錬金術師ゲンドウ


 第10話「闇の王子(前編)」

 そのヘリコプターは、砂漠の町から飛んできたのだった。
 白い機体には、向かいあう獅子の紋章が付けられていた。機内には3人の男
がいた。一人は操縦士。一人は眼鏡をかけた税理士を思わせる男。もう一人は、
肩まで伸ばした金髪に、口ひげを生やした男。
 眼下には黄色い砂漠が広がっており、そこを縦断するように一直線の道路が
延びている。
「最近調子はどうだい?」口ひげの男は快活に眼鏡をかけた男に話しかける。
「絶好調でした。マイ・ロード。今日のお昼まではね。いまはひどい気分です」
「はははは、きみは、心配性だなあ」
 …たく、この人の楽天性は、たいしたものだ。眼鏡をかけた男は、隣に座っ
ている、北米大陸でもっとも重要な男を見た。その男は、年齢よりも遥かに若
く見える。そしてどことなく感じる気品。その髪型、その口ひげは、まるで中
世のイギリスの若い王様を思わせる。だから、彼の部下は、彼のことを「ウィ
ズ・ブリティッシュ」という正式な敬称ではなく、「ロード・ブリティッシュ」
と呼ぶ。

 その建物は500メートル上空からも、人を威圧するような巨大な要塞だっ
た。訪問者、といっても一般人が招かれることは極めてまれだが、彼らはまず
砂漠にそびえ立つベージュ色の大きな壁に圧倒される。そしてその上空に達し
たとき、さらに驚かされる。要塞は、真上から見ると、途方もなく大きい魔法
陣なのである。
 『フォート(レス)・ローエル』。それがこの要塞の通称である。正式名を
「世界魔法管理機構本部」。これはかつて『パーシヴァル・ローエル』の建て
た、天文台に偽装した研究所の跡地に建てられていた。
 人類は、ここで、『悪魔』の『来訪』を受け、『契約』の結果、永遠に変化
してしまったのである。

「こちらは、『フライング・イングリッシュマン』、『フォート・ローエル』
ヘリポートへの着陸を要請す。『結界』を解除されたし」操縦士は要塞と通信
した。
「了解。2番ヘリポートに着陸を許可する。そのまま垂直に降下せよ」
「了解」

 ヘリは降下を始めた。『ロード・ブリティッシュ』は、真下の目に見えない
『結界』にヘリ一機分の大きな、といっても全体から比べれば小さな物なのだ
が、円形の穴が出来たのを感じた。
 いかなる通常兵器、魔法使いによる魔法攻撃にも耐えうるように、『フォー
ト・ローエル』は24時間、魔法による『結界』に護られていた。その結界は
『フォート・ローエル』の中にいる3000人の魔女と魔法使いが交代制で張
っているのだ。また、この要塞は、理論上の兵器である核爆弾の攻撃にも耐え
うる設計になっている。

 1914年に勃発し、1918年に終結した『世界大戦』以来、戦争らしい
戦争は起きてはいない。『魔法』が兵器として利用されたこともない。それは
6人のウィザードを頂点とした魔法管理機構という、国家を越える枠組みが機
能してきたからだった。
 帝政ドイツがフランスとの戦闘において「魔法」を使用した時、人類は『来
訪』後の狂乱から正気に戻り、自分が大変な力を手にしてしまったことに気づ
き、そしてまた別の狂気にとらわれてしまったといえるだろう。
 そして、人類が再びその狂気にとらわれないという保証はどこにもない。

 ヘリは無事、要塞の屋根にあるヘリポートに着陸し、眼鏡をかけた男と、「
ウィズ・ブリティッシュ」は、外に出た。乾いた太陽が照りつけている。
「急ぎましょう、マイ・ロード、スティーブがあなたを待ちこがれてますよ」
「うむ」
 二人はエレベータに乗り、要塞の地階へ向かって降りる。
「スティーブは『アインシュタイン・インターセクション』にこもりっきりな
んですよ、マイ・ロード、細々とした仕事はみなわたしに押しつけて」
 眼鏡をかけた男は愚痴を言う。
「まあまあ、そう言うな、ビル、君たちはうまくやってるじゃないか」
「そうですかね」

 エレベーターは2分後静止した。ここは地下50メートル。『フォート・ロ
ーエル』でもっとも優秀な頭脳が集められた要塞の中枢。それはその概念の発
見者の名を取って、『アインシュタイン・インターセクション』と呼ばれてい
る。
 その「交点(インターセクション)」の中心には、膨大なエネルギーによっ
て維持された『魔界』への『時空回廊』がある。それこそが、『ウィザード体
制』の要(かなめ)であった。

 ブィティッシュが、長い廊下を歩いていると、液体の入った球体がふわふわ
と飛んでくる。球体の中には小さな緑色の髪をしたホムンクルスが漂っていた。
「やあ、ミランダ、元気かい?」ブィテッシュは声をかける。
 妖精は答えず、ぷいっと横を向く。
「あなたが最近来ないのでむくれてるんですよ」ウィリアム(ビル)が言った。
「ごめん、ミランダ。今日は忙しいけど、またゆっくり話そう」ブリティッシ
ュは優しく言った。
 ホムンクルスは、この気取らないが気品のあるウィザードに向き直ると、あ
かんべえをする。

 ブリティッシュは、笑って手を振ると、巨大な円形劇場を思わせる『アイン
シュタイン・インターセクション』の内部に入った。とたんに厳しい表情にな
っていた。研究部内部は円形になっており、円周部には、若い女性たちが等間
隔に座っている。彼女たちは、水晶玉を思わせる透明な器具を前に、手を振っ
たり、瞑想したりしている。円の中心に薄い緑色の光を放つ、一辺1メートル
ほどの立方体が、回転しながら宙に浮いていた。
「『プロスペロー』は、フル稼働ですよ、マイ・ロード。『魔法衛星』の制御
タスクを『キャリバン(魔法管理機構防衛システム)』に回さざる得なくなっ
てます」ウィリアム・ゲイツはブリティッシュに言う。

 話を簡単にしよう。『プロスペロー』とは魔法と科学の融合によって生まれ
たニューロンコンピュータであり、そのコンソールに当たるのが、魔女たちが
向かい合っている「直感発振体」(通称「タリスマン」)である。オペレータ
は世界から集められた優秀な「占い系」の魔女たちであり、彼女たちは言葉を
越えた直感をこの『プロスペロー』から得る。
 『キャリバン』とは、魔女と魔法使いを、特定の国家の不当な圧力から護る
ための防衛システムである。必要があれば、『時空回廊』を通して地球上の任
意の地点に『ウィザード』の強力な魔法による攻撃を加えることも可能なのだ。
 どんな国の独裁者も、自国に生まれた魔女、魔法使いを兵器として利用する
事をしないのは、この『キャリバン』が睨みを効かせているせいである。

「マイ・ロード、待ってましたよ」でっぷりと太り、頬を髭だらけにした男が
足早にブリティッシュたちに近づいてくる。
「やあウォズ、こんなに慌ててる君を見るのは初めてだな」ブリティッシュは、
魔法使いにして天才的な魔法コンピュータ科学者、スティーブ・ウォズニアッ
クに言った。
「これで慌てないなんて、どうかしてますよ、マイ・ロード。第二の『来訪』
が起きるかもしれないんですよ!」『ウォズ』と呼ばれた男は言う。
「決まったわけじゃあるまい」ウィリアムは言う。
「気休めを言うな。ビル。第二の『来訪』の目的は、悪魔たちの『契約』の変
更の申し出かもしれんぞ。…いや、あるいは一方的な契約破棄かも。そうなっ
たら世界の終わりだ」ウォズがウィリアムに噛みつく。
「だから、大騒ぎするな。これが外部に漏れたらどうするんだ」ウィリアムは
言い返す。
「組織がでかくなると必ず官僚主義がはびこる。君みたいな輩が」
「二人とも止めないか。とにかく何が起きたかを報告したまえ」ブリティッシ
ュは静かに言った。二人の男はぴたりと口論を止めた。
「いまから1時間前に、『アインシュタイン・インターセクション』の『時空
回廊』以外のルートを通って、『魔界』の何かがこの物理世界に顕現した可能
性を『プロスペロー』が算出しました。論理的な可能性のある地域は、日本。
場所はここである可能性がもっとも高かったです」
「アカギ博士が、またやったのか」ブリティッシュは言った。
「いえ、違います。真っ先に彼女に確認しました。…まったく、すごい女性だ。
まるっきり間違ったフェッセンデン仮説から出発し、誤解したまま研究を続け、
『魔界』まで達したんですからね!」ウィリアムは言った。
「おまけに、美人だしな」ウォズニアックは、髪を金髪に染めた美しい科学者
の写真を思い出しながら、うっとりしたように言う。
「ほう…お気に入りなんだな。とにかく、違います。それに今回のは『接触』
ではなく『接近』なんです。つまり『魔界』の方からわれわれの世界にやって
きたのです。アカギ博士の時と同じく、『魔法衛星』はなにも検出出来ません
でした」
「そうだろうな。魔力も物理作用もまったくない特異点に過ぎないのだから。
現在は消失してるんだな?」
「そうです。ほんの1分ほどの顕現でした。しかし、再発の可能性は76パー
セント以上。位置と時間はまだ推測できません」
「…そうだ。『魔法衛星』に『召喚魔法』への監視の強化を命令させよう」ブ
リティッシュは言った。『悪魔』は人間が怯えるのを見るのが大好きなので、
古典的な、おどろおどろしい悪魔の肉体を得ようとするだろう。ブリティッシ
ュはそう思ったのだ。
「やってます。1時間前から。とりあえずアメリカ大陸だけでも、魔女と魔法
使いに、召喚魔法を控えるように命令してください、マイ・ロード」
「わかった。ビル、『エアリエル(魔法管理機構連絡網)』を通してわたしの
名前で命令を出してくれ。『追って通達あるまで召喚魔法の使用を禁ず』とな」
「しかし、医療用途など、緊急を要するものもあります。いったいいつまで?」
「それがわかれば苦労はせんさ。しかし、わたしの予感では、間近に迫ってい
るような気がする」

