど、きちんと片づ
いていた。6畳ほどの洋室。収納式ベッド。勉強机、本棚。驚くのは天井から
ぶら下がっている飛行機の模型だった。『世界大戦』当時の複葉機から、最新
のジェット機。旅客機、戦闘機、爆撃機。
 壁にはテレビアニメのキャラクターのポスター。本棚いっぱいに、中学生に
しては多い一般の本が並んでいる。それらの本も、海軍年鑑やら「世界大戦史」
やらといった本が多い。その本棚の上には、巨大な戦艦の模型がでんと鎮座し
ている。
 カヲルは、感嘆の声をあげながら、ひとつひとつ面白そうに丹念に見ていっ
た。
「すごいね、ケンスケくん。まさに文化の極みだね」カヲルは真面目に言って
いるのである。
「そうかい?」文化の極みなんて言われたの初めてだ、ケンスケは思った。
「うん。…ああ。兵器ってなんて美しいんだろう!…そう思うよね?より早く、
より高く、より強くあるためだけに作られているんだ」
「そうだね。無駄のないデザインだから」
「そして、より多くの人を殺せるように…。ぼくは『世界大戦』のころに生ま
れてきたかったなあ」それはきっと素晴らしい見物だったにちがいない、とい
いたげに目を輝かせる友人の顔を見ながら、カヲルくんてきれいな顔をして、
ひょっとしてアブナイやつなのかも、とケンスケは思った。

「『西暦7000年人類消滅の日』?」カヲルは今度は本棚から1冊の本を取
り出す。その表紙には、十字架に磔になったキリストが炎に包まれている地球
を見下ろしている絵が描かれている。
「あ。それ。西暦7000年に人類が悪魔との契約でみんな地獄に堕ちるって
いう話」ケンスケは言う。
「小説?」
「いや、『予言』っていうのかな?19世紀の悪魔との契約で西暦7000年
に人類は悪魔に魂を捧げなければならないっていうことがね、すでに『ヨハネ
の黙示録』に予言されてるって」
「ふーん」カヲルはぱらぱらとページをめくる。
「ばかばかしい」カヲルは言った。
「なんで」少し気分を害したケンスケは言う。
「きみは自分の祖先がアダムで、土くれから創造されたって信じてるの?」
「いいや。人間は猿から進化したと思ってるよ」
「この世の始まりは信じていないのに、この世の終わりは信じるの?」
「そ、そういえば、そうだけど」
「それに、いまから5000年後にきみは生きていないんだから、こんな予言
なんてどうだっていいじゃないか」カヲルはあの明るい笑顔を見せながら言う。
「それはそうだけど…。面白いじゃないか。こういうの。ほら、彗星が地球に
激突したり、大洪水が起きたりっていうの」
「そうかい?…なんだったら、そういう事起こしてやろうか?…いまのは冗談」
カヲルは言って別の本を手に取る。
「『怪物たちの夜』?」カヲルは1冊の本を取る。表紙にはバケモノたちが逃
げまどう人間たちを襲っている絵。それも首を引きちぎったり、内臓を引っ張
り出したりという残酷な絵。
「これは小説?」
「知らないの?いまものすごいベストセラーになってるやつだ。人類は創造さ
れたときにもともと2種類いて、片方が普通の人間だとすると、片方は変身で
きる種だという設定なんだ。ところが何十万年もの間に変身種はその能力を忘
れてしまった。それが『来訪』によって目覚めて、万物の霊長の座をかけて普
通の種と殺し合いを始めるっていう筋だよ」
「へえー。それはすごいね」カヲルは本をパラパラとめくる。
「内容もすごいんだよ。すげー迫力で。…・それに、ここだけの話だけどさ、
この小説の設定てさ、真実なんだって。そんな噂があるんだ」

 夕暮れのオレンジ色の光が、ケンスケの勉強部屋の天井からぶら下がった無
数の飛行機の複雑な影を作った。
 二人の少年は間近に立って、人類の恐るべき秘密について話していた。
「だから、本当の事って噂があるのさ。人類の中に人類とは違う種が紛れこん
でいるんだ。そいつらがある事件をきっかけに人間を襲いだすっていう話なん
だ」ケンスケは言う。
「なかなか楽しい描写があるみたいだね」カヲルはある章を開いてみせた。
 それは、獣人類(その小説の造語)との全面的な戦闘が世界中に広まった後、
ある国の軍隊が「獣人類が何割か紛れ込んでいる」という情報を受けて、ある
小さな村を攻撃する場面だった。軍はまず焼夷弾で村を焼き払い、落下傘部隊
が生き残った村人を徹底的に殲滅する作戦だった。幼い子供を抱いた母親が隠
れた瓦礫の山に手榴弾を放り込み、焼け残った教会に逃げ込んだ村人を火炎放
射器で焼き払い、手を上げて出てくる老人の眉間に弾丸をたたき込む。
「た、楽しいかな…?」ケンスケは戸惑った。
「だって、その情報は『デマ』だった、てここに書いてあるよ。すばらしい皮
肉じゃないか?」
「すばらしいかな…?」
「でも、全体として、この小説は『クズ』だね。性格描写は平板、登場人物は
紙人形のようだけど、トラウマ(精神的外傷)だけは一人前、科学的考察はデ
タラメだし文章は拙いけど、兵器の雑学的知識と残酷描写だけは念入りだ」
「読んだことあるの?」ケンスケは顔をしかめて言う。
「いまちらっと読んでわかった。…でも面白いよ。情報のあふれかえったこの
社会では、何年かにいっぺん、バランスを欠いた人格を持つ人間が、芸術とし
てバランスを欠いた作品を発表し、バランスを欠いた事それ自体をもてはやさ
れることがある。この血まみれの小説がそうだ」カヲルは笑いながら言う。
「そんなふうに言わなくても」ケンスケは抗議するように言う。あんなパラパ
ラとめくっただけでそこまでわかるもんか!
「ごめん、ごめん。でもこの作者の設定は正しいかもね。おそらくこの作者は
何らかの方法で、隠された真実を知ってしまったんだ」
「そう思うだろ!?…母さんもそうじゃないか、って言ってるんだ」ケンスケ
は気を取り直したように言う。
「でも最初から二つの種に別れてたって事はないよ。いや、ないと思う。もと
もと人間にはそんな要素があるのさ。魔界の力を利用して魔法を使ったり、変
身したりする能力は、数万年以上前から持っているといえるんだ」
「ほんと?」
「うん。昔、人間は実在する神と、魔界から来た悪魔とともに暮らしていたん
だよ」
「…神?神様も実在してたの?」
「そうさ、『来訪』以降、さっぱり人気が無くなった神が、人間とともに暮ら
していた最後の時代だった。人間がいったん魔法や変身能力を失うとともに神
は去った。それ以降に成立した神話は、みんなその時代のグロテスクなパロデ
ィに過ぎない。旧約聖書はその最たるものだよ。各氏族の言い伝えを除けば、
自分たちの都合のいいようにねじ曲げた、他の民族の神話の寄せ集めと言って
いい」
「ふーん、詳しいんだね、カヲルくん」ケンスケは感心した。ぼくは底知れな
いやつと友達になったのかもしれない。

 そのときケンスケの母親が、夕食の準備が出来たと告げに来た。
「よかったらカヲルくんも食べてかえらない?」ケンスケとそっくりの母親は
言うのだった。
 カヲルは相田家の団欒の話題を独占した。カヲルは明るく礼儀正しい少年と
して完璧に振る舞った。食事が済むと、まるで小学生の頃のように、両親とケ
ンスケと、そして客の渚カヲルと4人でトランプをした。普段は滅多に父親と
口をきかないケンスケは別人のように、父親に冗談を言ったり、父親の冗談に
笑ったりした。
 カヲルは驚くほどたくさんのトランプのゲームを知っており、相田家の人々
はそれに夢中になった。
 気がつくとなんと10時を過ぎていた。帰るそぶりを見せたカヲルに、遅い
から泊まっていきなさいと声をかけたのは、母親だった。
「そうしなよ」ケンスケは言った。この、変わっているけど魅力的な少年と同
じ屋根の下で眠るのかと思うと、修学旅行よりもわくわくするような気持ちが
した。

 真っ白い敷き布団が二つ置かれただけで、見慣れた部屋が、まるで違った部
屋に見えた。カヲルくんはお風呂に入っている。とんとんとん、階段を上る音
がする。
「やあ、どう?ぴったりだろ?」ドアを開けて入ってきたカヲルは、ケンスケ
の夏物のパジャマを着ているのだった。野球のユニフォームを模した淡いブル
ーの半袖のパジャマだった。ぼくが着ると少年野球チームの補欠って感じだけ
ど、カヲルくんは、なんだか雑誌の表紙みたいだ。ケンスケは思った。カヲル
くんは、ほんとうにきれいな顔をしている。風呂上がりで、頬がピンク色に染
まり、髪が濡れていて…。
「なに見てるの?」
「あ、いやなんでもないよ」ケンスケは目をそらす。

 あたたかい闇。
 カーテンをしていない窓から、月の光が微かに差し込んでいる。今夜は満月
だった。暗がりで見上げると、天井からぶら下がった無数の飛行機は、まるで
コウモリたちのようだ。
 少年たちは枕をならべて横になっていた。
 静かだった。ケンスケはさっきからカヲルの横顔をちらちらと見ている。蛍
の放つ淡い光よりもよわよわしい月の光の下で、カヲルの白い横顔が陶器のよ
うにすべすべとして見えた。おとぎ話に出てくる、ずうっと眠っているお姫様
のようだった。
「ねえ」突然カヲルは言う。
「なに?」ケンスケは言う。
「兵器や、人類の未来だの破滅だのより、学校のこと、気にならないの?」
「え?」
「ほら、勉強のこととかさ、イヤでたまらない体育の授業のこととか、…女子
のこととか」カヲルは言った。
「そんなの。…そんなこと考えたって、しょうがないじゃないか」
「そうかな…。そういうものかな」
「だって、女子なんて、あの男子がどうとか、誰かが誰かとキスした、とかそ
んなのばっかだもん。男子はなんだか話の通じない奴ばっかりでさ」
「鈴原くんは?」
「あいつ、カノジョが出来てから、なんかその話ばっかりで」
「ははははは。洞木とつきあってるんだよね」
「うん。ぜーんぜん性格違うのにね」
「きみは好きな女の子いないの?」
「え…。いないよ。ウチの学校にはろくな女子がいないもん」
「あの、アスカって子は?…すごく可愛いし、おまけに上級魔女じゃないか」
「アスカ…。可愛いけど、あいつシンジのやつとデキてるから。いや、という
か、本人は弟子のつもりだろうけど、はたから見たら姉さん女房と弱気な亭主
みたい」ケンスケは皮肉に言う。
「ははははは。じゃ、つきあってるって感じでも、ないんじゃないか」
「そうだけど、同じ家に住んでて、どっちも魔法を使えるというのは大きいよ」

 カヲルはしばらく黙ったあと、「きみはやっぱりアスカって子、すきなんだ
ね」と言った。
 同じ暗闇を共有している少年たちのあいだには、不思議な共感が生まれる。
学校では言えないことも、闇のなかで、並んで天井を見上げていると、口にす
ることが出来るようになるものだ。
「…うん。…でも、ぼくなんか、眼中にないみたい。魔法と同居を別にすりゃ、
ぼくだってシンジとあんまり変わらないような気がするんだけどな」ケンスケ
はそう答える。
「そうだよ、もっと自分に自信をもたなきゃ…。そうだ、話は変わるけどおみ
やげ、あげるの忘れるとこだった」カヲルはそう言うと、持ってきたデイパッ
クの中をごそごそとかき回す。
「これこれ」カヲルはケンスケに小さなスプレー缶のようなものを手渡す。
 ケンスケは、手を伸ばし、寝る前に枕もとに置いた電気スタンドのスイッチ
を入れた。部屋の電気をつける気はしなかった。ぜんぶ明るくしてしまうと、
大切ななにかが、壊れてしまうような気がした。