「イエス、マイ・ロード」ウィリアム・ゲイツは通信室へ走っていく。通信室
といっても、『エアリエル』は電波による通信システムではない。
 どことなく税理士といった職業が似合いそうな、眼鏡をかけ、地味なスーツ
を着た男は、ある暗い部屋に入り、ネクタイをゆるめると、精神を集中させる。
彼は呪文を唱えない。マンガに出てくるような、いかにも「魔法使い」といっ
たスタイルを嫌悪しているのだ。
「出てこい、『エアリエル』。緊急の仕事だ」強いていえばこれが呪文かもし
れない。
「はい、マスター」彼の目の前の空間が、ふっ、と揺らぎ、青白い、少年のよ
うにも女性のようにも見える精霊が現れた。精霊が宿る魔法電子計算機の化身、
『電子精霊エアリエル』だった。彼(?)は、その中性的な美しい顔をウィリ
アムを向けて、顔をしかめた。
「なんだ、あんたか」精霊は、蝋燭の揺らめきのような不思議な声で言った。
「あんたか、はないだろ。仕事だ。『ウィズ・ブリティッシュ』名で、北米・
南米のすべての魔女と魔法使いへ指令。『追って通達あるまで召喚魔法の使用
を禁ず』、だ。…復唱してみろ」
「やだね」精霊はからかうように言い返す。
「…たく。…もういい。とっと行け。『タイムスタンプ』を忘れるなよ」
「アイアイサー」精霊は消えた。
「あんちくしょう!」眼鏡をかけた男は言った。指をぱちんと鳴らす。虚空に
アメリカ大陸の地図がぼっと浮かびあがる。
 男は「花火」が上がるのを待った。

「『エアリエル』進入路入りました!」男の立っている部屋の何層も上のオペ
レータ室で、女の子が叫んでいる。
「進入角よし!…進入速度よし!」
「増幅開始」
 精霊は、長い加速器の中を光速度に近い早さまで加速されていく。そして、
『時空回廊』に近づくにつれ、偉大なるアインシュタインの『魔界相対性理論』
により、増大してゆくはずの精霊の質量が、膨大な『魔力』に置換されてゆく。

 ちゅどーん。ウィリアムの目の前の地図に色とりどりの、何十万もに分割さ
れた『エアリエル』の光の軌跡が、ぱっと開いた。
 インターネットなら「同報メール」でも出しときゃ済むところを、なんでこ
んな派手な仕掛けをつかわにゃならんのだ、ウィリアムは思う。
 しかし、精霊の性格は最低だが、光速で飛び、確実に相手を捕まえて、耳元
でこっそりと囁いてくれるような『通信手段』が、他にあるだろうか?

「…うるさいのが、いなくなったところで、マイ・ロード、今回の事どう感じ
ます」この『ウィザード』が若干の予知能力を持っていることを、科学者は知
っているのだ。
「…うん。わからない。何も浮かばないんだ。何かが起ころうとしているよう
な気はする。それが何かは検討もつかない。…ああ!こんな時に台湾のワン大
人(亡くなったアジア地域の『ウィザード』)がいたら!」
「あの方なら、『革』の卦が出ておるようじゃ、ふぉふぉふぉ、などとおっし
ゃるんじゃないでしょうか」
「物まねがうまいな」ブリティッシュは言った。

「それより、面白いことを発見したんです。こちらへ来てください」ウォズニ
アックは手招きした。
 二人の男は、『プロスペロー』のひときわ大きなコンソールの前に立つ。
「あなたの提案で始めた、平行世界のシミュレートの事なんですが」
 それはブリティッシュの発案によるもので、世界でもっとも進んだ魔法計算
機である『プロスペロー』によって、「『来訪』の起きなかった世界」を仮想
世界に造り出すという試みである。
 元々は、偉大な科学者にして初代ヨーロッパ地域の『ウィザード』、『ウィ
ズ・アインシュタイン』の発案である。彼は、悪魔との契約書を検討していく
うちに、悪魔が再三『汝らの世界が選ばれ』と繰り返しているのに気がついた。
もちろん、その言葉を、他の天体の知的生命体のうち地球人類が選ばれたのだ
と解釈することは可能である。悪魔との契約の席にいたのは、パーシヴァル・
ローエルと、当時のアメリカ合衆国大統領クリーブランドであり、彼らはその
ように考えたようだ。ことにローエルは、太陽系内のほとんどの惑星に生物が
いると信じており、太陽系の諸惑星のうち地球が選ばれたと信じていたという。

 1918年に『世界大戦』を終結させ、『ウィザード体制』を確立し、世界
から大きな戦争の不安を取り除いた後、アインシュタインは、『魔界』の研究
に取り組んだ。そして特異な「魔界相対性理論」を完成させたのである。そし
て、時空連続体の「裏」に存在するといえる魔界の特性から言って、この契約
書でいう「世界」が、様々な違いを持ちながら平行して存在する「パラレル・
ワールド」を指しているのではないか、と考えたのだ。
 その理論を実証することなくこの世を去った彼の遺志を継いで、ウィズ・ブ
リティッシュはこの研究に取り組んだのだ。当時とは状況が違い、ブリティッ
シュには、推論や第六感までも備えた『プロスペロー』というコンピュータが
ある。

「結論から言いましょう、マイ・ロード。『来訪』が起きなかった世界では、
『世界大戦』後、遠からずもう一度、世界大戦が起きます」ウォズニアックは
言った。
「やはりね…。どこの国が起こすんだ?」
「おそらくはヨーロッパでは、ドイツが主でしょう。極東では日本。これは単
純なシミュレーションです。われわれの『世界大戦』は、誰が勝者とも言えな
かった。強いて言えば、『世界大戦』は『ウィザード』を頂点とする魔女と魔
法使いの勝利で終わった、そうでしょ?」

「そうだね」そう答えながら、ウィズ・ブリティッシュは、頭の中で『世界大
戦』を反芻してみた。


 それは、人類史上もっとも恐ろしい殺し合いであり、もっとも奇怪な戦争で
あった。19世紀の飛躍的な科学の発達によって、兵器は格段に進歩を遂げた。
飛行機、飛行船、戦車、機関銃、そして毒ガス。それらは科学がもたらしたも
の。
 そしてもう一方で、『来訪』は人類に「魔法」という兵器をもたらしたので
ある。
 魔法を最初に戦闘に使用したのは帝政ドイツであった。彼らは西部戦線で、
それを使用した。1915年4月22日、ベルギーのイープルの戦いである。
 5人の若い魔法使いの召喚魔法によって呼び出されたキマイラの編隊が、フ
ランス軍の3個師団を全滅させたのである。
 フランスは急遽国内で魔法が使えるものを召集した。かくて魔法が戦争の道
具となった。たとえば、フランス軍の勇猛果敢な『魔女飛行隊』が、ドイツ軍
の拠点を爆撃し、多くの戦果を上げたのは有名である。
 列強のうち、兵器としての魔法利用に立ち後れていたのは、日本だった。日
本は連合軍側として参戦し、中国におけるドイツの拠点青島(チンタオ)を占
領した。が、その翌年、ドイツの魔女部隊(といってもほんの数名)によって
奪回されてしまった。日本は慌てて陰陽師、祈祷師、巫女などを動員して対抗
するが、本格的な魔法を訓練を受けた魔女たちの敵ではなかった。

 国々が魔法と最新兵器を投入してゆくにつれ、戦争は泥沼の様相を呈してき
た。魔女と魔法使いたちの部隊は、戦局を打開するために常に最前線に追いや
られたため、特に消耗が激しかった。「来訪」直後に発見された「魔法第一世
代」は、その過半数がこの時に戦死したと言われている。
 4年間にも渡った戦争の末期、のびきった戦線を支えていたのは、実は年端
もいかぬ少年少女たちだった。彼らは、本国で強制的に試験を受けさせられて、
魔法が使えるのがわかると、ろくに訓練も受けずに実戦に放り込まれ、ほんの
数回魔法を使用しただけで、ばたばたと戦死していった。兵士たちの間に厭戦
気分が広がった。無理もない。ライフルで、箒に乗った12、3才の少女を『
撃墜』したり、魔法をかけるために精神集中に入った幼さが残る少年を狙撃し
なければならないのだ。しかし、魔法に対して有効な戦術はこれしかないのだ
った。茂みに隠れて子供を撃つしか。