「『キス!キス!キス!』?」その缶には俗悪なラベルが貼られている。缶の
底には「MADE IN TAIWAN」の文字。
「オヤジの会社から、試供品かっぱらってきたんだ。口臭スプレーなんだけど、
キスする前に、こいつを口にシュッと吹くと、口臭が消えるうえに、なんと相
手は何度でも同じ相手とキスしたくなるという…」
「あははははは。変なもんあるんだね」ケンスケはその缶の間抜けなデザイン
と、ばかばかしい効能とで思わず笑ってしまう。
「…おかしいだろ?なんか、『フェロモン』がどーのってオヤジは言ってた。
どーせ効かないだろうけど洒落にいいだろ。もし効いたらもうけもんだし。あ
げるよ」
 やっぱり、カヲルくんは変わってる、ケンスケは思った。でもぼくはそのキ
スするところまでいきそうにもないから、無用の長物だな。
「それとこれ」カヲルはもう一つ何かを取り出した。
「『ラブラブパワーZ』?」ケンスケは、その紫色の情けない格好をしたプラ
スチックのおもちゃを手に取る。
「そいつはね、告白代行機。シンガポール製。好きなあの子に渡すと、その液
晶のところに歯の浮くようなメッセージを表示してくれるっていう」
「でもこれ、英語だよ」
「だから、そいつは試作品なんだよ」
「あ、ありがとう」ケンスケは言った。
 もうおみやげは終わりみたいだったので、ケンスケはスタンドの電気を消し
た。

 ふたたび、沈黙が訪れた。
「さっきの話だけど、カヲルくん…好きな子いるの?」
「いるよ」彼はあっさりと認めた。
「その子とつきあってるの?」
「いいや。いまは別れてる」カヲルは言った。
「まえの学校の子?」
「うーん。そうだな、前世で知り合った子だ」
「なんだよ、それ」
「ぼくが、前世で肉体を失う前に、知り合ったんだ。名前は『イアンナ』。大
いなるユーフラテス川のほとりの、埃っぽい、月神の都で、ぼくは彼女に出会
ったんだ…。彼女は月神ナンナルの娘。ぼくは、彼女を好きになったけど、彼
女は、つまらぬ羊飼いの男を選び、肉体をまとって、そして滅びた。それで、
ぼくは、この世界を去った。あれから五千年経って、ふとこの世界をみると、
彼女は復活を遂げていた。美しい愛の女神を追い求める男たちの想いが、漂え
る魂になった彼女を生き延びさせていたんだ。…他の神様たちはさっさと消え
てしまったのにね。…いい話だろ?」
「なんだよ、それ?…ゲームかなんかの設定?」ケンスケは戸惑った。
「ふふふ。そうだね。これは『ゲーム』の話と言ってもいいかもね。…冗談だ
よ。…前の学校にいた子だよ」カヲルは言った。
「…なんだろって思ったよ!…で、その子とつきあってたの?」
「ああ」
「…どこまで行った?」
「なにが?」カヲルは問う。
「だから…ほら、昔よくいってたじゃない、AとかBとか、Cとか」
「ああ、どこまで仲良くなったってことかい?そうだな…あれは、エッチした
っていっていいんだろうか?」
「ええ!ほんとに?」
「うん。でも正確な意味じゃ、エッチじゃないかも。…そういったことは別の
子としたな」
「ほんと?…別の…。どんな子と?」これだけ美少年なんだから、そうかもし
れない、ケンスケは思った。
「ああ、その娘は耳が猫の耳だった。尻尾が生えてきていたし、体毛も生えて
きていた。茶色のきれいな毛並みだった。その子、興奮すると『変身』してし
まうんだ」
「また、ゲームの話…。冗談じゃなくて、ホントのこと言ってよ」
「ああ、ごめんごめん。前の学校の、本命じゃない別の子だよ」
「その子とはどうなったの?」
「…もう、何千年も前に死んでるよ。あの小説本で言う『獣人類』だったから、
とても長生きしたけどね。シュメール滅亡後、なんと『バビロン』建設の後ま
で生きて、人さらいになった。山猫の姿に変身して家に忍び込み、子供をさら
っていくので、バビロンの親たちは恐怖のどん底にたたき込まれた。たぶん、
ぼくの子供が欲しかったんだろう…。ぼくの子供が欲しいという一念が彼女を
生きながらえさせていたんだ。…哀れな女だ」

 だから、ゲームの話はやめろよ、と言おうとして、ケンスケは思いとどまっ
た。カヲルの声に、かすかな、本物の悲しみの色を感じたからだった。
 …いったい、こいつって、どんなやつなんだろう?ケンスケは思った。

 ちょうどそのころ、ケンスケの家から何キロか離れた、彼のクラスメートの
碇シンジの家で、シンジの母の碇ユイは、何か異様な気配を感じて目がさめた。
 身体を起こして、あたりを見回す。
 そして、それを見た。
 体中にさっと鳥肌が立った。全裸の、色の白い少女が、枕元に背を向けて立
っているのだった。
 幽霊。
 とっさにそう思った。少女は何かを探すようにきょろきょろとしている。
 振り返った。
 髪はまるで鬼火のように青白く、目は血のように赤い。
 そしてその容姿は見覚えがある。
「…あなたは、レイなの?」ユイは声をかける。
 それはうなづいた。アストラル体だ、ユイは思った。呪いの訓練は同時に霊
魂に対しての感覚を鋭敏にしたのだ。
 レイのアストラル体は助けを求めるように、切なげな表情で、ユイを見てい
た。ユイは立ち上がった。彼女は恐れることなく、その白い少女に近づいて、
肩に手をかけようとした。当然その手はレイの身体を突き抜け、虚空をさまよ
う。
「…どうしたの?…息子を、シンジを探してるの?」
 レイは、こっくりとうなづく。その表情があまりにも素直で、可愛らしく、
悲しそうだったので、哀れみが心の奥から押し寄せてくるのを、ユイは感じた。
「…ごめんなさいね、レイ。息子が魔法を制御出来るまで、待って。おねがい」
ユイは言った。
 レイは、目を落とした。もじもじしている。

「…そういうことだったのね」ユイは、息子の魔法の暴走の原因が、なんとな
くわかったような気がした。
 かわいそうだった。ユイは、このホムンクルスが心底かわいそうになった。
シンジが一人前の魔法使いになるまで、あと何年もかかるだろう。そして晴れ
てその日が来たとき、このホムンクルスは生きていないかもしれない、と思っ
たのだ。
 そうだ。小さすぎる。ホムンクルスの平均的な寿命は10年足らず。しかし
レイというホムンクルスは、体長20センチにも満たない。おそらくは普通の
ホムンクルスより長生きはしないだろう、とユイは思った。もちろん、息子に
はそんなことは言えなかったが。

 ユイは、さあ、身体に戻りなさい、と、そのアストラル体に言った。
 そのとき、あることに気がついた。
 それは、単純な疑問だった。
 なぜ、ホムンクルスの中でも例外的に小さなレイのアストラル体は、こんな
にも大きいのだろう?…という疑問である。
 もちろん、肉体と同じである必要はない。しかし…。ホムンクルスのサイズ
ではなく、インキュバスでもサキュバス(ともに「夢魔」)の姿でもなく、人
間の少女の大きさ。それはかつてレイが、人間だったことを意味してはいない
だろうか?
「…レイ、…あなたはいったい誰なの…。いいえ、誰だったの?」

 レイは一生懸命首を横に振った。自分でもわからないらしい。


「きみは、そんな経験あるの?」カヲルは突然言った。
 ケンスケはふとカヲルの方を見て、どきっとした。
 彼は半身を起こして、ケンスケをのぞき込んでいた。月の光が、カヲルの端
正な顔を半分照らしている。細くとがった顎。すんなりと高い鼻。薄い唇。闇
の中でぼんやりと浮かび上がる赤い瞳。
 ふいに、カヲルくんが女の子だったらどんなにいいだろう、と思っている自
分に気がついた。ケンスケはあわてて、その思いつきを心の奥にしまい込む。
「ないよ。はっきり言うとキスさえしたことないんだ」ケンスケは言った。
「…キスもしたことがないのかい?」
「何度も言わせるなよ」
 カヲルはほほえみを浮かべた。
 なんという美しいほほえみなんだろう!ケンスケは見とれていた。そして、
カヲルの顔がずんずんと近づくのに気がつかないでいた。
「あ」
 カヲルの手がケンスケの手を、そっと握っていた。ケンスケは、上身体を起
こし、その白い手を見下ろした。
 その、うつむき加減になったケンスケの唇を、なにか冷たいものが塞いだ。
「…!」
 目の前に、目を閉じたカヲルの顔があった。鳥が羽を休めるように、長いま
つげが目からすっと伸びていた。
 口の中に何か入ってくる。何かが、おずおずと、探るように、入ってくる。
 ケンスケはカヲルを突き飛ばそうとした。
 しかし、自分の左手の上にそっと置かれたカヲルの手が、まるで万力で締め
付けているように感じられるのだ。
 一秒が一時間ほどの長さに感じられた。
 …ぼくは、男の子とキスをしてるんだ!無理にかき立てたように、不快感が
わいてきた。ケンスケはカヲルから離れた。
「な、なにするんだよ!…ぼくにはそんな趣味無いぞ!」ケンスケはうわずっ
た声で叫んだ。
 カヲルはすぐには答えず、うっすらと笑いを浮かべて彼を見つめていた。
「…ごめん、ごめん。冗談だよ。ぼくにもそんな趣味は無い。でも、とにかく
キスは経験できたろ?」
「じ、冗談でもこんなことやらないでよ!…今度やったら絶交だぞ」ケンスケ
は腹を立てていた。いや、怒っているふりをした。怒らないと夜が明けるまで、
どんなことになるかわからない、と思ったのだ。
「ごめん、そんなに怒るとは思わなかったよ。二度としない。…そうだ、おわ
びといっちゃなんだけど、おみやげ、まだ残ってたんだ。忘れるところだった」
カヲルはまたデイパックの中をごそごそ探す。
「これ、効かないと思うけど、あげるよ」カヲルは言った。

 ケンスケはその瓶を手に取った。なぜかスタンドすらつける気になれないの
で、月明かりでその小さな、香水か、マニキュア用のような小瓶を調べる。
 さきっぽに目薬のように尖ったプラスチックの器具がついている。目を凝ら
してようやくラベルの字が読めた。
「アルティメートラブポーションX」と、バカみたいな書体で、女の子が男の
子に抱きついているイラストの上に書かれた、ラベルだった。
「…なにこれ?」
「簡単に言うと『惚れ薬』、『媚薬』だよ。飲み物でも食べ物でもいい、これ
を一滴垂らして、好きな女の子にあげるんだ。すると最初に目に入った男性に
惚れてしまうっていう」
「そんな馬鹿な!」
「うん。そんな馬鹿なことはないけどね。魔法薬ならばそんな薬もあるんだけ
ど、精神をコントロールする魔法薬を販売するのは禁じられてるし。こいつは
それのまがいものだよ。おやじは『エンドルフィン』がどうとか、って言って
た」
「ありがと」ぼくは、カヲルくんとはつきあっていけないかもしれない、とケ
ンスケは思った。こいつは変すぎる。

 もう寝よう、と言い出したのはケンスケだった。
 二人の少年は黙って、目を閉じている。
 ケンスケは耳を澄ませていた。カヲルの寝息を聞いていたのだ。
 すー、すー、すー。寝息まで女の子みたいだ。もちろんケンスケは女の子と
寝たことはないから、想像にすぎないのだが。
 ケンスケは眠れない。
 あの、感触が、あのキスが、頭の中を占めていた。
 ちがう。ぼくはホモじゃない。…ぼくは、カヲルくんを、そんなふうに好き
じゃない。ケンスケは思った。
 ぼくが好きなのは、アスカなんだ。あのきれいな女の子なんだ。
 けれどもケンスケは悩むのだった。当惑し、自分に嫌悪感を抱いていたのだ
った。なぜならば、あの時、あの永遠のひとときに、まるで忠実な猟犬のよう
に性的刺激を嗅ぎつける、彼の男としての部分が、反応してしまったからだ。

 土曜日の朝。カヲルは何事もなかったように快活にふるまった。
 ケンスケは、帰り支度をしたカヲルを、玄関で見送った。何事もなければ、
一緒に出ていって、寄り道でもしながらカヲルの家まで行ったかもしれない。
けれど、ケンスケは、なんとなくカヲルと一緒にいたくなかった。
 彼は、玄関で別れることにした。
「ありがとう。楽しかったよ」カヲルは笑いながら言う。
「…ああ、あ。おみやげありがとう」きっと使うこともないだろうけど。
「ううん。ま、話のたねにでもして。…それじゃ」
「あ、そうだ。…あの、ほら」
「なんだい?」
「きのうの晩、よく『ゲーム』の話、してたろ?…あれってなんて言う名のゲ
ーム?」なんとなく気になったのだ。
 カヲルは、ほほえみながら、ゆっくりと答える。
「…そうだね。そのゲームは『人類の歴史』っていう名だよ。…それじゃ、あ
さって学校で…。さようなら」
 ケンスケはカヲルのほっそりとした後ろ姿を見ている。
 『人類の歴史』?そんなゲーム、あったっけか?
 三台のテレビゲーム機を持っているケンスケでも、そんなゲームの名前は聞
いたことがなかった。

 カヲルは、一人で歩いていた。
 春なのに、蠅が一匹飛んできて、彼の細い肩にとまった。
『…殿下、今日という今日は、ワタクシ、殿下のお考えがわかりませぬ!』
 その蠅はぶんぶん羽音をさせながらそう言った。
「なぜわからないんだ?『ブブちゃん』?」カヲルと名のる、『闇の王子』が
答えた。
『なぜ、あのようなつまらぬ人間の少年に近づくのですか?彼と殿下の、今回
の目的と、いったい、なんの関係があるのですぅ?』
「ああ、もう近づくのは終わりだよ。今度はわざと遠ざかる」
『?????…・。ええ、ワタクシは愚直な悪魔に過ぎませんので、殿下の深
遠なるお考えはわかりませぬ。しかし、あれはなんです?「キス!キス!キス!」
「ラブラブパワーZ」、しまいにゃ「アルティメートラブポーションX」!…
いったいどこからあのようなものを思いつかれたのです』
「ははははは。ぼくは、忘れっぽいオヤジと違って、人間たちが電波を発明し
てからずっとラジオやテレビを観察していたんだ!…あれはその研究の成果さ!
毒を盛るには、相手に馬鹿にされるほど安心させなければならないんだ。ハン
バーガーだの、コーラだののコマーシャルを見てみろ、ブブちゃん。あれが人
間の五千年の進歩の象徴なのさ」
『ですが殿下、あれを与える相手を間違ってやいませんか?なぜ、イアンナさ
まに…』
 カヲルは蠅をぱっと掴むと、ぷちっと握りつぶした。
 しかし次の瞬間、虚空から別の蠅が現れて、やっぱり同じところにとまった。
「きさまは、ぼくに、『イアンナ』に『惚れ薬』を飲ませて操れ、というのか!
ぼくを侮辱すると許さんぞ!」
『殿下、どうかご容赦を!失礼いたしましたっ。…しかし、このワタクシめに
は殿下のご計画がいまだわかりませぬ』
「鈍い奴だなあ…。ほんとに。きみに、兵器と並ぶ人間の文化の極みである『
喜劇』のことを長々と説明しようとは思わないけど、『惚れ薬』は古代から喜
劇の大事な小道具だ。つまり『惚れて欲しい相手には惚れられず』というやつ
だ」

 『蠅の王』はそれから2度ほどひねりつぶされて、ようやく彼が仕える『闇
の王子』の計画を理解した。そして、蠅は『闇の王子』の計画なるもののあま
りの『セコさ』に、あんぐりと開いた口が塞がらなかった。
 蠅の口がどんなふうに出来ているか、ワタシは承知している。だからこれは
「比喩的表現」だと思っていただきたい。

 日曜日。晴れた朝。ケンスケは、橋の欄干から、河川敷の公園にいる、二人
の中学生をぼんやりとながめていた。

「ほら、息を止めないで!呼吸し続けて。…大きく。そう」アスカはシンジに
声をかけた。
 シンジはどことなくへっぴり腰で、両手を前に突き出している。自分が発生
させている魔法特有の「葉っぱ」の匂いでむせかえりそうだった。コントロー
ルできるだろうか?
 心の隅に不安があった。今度、ぼくの魔法が暴走したら、アスカが魔女の資
格剥奪という目にあうのだ、シンジは思った。アスカは…暴走を止めるために、
ぼくを殺すだろうか?
「不安になってない!?…自分に自信を持たなきゃ、魔法なんて出来ないわよ」
 その通りだった。少しでも不安があるとうまくいかない。身にしみてわかっ
ていた。浮遊魔法の練習中に、ふと心細くなってしまい、顔から墜落したこと
があるのだ。
 シンジは意識を集中する。
 彼の得意とする『召喚魔法』は、アスカの『エレメント系』魔法と違い、物
理的な作用対象は(魔法をかける前には)存在しない。したがって、頭の中で
召喚したいものの像を思い浮かべて、それと意識を同期させるのだ。
 いま、彼の中には空想上の動物である生き物が、はっきりとした像になって
いた。それは、恐ろしげな頭を下げて、低い声で唸っていた。
 出るんだ、シンジは念じる。無の中から、有よ、現れよ。素粒子が明滅する
エネルギーの『場』から、顕(あらわ)れよ。
 シンジの目の前の空間が奇妙にゆがんだ。光が屈折しているようだった。物
理世界の虚数としての『魔界』から、エネルギーが、『物質』という言葉で話
しかけてくる。
 ぼわっ。空気が押しのけられる音。
 一瞬にして、その怪物は四肢をつっぱり、その公園の片隅に立った。

「わわわわ」ケンスケは思わず声を上げる。消しゴムほども小さく見える眼下
のシンジの目の前に、いきなり変わった動物が現れたのだ。

「『グリフォン』…」シンジはつぶやいた。
「そうね、グリフォンね」アスカは、興奮を抑えて答えた。獅子の身体に鷲の
頭を持つ怪物が、羽をばたばたさせながら、頭を突き出し、きょろきょろとあ
たりを見渡している。
「小さいな」シンジは言った。日曜日の練習の度にやってくる相田の連れてい
る小さな犬より、一回り大きいだけだった。
「…近づいて、頭でも撫でてやれば?」アスカは平然と言った。
「え?」シンジはとぼけてみせる。
「早く。飛び去ってしまったらどうするの」
「わかったよ」シンジは、ゆっくりと怪物に歩み寄る。
 アスカは、シンジに意識を集中させていた。もし怪物がシンジに危害を加え
るそぶりを見せたら、シンジの方をはじき飛ばすためだった。
 シンジもそれは承知していた。もしかしたら手の一本くらい無くす可能性も
あると思った。
 シンジは、怪物の前に立ち、怪物の丸い小さな目をじっと見つめた。
 シンジは左手を伸ばす。利き腕を失いたくなかったからだ。ゆっくりと腰を
かがめる。グリフォンはじっとしている。
 一瞬、躊躇したあと、シンジは怪物の固い羽毛に覆われた頭に触れた。怪物
はなんと心地よさそうに目を閉じた。
 シンジは安心し、頭を撫でてやる。しまいには両手で怪物の首を抱えるよう
にして愛撫していた。
「…アスカ、この子、案外かわいいよ!」シンジは顔中に笑みを浮かべてアス
カに言った。
 少年らしい、無邪気な、すばらしい笑顔だった。アスカは思わずほほえんで
しまう。
「よかったわね」
 二人の目があった。まるで初めて会ったみたいに、しばらくお互いを見てい
た。
「…ありがとう、アスカ。魔法を使えるって、すごいことなんだ!」シンジは
アスカはを見つめて、そう言った。そんなシンジを見ていると、なぜか、暖か
いような、もどかしいようなものが心の奥からあふれてくるような気がして、
彼女は、あわてて「ほら、もう実験済んだんだから、消す練習もしなくちゃ」
と、そっけなく言った。
「消してしまうのかい?」シンジは、怪物の頭を撫でながら言う。
「殺すわけじゃないわ。そいつの魂を一時的に解放するだけよ。召喚すればい
つでも会えるわ」
「わかった。『グリフォン』、またな」シンジは立ち上がり、何度も練習した
とおりに召喚魔法を中和した。
 怪物はふっと虚空にかき消えた。しゅぽ。怪物が占めていた空間が、一瞬真
空になったので、大気が真空を埋める音がする。

 二人は、たのしそうだ。ケンスケは思った。自分たちがどれだけ仲がいいか、
本人たちだけが知らないんだ。
 ケンスケはアスカに話しかける気になれなかった。心の中の底の、暗闇に、
カヲルくんがじっと息をひそめて横になっている気がした。
 ちがう。そうじゃない。ぼくはアスカが好きなんだ。

 月曜日。アスカとシンジは相変わらずくっついていた。カヲルの様子はどこ
か違ってよそよそしく感じた。いや、それはぼくが距離を置きだしたのかもし
れない。ケンスケは隣の席のカヲルの方の手で頬杖をつき、おもしろくもない
授業を聞いているふりをする。
 火曜日。机の上に、三つのカヲルのおみやげが並んでいた。
 ばかみたいだ。なんてもの人にくれるんだろう。
 水曜日。カヲルが女子たちと楽しそうに話している。気がつくと女子ではな
くカヲルを見ている。ばかやろう。ぼくの、ばかやろう。
 木曜日。ぼくはアスカが好きなんだ。
 金曜日。ぼくはアスカが好きなんだ。異常なんかじゃない。その証拠に女の
子が好きじゃないか。もうプラモデルだのゲームだのアニメだの卒業する年な
んだ。
 土曜日。一日中考える。1週間というもの、カヲルくんとろくに口もきいて
いない。これでいいんだ。

 日曜日。ケンスケは早く起き、コンビニに行った。考えて、アメリカンドッ
グを買った。3本。ぼくとシンジと、アスカの分。そして缶コーヒー3本。
 誰かがそのアメリカンドッグに、何か薬のようなものを垂らしている。それ
はぼくだった。ぼくだ。そうだ。こんなものは効かないんだ。冗談だよ、冗談。
効けばもうけもんじゃないか。ぼくはちゃっかりしている。もう騙されやすい
子供ではないからだ。
「やあ、せいがでるね」ぼくはまるでオトナみたいな挨拶をした。
「ほら、これ差し入れ」ぼくは注意深く、その1本をアスカが取るようにしむ
ける。
 アスカは、ありがと、と言いながら、髪を耳の後ろに掻き上げて、それにか
ぶりつく。ぼくは正面に立っている。顔を上げてごらん、アスカ。そのまま顔
を上げるんだ。

 その時、季節はずれの蠅が、なんとアスカの鼻の頭にとまった。
「もーっ!なによ。今時蠅なんて!」彼女はあわてて顔を振り、横でのんびり
と缶コーヒーをすすっている碇シンジと目があった。
 碇シンジは、さっきまで機嫌の良かったアスカが、なぜぼくをしかめっつら
で睨んでいるんだろうと思った。…なにか失敗をしたのかな?いや、最近すご
く上達したって、ついさっき誉めてくれたばかりじゃないか。

 アスカは変わった。
 いや、シンジの父と母への態度は変わらない。シンジへの態度が変わった。
怒っているみたいだった。シンジが話しかけても、目をそらして生返事。
 ユイはさっそく、シンジに「あんた、練習で何か、しでかしたの?」と小声
で尋ねた。
「ぜんぜん身に覚えがないんだよ。かあさん」シンジは答えた。けんとうもつ
かないのだった。アスカが自分に恋に落ちているなどと途方もない推測ができ
るほど、この少年は鋭くない。

 月曜日。アスカはシンジによそよそしい。話しかけても返事はしてくれるの
だが、決して視線を合わせない。練習も、初めて「グリフォン」を呼び出した
時みたいな気持ちが通い会う感じは失せて、なんだか初めて会った時のよう。
 授業中でも、視線を感じてふりかえると、アスカが睨んでいるのだった。掃
除の時間でも、体育の時間でもそう。アスカの怒ったような視線がいつもシン
ジを突き刺していて。

 火曜日。昼休み。そんな態度のくせに、シンジの隣で、いつもと同じように
弁当を食べているアスカに話しかけてみる。
「ねえ…。アスカ。…ぼく、何か、いけない事した?」
 シンジにとって、アスカが家に来たばかりのころには、決して口出来なかっ
た率直な言葉かもしれない。半年という時間がそうさせたのかもしれなかった。
「な、なにも」アスカは妙にあわてている。
「卵焼き、落としたよ」
「あ。ああ、もったいない。…練習も順調だし、なにも悪いことないわよ」
「ウィンナー、落としたよ」
「あ、うん」
しかしアスカはあさっての方向を向いている。そのまま、平然としたそぶりで
弁当を食べようとするものだから、ぽろぽろいろんなものを落とすのだ。
「ねえ、もしぼくに悪いところがあったら、言ってよ。がんばってなおすから」
シンジは真面目な声で言う。
「だから、あんたのせいじゃないってば!ばかっ」アスカは叫んだ。しかし普
段のアスカの悪態と違うところは、すぐさま(横を向いたまま)、小さな声で
「ごめんなさい」と言ったことだった。