 その頃、ドイツ軍に最強の魔法使いがいた。スイスに在住し、世界大戦前に
「特殊相対性理論」を発表した『アインシュタイン』であった。彼はユダヤ人
であるため、ドイツ本国では研究職に就けず、スイスに居た。その彼が強い魔
力を有する事がわかると、ドイツは彼を半ば拉致するように本国に連れ帰り、
兵役につかせたのだった。
 ほとんど将軍並の扱いではあったが、封建的なドイツ軍を彼は嫌悪した。科
学の力による大量殺戮兵器を嫌悪した。魔法を使う子供たちを殺す戦争を嫌悪
した。彼は密かに魔力を使って、ロシア、フランスの魔女、魔法使いに戦争を
止めさせるように呼びかけた。1916年の事である。
 ロシアでそれに呼応したのは、意外にも宮廷に近い地位にいた僧『ラスプー
チン』であった。彼が『インヴォルヴド・ピープル』であったのは周知の事実
である(推測だが「吸血鬼」)。彼はドイツとの講和を結ぶために皇帝ニコラ
イ2世に働きかけた。しかし、和平を目前にして彼は、彼に反感を持つ貴族た
ちに暗殺された。毒を盛り、ナイフで刺し、銃で撃って、ようやく死んだ『ラ
スプーチン』の遺体は、凍った川に投げ込まれたといわれる。

 やむなく『アインシュタイン』は、フランスの志を同じくする魔法使いと協
力し、西部戦線のヴェルダンで、最後の賭けに出た。
 これが世にいう『ドゥオーモン宣言』である。その名は、ヴェルダンにある
要塞から取られている。ここでフランスとドイツ軍合わせて数十万人の将兵が、
間近でその歴史的瞬間に立ち会うことになった。
 それはまるで旧約聖書級の出来事だったに違いない!と、ブリティッシュは
思うのだ。戦闘中の最中に空中に巨大な光の玉が出現し、同時に将兵たちの銃
や大砲がいっさい無効になった。一瞬のうちに火薬が、まったく発火しない物
質に変化したのだ。
 光の玉の中に青年の『アインシュタイン』と、彼を取り巻くように少年と少
女たちが浮かんでいた。フランスとドイツ軍の魔女と魔法使いたちだった。
 呆然と見上げている将軍たちの心の中に、彼らの宣言文が流れ込んでくる。
『我々魔女と魔法使いは、この忌まわしい世界大戦に参戦しているすべての国
々が、それぞれ速やかに講和条約を締結することを要求する。また我々は、地
上のあらゆる国家から独立した勢力として、特定の国家の戦争遂行手段として
魔法を使用することを拒否する。この要求が48時間以内に実現されぬ時は、
我々は持てる魔力のすべてを使って、世界中にある兵器および軍事施設を瞬時
に破壊せしめる』
 そして、光の玉から、フランスの若い魔女が召喚した空気の精霊たちが、輝
きながら何千と飛び出てきて、宙を舞い、世界にそのメッセージを伝えて回っ
た。一般の兵士たちは、そのオーロラのように美しい光の乱舞に、思わず歓声
を上げたという。
 これが後に発展し、増幅の仕組みまで備えたのが『エアリエル(魔法管理機
構連絡網)』である。

 この宣言が、ブラフ(はったり)であったことは、多くの歴史家が指摘して
いる通りである。いくら彼らが強力な魔力を持っていたとしても、「瞬時」に
「世界中」の兵器や軍事施設を攻撃するのは不可能であった。なにせ当時は『
アインシュタイン・インターセクション』は無かったのだから。
 しかし、彼らは賭に勝った。
 もちろん抵抗はあった。『アインシュタイン』を殺害するために多くのドイ
ツ軍が投入されたが、徒労に終わった。
 各国に野火のように広がっていた反戦運動も彼らの側についた。各国の国民
は4年に渡る奇怪で残酷な戦争に疲れ切っていたのだ。
 こうして戦争は「戦勝国」のないまま終わった。
 『ドゥオーモン宣言』を行った魔女と魔法使いたちは戦後の新しい秩序の構
築に奔走し、結果、人類に100年にわたる平和をもたらす『ウィザード体制』
が確立されたのである。

「何を長々と考え込んでおられるんです、マイ・ロード」
「あ。すまない。『世界大戦』の事を考えていたんだよ」
「それは暇な時にやってください」ウォズニアックは遠慮がない。「とにかく
わたしは『世界大戦』の再構築から始めました。『来訪』とは関わりなく、1
9世紀の流れからいって20世紀初頭に大戦争が起きるのは確実ですからね」
「ああ」
「そして、敗戦国はドイツ側であると断定しました。『プロスペロー』でなく
たって予想できます。東部・西部の長大な戦線を維持できるほどの国力は彼ら
にはありません。ドイツは徹底的に負け、多くの領土を失います。そして戦勝
国のフランス・イギリスは、おそらくはドイツに莫大な賠償金を課すでしょう。
それらが次の戦争の原因になります」
「戦争は、絶えず『次の戦争』の原因を内包しています。戦争の終わりは、次
の戦争行為への助走の始まりといっていい」
「そうだね」ブリティッシュは言った。
「そして『世界大戦』が世界を巻き込んだ戦争であるが故に、『次の戦争』も
『世界大戦』でしょう。区別するためにこれを『第2次』世界大戦と呼びまし
ょう」
「すると我々の『世界大戦』が『第1次世界大戦』で、そいつが『第2次世界
大戦』だね。すると『第3次』、『第4次』も起こり得るんだな」
「いや、マイ・ロード、『第4次』まで人間は生き残ってはいないかもしれま
せん。『プロスペロー』は、『第2次世界大戦』において核兵器が使用される
確率を89パーセントとはじき出しました」
「なんだって!?」
「いいですか、マイ・ロード。こいつは『来訪』の起きていない世界の話なん
です。つまり『ウィズ・アインシュタイン』が『ウィザード』じゃない世界な
んです」
「…そうか」
「そうです。マイ・ロード。あの方が禁止した核兵器の製造を各国が争ってや
っている世界ですよ。…しかし、『核融合』兵器の方は『第2次世界大戦』に
間に合わないかもしれません。気休めにはなりませんがね」
「…恐ろしい事だ。勝つのはどっちと予測されたんだね?」
「ドイツが核兵器を敵国よりも早く生産できれば、若干の勝機はあったかもし
れませんが、おそらくまたアメリカ、イギリス、フランス側が勝つでしょう。
そして戦争はいったん終わりますが、さっきの法則によって世界各地で戦争は
なんらかの形で継続されます。『核融合』兵器の使用もあり得るかも」
「…悪魔と契約した我々の世界の方が『まし』ということのなのか…?」

「マイ・ロード、しかしこれは前置きです。わたしが見つけたのはもっと恐ろ
しい事かもしれません」ウォズニアックは、効果を高めるように言葉を切った。
 その時『エアリエル』による通信を終えたウィリアムが帰って来た。
「二人してこんなところで何を話してるんだ?」
「…わたしは、あなたに命令された『来訪の起きなかった世界』のシミュレー
トだけではなく、もっといろんなシミュレートをやってみたのです」
「ほう?」
「まず『プロスペロー』に有史以来の世界の歴史をたどらせました。そして、
任意の時点で、『来訪』を起こしてみたのです」
「たとえば、ローマ帝国時代に悪魔との取引をしたってことにするのかい?」
ウィリアムが口を挟む。
「そうだよ。そんなもんだ。…そして、その後の歴史をシミュレートした。何
万もの歴史モデルが出来て収拾がつかなくなるといけないので、今から見た歴
史の節目に当たる部分で、『来訪』を起こしてみたんです。…そして、あるこ
とに気がついたんです」
「もったいぶるなよ!スティーブ。早く言え、こうしてる間に『魔界』の侵入
があるかもしれんぞ!」
「オマエは黙ってろ。マイ・ロード、『魔法性差』をご存じですよね?」
「ああ、もちろん。新たに生まれた、魔法を使えるものの性別は、男1に対し
て女5。魔女の方が多いってやつだね」
「そうなんです。遺伝学的に言って、それはまったく根拠が無い。しかし統計
学的には明らかにその傾向は存在する。そして、男の魔法使いは女性に比べれ
ば数は少ないが、そのかわり強い魔力を有するものの割合が多くなる傾向があ
る…。げんに現役の5人の『ウィザード』はみな男だ。これは何を意味するん
だろう、と、わたしは考えたんです」
「早く言えよ」ウィリアムは独り言のように言う。

「言うよ。結論から言いましょう。『来訪』は歴史上これ以上無いっていうグ
ッドタイミングで起こった。…なぜか?その時が、長い目で見れば、もっとも
強力な『魔法使い』を多く生み出す可能性が高いからです。『来訪』は19世
紀よりも前でもだめ、核兵器実用後でもだめなんです」
「…わかったよ、ウォズ。19世紀よりも前ならば、『科学的精神』が未発達。
魔法は、人類により大きな混乱と亀裂を生む。魔法を『持つもの』『持たざる
もの』との反目が、殺し合いに発展するかもしれない。そして、核兵器の後な
らば、『ウィザード』を頂点とする魔法使いたちが、諸国家を超越した勢力と
はなり得ない」
「そうです、マイ・ロード。悪魔が『我々の世界を選んだ』と言ったとき、そ
れは『来訪』がまだ起きていないちょうどいい時間帯の世界を選んだ、と言っ
たのに等しい。これを見てください」ウォズニアックは、目の前のディスプレ
イのアイコンをクリックし、グラフを表示させる。
「『魔法性差』は、より強力な男の魔法使いを生み出すのにちょうどいい仕組
みです。男の魔法使いは、魔女と結婚する可能性が高い。魔女は、ここに大勢
居るから言うんじゃないですが、普通の女性に比べて魅力的な女性が多いので
一般人と結婚する事も多い。100年にわたる『ウィザードの平和』が、さら
に続くとして、人類全体に対する魔女魔法使いの割合は等比級数的な上昇カー
ブを描きます」
「じゃあ、スティーブ、あと500年もしないうちに、地球は魔女と魔法使い
だけになるのかい?」ウィリアムは言った。
「いや、このグラフにゃ『インヴォルヴド・ピープル』の要素は入っていない。
彼らに対する統計調査が許されていないから、入れようがないのさ」

 突然、ブリティッシュには、圧倒的な「未来のヴィジョン」が見えた。遥か
な未来。すべての人々が魔法を使えるか、『インヴォルヴド・ピープル』にな
った世界。経済活動は魔法によって行われ、地球資源を消費する事がほとんど
なくなった世界。ヨーロッパには、巨大な森が復活する。いや、世界中が森の
ようだ。打ち捨てられた高速道路や鉄道の廃墟が木々に覆われている。…森の
中に魔女たちの母系社会がある。1:5の比率の男性の魔法使いたちに、魔女
たちは太古の秘儀、『グノーシス』を与える。…魔法使いたちは、『ウィザー
ドリィ』を得て、みな『ウィザード』に育つ。一瞬、ブリティッシュは「そこ」
に居た。むせかえるような森の香りを嗅いだような気がした。

「ここに、鉢植えがいくつかあるとしよう」ブリティッシュは突然口を開いた。
彼の前にいた二人の男は怪訝な顔で、この若々しい『ウィザード』を見つめた。
「どの鉢植えにも同じ時期に種を植えた。種はいっせいに芽をふき、まったく
同じように育った。そしてここに『肥料』がある。時期さえ間違えなければす
ばらしく大きな実のなる『肥料』だ。早く与えすぎても腐ってしまうし、遅す
ぎたら効果がない。その鉢植えの持ち主は、早く与えすぎて、もういくつかの
鉢植えをだめにしてしまった。もうだめだ、と思ったときに、片隅にまだ『肥
料』をやっていない鉢植えを見つけた。時期もころあい、しめた!『我は汝ら
を再び見いだしたり』」
「…なるほど。種を植えたのは?」ウォズニアックは言う。
「『大いなる闇』と『母なる夜』だ」ウィリアウムが言う。
「そして、赤い大きな実が実ったら?」ウォズニアックは言う。
「…彼らの食卓に並ぶのかな。『あなた、立派なプチ・トマトが出来たわ。さ
あ召し上がれ』てなぐあいに」ウィリアムは言う。

 そのころ、北米地域を監視していた『魔法衛星』が、地上で微弱な『召喚魔
法』が使用されたのを捕らえた。それはすぐさま地下の『アインシュタイン・
インターセクション』に伝えられた。
「場所は特定出来てるのか?」ブリティッシュは珍しく大声で叫んだ。
「はい」その若い魔女は答え、地図上に衛星の検出した光点を重ねあわせる。
「…悪魔だ。間違いない」ブリティッシュは言った。
 なぜなら、ホワイトハウスの真ん中で召喚魔法を使うような、酔狂な魔法使
いはいないからだ。

 午後4時。アメリカ合衆国大統領、ウィリアム・ホワイトウォーターは、た
またま一人で執務室に居た。
 抽斗の中の電話が鳴りだした。いったいどの電話が鳴ってるんだろう?彼は
思った。彼の机は隠し電話だらけだったからだ。ロシアから?違う。イギリス?
違う。フランス?違う。しばらくがちゃがちゃ探し回ったあげくに、就任以来
初めて見る電話を取ったら、男の声がした。

「こんにちは、大統領。こちらは『ウィズ・ブリティッシュ』」
「ああ。これはこれは。就任式以来ですな」ホワイトウォーター大統領は言っ
た。
「大統領、落ち着いて聞いてください。あなたは、あと1分もしないうちに、
悪魔の訪問を受けます。どうか彼を怒らさずにうまく調子を合わせて、来訪の
目的を聞き出してくれませんか」
 電話の声が遠くてホワイトウォーター大統領は、最後の方を聞き漏らしてし
まった。彼は、もう一度言ってもらえませんか、と言おうとした瞬間、机の上
に置いた手に一匹の蠅がとまっているのに気がついた。手をわずかに動かす。
蠅はぱっと飛び立ち、彼の鼻の上にとまる。
「…この」思わず彼は自分の鼻にさわった。
「どうかなさいましたか?大統領」電話の向こうの『ウィザード』が言った。
「いや、失礼、こんな季節に蠅が、部屋にいたもので…」
 遠く離れたアリゾナの地下で、『ウィズ・ブリティッシュ』は凍り付いた。
あやうく受話器を落としそうになった。まさか。まさか。そんな、まさか!
「大統領、あなたは既に悪魔の来訪を受けています。どうか、落ち着いて!電
話を切らずに、受話器を机の上に置いてください」
「…え?…なんだって」
『受話器を置け、と言われたんだよ、間抜け!』突然、蠅は大統領の目の前の
机の上にとまって、ぶんぶん不快な雑音をたてながら喋った。
「わっ!」彼は思わず椅子ごと後ろにさがった。
「『プリンス・オブ・ダークネス』のおなりだ。控えろ、下郎」蠅は大きな声
でぶんぶん言った。

 その少年は、ドアの内側に立っていた。
 やせて小柄な、色の白い少年だった。細くとがったあごが少女のようだった。
 彼は、黒いズボンの上に、ミッションスクールの生徒が着るような灰色のブ
レザーを着て、エンジ色のネクタイを締めていた。
 少年は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、まるで庭を散歩するように、
ぶらぶらとアメリカ合衆国大統領の目の前まで歩いてきた。
「すわってもいいですか?大統領」女の子のような繊細な声で言った。
「あ…。どうぞ、座ってください」ホワイトウォーター大統領は、慌てていっ
た。
 少年は執務室の端においてある椅子を掴むと、大統領の大きなマホガニーの
机の前に置き、座って足を組んだ。よく顔を見ると、瞳が赤い。まるで血の色
のような赤。しかし、それ以外に変わったところはない。「喋る蠅」を連れて
いる以外は。
 この少年のどこが悪魔なんだ?なにが『プリンス・オブ・ダークネス』だ?
 合衆国大統領は思った。

「この電話の、あらゆる音を拾ってくれ!」遠く離れた『フォート・ローエル』
の地下で、ブリティッシュは叫んだ。奴らはわれわれにも『聞かせる』ために
このタイミングを選んだに違いない。
「他の『ウィザード』にも聞かせて…、いや電波は使うな!『エアリエル』に
音波波形ファイルを持たせて連続して射出しろ。声紋分析開始。…あの『蠅』
はもしかして、奴か?」
「たぶん、奴です、マイ・ロード。『闇の王子』ともなると、お供もすごい」

「今日はお願いがあってきたのです。大統領」少年は言った。
「なんでしょうか?」と言って、急いで「わたしに出来ることなら努力いたし
ますが」とつけ加えた。
「なに、簡単な事ですよ。大統領。…ぼくは少しの間、この世界に滞在しよう
と思ってるんです。修行のためにね。…『おやじ』がうるさくてね。しかたな
しに」
「それは、どうも」なんと言えばいいのだ。
「出来れば静かに修行に専念したい。だから、ぼくにかまわないで欲しいので
す。偵察機や衛星や、スパイの尾行など、ごめんこうむりたい。ぼくはあくま
で修行に来ているんであって、どんなお偉方とも会いたくないし、ここに来た
ことも秘密にして欲しいんです」そう言い終えると少年は黙った。
「それだけ?」
「それだけです。ああ、そうだ、その抽斗の中の電話で、各国の首脳たちに、
そう伝えておいてください」
「それだけでよろしいのですか?」
「そうですよ。それだけで、いいのです」少年はそう言ってほほえんだ。冷た
い水に、木漏れ日が当たってきらめくような、美しい笑顔だった。
 ホワイトウォーター大統領は、緊張がほぐれた。なぜ初対面のはずの少年が
抽斗の電話の事を知っているのか、なとどいう疑問は浮かびもしなかった。
「よろしければ、どのような修行をされるご予定か、教えていただけませんか?」
『それはお前に関係ないだろ』机の上の蠅が言った。
「いいんだ。別に。お教えしましょう。日本の中学校に通うつもりでいるんで
す」
「日本の…?…中学校ですか?…それはまた」いったい何を考えているのだ。
「あの『カンリ・キョーイク』の厳しさは『魔界』にもとどろきわたっている
んですよ、大統領」少年は言った。