 シンジはアスカの横顔を見つめている。風邪でもひいたのだろうか、と思う。
頬がさくら色に上気しているのだ。
「熱あるの?」
「ないわよ!」
「でも、なんだかへんだよ」
「なんでもないわよ」
「…ちょっと、ごめん」シンジは片手で自分の額を押さえ、もう一方の手でア
スカの額の熱を計ろうとした。
「な、なにすんのよ!」アスカは反応は劇的だった。ぱっと立ち上がって、5
メートルも後ろに飛び退いたのだ。膝に乗せていた弁当箱が、校庭の地面に落
ちてしまった。
「ごめん、…つい」
「『つい』って、気安く人に触らないでよ!熱なんか無いわよ!」そういうア
スカの顔は40度も熱を出してうんうん唸っている人みたいだったので、シン
ジはますます心配になる。
「ほんとに、大丈夫?」
「大丈夫よ!」そう言って、アスカはすたすたと教室へ歩いていく。
 シンジはひっくり返ったアスカの弁当を片づけながら、じゃ、いったいなん
だろう?と思っている。

「碇くんとなにかあったの?」一番の親友のヒカリがきいた。
「なにもないわよ」アスカは答える。
 じゃ、なんでいつも見つめてるのよ、あんたは。とヒカリは思ったのだけれ
ど、口に出しては言わない。アスカの性格をよく知っているからだ。

「なあ、センセ、おまえ、アスカのやつに『夜這い』でもかけたんやないやろ
な!?」鈴原トウジが大声で言う。ケンスケもその場にいて、なぜか下を向い
ている。
「『よばい』って?」シンジはきょとんとしている。
「あかんなあ、センセ。もっと日本の伝統っちゅうもん勉強せなあかんで。『
夜這い』ちゅうのはな、女の寝とるとこに忍び込んで、エッチしてまうことや。
同居して半年。お前もとうとう春に目覚めたか」
「そ、そんなことしてないよ!あ、鈴原うしろ!」シンジは叫んだ。
「ひでぶっ」ふりかえったトウジの顔面に、床掃除用のモップの先がたたき込
まれた。
 アスカがモップの柄をもって仁王立ちしている。
「なにが『夜這い』よ!このバカ!」
「な、なにすんねん!この乱暴モン!」トウジは叫ぶ。
「勝手なこといわないで!バカ!」アスカは、モップを放り出し、大股で教室
から出ていく。廊下に、渚カヲルが立っている。アスカは、険しい顔をして、
この少年を無視して歩いていった。
「センセ、あななオナゴに、はやまったまねしたらあかんで。後悔すうで」ト
ウジは相田からハンカチを借りて顔を拭いている。

 アスカは碇家に帰る。この家の主、碇ゲンドウ氏の実験室の前を通り、どん
どんどん、と音を立てて2階へ上がっていく。
「足音だけでもあれだけやかましい小娘も珍しい」ゲンドウは独り言を言う。

 ベッドを上に、制服のまま横になる。
 目を閉じる。
 暗い夜。坂道の下から、水で出来た少女たちが足並みを揃えて登ってくる。
 どん、どん、どん。不安だった。きりがない。魔法が効かない。
『かあさんと、逃げるんだ』あのひとが、スローモンションで視界の端から走
ってくる。
『かあさんと、逃げるんだ!』あたしの前に立って両手を広げる。どうするの
よバカ、ろくに魔法も使えないくせに!でも、かあさんと一緒に逃げるんだ、
ぼくは君を、命をかけて守るよ。現実にはそんなことは言っていないのだが、
この仮の記憶の中では、いつもこうなのだ。
『ぼくが君を守ってやる!だいじょうぶだよ。ぼくは他の男とはちがう』
 ほんと?ほんとに。
『そうだよ。女の子にいやらしい事をすることしか考えないやつとか、利用す
ることしか考えないやつとは違うよ、アスカ。ぼくは君を守るために生まれて
きたんだ』あのひとは言った。
 次の瞬間。あのひとは、かわいい、子供のような笑みを浮かべている。なん
て素敵な笑顔なんだろう!ドイツにある魔法アカデミーの、人を見下した気取
ったすましやの、そのくせ気の小さい年上の男どもとはまるっきり違う。
『かあさんと、逃げるんだ…アスカ、晩御飯だよ』
 え?
「アスカ、晩御飯だよ」ドアの向こうから、あのひとの声がした。

 消えてなくなりたい、アスカは思った。あのひとはあたしのことを、偉そう
で、乱暴な女だと思っているに違いない。針のむしろに座っているようだった。
あのひとは、ロールキャベツを食べている。目が合った。恥ずかしい。あたし
なんか、消えてなくなってしまえばいいのに!

 モン吉は、主人の異常に気がついていた。それがどういうものかも理解して
いた最初の人物(猿だが)であった。それは、春先に雌の猿に起きる変化のよ
うなものではないか、彼はそう思っていた。しかし人間にはそんなサイクルは
ないはずなのに。それになんでいまごろ、あの少年を好きにならねばいかんの
だ。
「な、なにするんだよ!モン吉」
 腹立たしいので、ロールキャベツを1個、少年から取ってやったのだ。
「モン吉!返しなさい!」アスカは怒った。
「い、いや返さなくてもいいんだよ」シンジは言った。
 既に頬袋の中に入れていたのだ。

 アスカはベッドに横たわっている。
 目を閉じると、シンジがスローモーションで走ってくる。『かあさんと逃げ
るんだ!』…男らしく怪物と私の間に立つ。
 目を開けた。どうかなりそうだった。別の事を考えよう。

 まどろみの中で、アスカは、薄暗い部屋にいるのだった。分厚い赤い絨毯。
大きな机。かび臭い本の匂い。壁に中世の頃の絵が掛かっている。パースペク
ティブがバラバラの塔から男が空を見ている。空からもう一人の男が墜落して
いる。男のまわりには醜悪な悪魔たちが浮かんでいる。
「我々の先達、『シモン・マグス』墜落の絵だ。そして中世の暗黒がやってき
た。おかげで我々は魔法という果実を手に入れるまで数百年、まったく無駄な
回り道をしたのだ」
 部屋の奥にいる男が言った。とつぜんそいつは蒸気をぷしゅーっとはいた。
蒸気人間だった。アスカは顔を歪める。あんたの事なんか考えたくないわよ!
「…我々は歴史の中に封殺されたのだ。我々の真の姿は、キリスト教の坊主ど
もの、ごてごてした衣装の下に隠されてしまったのだ」
「なにをどう言ったって、あんたは偽物よ!蒸気で動く機械人形みたいなもん
よ!」アスカは叫んだ。

 アスカは、白い部屋に居た。目の前に、白いシーツの敷かれたベッドがあっ
た。不快感がわいてくる。ベッドの脇には小さなテーブルが置いてある。その
上に小さな楕円形の石のようなものがあった。
 アスカは手に取ってみる。小さな小さな石の彫刻だった。雄鶏と雌鳥が交尾
している姿が彫られている。
「性を通して我々は真の自己と出会うのだ」振り向くと『奴』が立っている。
身体の節々から蒸気が立ち上っている。偽物だ。デウス・エクス・マキナ。機
械仕掛けの神。アスカは、自分がベッドを背後に立っているのに気がついた。
後ろのベッドに押し倒されるのではないかという、理不尽な恐怖を感じた。
 やめて。やめて。やめて。

 目を開けた。天井の豆電球のオレンジ色の光。
 なんどか大きく瞬きをする。碇家の子供部屋だった。何時だろう?アスカは
ベッドの脇の時計を見る。12時。
 モン吉はアスカのベッドの横に置かれた、かつてシンジが使っていたベビー
ベッドに寝ていた。
 あのひとが、赤ん坊のときにここで寝ていたんだ。アスカは思う。
 だしぬけに、シンジがそばで寝てくれたら、と自分が考えている事に気がつ
いた。シンジが一緒に寝てくれたら、もう怖い夢は見ないのだ、アスカは思っ
た。

 雨が降り出した。春の細かい雨だった。
 シンジはベッドに横たわり、雨の音を聞いていた。
 眠れなかった。レイの事を考えていたのだった。いまごろ両親の寝室で淋し
く眠っているのだろうか?シンジは、ガラス瓶の中の小さなホムンクルスを思
い浮かべる。
 魔法の修行を積むにつれ、シンジは掟を破ることがどんなに恐ろしいことか、
ようやくわかってきたのだった。魔法は事実上、なんでも出来る力だった。魔
法使いたちが自分の欲望の赴くままに魔法を使いだしたら、世界はあっと言う
間に崩壊するだろう。以前、アスカの言った言葉が、魔法をある程度制御出来
るようになった今、ようやく理解できた。
 だから、ぼくはレイを人間にしてはいけないんだ。
 シンジは思った。レイは、あのまま、そんなに長くない人生のすべてを、ガ
ラス瓶の中で過ごさなければならないのかもしれない。
 ぼくが就職するころ、「別れ」がやってくるのかもしれないな、シンジは思
った。涙が滲んできた。けれど、心のどこかでそれを冷静に見ている自分をシ
ンジは嫌悪した。
 ぼくは、いやなやつだ、シンジは思った。淋しげなレイの姿の代わりに、な
ぜかアスカの、さらさらとした綺麗な長い髪が浮かんできたからだ。

 ばたむ。間。ばたむ。がちゃ。
 雨音を背景に、小さなドアを開け閉めする音がした。最後にしたのは鍵をか
ける音だろうか?誰かが部屋の中に入ってきた気配がした。だれだろう?かあ
さんかな?シンジはベッドの中で上半身を起こした。

 薄暗がりの中に、アスカが立っていた。真っ赤にテディベアのプリント柄の
可愛いパジャマを着て、なぜか白い枕を胸に抱えている。おそろしく真剣な表
情で、口をへの字に結んでいる。
「ど、どうしたんだよ!」シンジは言った。
 アスカは答えず、すたすたとシンジに向かって歩いてきた。頬がぼおっと赤
く染まっている。ベッドの脇までやってくるまで無言だった。
 シンジは思わずベッドの中で身をこわばらせる。
「端に寄って」アスカは、小さな、かすれた声で言った。
 シンジは反射的に言われるままに、狭い子供用ベッドの端に寄った。身体の
3分の1が壁にぴったりとくっついてしまう。
 アスカは、春秋用の薄い布団を、ほっそりした自分の身体がちょうど潜り込
めるだけまくった。そして、すっとすべり込む。かすかな雨音の中で、布団と
アスカのパジャマがたてる布ずれの音だけが大きく響く。
 ベッドは狭いので、シンジの腕に、アスカの太もものあたりが触れている。
シンジはその柔らかい感触にたじろいだ。
 アスカは自分の身体に布団をかけた。

 沈黙の時間が流れた。シンジの心臓はまるで暴れ馬のようにはね回っていた。
ふれあっている腕と腕の間が暖かい。動く事が出来なかった。ぴくりとも動け
なかった。
「…出ていけ、…て言わない?」アスカは言った。普段とは全く違う声だった。
まるで幼い子供が甘えるような声だった。
「え…?」どう答えればいいんだろう?シンジは思った。ゲームみたいにせめ
て選択枝が出てくればいいのに!