「日本だ!やっぱり、日本だ。マイ・ロード、奴はあの町で何かをしようとし
てます!」ウォズニアックは言った。
 ウィズ・ブリティッシュは答えなかった。頭の中でさまざまな可能性を検討
していたのだ。
「それでは失礼します、大統領」『アインシュタイン・インターセクション』
の中に、『闇の王子』の声が響いた。それに答えて大統領が、お目にかかれて
光栄です、などと言っている。

「もしもし、『ウィズ・ブリティッシュ』?」
「はい、大統領」ブリティッシュは受話器を耳に当てる。
「いま消えた。ふっ、と。あれで良かったのかね?」
「大変結構です、大統領。あとは、くれぐれも、彼との約束をお忘れなく」

 ホワイトウォーター大統領から少年の人相と身なりを聞き、電話を終えたあ
と、ブリティッシュは、黙って考え込んでいた。ウィリアムとウォズニアック
は、まるで忠実な従者のように、この『ウィザード』を見つめている。
「『能動的介入命令』を出そうと思う」ブィテッシュは言った。
「マイ・ロード!」ウィリアムは叫んだ。
「これは第二の『来訪』だ。最初の『来訪』のように人類に恐怖と混乱をまき
散らすわけにはいかないんだ」そう言うとブィティッシュは、通信室に歩いて
行った。

「『スター・チェンバー』を」ブリティッシュは『エアリエル』に言った。
「はい、マスター、『スター・チェンバー』をここに」電子精霊は答えて、何
も無いところから、一枚の立派なドアを、ひょいと出した。
 人類最高位の魔法使いの一人はそのドアを開け、魔法によって造り出された
空間の中に入る。
 暗闇の中にブィテッシュが立っていると、正面に一人の男が虚空から現れる。
「こんにちは『ウィズ・ナギーブ』」ブィテッシュは声をかける。
 続いて、『ウィズ・ジャティ』、『ウィズ・コリンバ』が現れ、最後に、サ
ンバイザーを付けた『ウィズ・ローレンツ』が現れた。

「挨拶は抜きにして、本題に入ろう。わたし『ウィズ・ブリティッシュ』は、
今回の第二の『来訪』に際して、全世界の魔女魔法使いへの『能動的介入命令
(個別の契約を一時棚上げにし、一般社会へ介入せよ)』を提案する」
「ノーだ。今回のどこが第二の『来訪』なんだね?…殿下は修行にいらしたの
だ。なぜ大騒ぎする必要がある?」『ウィズ・ローレンツ』は即座に言った。
 ナギーブ、ジャティ、コリンバは頷いている。1対4、ということらしい。
「あんな言葉を信じられるのか?『蠅の王ベレゼブブ』をお供に連れて、修行
だなんて!それも日本の中学校に入学などと!」
「『蠅の王』だって?…ほんとうかね」アフリカ大陸担当の『ウィズ・コリン
バ』は不安そうに言う。
「本当だ、『ウィズ・コリンバ』。間違いない。必要ならば彼は数十万の悪魔
を動かせるやつだ。なぜ『蠅の王』が修行に要る?」
「それは護衛のために違いない。…百歩ゆずって、彼の目的が修行ではなかっ
たとしよう。何か邪悪なたくらみだったとしよう。しかし、もしそれで済むも
のなら、日本の都市の一つや二つ、悪魔にくれてやったらよいではないか」
 そう言い放った『ウィズ・ローレンツ』を、ブリティッシュは睨みつけた。

「…言葉の綾だ、『ウィズ・ブリティッシュ』、そのくらいの覚悟を持て、と
いいたいのだ。だいいち、我々がへたに動いて、『闇の王子』のご機嫌を損ね
たら、誰が責任を取るのだ?…もし『契約』の一方的破棄という事態を招いた
ら、『ウィズ・ブリティッシュ』、君が責任を取れるのかね?…我々から魔力
を取り上げられたらどうなる?そしてもし、その時、普通人と『インヴォルヴ
ド・ピープル』が全面的な衝突を起こしたらどうする?『能動的介入』どころ
ではないぞ、『ウィズ・ブリティッシュ』、我々は『魔女狩り』から自分の身
を守ることすら出来ないぞ」
「それは仮定の仮定だ。『ウィズ・ローレンツ』、我々は目の前の脅威に対処
するべきだ。もし、『闇の王子』が現れた町で、暴動やら、虐殺が起きたらど
うする?それは日本ばかりでなく世界に波及したら」
「君のも仮定の話しだ!…君はそうやって危機感をあおり立て、自分の地位を
高めようとしているんじゃないのか?君はたまたま北米大陸担当、『アインシ
ュタイン・インターセクション』のお膝元だ。だからといって君が『ウィザー
ド』の中で一番偉いと言うわけではないぞ。我々は対等だ」
「そんなことは考えた事もない!」
「話し合いはもういいではないか、諸君、評決を。わたしはノーだ」
「ノー」『ウィズ・ジャティ』が言った。
「うむ、いまのところノーだな」『ウィズ・ナギーブ』が言った。
「…しばらく様子を見ようじゃないか、『ウィズ・ブリティッシュ』」『ウィ
ズ・コリンバ』が言った。
「決まったな」『ウィズ・ローレンツ』が言った。
「では、『闇の王子』に内緒で『魔法衛星』をこっそり機能させて欲しい。フ
ルタイムでなくていい!せめて日本で何が起きているかを知るために」
「だめだ、だめだ。何を言っている!…直ちに日本上空の『魔法衛星』を機能
停止させるのだ。もちろん『エアリエル』も使ってはいかん!悪魔をなめるな、
といつも言っているのは君ではないか!」

 数分後、『ウィズ・ブリティッシュ』は苦虫を噛み潰したような顔をして『
スター・チェンバー』から出てきた。
「やっぱり、否決されたんでしょ」ウォズニアックは言った。
「そうだよ。ローレンツのほうが、一枚上手だ。…ビル、…日本上空の『魔法
衛星』の機能を停止。そして日本以外の全世界の魔女魔法使いに連絡せよ、『
闇の王子』が去るまで、日本との『エアリエル』の使用を禁ず。またいかなる
理由があろうと『闇の王子』の来訪を一般人に教えてはならぬ。これは『ウィ
ザード』連名で出してくれ」
 わかりました、と言って、ウィリアムはブィティッシュと入れ違いに通信室
に入った。
「…日本は、真空地帯になってしまった。…『闇の王子』が気まぐれに、火炎
魔法であの国を焦土と化そうとしても、我々はそれを察知するすべがない」ブ
リティッシュはつぶやくように言った。

 ウォズニアックは黙っていた。何ごとかを考えていた。ウィリアムは帰って
きた。ブリティッシュは、椅子に座り、緑色の光を放つ、巨大な『プロスペロ
ー』を眺めていた。
「あの、思ったんですけどね、マイ・ロード」ウォズニアックは口を開いた。
「なんだね?」
「『エアリエル』は使えない、我々はこの要塞の中にいて、『闇の王子』がい
ったい何をやっているのか知るすべはない。…そうでしょうか?」
「…どうする気だ?」
「簡単な事ですよ、もっと近くに来てください…。別に魔法衛星や電子精霊に
頼らずに日本の様子を知る方法があるんですよ。それも『闇の王子』が出現す
るもっとも可能性の高い、あの町のことを」
「だから、どうするんだ?」
「知り合いに電話をかけるんですよ、マイ・ロード。そっちに変わった男の子
いかなかったかい?って」
「…都合良く日本のあの地方都市に知り合いがいればだがね」
 その時ウィリアムもそのことに気がついて、目を輝かせる。「なるほど」
「二人でなにを共謀してるんだ?」
「我々には『知り合い』がいるじゃありませんか!」ウォズニアックは言った。

 赤木リツコは電話で起こされた。
 朝の8時。受話器を取る。突然、早口の英語でまくしたてられた。
「ゲイツさん?…ウィリアム・ゲイツさん。ああ、夜中に電話してきた。また
何の用ですか?」リツコは前髪を掻き上げた。
「お願いがあるんです!大事なお願いが」マイナス16時間の時差の向こう、
アメリカはアリゾナの、道路沿いの小さなレストランの電話にむかって、ウィ
リアム・ゲイツは叫んでいる。
「なんでそんなこと、あたしがしなきゃならないんですか!?」しばらく話し
を聞いていたリツコは怒気を含んだ声で言った。
 突然、電話の向こうで、男の声が変わった。落ち着いた太い声。
「『フォート・ローエル』の主任研究員ウォズニアックです。赤木博士、電話
では詳しいことは話せませんが、とても重要な事なのです。場合によっては人
類の存亡に関わるかもしれない。…わたしは、あなたの研究を尊敬しています。
誤った仮説に基づいてはいたが、手法は実に科学的でした。あなたは優れた科
学者に違いない。その科学者としての良心にかけてお願いしたい、どうか協力
を!」
「…いいわ、どうやればいいの?」ちょっぴり気をよくしたリツコは答えた。

 30分後、リツコは黒い大きなバッグを肩にかけ、ミニスカートで、ミニバ
イクにまたがっている。彼は電話で言った、『確率は3分の1です。その三カ
所のどこを選ぶかは、あなたに、すべて、お任せします』
 運まかせなんて、科学的じゃない。市の中心部により近いはず。
 リツコはバイクを走らせる。数分で『日本時空研究所』の敷地に入る。バイ
クを停めて、距離計をゼロにする。ここが起点なのだ。『フォート・ローエル』
はここを起点にした予測を行ったのだ。リツコは、市内地図とコンパスでその
位置を確認する。
 彼らの言うとおり、これが人類の存亡に関わることなら、その出現予測位置
が、大規模だけど、『コンピュータ占い』によるものというのは、少し気に入
らない。ここから、西北に3キロ弱。時計を見る。急げ。
 地図とコンパスをバッグにしまったリツコは、ミニバイクを走らせる。
 風が気持ちいい。もう春だった。

「ちょっとあんた、うちの電話をどうしようっての」エプロンを掛けたでかい
店の主人が、モジュラージャックを引っこ抜いているゲイツに声をかけた。
「いや、ちょっとメールを使わせてもらおうと思ってね」
「メールだかなんだかしらんけど、あんたら、『砦』の人たちだろ?こんな遠
くまで来て、なんで、そんなこそ泥みたいな真似するんだ?さっきは国際電話
を長々とかけて」
「だから、これはフェニックスのプロバイダに電話をかけるだけだってば。国
内電話だよ。頼む。詳しくは言えないけど重要な事なんだ」
「たとえこの世の終わりが来たって、おれの店で妙な真似はしないでくれ」
 ウィリアムが店の主人と言い合っているうちに、ウォズニアックは、ノート
パソコンで、メーラーを起動していた。1分おきに新着メールのチェックをす
るように設定する。ふと同僚をみると、エプロンの男に、何枚かのドル紙幣を
手渡していた。
 あとは、待つだけだ。ただ、ひたすら待つのだ。日が傾いている。アリゾナ
の美しい夕焼けが迫っているのだった。ウォズニアックは、魚のフライに添え
られたポテトチップスを、カリっと噛んだ。

 リツコは、まだ走っている。コンパスを見る。道が直角に曲がっていた。彼
女は、慌ててUターンした。ききききーっ。後ろから来た四輪駆動車にはねら
れそうになった。どこみてるんだ!バカヤロー!という運転者の罵声があっと
言う間に遠ざかる。
 現実には、まっすぐ西北になんか、走れないわ!リツコはごく当たり前の事
に気がついた。リツコは「あたり」を付けていた。それを「カン」と呼ぶのは
いやだった。なんの道標でもない個人の敷地に現れるはずがない。
「ちょっと止まって」自転車に乗った警官が手を振っている。
 リツコは舌打ちして、止まった。若い警官の視線は、黒いレザーのスカート
から「にょき」と伸びた足に釘付けになっている。
「どこ見てるの?」リツコは免許証を警官に渡して、「はやく切符書いて。U
ターン禁止でしょ。ここ」と言った。
「…これ、あなたですか」免許証の中の暗い写真から趣味の悪い眼鏡をかけた
さえない女が、こっちを睨んでいるのだ。
「それ、わたしよ。…もう、こっち貸しなさい!」リツコは警官の調書をひっ
たくると、住所氏名を殴り書きした。
「ほら、返すわ。市役所への近道は!?」
「あ。あの、角を左に曲がればすぐですよ」警官の言葉を聞き終わらない内に
リツコはミニバイクに乗って走り去る。
 時計を見る。午前8時29分。
 市役所が見えた。ここだ。ここでなければならない。根拠はないが、距離と
方角は一致する。自転車置き場にバイクを停め、ロビーに向かって走る。

「まだかい?」ウィリアムは言う。
「まだだ」ウォズニアックは答える。
「…なあ、『来訪』の起きなかった世界はどんなだろうな?」
「さあ、神のみぞ、もとい、『悪魔』のみぞ知る、といったとこかな」
「その世界のおれは何をやってるんだろう」ウィリアムは独り言のように言っ
て、目の前のばかでかいチョコレートパフェの生クリームを口に放り込む。
「案外、億万長者になってたりして」ウィリアムは言った。
「あんたが億万長者なら、おれは会社の社長になってるかも」
「あんたは天才だが、おたくにゃ、社長は無理だ」ウィリアムは言った。

 リツコはロビーに陣取り、開いたばかりの市役所の中を見渡す。そして椅子
に腰掛け、ガラス張りの壁越しに市役所の前にある噴水を見つめた。午前8時
30分。またもや理由はないが、ロビーにそれらしい少年はいないし、現れる
としたら、あそこだろうと思ったのだ。
 リツコは、髪を掻き上げる。
 噴水は、約5秒間隔で水を吹き上げる。しゅぱー。沈黙。しゅぱー。沈黙。
しゅぱー。少年が立っている。市役所に面した国道から噴水まで約15メート
ル。彼はきっと虚空から現れたと思った。
 ミニサイズの望遠鏡を取り出す。色の白い男の子。瞳の色は見えなかった。
黒いズボンに灰色のブレザー。ゆっくりと歩いて、近づいてくる。
 
 その少年は市役所の中に入って来た。リツコはさりげなく彼の前を横切って
みる。まがまがしい赤い色の瞳。思ったより小柄で色白。14、5才にしか見
えない。両手をポケットにつっこんで、『住民課窓口』と書かれた看板の方に
向いて歩いていく。
 リツコはそっと後を追いかける。ロビーのところに申請書の記載台がある。
少年はペンを取り、左手で書き始める。さりげなく後ろを通り、肩越しに覗き
込む。
 申請者の欄にはこうあった。
『渚 カヲル』

「来た!第1便だ」ウォズニアックはレストランの中で叫んだ。
「どれどれ」
「まだ、受信中だって…まてよ。なになに」
 ウォズニアックは、ひきつった笑いを見せた。
「市役所に行って、『転学通知』を貰ったんだとさ。日本で転校するには、そ
れがいるらしい」
「…きちんとした悪魔だな」ウィリアムは言った。

 いっぽう、赤木リツコは公衆電話ボックスの中で、パニックになっていた。
『持ち運び可能な、電子メールを使えるパソコンを持っているか』という電話
の問いに、はい、などと答えたのが運のつきだった。彼女は4キロもあろうか
という、CD−ROMと光磁気ディスクを内蔵した「ノート」パソコンに、携
帯用の外づけモデムを、膝で支えて操作していたのだ。おまけに家を出るとき
持っきたテレフォンカードは残り度数5。4、3、2、1。ピー。
 とにかく財布は持ってるんだから、あいつを追いかけなきゃ。
 リツコは、バッグにパソコンやらモデムやらをしまいながら、電話ボックス
のドアをお尻で押している。もう、なんで開かないの。
 突然誰かが開けてくれる。
「あ、どうも、ご親切に」顔を上げてみると、『渚 カヲル』と名乗る謎の少
年が立っていた。
「ひゃ」リツコは、声を上げた。
「…ずいぶん綺麗になられましたね、赤木博士。美しい女性を見るのは、この
世界にくる楽しみのひとつです」少年は言った。
「…どこかで、会ったことある?」リツコは言った。
「ええ、あの時はぼくは、違った姿をしていた…。あなたのおかげでぼくはと
ても助かった。詳しくは言えませんが感謝しています」
 リツコは、あの渋い中年のゲンドウが言った言葉を思い出す。『プリンス・
オブ・ダークネス』。
「あなたは…」
「だめです。美しいひと。…ぼくの事を誰にも言ってはいけませんよ。パニッ
クになるかもしれない。『フォート・ローエル』の連中にメールを送った事は
大目にみますが、それ以上はだめです」少年はリツコを見上げながら言った。
「ええ、わかったわ」もし接触したら、逆らうな、と言われていた。
「じゃ失礼、これから買い物に行かなきゃ」少年はきびすを返して歩き始めた。
「どこへ行くの?」
「教科書を買いにいくにきまってるじゃありませんか」『闇の王子』は言った。

『殿下、あの女をなぜ消してしまわれなかったんです。あなたの存在を喋りま
くるに違いないのに』蠅が一匹、少年の肩にとまってそう囁いた。
「だめだよ、『ブブちゃん』、そんなことをしに来たんじゃないんだから」
『殿下、お願いですからワタシをそんな風に呼ばないでください、部下が聞い
たらワタシの権威が』蠅はぶんぶん文句を言う。
「わかったよ、『ブブちゃん』」『闇の王子』は笑いながら言う。

 総本山の『フォート・ローエル』がてんやわんやの大騒ぎをしている間も、
世界魔法管理機構日本支部は、せっせと平常の仕事を続けていた。
 その仕事の中に、一件の、魔法の暴走による監督者責任の審理があった。調
査の結果、弟子の持つ、あまりにも強い魔力が暴走するまで、何ら手を打たな
かった責任は重いということで、監督者の中級魔女の資格剥奪という残念な結
果となった。
 その通知は、その日の午後に届けられた。
 その通知の届いた家の主婦はその封筒を震える指であけ、想像していた通り
の事が書かれているのを知ると、そのまま力が抜けたように台所のテーブルに
つっぷしてしまった。
「ただいま」その家の息子が帰ってきた。
「かあさん…どうしたの?」シンジは冷蔵庫のジュースを取ろうと台所にやっ
てきたのだった。
「…あ、おかえりなさい。…なんでもないのよ。…めまいがしただけ。ちょっ
と横になるわ」そう言ってユイは寝室によろよろと歩いて行く。シンジは寝室
をちらりと覗く。ユイは服を着たまま布団に入っている。