 モン吉はドアの音で目を覚ました。ばたむ。ばたむ。がちゃ。
 主人のアスカがお手洗いにでも行ったのだろう、この魔女の「使い魔」の猿
は思った。
「ばたむ。ばたむ。がちゃ」…?ドアを閉める音が続けて2回。間をおかずに
2回。モン吉は身体を起こして、アスカの寝ているはずのベッドを見てみる。
からっぽだった。
  (1)ドアが閉まる音が間をおかずに2回
  (2)アスカはいない。
 おかしい!モン吉は推理した。まず部屋から出て(開けるのほとんど音は出
ない)ドアを閉め(1回)、間をおかずに閉める音(2回目)。だが部屋の中
の人物はいない。モン吉は不安を感じた。すぐ向かいに、あの凡庸な顔をした
少年の部屋がある。アスカはドアを開け、出ていってドアを閉め、あの少年の
ドアを開け、閉めて。
 モン吉は飛び起きた。踊り場に出て、少年の部屋のドアを開けようとした。
鍵がかかっている。モン吉は、少年が寝るときには部屋の鍵をかけないのを知
っている。朝、寝坊したら起こして貰うためだ。モン吉は爪をドアの隙間に入
れて、こじ開けようとした。
 だめだった。耳を澄ます。部屋の中から、低い少年と少女の話し声が聞こえ
てきた!モン吉は賢いサルだ。どうすれば大事なご主人の貞操を守ればいいか?
一瞬にして作戦を立てた。彼は、だだだだだ、と階段を下りていく。

「…ど、どうしたの?」シンジは身体をくっつかせて横たわる少女に話しかけ
てみた。自分の声が、いったいどこから発せられているのか、検討もつかなか
った。
「…聞かないで。…朝までここにいさせて」アスカはか細い声で嘆願する。
「…お願い。…あの…なにをしても」後は声が消えてしまった。
「え?」シンジは頭だけ横を向いて聞き返す。
 暗がりに、アスカの端正な横顔が浮かび上がっている。目がきらきらと光っ
ているように思えた。
「…なにをしてもいいから、ここにいさせて」アスカは言った。
 な、なななななにをしてもいいから!シンジの頭の中を、二頭立ての馬車が
走り出した。ぱからんぱからんぱからんぱからん。どどどどどどど。パシ。パ
シ。ぱからんぱからん。どどどどどど。ひひーん。

 モン吉は、台所の勝手口のドアの下にある、四角い小さなモン吉専用のドア
から外に出ていく。春の霧雨が降っていた。彼は走る。だだだだだ。

「い、いったいどうしたの?」シンジは言った。アスカはわずかにシンジに身
を寄せているような気がした。シンジの手先に触れているのは、アスカのお尻
だろうか。誰かがスーハー言っている。スーハースーハー。それはなんと自分
の鼻息だった。
 1分経過。
 ぱからんぱからんぱからんぱからん。どどどどどどど。パシ。パシ。ぱから
んぱからん。どどどどどど(口に出して5回繰り返してください)。
20秒経過。
 
 モン吉は目的の場所に着いた。
「ウキキキッ(発進準備)!」
 彼は『シゲル君』の頭の上に飛び乗った。
「キキキ(拘束具除去)!ウキウキウキキ(全速力で発進せよ)!」
 『シゲル君』は、立てって眠るために小屋と自分を固定している拘束具を、
がちゃんとはずして、ドアを丁寧に開けた。
 そして春雨の中、のっしのっしと歩き出した。

 レイは、暗闇で目がさめた。なにか胸騒ぎがした。
 雨の音がする。足音がした。何かが庭を走っているのだ。

 いっぽう、少年と少女は同じベッドのなかで身じろぎもせずに横たわってい
る。静かな部屋の中で、ささやくような、やさしい雨の音がする。
 時間が流れた。
 ふいにアスカが腰をよじった。シンジの手が、少女の腰に触れた。
 それが合図だった。二人は、がばっと勢いよく抱き合った。かちん。シンジ
とアスカの前歯が当たって音を立てた。鼻と鼻がぶつかった。痛がっている余
裕などなかった。まるで餌を求める雛鳥のように、お互いの口を求め合った。
衣擦れの音だけがした。
「ああ」唇と唇が離れたとき、少女は小さな声をあげた。シンジはわけがわか
らなくなった。頭の中の馬車が走っている。いまや馬車は四頭立てになってい
た。車輪の音、馬のいななき。
 アスカはシンジの背中に手を回して、シンジと身体をぴったりとくっつけた。
「わわわ」シンジは、恥ずかしさのあまり、あわてて腰を引いたので、まるで
へっぴり腰で女に抱きついている格好になった。
「…いいのよ。そうなるの知ってるから」アスカは、はにかみながら言った。
「え…?うん」どうして知ってるんだ?
「脱がせて」アスカは言った。

「ウキキキキ(目標、勝手口のドアノブ)。キキキ(攻撃目標ロックオン)」
モン吉は言った。
 『シゲル君』はドアノブに手をかける。
「キキッ(目標破壊せよ)」
 『シゲル君』は、そのドアノブをひょいとひねった。べきべき。勝手口のド
アの一部ごと、ドアノブが取れた。『シゲル君』はその残骸をぽいっと庭に放
り投げた。

「…あなた、起きて。…起きてったら」
「…うん、…おつとめか?」ゲンドウは妻の手を掴み、自分の布団に引っぱり
込もうとする。
「ちがうわよ、台所の方で物音がしたのよ…起きて!」

 シンジは、アスカのパジャマの上着のボタンと格闘していた。まるで自分の
指じゃないみたいだった。指先に神経を集中しようとするたびに、なんだか柔
らかな膨らみに触れてしまうのだ。すると、彼の指はとつぜん彼の意志を離れ
て、阿波踊りを始めるのだ。
 それでも、ようやくすべてのボタンを外し終えた。アスカはじれったそうに、
自分で上着を脱ぎ捨てた。ブラジャーはしていなかった。胸元に可愛らしい花
の刺繍がある肌着を、横になったまま脱いでいるのだった。
 ごくん。シンジは唾を呑む。一瞬、暗がりのなかで、アスカの中学生にして
は大きな裸の胸が見えたからだった。
「…脱がないの?」
「…う、うん」自分の声が頭のてっぺんから出てきているような気がした。
 彼は不器用なので、横になったままパジャマを脱ぐことが出来なかった。上
半身を起こして、ベッドの上に座ろうとした。
 布団がまくれた。その時とんでもないものが見えた。アスカが全裸になって
横たわっている!いつの間にズボンと下着を脱いじゃったんだろう。
「…そんなに見ないで。…恥ずかしい」
「あ、ごめん」シンジは横になって、布団を掛ける。パジャマを脱ごうとじた
ばたする度に、アスカの柔らかい素肌の、いったいどこだかわからない部分に
少しずつ触れた。彼の心臓は、ばっこんばっこんと品の無い音を立てていた。

「なんだお前は、人間に対する反乱か?」ゲンドウはわけのわからない恐怖に
とらわれる。『カレル・チャペック』の戯曲のように、人造人間が一斉に蜂起
したのかと思った。
 夫婦の寝室の戸は開かれていて、『シゲル君』が突っ立っていた。背後の廊
下に電気がともされていて、暗い寝室からだと、人造人間は不気味なシルエッ
トに見えた。
 安手のホラー映画のようである。
「ウキキキキ!キキッキ、キキキキ(あんたのバカ息子が、ワシの大事なご主
人の貞操を奪おうとしてるんだ!)」
「どうしたの、モン吉?」ユイが、『シゲル君』の頭に乗っているモン吉に声
をかける。
「キキキキキ、キキキキキ(お宅の、生殖本能だけで生きてるイロガキをなん
とかしろ!)」
「まさか、シンジになにか起きたの?」
「キキキキ、ウキキ(そのアホンダラが起こそうとしてるんだよ!)」
「あなた一緒に来て!ただごとじゃないわ、こんなに興奮しているモン吉、初
めてみたわ!」
「あ、ああ」めんどくせーな。

 素っ裸で布団の中にいるのは気持ちがいい。ましてや春の、雨の夜。
 シンジはアスカを見下ろしている。アスカの顔は耳まで真っ赤だった。細い
首筋から、胸元にかけて、その顔の上気が伝染したのか、ほんのりと赤みがさ
している。
 アスカは、濡れて、きらきらと光る目で、シンジを見つめている。
 綺麗だった!女の子が、いつもガミガミ言っているアスカという女の子が、
こんなに綺麗に見えるとは思わなかった。
「…どうしたの?」
「いや、あの」こんなとき、綺麗だよ、なんて囁けるほどシンジはオトナでは
ない。
「あの…こんなことするの、いやだった?」アスカは不安げに言う。
「ううん」シンジは即座に否定する。
「…ねえ、シンジ」
「え?」
「…痛くしないでね…」
 どんどんどんどん、彼の心臓は家が揺れほどの音を立てていた。
「…うん、…い、いくよ」
「…うん」アスカは目を閉じた。

 どんどんどん。家が揺れていた。
 どっかーん。
 シンジがゆっくりとアスカに覆い被さろうとした瞬間、シンジの子供部屋の
木製のドアが粉々に砕け散って、人造人間とサル一匹、大人二人とガラス瓶の
中のホムンクルスが部屋の中に転がり込んできた。
 素っ裸の少年と少女は、わ、きゃっと悲鳴をあげ、ベッドの側の壁にへばり
ついて布団をかぶった。
 ユイは、その直前、息子と居候の少女が全裸であることに気がついて叫んだ。
「あんたたち、なにやってるのーっ!」

 雨は止んでいた。
 碇家の居間。ソファにシンジとアスカが座らされている。もちろんどっちも
今はパジャマを着ていた。シンジは神妙な顔をして下をうつむき、アスカは両
手で顔を押さえている。
 食卓の上に、ガラス瓶か置かれていた。その中のホムンクルスのレイは、瓶
の中に写る、にくたらしい女の子の歪んだ像に一生懸命キックをくらわせてい
る。『シゲル君』は、キッチンシンクのそばでホットココアを飲んでいる。モ
ン吉はアスカの足下に座って、彼女を心配そうに見上げている。
「もう、泣くのはおよしなさい、アスカちゃん」二人の正面に座っているユイ
が言う。
「…だいたい、お前たちはいくつだと思っておる。中学生の分際でけしからぬ
ことをしおって。このバカモノども」22才まで童貞だった碇ゲンドウが言っ
た。
「そうよ、アスカちゃん、人を好きになってはいけないとは言わないけど、も
っと分別を持ちなさい」初体験の相手と結婚するはめになった碇ユイが言った。

 とにかく夜はふけていた。シンジは居間に寝ることになった。居間から2階
に上がるとき、ゲンドウとユイの寝室の前を通らなければならないからである。
 シンジは居間の暗い天井を見つめていた。痛いくらいどこかが腫れ上がって
いた。
 アスカは、怖い夢をみた。シンジ、シンジ、わたしのそばにいて。わたしを
守って。

 翌朝は学校である。二人は背後の突き刺すようなユイの視線を感じながら、
並んで登校した。
 アスカは一変していた。熱っぽい目でシンジを見つめていたかと思うと、突
然つっかかったように話しかけてきて、しばらくすると、目に涙をためて、甘
えるような口のききかたをする。
 昼休み。アスカは、ふれ合った腕が汗ばむほどぴったりとシンジにくっつい
て、お弁当を食べている。そんな様子をクラスの何人かの男子が教室から面白
そうに見ている。
「なあなあ、ケンスケ、あいつら公然といちゃいちゃしだしたで!見てみい」
鈴原トウジがうれしそうに声をかける。
「ああ」ケンスケはそう答えたが、校庭の窓とは反対側の自分の席からは動か
なかった。

「…きょうも、シンジ、居間で寝かされるのかな」アスカが言う。
「きっと、そうだろうな」
「…かわいそう、シンジ。…ごめんなさい」
「な、泣くなよ」シンジは言った。アスカは、びっくりするくらい涙もろくな
っているのだった。
「…ねえ、…キスして」アスカはつぶやくように言う。
「み、みんなが見てるよ!」シンジは頭上の教室からの視線に気がついていた。
「…お願い、キスして」アスカは目を閉じて、シンジの腕に手を乗せる。
「でも」
「…お願い」
 シンジは、自分の唇をアスカの唇に急いで重ねた。ハンバーグの味がした。
 頭の上で、おおおーっとという歓声が上がるのが聞こえる。
 教室に帰りたくないな…シンジは思った。

「キ、キスしおったでぇ!」トウジが真っ先に声を上げる。
 男子たちは口々に、すげえな、すげえぜ、と言い合う。なんにんかの女子も
窓にへばりついて、やあねえ、などと囁き合っているのだった。
「あんたたち、悪趣味なことやめなさいよ!」学食から帰ってきて、そんな光
景を見たヒカリはそう言った。
「でも、委員長、弁当食べてる最中にキスするのも悪趣味だと思いまーす」一
人の男子がふざけて言う。
「口移し、してたりして」一人の女子が言う。
 うわーっとクラスのほとんど全員がどっと歓声をあげ、ぎゃははははは、と
笑うのだった。
 アスカ、アスカ、いったいどうしちゃったの?ヒカリは親友の身を案じた。

「見ないのかい」一人離れて座っていたケンスケは顔を上げた。渚カヲルが笑
いかけている。
「…この!」ケンスケは反射的に立ち上がり、カヲルの胸ぐらを掴んだ。
「どうしたの?ケンスケくん」カヲルは眉一つ動かさずに言った。
 カヲルを罵ろうとしたケンスケは思いとどまった。あの薬は自分が自分の意
志で飲ませた事を思い出したのだ。ぼくが、アスカに「毒」を盛ったんだ。ケ
ンスケはカヲルを離し、ごめん、とつぶやいた。