「とうさん、かあさんが、なんか調子わるいみたいだよ、寝込んでる」
「更年期障害かなにかだろ」公認錬金術師の彼の父親は、ふりむきもせず、そ
う答えた。
 アタマ上がらないくせに、口だけは達者だな。とシンジは思ったが、もちろ
ん口に出しては言えなかった。父親は彼の頭二つ以上も背が高かったからであ
る。
「ごめんください」玄関で声がする。
「お前行ってこい。セールスかなんかだったら帰ってもらえ」人と会うのが大
嫌いなゲンドウはそう言った。
 はい、と言って戸を開けると、金髪の、目のさめるような綺麗な女の人が立
っている。
「…あの、なんでしょうか?」日本人だろうか、この人、シンジは思った。
「…碇ゲンドウさんはご在宅でしょうか」ちょっと鼻にかかった物憂げな声。
「あ、ああ。父ですね。呼んできます」シンジはやけに慌てて父を呼びに言っ
た。

 シンジは、廊下の奥から、玄関口でその女の人と父親が話しているのを見て
いた。二人とも知り合いみたいだった。声は低くて、断片的にしか聞き取れな
かった。…そうですか。ここではなんですから、喫茶店でも。…うむ。
「シンジ」突然名前を呼ばれた。シンジは慌てて、なに?と答える。
「ちょっと出てくるからな」ゲンドウはそう言って、家を出た。
 後には、この事を具合の悪い母に言うべきか言わざるべきかを悩んでいる中
学生の男の子が残された。

 リツコは、ゲンドウの家の前の坂を下って国道につきあった交差点の近くの
喫茶店で待っていた。彼女はミニバイクだったので、一足先についたのだった。
奥の、椅子が二つある席。なんだか心臓がどきどきしている。まるで男の子と
初めて喫茶店に二人で入った時みたいだった。
 あの人は来てくれるだろうか?リツコは何度も喫茶店の窓からそと見やる。

「ただいま」アスカが帰ってきた。靴を乱暴に脱いで、廊下をすたすたと歩く。
台所に、シンジがいてジュースを飲んでいる。
「今日の訓練はまた8時からよ、準備しといてね」アスカはシンジに言う。
「それより、かあさんが、なんか調子悪いみたいなんだ。寝込んでる」少年は
同居している美しい少女に言った。
「おばさまが…」いやな予感がした。その時偶然にも、テーブルの上に見慣れ
た色の封筒があるのに気がついた。アスカはそれを手に取り、中の文書を読む。
「勝手にかあさんあての手紙読んじゃだめだよ」シンジは言う。
 アスカは答えず、寝室に走っていく。
 夫婦の寝室は1階の6畳の和室である。アスカは襖を開けた。ユイは布団の
中で目を閉じている。眠っているのではない、泣いているのだった。
「おばさま!」アスカはユイの枕元に座って、彼女の肩に手をかける。
「…アスカ、…あたし、もうだめ…。…なんだか体中の力が抜けちゃって」
「な、なに弱気な事言ってるんですか」と言ったあと、なにをどう言えばいい
のか、さっぱり思いつかないのだった。自分がもし上級魔女の資格を剥奪され
たら、どうだろう?…アスカには想像する事も出来ない。
 底知れぬ暗い奈落がその先に待ち受けているような気がした。闇の底には、
『彼』が、蒸気人間がいるのだった。

「来てくれたんですね」リツコは目の前に腰掛けている、背の高い男に言った。
 やだ、はしゃぎすぎている、リツコは思う。自分で自分がおかしかった。
「うむ。で、君はいつ、実体でいる『プリンス』と会ったのだ」ゲンドウは言
った。
「手、もう大丈夫ですか?」リツコは質問をはぐらかすように、コーヒーに砂
糖を入れているゲンドウの手を見つめながら言う。
「ああ、これか。もうぜんぜん平気だ」ゲンドウは、手のひらを広げてみせる。
醜くひきつった火傷のあと。わたしを男らしくかばってくれたときに、出来た
もの。
 リツコは、思い切って、そっと、その手に触れた。暖かく大きな手だった。
「痛そう…」リツコはずっとその手に触れていたかった。
「だから、もう平気だ。それより、いつ奴に会ったのだね?」
「…今日の朝、8時半に市役所で。子供の姿でした。そう、息子さんぐらいの
年かしら」ゲンドウの家の玄関でみた、平凡な顔の男の子を思い出す。
「女の子みたいな綺麗な顔してるんです。でも瞳はどこか怖い感じのする赤い
色で」

「ねえ、かあさんどうしたんだよ?」寝室の戸を閉めて出てきたアスカにシン
ジは話しかけた。
 アスカは迷った。言うべきか言わざるべきか。おばさまに聞けば、おそらく
息子には言わないでくれ、と言うだろうと思った。そんな人だ。
「ねえ…、話しがあるのよ、台所へ行きましょ」アスカは言った。
 その真剣な顔に、シンジは面食らった。いつもの威勢のいい彼女ではなかっ
た。二人は台所へ歩いて行く。寝室の暗闇の中で、ガラス瓶に入っている小さ
な妖精は、その聞き慣れた足音に耳をすませていた。シンジ、シンジ、その子
とあんまりおはなししないで…。

「後でおばさまに怒られるかもしれないけど、言うわ」
 アスカは暗く、真剣な目でシンジを見る。
「あのね、おばさまが、中級魔女の資格を失ったのよ」
「え?」
「あんたの魔法が暴走するまで手を打たなかったということで、管理機構が資
格を剥奪したの」
「…魔女じゃなくなったの?」
「ええ、魔法を使うと罰せられるから、魔女じゃないと言っていいわね」アス
カは答えた。
「…ぼくのせいだね…」シンジはアスカの向かいに座った。
「そう、あんたのせいよ。制御できないほど強い魔力を持ってるらしい、あん
たの。あのホムンクルスと別の部屋に住むようになってから、ましになったけ
ど」
「…寝込むほど、つらいことなんだね」
「…そうよ。あんたにはわからないわ。魔女という職業を持つ女が、どんなに
か、それを誇りにおもってるか。…わたしには想像もできない。魔女じゃなく
なるなんて」アスカは、両手で顔を覆った。赤いリボンが、シンジの目の前に
見えた。シンジは、そのリボンが妙に気になった。
「…わたしの身代わりになったのよ。おばさまは。あんたの師匠はわたしだっ
たのに…」
「ごめん」シンジは言った。アスカに謝ってもどうなるものではないと思いな
がら。
「わたしにあやまんなくてもいいわ。…わたしはあんたの監督者になるわ。今
日届け出する。…このままだと、あんたは『ソーサラー』になっちゃうかもし
れない。…おばさまをこれ以上悲しませたくないもん」アスカは顔をあげシン
ジを見た。目が赤かった。
「…でも、今度、あんたの魔法の暴走がおきたら、わたし、あんたを殺すかも
しれない」アスカはシンジの視線から目をそらして言った。
「…!」
「…殺すかもしれない、魔女の資格を剥奪されるかもしれないと思ったら、わ
たしは、あんたを背後から殺すかも。…ともかく暴走は止まるもんね」
 アスカの声から感情が失せてしまったみたいだった。シンジは、うつむいた
アスカを見つめていた。そこには、とても弱い女の子がいた。細い肩、華奢な
指。…そういえば、アスカはぼくと、同い年なんだ。シンジは思った。
「…わかったよ」しばらく沈黙が続いたあと、シンジは口を開いた。
「…ぼくは、頑張る」

「いったい奴は何が狙いなのだろう?」ゲンドウは言った。日本の中学校に通
って、なにが面白いのだ?奴は『魔界』という異次元宇宙の王位継承者なのだ。
何を好きこのんで。
「…そう言えば『あなたのおかげで助かった』って言ってました。わたしの実
験が、やっぱり関係してるんでしょ?」
「そうだろうな、しかし、奴はわしと握手しただけで帰ったようなものだがな」
「…なにが起きるんでしょうか?…わたし不安で」リツコは上目づかいにゲン
ドウを見た。
 なんで髪を染めてコンタクトにしたのかは知らんが、変われば変わるものだ
な、と中年の錬金術師は思った。
「『フォート・ローエル』があんたに『闇の王子』の調査を頼んだってことは、
魔法管理機構としておおやけに動けない事を意味しておる。つまり、どうしよ
うもないってことだ」
 二人は黙ってコーヒーを飲んでいた。リツコは口ではそう言っても、ちっと
も不安に思ってはいなかった。目の前に、ゲンドウがいるのだ。とても暖かい
気持ちになるのだ。いつも、こんな気持ちでいたい、と思った。
「…あの、その手の火傷のおわびがしたいんです!…よければ、食事にいらっ
しゃいませんか…?」リツコは思い切って言ってみた。ゲンドウは、ん?、と
いった顔で彼女を見つめている。
「…あの、あんがい料理は得意なんです、といっても正式に習ったものじゃな
いですけど、よろしかったら、わたしの部屋で」

「うむ」ゲンドウは、目の前の美しく変貌した女性科学者を見つめた。なぜか
顔が赤らんでいる。
『をい、ゲンドウ、このオナゴはお前に惚れておるぞ』ゲンドウの頭の中に、
ポッっと「黒ゲンドウ」が浮かんだ。黒眼鏡をかけ、黒いマントを着きた、怪
しげな男だった。
『見てみい、お前にラブラブだぞ、赤くなって、もじもじしておるではないか、
女性に恥をかかせるな、早く、行きます、といわんか、バカモノ』そそのかす
ようにそう言うと、「黒ゲンドウ」は頭の中をきょろきょろと見回した。あの
カタブツの、偽善者の、いけすかない「白ゲンドウ」を探しているのだった。
 いつもだったらすぐに現れて、白い歯をきらりとさせ、『愛妻が寝込んでい
るというのに、なにを考えておる、バカモノ』と、「黒ゲンドウ」と口論にな
るはずなのに、今日は現れない。
『ヨメが寝込んでいるいまがチャンスだぞ、ゲンドウ!いけ、いけ』「黒ゲン
ドウ」は「白ゲンドウ」によーく聞こえるように、大声で叫んだ。しかし「白
ゲンドウ」は現れない。あの白いタキシードを着た嫌みな野郎はどこへ行った
のだ。
『をーい、「白ゲンドウ」!このゲンドウに一人暮らしの女性のところに食事
に行かせるぞぉーっ。食事のあと、いい雰囲気になって、エッチしちゃうかも
しんないぞぉー』「黒ゲンドウ」は叫んだ。けれど「白ゲンドウ」は現れない。
「黒ゲンドウ」はだんだん不安そうな表情になってきた。汗をかいていた。
『くぉらぁ!なんで止めんのだ、バカモノ。おまい、職務怠慢だろーが!』「
黒ゲンドウ」はわめきちらしていた。
「いや、あの。その」実物のゲンドウが口を開いた。『ま、まさか断るのか?』
「じ、じつは、妻が寝込んでおって、その、今日は…ま、また今度の機会に」
『ば、ばかものーっ!そそそ、そんな断り方があるかぁーっ。つ、次の機会は
ないぞぉー!』

 リツコは一瞬、息を止めた。我に返ったような気がした。頭の中がまとまら
ない。黙ってしまったらいけない、と思った。なにか言わなければ。
「そ、そうですか。お大事になさってください。風邪かなにかですか?」
「うむ、わからんのだ。息子のやつが寝込んでると言ってた」なにを言ってお
るのだ、ワシは。

 二人は喫茶店の前で別れた。ゲンドウは黒い自転車をキコキコこぎながら、
坂道を登っていく。
 リツコは、見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめていた。
 星のない夜、ひとりぼっちの夜、不安な夜、魔界の王子が町にやってきた夜、
あなたが、そばにいてくれたら、…どんなにか、すてきだったろう!


 アスカはシンジのとなりにたって、涙をぽろぽろこぼしていた。涙がとまら
ない。彼女は手を洗って、タオルで顔を拭く。
「もーう、いや!…こんな生活!シンジ、あんたがタマネギ切りなさいよ」
「うん、いいよ」
「あーっ。なによこれ、まだ芽がついてるじゃないの!」
「え、それ、除けないとだめなの?」
「あのね、ジャガイモの芽は毒なのよ。包丁のここで、くりくりと…ね!」
「うまいじゃない」
「お世辞はいいから、タマネギ切りなさい」
「…涙出てきた」ズズズ。
「ばーか。…ほら出来たわよ。わたし、おばさまのお粥作るから、あんたはカ
レー仕上げといてね」
「ここからどうするんだっけ?」
「あんた、ばか?肉と野菜軽く炒めて、水入れて、煮て、カレー・ルー入れて、
また煮て。あんた、キャンプとかやったことないの?」
「うん。あんまり」

「晩飯は、まーだーか」
 モン吉と『シゲル君』とゲンドウは、手にスプーンを持って、はやくも座っ
ている。
「あんたたち座ってないで、お皿並べるとか、水入れるとか、何かお手伝いに
なるようなこと出来ないの?」アスカは怒ったように言う。
 2人と一匹はのろのろと立ち上げる。
「スプーンぐらい置きなさい!」

「電報でーす」玄関から聞こえる。
「はーい」アスカはエプロンで手を拭きながら、歩いていく。シンジは、そん
なアスカの後ろ姿を、ぼーっと見ていた。
「あれで乱暴でなけりゃ、いい嫁さんになるかもな」
 シンジがあわてて振り向くと、お皿を持ったゲンドウが立っていた。

 アスカは電報を受け取った。魔法アカデミーからだった。彼女は無表情で、
それをスカートのポケットにしまった。

 ユイのいない食卓で、みんなはカレーライスを食べていた。
「シンジ、これ、ニンジンほとんど生じゃない!なにやってたのよ!」
「ごめん」シンジは、口の中でぽりぽりとニンジンを噛みながら言う。
「おじさま、生でしょ、ニンジン」アスカはゲンドウに言う。
「うん?…歯は丈夫な方だからな」ゲンドウは、ぽりぽりと、ほとんど生のニ
ンジンを噛み砕きながら言った。

 ユイは、半ば眠りながら、若い頃の事を思い出していた。
 小学校の時に大好きだった先生に、「初級魔女おめでとう」と言われたとき
のうれしさ。
 中学生の時に初めて参加したおごそかな魔女集会。
 夜の森の奥、何百人の魔女たちがたいまつを持ち、見守る中、先輩の年老い
た魔女から箒を授かった時の、魂がうちふるえるような感動。
 4年間の修行で、ニューギニアに行き、そこで「もぐりのシャーマン(魔法
管理機構未公認の下級魔法使い)」がかけた呪いに苦しめられている人をみて、
「呪い」の勉強をし、世界中の同じような人を助けたいと誓った日。
 すべて、終わってしまったのだ。わたしのキャリアは、剥奪という汚点によ
って幕が引かれたのだ。
 もう枯れたと思ったのに、涙が滲んでくるのは、不思議だった。
 だって、すべてだったんだもの。結婚するまでの、自分の人生の、自分の魂
のすべてだったんだもの!

 ユイは無理にでも目を開けようと思った。目を閉じていると、まるで映画を
見るように、過去の光景が浮かんでくるのだ。
 ふと枕元をみた。
 息子から取り上げた、小さなホムンクルスが入っているガラス瓶が見えた。
 気がつくと、その妖精は、瓶の中でくるくると回っているのだ。手を上げた
り、足を上げたり。小さな小さな赤い瞳をぱちぱちさせながら。まるでバレエ
のように踊っているのだった。
 ユイは頭を上げ、そのホムンクルスの踊りに見入っていた。
 やがて、妖精は大きく一回転して止まり、大げさにお辞儀をした。
 ユイは、ほほえんで、「…ありがとう、レイ」と言った。

 食事の後、アスカはすっかり暗くなった庭にいた。
 だれも回りに居ないことを確かめると、電報を取り出し、それに魔法をかけ
た。
 電報の中のドイツ語の単語たちは、いや、単語を構成する文字たちは、いっ
せいに立ち上がり、紙の上で規則正しく行進する。さすがドイツ語だった。ま
るで軍隊のような規則正しい行進だった。アスカが見つめていると、KとかY
とか「手を上げられるもの」が敬礼をするのが見えた。敬礼がすむと、彼らは
まるで機械体操のように足を上げたり、丸くなったりして形を変えた。

 電報はやがてまるっきり違う文章になっている。
 アスカはそれを読み、文字たちに「読んだわ」と言った。文字たちは再び行
進を始め、「任務を終えたこの紙は完全に焼失いたします。火傷しないように
注意してください」という文章になった。
 アスカは紙を土の上に置く。
 紙はぱっと燃え上がり、明るいオレンジ色の炎を出した。
 アスカは、自分の心の中に、その暖かな明かりと反対のものが広がっていく
のを感じた。

 夜がふけていく。
 真夜中過ぎに、ユイは奇妙な夢から目がさめた。しかし、なんの夢だったか
思い出せないのだ。
 気がつくと、右手を、大きな暖かい手が握っている。隣でびきをかいている
夫の手だった。
 ずっと握っていてくれたのだ。
 こんな夜に、あなたがそばにいてくれて、よかったわ。ユイは思った。

 ユイが再び眠りに落ちてしばらく経ってから、木造二階建の碇家のまんまえ
に、少年が現れた。色白でやせた美しい少年だった。
『殿下、なぜさっさと連れていってしまわないのです?だいたい彼らに何が出
来るでしょうか?』一匹の蠅が飛んできて、その少年のまわりを飛び回ってい
る。
 少年は、ひょいっと手を伸ばし、蠅を捕まえたかと思うと、いきなりその蠅
の体を握りつぶした。ぷち。彼はその残骸を道にポイっと捨てる。
「何年仕えれば、ぼくの性格というものがわかるんだろう?」少年は独り言を
言った。
 目の前にいるのだ。
 とにかく、ここにいるんだ。
「…『イアンナ』、『イアンナ』、きみはぼくのものだ」
 もう二度と、ぼくたちは別れる事はないんだ、『イアンナ』。

 しばらくして、少年は、指をぱちんと鳴らした。虚空から蠅が一匹現れた。
『…もう、殿下、いちいちわたしの体を殺さないでください。そばに居て欲し
くないときは、そう言っていただければ、どこかの出来立てのケーキの上にた
かりに行きますから』
「わかったよ、『ブブちゃん』」
 少年は笑った。


つづく

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