「なんやねん、あらたまって」鈴原トウジが言った。放課後、ひとけのない校
庭だった。目の前のケンスケは、何か思い詰めたような表情で下を向いている。
 ケンスケは、カヲルと過ごした一夜以外の事を、ありのままに話した。
「『惚れ薬』なんて、そんなアホな」
「ほんとだよ!あの子が、あんなに急に変わるわけがない。効いてしまったん
だ!効くわけがないと思ってたのに…」ケンスケは言った。
「…お前も、ネクラなことしたな。いくら好きやからいうて」
「…どうかしてたんだよ!…ぼくはどうかしてたんだ!」
 トウジが驚いた事に、ケンスケは顔をくしゃくしゃにして、泣き出すのをこ
らえていた。こいつマジや。鈴原トウジは思った。
「な、ケンスケ。…お前、正直にアスカに言え。そして謝れ。謝って、謝りた
おせ。あの女、シンジの事を好きなん、あの女にとってはシヤワセなことかも
しれんけど、クスリなんかでそうなるのん、ようないことやと思う」
「…うん。…でも、…たぶん、嫌われるね」
「せや。…お前も、いまは、嫌われたいんやろ。このまま黙っとって、ウジウ
ジするより、すぱっと嫌われてこい…」トウジは言った。

 ケンスケはその日のうちに碇の家に電話して、アスカを呼び出した。
 午後6時半だった。夕日が、広い川を金色に染めていた。何人かジョギング
しているのが見える河川敷の公園。
 亜麻色の髪の、美しい少女は、そわそわしたそぶりで、彼の前に立っている。
早く帰ってシンジと一緒にいたいんだ、ケンスケはそう思った。そう思うと、
胸のどこかが、針で刺されたようにきりきりと痛んだ。
「用ってなに?…手短にたのむわよ」アスカは言った。
「…ごめん!」ケンスケは頭を下げて、正直にすべてを話した。
「…」話し終えても、アスカは黙っている。許してくれるのか?クスリを飲ま
せてくれてありがとう、とでも言われるのか?彼は顔を上げる。
「このぉ!」
 ばしん。向こう岸に聞こえるほど大きな音だった。ケンスケの眼鏡が、2メ
ートルも吹っ飛んだ。顔の感覚が一瞬途絶えた。
「この、バカ!…『闇の王子』にもらったものをあたしに!…このバカ!」ば
しん。アスカはケンスケの顔の同じところを、もう一度平手で殴った。
「あんたは、あたしだけじゃなく、人間ぜんぶを裏切ったのよ!」
 アスカはそう言うと、家とは逆の方向へ走り出した。
 ケンスケは、その後ろ姿を見ていた。顔がじんじんした。気がつくと、鼻血
が出てきた。彼はハンカチで鼻を押さえて歩き出した。

 ケンスケは町を歩いている。店のショーウィンドウに映る自分の顔にはくっ
きりとアスカの手形がついていた。しばらく腫れがひきそうになかった。
 気がつくと電車に乗っている。ハンカチで頬を押さえて吊革にぶら下がって
いる小柄な中学生に、目をくれるひとは誰もいない。
 ぼくは、ちっぽけな、ウジ虫以下の人間だ。ケンスケは思った。
 その広場についた頃には、もう暗くなっていた。
 もちろん、あの巨大なクリスマスツリーは、もうなかった。
 ケンスケは誰もいない彼のすぐ横を、頭をめぐらせて見た。寒さに頬を赤く
染めて聖歌隊の歌に聴き入っている、綺麗な少女の姿が見えるような気がした。
 もともと手の届かない女の子だったんだ。これで、永遠に手が届かなくなっ
た。ケンスケは思った。涙がこぼれてきた。ぼくは、最低の男だ。好きになっ
てもらうような努力をちっともせずに、あんな怪しげなクスリでなんとかしよ
うと思うなんて!

 碇家の電話が鳴った。たまたまそばにいたシンジが受話器を取った。
「もしもし…相田?…どうしたんだい?…アスカ?…ああ、まだ帰ってきてな
いよ」
 シンジは、しばらくのあいだ、ひどく遠くで聞こえるようなケンスケの声に
相づちも打たずに聞き入っていた。
「…わかったよ…じゃ」シンジは言った。
 がちゃん。電話を切った。
 電話台の前に置いている時計を見た。夜の8時20分。
「ちょっと出てくるよ」
「どこへ行くんだ?…まさか、おまえら、ラブホテルで」
「あなた!」とんでもない事を口走ろうとした夫をユイが制して、どうしたの?
と息子に話しかけた。
「詳しくは帰ってきて話すよ、アスカが態度が変わったのは、『惚れ薬』のせ
いなんだ」
「『惚れ薬』って、そんなもの、製造すら禁止されてるのに!?だれがそんな
もの飲ませたの?」
「直接ではないんだけど、カヲルって転校生らしいんだ。なぜか知らないけど、
アスカは、たしか『闇の王子』って言ってたらしい」
「『闇の王子』!」ユイとゲンドウは声を揃えて叫んだ。
「知ってるの?」
「いえ、なんでもないわ、…シンジ、アスカを探してあげなさい。きっと精神
状態が不安定になってるわ」
「うん。…かあさん、その、もとに戻すことって出来るの…?」
 ユイは静かに頭を横に振る。
「『惚れ薬』が禁止されてるのはね、精神の深い層に強力な『刷り込み』をし
てしまうからなの。アスカはたぶん…」
「わかった」シンジは答えると外に飛び出した。

 ゲンドウは、醜くひきつった手のひらの火傷を見ていた。『闇の王子』。あ
いつ握手したときに、「面白いもん見つけた」とかなんとか、言ってなかった
か?…まさか、奴の狙いは…。
 ゲンドウは珍しく不安になった。


 シンジは真っ先に河川敷の公園に行ってみる。アスカがいるとすれば、ここ
じゃないか、と思ったのだった。しかし、細長い公園の端から端まで走っても、
アスカはいなかった。
 学校へ向かって歩く。アスカが転校してきて半年。そんなに行動半径は広く
ないはず。学校の正門はもちろん閉まっていた。学校に着いてはじめて、ある
ことを思い出した。
 シンジは中学校のそばの電話ボックスに入って、電話帳を開く。珍しい姓だ
から、なんとかなるだろう。案の定、市内に三軒しかない。とりあえず一番上
の家に電話をかける。
「はい、洞木ですが」女の人の声がする。
 シンジは学校名と名を名乗り、ヒカリさんのお宅はそちらですか?と尋ねた。
たまたまそこはヒカリの家と親戚で、正しい電話番号を教えてくれた。シンジ
は丁寧に礼を言い、ヒカリの家に電話をかける。
「はい、洞木です」別の女の人の声。シンジは、名を名乗り、ヒカリさんいま
すか?と尋ねる。
「あ、碇くん。どうしたの?」
「あの、アスカ、そっちに行ってない?」
「来てるわよ」ヒカリはあっさりと答えた。シンジは、心の中に、なんともい
えない安堵感が広がるのを感じた。
「かわりましょうか?…あ。だめって。いま話したくないってアスカが言って
るわ」ヒカリは言った。
「…そう」電話の向こうで、女の子たちが、ひそひそと話している声が聞こえ
た。不思議な感じだった。
「あのね、一時間経ったら、迎えに来てほしいんだって。わかった?…私の家
はね、○○町1丁目45号3番、近くに児童公園があって、その南の角を左に
まがった、青い屋根の家。大きい表札がかかってるから、すぐわかるから」
「ありがとう」
「…あの、アスカちゃんのこと、…大切にしてあげてね」ヒカリは突然言い出
した。
「え…」
「あなたを一生好きでいなきゃならないのよ…。だから、大切にしてあげてね」
 シンジは胸が詰まった。ヒカリの声には、友達への思いやりがあふれている
ような気がした。
「うん」シンジは答えた。

 シンジは、ゆっくりと歩き出した。ヒカリの言った場所へは歩いて10分ほ
どで着いてしまう。アスカは1時間後に迎えに来て欲しいと言っていたから、
時間を持て余すことになると思ったからだ。
 ぼくたちはどうなるんだろう…。シンジは考える。『惚れ薬』の効果が消え
なければ、たしかに洞木の言うとおりなのだ。アスカは一生ぼくのとこを…。
 それでもいいな、と心の隅で思っているのだった。そのうち、結婚すること
になるのだろうか?…そう考えると思わず、かぁーと顔が熱くなる。雨の夜の
事を思い出してしまう。
 ふいに、ガラス瓶の中で、一日中外をながめている小さな妖精、レイの事が
頭に浮かんだ。ぼくは、なにを考えているんだろう?

 ヒカリの言っていた公園が見えてきた。水銀灯が一つしかない児童公園は、
まるで夜の廃墟のように薄気味悪く見えた。小さな滑り台が一つ。ブランコが
二つ。ジャングルジムが…。
 シンジは立ち止まった。ジャングルジムのてっぺんに人が立っているのだ。
いや立っているというより浮いているのかもしれない。なぜなら、その人物は
つま先立ちしているのだが、つま先とジャングルジムの間に、かすかに水銀灯
の光が差し込んでいるからだ。
 少年だった。白い小柄な少年だった。赤い瞳がシンジを見下ろしている。
「やあ、シンジくん」その少年は言った。
「渚くん…」
 二人の少年は黙ったまま対峙した。静かだった。
「なぜ、『惚れ薬』をアスカに飲ませた?」沈黙を破ったのはシンジのほうだ
った。
「心外だな…。あれは相田くんがやったことだよ。ぼくは彼に、ぼくの父の会
社の試供品をプレゼントしただけだよ」
「でも、きみがケンスケをそそのかしたんだ」
「そそのかしたつもりはないよ。彼は自分の意志でああしたんだ。…人間が破
滅するときは、大概は自分の意志によるものなんだ。なんでもぼくのせいにさ
れては困る」
「でも、きみはそれを仕組んだ。…なぜ?…アスカがぼくのことを好きになっ
て、きみに何の得があるんだ?」
「得だって?…はは。損得の問題じゃないんだ。これは運命なんだよ。きみは
アスカという少女に愛される。これは運命だと思いたまえ。そしてあの少女と
ともに生きろ。あの娘は、とても美しい女になるだろう。そして、きみのこと
を心底から愛し続けてくれる。きみがどんなひどい事をしても許すだろう。た
とえきみが裏切っても、彼女はきみを愛さずにはいられない。あの子はみんな
の憧れの的だった。よかったじゃないか、シンジくん。男できみを羨ましがら
ないやつはいないだろう」
「だから、なぜ?どうして?…どうしてなんだ、『闇の王子』?」
「言葉の意味も知らないのに使うのは、やめたまえ。…現実の、生身の、等身
大の女の子はいいだろう、シンジくん。あの雨の夜は残念だったな」
「な、なにを」
「赤くなるなよ。シンジくん。まあ、いくらでもチャンスはあるさ。先は長い
んだから、あせるなよ。それにちょっと障害があったほうがよけい燃えるって
ものさ…。しかし、あそこまでの行動に出るとは思っていなかったよ。君たち
はよほど惹かれあっていたんだな」
「え…?」
「ぼくがこんなことをしなくても、君たちはいずれ恋に落ちたかもね。ぼくは
それを早めただけかもしれない。それと、あの娘は心に大きな葛藤を抱えてい
たから、すがるものが欲しかったんだ」
「心に大きな葛藤?」
「自分で聞いてみるんだな、シンジくん。そして彼女の支えになってやれ。そ
れが出来るのはきみしかいない。そのかわり…」
「そのかわり…なんだ!?」
「『イアンナ』をぼくに返すんだ、碇シンジ。彼女はきみの手には負えない」
 
 シンジは、その時、まばたきした。次に目を開けると、渚カヲルと名のる少
年は、シンジの目の前に立っていた。シンジは思わず後ずさる。
「あの、ガラス瓶中の、小さなホムンクルスに閉じこめられた魂を、ぼくに返
してくれ」
「レイのこと?」シンジは言った。
「そんな名前で呼ぶな。彼女の名は『イアンナ』。シュメールの月神の娘だ。
彼女は『神性』なんだ、シンジくん。人間のきみが彼女と交わると大変な事が
起きるだろう」
「なんだよ、そのシュメールって、イアンナって、神性って!」

 渚カヲル=『闇の王子』はすぐには答えず、前髪を掻き上げた。
「やれやれ、…人類の始まりから説明して欲しいのかい?」渚カヲルは説明し
はじめた。それは学校では習った歴史とは全く違う物語だった。

 …原初の暗闇があった。『闇の王子』の父、『大いなる闇』である。それが
大気も海もない超太古の地球を覆っていた。やがて、『母なる夜』がやってき
た。原始の海である。二人は睦み合い、夜の大海の中で、生命の基礎となる「
有機化合物」が生まれた。
「ここに来たばっかりのうちは、退屈だったよ。僕たち一家は、毎日トランプ
をして暇をつぶしていた」カヲルは冗談めかして言う。
 やがて海そのものと微生物たちが協力し、恒常性を持つ大気システムが完成
した。こうして生まれた不自然な物質「酸素」は生命層を激変させ、進化を促
進する。
「長いこと待って、ようやく面白くなってきたんだ。じっさい、『カンブリア
紀』は面白かったよ。ぼくは今まで見たこともないような生物を思いついては、
淘汰に介入してその生物を出現させていた。まるで粘土をこねまわすようなも
んさ」
 生物はますます複雑になっていった。まるで庭に蒔いた野いちごの種が成長
するのを楽しみにするように、『闇の王子』の父と母は地球の生命の進化を見
守っていた。恐竜時代、小哺乳類時代が過ぎていった。
「母は恐竜をかわいがっていたけど、ぼくは嫌いだった。やつらはバカだった
からだ」
 人間は、類人猿から作られた。
「君たちは産後の肥立ちの悪い子供のようだったよ。サルの胚を操作したり、
幼形成熟させたり、いろんな試行錯誤のすえにやっと満足のいくものが出来た。
しかし、大きい脳を詰め込むために、生物としては奇形だった。きみたちの脳
はでかすぎるので、母体を守るために異常に早く出産しなければならなくなっ
たんだ」
 身体に比して巨大な脳のために、人間は歩行できるまでに出産から一年以上
も必要とする異様な生物になった。そのうえに、サルの幼形成熟体であるがゆ
え、成人するまでに十年以上もかかる、例外的な生物になってしまった。
「そいつが、きみたちの精神を歪めてしまったんだ。きみたちは健康な本能の
変わりに、いつもしかってくれる恐ろしい神様や、絶対的な君主を必要とする
ようになったんだ」
 人類誕生後、何百万年かのち、ようやく文明らしきものが、ある大陸で芽生
えた。
「その時、ぼくの父と母は、ちょっと旅行にいっちまったんだ。週末旅行みた
いなものさ。別の宇宙に子作りにでも行ったんだろう。あと植木に水をやっと
け、てなもんさ。ぼくは毎日退屈な超古代人の生活をながめていた。そいつら
が、毎晩のように生きた人間の腹を切り裂き、湯気の立つ内臓をぼくに捧げる
のを、ああ、あほらしいとながめていた」
「ある時、ぼくは退屈のあまり、オヤジの計画を早めてやることにした。魔法
と、君たちが『インヴォルブド・ピープル』と呼んでいる変身種の能力をそい
つらに授けてみたんだ」
 恐ろしい結果となった。その大陸に戦乱の嵐が吹き荒れた。大陸の北方に強
大な魔力をもつ『ソーサラー』が現れ、大陸を支配しようとした。それに抵抗
する魔法使いたちや獣人たちが入り乱れ、血で血を洗う戦いになった。やがて、
その『ソーサラー』は現在の『アインシュタイン・インターセクション』に似
た仕組みを使った最終兵器を発明した。
「兵器があれば、必ず使われる。そいつは、その兵器を使いやがった。ぼくが
止める間もなかった」

「それで、どうなったの?」話に引き込まれていたシンジは言う。

「その兵器は大陸ごと敵を吹き飛ばしたんだよ。馬鹿なことに、そのソーサラ
ーも死んだ。大地は裂け、海が大陸を飲み込んだ。ぼくは、少しの魔女、魔法
使いと獣人を連れて、別の未開の大陸に避難させてやった」
「あとで、オヤジにどやされたよ。実際、ぼくは人類の文明を数千年退化させ
てしまったんだからな。だが、個々の能力はたいしたことないのに、集団にな
ると、まるで雑草のようにたくましいきみたちは、再び文明を築き上げた。そ
れが世界最古の文明『シュメール』だ。彼らのうちには、沈んだ大陸の人種が
持っていた魔法と変身能力を持つものがわずかながら残っていた」
「ぼくはオヤジの罰で、肉体をまとって、その埃っぽい土地を歩き回っている
ときに、偶然にも君たちが『神性』を生み出しているのに気がついたんだ」
 『神性』とはわずかでも魔力を使える人間の集合的無意識が召喚した精霊の
ことである。集団による魔法とでもいえようか。
「甘えん坊のきみたちが、もっとも幸せだった時代だったかもしれない。『神』
が具体的な存在だった時代だからな。そんなとき、ぼくは『イアンナ』に出会
った。彼女は愛の女神だった。きみのような」カヲルはシンジを指さした。
「きみのような少年たちが、枕を抱いて眠る前のちょっとした夢想が集まった
『神性』、それが『イアンナ』だ。拡散によって人間が魔法を使えなくなると
同時に、ほとんどの『神性』は消滅したが、『イアンナ』だけはさまよう魂と
なって細々と生き残った。他の『神』は民族の特性に密着しているがゆえに、
文明の進歩によってそれをささえる魔力は希薄なるにつれ生き残ることはでき
なかったのとは対照的に」

「神様は人間がかけた魔法なの?」シンジは言った。
「そうだよ、シンジくん。少なくとも5千年前までは、集合的な召喚魔法によ
る神が実在してたんだ。自分の無意識の作ったものだから、厳しいようで、自
分の自我の都合のいいことしか言わないだろ?人間は叱ってもらうために子羊
や収穫物を神に捧げる。人間は、そうやることが神の召喚魔法を強化すること
をうすうす気がついていた。神の存在に疑いを持ってきたら、簡単な奇跡を起
こさせる。それは『ポルターガイスト』と同じで、自分が起こしているんだけ
どね…シュメール人が滅んだ後、人間の魔法を使える力はますます希薄になっ
ていった。それとともに神の存在も希薄になっていったんだ。『楽園追放』だ
よ、はははは」
「でも、…キリスト教が生まれたのは、予想外だったな。ユダヤ人たちは、多
くのものを、シュメール、バビロニアから得た。神様だって例外じゃない。古
代シュメールの血をひく何人かのユダヤが召喚した、田舎の小さな山の『神性』
があんなにメジャーになるなんて思いもよらなかったなあ。キリスト教にとっ
て幸運だったのは、ローマ帝国の存在だ。あの国がユダヤ民族自決運動であっ
た原キリスト教(ユダヤ教の単なる一宗派)を、統治のためにねじ曲げてくれ
たおかげで、とんでもないもんができちまった。キリスト教がなければ『来訪』
は数百年早く起こせていただろう。オヤジにグチをいわれたよ。でも、そのか
わり、『十字軍』の馬鹿騒ぎや『聖バーソロミューの虐殺』や『スペインの宗
教裁判』といった血まみれの面白い見物が増えたんだけどね」

 カヲルは、残忍そうなほほえみを浮かべて、その物語を語り終えた。
「わかるかい?…シンジくん。『イアンナ』がなんであるか。彼女は何千何万
という男たちの微弱な魔力の集合体なんだ。綿々と持ち続けてきた、存在しな
い永遠の処女への憧れの固まりなんだ。シュメールの王たちは、競って彼女と
交わりたがった。彼女はいみじくも『天の聖娼』と呼ばれていた」
「『てんのせいしょう』…?」
「聖女にして娼婦なんだよ、『イアンナ』は。同じ魂の中に、処女と淫乱女が
同居しているんだ。彼女は、生まれ変わるたびに愛した男一人のためだけに股
を開くが、何度も生まれ変わって、別の男を愛するのさ。そして、『イアンナ』
に愛された男は『世界の王』となって、常人の何倍も生きて世界を支配するこ
とができると言い伝えられている」
「…」
「きみは、『世界の王』なりたいのか?碇シンジ?…『ウィザード体制』を打
ち砕き、きみの足下に世界をひざまづかせたいのか?」
「…そんなことわからないよ!…急にそんなことを言われたって信じられるも
のか!」
「じゃ、信じなくてもいい。…とにかく、あのホムンクルスをぼくに渡せ。そ
れが誰にとっても一番幸せなんだ。いまのままでは、きみの言う『レイ』をも
不幸にするぞ!なぜなら、あのホムンクルスが死んで『イアンナ』が解放され
たら、いつ消滅するかわからないんだ。あれは奇跡だよ。きみの父上は偶然奇
跡を起こしたんだ」
「…別れるなんてできないよ。ぼくとレイは…」
「愛し合ってるのか…?…しかし、きみたちは絶対に結ばれないぞ。人間であ
るきみは人間を魔法で造ることはできない。もし、ホムンクルスのままでいる
と、器にたいして魂が大きすぎるために、身体を抜け出してきみと交わろうと
し、結果、きみに魔法の暴走をおこさせるぞ」
「もう、やめてくれ…。…なぜきみは女神に…」
「悪魔が女神に恋したらいけないのか?…シンジくん。ぼくは五千年前、きみ
と同じように、彼女と心と心を溶け合わせた。…すばらしい体験だった。…ど
うだろう、シンジくん。その方が彼女のためでもあるんだよ。『イアンナ』は
ぼくと『魔界』で永遠に生きることができる。きみはアスカと幸せにくらせば
いい」

 シンジは黙ってしまった。言葉にならないような想いが頭の中を駆けめぐっ
ているような気がした。
『おい、そこの人間の少年!』突然、鼻先で大きな声がしたから、シンジはび
っくりした。目の前に蠅が一匹飛んでいて、そいつが喋ったのだ。
『畏れ多くも殿下がこうして礼を尽くして頼んでおられるのだっ!貴様のよう
な塵芥に等しい人間の分際で』
「やめないか、ブブちゃん」カヲルはうるさそうに言う。
『いーえ、殿下。こんな下らぬ少年なんぞに、殿下のお時間をさくのはもった
いのうございます!ワタクシめにご命令を!一瞬でイアンナ様をここに』
 カヲルはさっと手を伸ばすと、そのぶんぶんいう蠅を握りつぶした。
「いったい何年仕えたら、ぼくの性格がわかるんだ!しばらく出てくるな!」
「…その蠅の言うとおり、ぼくからレイを奪うのは簡単だろ…。なんでこんな
回りくどいことをしなければならないんだ」シンジは尋ねた。
「きみはたしかに『イアンナ』である、あのホムンクルスと愛し合っているん
だろう。ぼくはそれを疑わない。だから、きみは自分の意志で、彼女に別れを
告げなければならないんだ。ちょうどメソポタミアの英雄、『ギルガメッシュ』
が『イシュタル(イアンナのバビロニア名)』の誘いを拒絶したように」

 シンジは、自分がレイに、さようなら、と言っている光景を想像してみる。
レイは悲しむだろう。レイは、もんどりうって悲しむだろう。ガラス瓶を必死
で叩いて、悲しむだろう。
 シンジは黙った。静かな児童公園の水銀灯に蛾たちがぶちあたる耳障りな音
だけが響いている。

「さあ、考えるんだ。シンジくん。何日か時間をやってもいい、よく考えろ」
渚カヲルと名のる、その超自然的な存在は言うのだった。
 シンジは、拳を握りしめて立っていた。その時、遠くで女の子の声がした。
複数の女の子だ。
 碇くんたら、時間通り来ないなんてどいういうつもりかしら。その声に聞き
覚えがあった。洞木ヒカリの声だった。ぼくが遅いので探しに出たんだ、とシ
ンジは思った。その声に、小さな、もっと馴染みのある声が答えた。
「きっと道に迷ったのよ」
 アスカの声だった。とても心配そうな声だった。…どうして、ぼくが遅いっ
て怒らないんだ、シンジは思った。どうして。
「アスカたちが君を捜しにきてるようだ。今日のところはかえるから、考えて
おいてくれ」カヲルは立ち去るそぶりを見せた。
「まって」シンジはカヲルを呼び止めた。
「もう決心できたのかい?」
 シンジは考えていた。猛烈な速度で考えた。目の前の光景がぱきぱきと音を
立てて、はじけるほど考えた。
「きみは馬鹿な取引をしているよ、カヲルくん」足が震えていたけれど、精一
杯、不敵にみえるような笑みを浮かべようと努力した。
「き、きみは、ばかだ。カヲルくん」シンジは言った。だれか声のふるえを止
めてくれ、と思った。
「なんだと…?」カヲルの端正な顔からほほえみが消えた。
 シンジは体中の気力をふりしぼった。
「そうじゃないか?…ぼくが、アスカを手に入れた代わりに、レイを渡す保証
がどこにある?…きみは、ぼくがうんと言わない限りレイを連れていけないん
だろ?…ぼくはこのままレイを渡さなかったら、アスカとレイと両方ぼくのも
のに出来るんじゃないか」
「…やれるもんなら、やってみろよ」
「で、できるよ。そしたら、…ぼくを殺したらいい。でも、きみは後悔するに
ちがいない。きみの言う『イアンナ』は、きみを許さないと思うから」
 カヲル=『闇の王子』は指先ひとつで、ぼくを消し去ることができるんだろ
うな、シンジは思った。
「…何を狙ってる?…取引か?悪魔と取引しようというのかい?」
「そうだよ。でも、きみにとって、損な話じゃない。…これは取引だ。取引を
公平にしよう。たぶんきみだったら、アスカをもとにもどせるんだろう?…『
惚れ薬』の解毒剤みたいな」
「ああ」
「じゃ、それをくれよ。そして、アスカをもとに戻して、もしぼくがレイをき
みに渡すって決心したとき、そのひきかえに『惚れ薬』をくれればいいじゃな
いか。…この方が取引らしいよ」
 シンジは、そう言い終わると、目の前に立つ、色の白い少年を黙って睨みつ
けた。
「…ぷっ。あはははははははは、こいつは傑作だ!」
 カヲルは突然笑い出す。ひどくおかしそうにシンジに向かってこう言った。
「うん。…その通りだ。ぼくはサービスのしすぎなんだな。…いいよ、シンジ
くん。ぼくはきみが気に入った。きみが好きになりそうだよ」

「シンジ!」その時背後でアスカが叫ぶ声がした。シンジは振り返らず、カヲ
ルを凝視したまま、「さがってて!」とアスカに叫んだ。
 カヲルはポケットから、でかい茶色の瓶を取り出した。どうみてもさっきま
でポケットに入っていたとは思えないような大きさだった。きっと虚空から現
れたんだろう、シンジは思った。
「これは『惚れ薬』の効果を全く無効にする薬だ。一滴でも飲めばすぐに効く。
ほら、あげるよ」カヲルは瓶をひょい、とシンジに手渡した。
「あ、ありがとう」シンジは拍子抜けしていた。
「これを飲ます飲ませないはきみに任せる。きみがあの可愛い女の子の愛情を
欲しくないって言うなら、飲ませればいい。そして、あのホムンクルスを死ぬ
までこんな瓶の中に閉じこめておくんだ、って決めても、ぼくはかまわない。
でも、ほんとうにあのホムンクルスを愛しているのなら、ぼくの申し出をよく
考えてみるんだな…。時間をあげよう」
 カヲルはシンジにそう言うと、今度はシンジの背後にいる二人の女の子に声
をかけた。
「委員長!…ぼくは明日から一週間病気で学校を休むよ。先生にそう言ってお
いてくれ」
 突然話しかけられた洞木ヒカリはびっくりして声も出なかった。
「じゃ、一週間後に返事をもらいにくるよ、シンジくん」
 そのとき、児童公園中の蛾がわっと飛んできて、渚カヲルの身体を包み込ん
だ。何千何百というおびただしい数の蛾だった。シンジは思わず吐き気を催し
た。蛾たちの群は次の瞬間、小さくなって、バスケットボールほどの大きさに
なった。
 ぱ。蛾の群は四散した。カヲルの姿は消えていた。

「…なによ、あれ」ヒカリの怯えたような声が、静まりかえった小さな公園に
響いた。
「…このことは、誰にも言わない方がいいと思うよ。アイツの言ったとおり、
明日から病気で休むって先生に言えばいい」シンジはヒカリに言った。
「シンジ!」その少年の背中に、長い髪の少女がしがみつくように抱きついた。
 シンジは危うく解毒剤の瓶を落としそうになった。
 背中に、二つの乳房の、暖かく柔らかい感触があった。その感触の中に、少
女のすべての重みがこもっているような気がした。少女は小刻みに震えていた。
「だ、だいじょうぶだよ。だいじょうぶ」けれど自分の声もまた震えているの
だった。

「じゃ、気を付けてかえってね」しばらくしたあと、ヒカリは二人に向かって
言った。アスカはシンジにもたれかかっていた。不思議だった。二人の身長は
同じ、いやアスカの方がやや高かったはずなのに、いまはシンジの方が大きく
見えた。
「うん。ありがとう」シンジが言った。
「ヒカリちゃん、ありがとう」アスカが言った。
 二人はゆっくりと立ち去った。洞木ヒカリは、その寄り添う影が角を曲がっ
て見えなくなるまで、道ばたに立っていた。

 二人は並んで、暗い夜道を歩いていた。
「…だから、あいつはレイを狙っていたんだ」シンジはカヲルとの会話をアス
カに話していた。
「そう。…シンジじゃなかったのね」アスカは安心したように言った。
 そのとき、シンジの頭にひらめくものがあった。
「アスカ、ひょっとして、『闇の王子』の事を知ってたの?」シンジは言った。
「…なぜ?」
「カヲルくんが転校してから、ぼくと彼が話をしようとするたび、割り込んで
きてたろ?…もしかして…それって」
「…そうよ。まっさきに、アイツはあなたを目当てに来たって思った。あの暴
走が起きた後だったじゃない。…アイツの目的がレイだったとしても、魔女の
わたしがいつも一緒にいるから、シンジに近づけなかった。だから相田に近づ
いて…狡賢いやつ!」
「どうして、カヲルくんが『闇の王子』だと知ってたの?」
「そ、それは…言いたくないわ」アスカは答えた。絶対に秘密にしたい、そん
な感じだった。『アスカは心に大きな葛藤を抱えている』。カヲルの言葉が頭
をよぎった。尋ねれば答えてくれるかもしれなかったが、シンジは訊かなかっ
た。
「それで、どうするの?…アイツにレイを渡すの?」
「…ん?…ぼくは…いやだ」シンジはぽつりと言った。
 アスカは黙った。シンジはその横顔を見つめていた。不安と悲しみの色があ
った。けれども、「…シンジがそう決めたのなら…」と少女は答えた。
 
 きっとぼくが、いますぐここで服を脱げ、と命令しても、シンジがそう決め
たのなら、と言って、従うんだろうな、とシンジは思った。ぼくがレイと一緒
に布団に入ろうと、他の女の子とキスしようと、アスカを捨ててどこかへ行っ
てしまおうと「シンジがそう決めたのなら」って言うんだろう。
 心細げな少女の表情を見ながら、シンジは、自分がさっきまで、誰と誰を天
秤にかけていたかを悟った。
 クスリによってぼくのことを愛するしかない少女と、ぼくを通してしか世界
に触れることのできない瓶の中のホムンクルスと。
「…アスカ。これ飲んでみてよ」彼は、アスカに見えるようにカヲルがくれた
瓶をかざしながら言った。
「でも、『惚れ薬』の効果は打ち消せないのは常識よ。そんなの、偽物か、ひ
ょっとしたら毒かもしれないじゃない!」
 シンジは、歩道の真ん中に立ち止まり、瓶の栓を取ると、アスカに止められ
る前にひとくち、口にふくむと、ごくんと飲み下した。
「これ、にがいや」シンジは言った。
「な、なんてことするの、吐き出して!」アスカはシンジの両手に手をかけて
必死に言った。
「だいじょうぶだ、なんともないよ」シンジは答えた。
 アスカは無理に笑顔を浮かべてみせるシンジを呆然と見つめていた。
「ばかっ。なにかあったらどうするのっ。あなたにもしものことがあったら!」
「カヲルくんは、ぼくだけには嘘をついてない、って感じがするんだ。なんだ
か、ぼくに好意をもってるみたいな。だからこれも本物って気がするんだ」
「…あなたって人は!」アスカの瞳に映る少年の姿が滲んでぼやける。胸がど
きどきしてくる。全身全霊が、「この人が好き」、と叫んでいるような気がし
た。
「飲んでみてくれる…?」シンジは言った。
「…わたしがシンジのこと好きなの、じゃま?…うっとおしい?」
「そうじゃないんだ。…ちっともそうじゃない」シンジは再びあの雨の夜のこ
とを思い出しているのだった。彼の下になって、潤んだ瞳で見上げている美し
い女の子の姿を思い出したのだ。
「うまく言えないけど、このままだと、ぼくは駄目になってしまう気がするん
だ。自分が、とんでもないろくでなしになるような気がするんだ。絶対、アス
カを不幸にするような気がするんだ」
「…わたしは、不幸じゃないわ。側にいてくれたら。どんなに変わっても…」
「だめだよ、それじゃ、だめなんだ…飲んでみてくれないかな?」
 アスカは、立ち止まって、通り過ぎて行く車をながめるふりをした。涙がこ
ぼれるのをこらえているようだった。彼女は人差し指で目の下をそっと押さえ
て涙を拭って、顔だけシンジの方を向き、「どうしても、飲まなきゃ…だめ?」
と訊いた。
 その仕草があまりにも可愛らしく、女らしかったので、シンジは思わず、飲
まなくていいよ、と言いそうになった。
「たのむ。ぼくのために」
「…キスして」アスカは言った。
 シンジはアスカの肩を抱いて、キスした。何人かの通行人が歩道で抱き合う
彼らをしげしげと見ていった。
 ふたつの唇がそっと離れて、それらをつないでいた銀色に輝く糸のようなも
がふっと切れた。
「…好き。だれよりも大好き…」アスカは言った。

 アスカは薬を飲んだ。とたんに顔をしかめた。そしてシンジに茶色の瓶を突
き出した。
「なによこれ!苦いじゃない。…ほんとにもう。あたし、もう帰るわ!」
「気分はどうなの?」
 アスカはシンジに背を向けて叫んだ。
「いいわけないじゃない!さっきまで『あんたなんか』とキスしてたと思った
ら、気持ちわるくなったわよ!…帰って、うがいしよ!」
 そう言って家とは反対の方向へ歩き出した。
「家は反対だよ。そこを左に曲がるんだ」
「わかってんなら、さっさと言いなさい!あんた、トロイわよ」アスカは回れ
右をして大股で歩きだす。
「ごめん」
「ふん」

 シンジの5メートルも先を、すたすたと歩いていくアスカのあとをとぼとぼ
歩きながら、碇シンジは、これでよかったんだ…よな?と思った。

 アスカは先に家に着き、心配して家の外で待っているユイに報告した。
「そう、レイは『イアンナ』だったのね!」ユイは言った。
「知ってるの」
「ええ、シュメールの月神の娘。のちにバビロニアへ、イシュタル(金星)信
仰として受け継がれた神…。あの水の怪物たちの行進の意味がわかるような気
がするわ」
「え?」
「旧約聖書のノアの方舟の元になった洪水伝説を生んだ、ユーフラテス川のほ
とりで生まれた神なのよ。そして神とは、意識されない魔力の集合体…」

 シンジがそこに、ようやく帰って来た。彼はわざとゆっくりと歩いて帰って
きたのだった。アスカは、ぷいっと横を向き、さっさと子供部屋に上がって行
った。

 その真夜中、アスカは長い長い手紙を書き終えた。ペンを置くと、便せんに
魔法をかけた。文字たちは変形し、留学生が本校に宛てた、何の変哲もないド
イツ語の文章になる。
「とにかく義務は果たしたわ」彼女はつぶやいた。

 アスカはうなされていた。薄暗い白い部屋。
 アスカは幼女の姿になって、一日中椅子に座り何もない壁の一点を見つめて
いる母親の手を握っていた。
 部屋の真ん中に大きな男が立っていた。
『性によってわれわれは真の自己と出会うのだ』その男は言った。
「ばかぁ!ばかぁ!…あんた、ばかぁ!」アスカは叫んだ。
『今は理解しなくてもよい、アスカ。これは世界のためなのだ』
「うそ、うそ、うそ、じぶんのためでしょ!このにせもの!」
 その男は身体の節々から蒸気をプシューと吹き出しながら、アスカの頬を、
ぱちんと叩いた。
 そのとき視界のすみから、シンジがスローモーションで走ってくる。男とア
スカの間に立ちはだかって、「逃げるんだ。ぼくが守ってあげる」と言った。
 ばか。『惚れ薬』の効果は切れたのよ。あんたはレイを選んだんだわ。

 目がさめた。夜が明けていた。顔がむずむずした。指で顔に触れてみる。濡
れていた。なぜ、泣いているんだろう?と思った。

 手紙は三日後に宛先に届くことになる。
 男はそれに魔法をかけて読み、しばらく考えていた。やがて秘書を呼び、日
本行きの飛行機を予約しろ、と命令した。
 その男はお忍びで日本へやって来ることになる。濃い緑色の神父のような服
を着て、目にはメカニカルなサンバイザーを付けたその男は、どうみても秘密
結社の首領のような怪しげな雰囲気を漂わせている。
 空港で、機内で、人々が彼をじろじろ見るのだった。格好が怪しいせいもあ
るが、世界的な有名人でもあるからだ。
 ヨーロッパ地域の『ウィザード』にして、ドイツにある魔法学の最高学府『
魔法アカデミー』の学長である『ウィズ・ローレンツ』その人であった。



つづく

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