錬金術師ゲンドウ


 第8話「魔法使いの弟子」


 魔法使いの卵、碇シンジの朝は早い、と書き出すと第7話の書き出しと似た
ようなものになってしまうが、早いのだからしょうがない。
 午前6時、枕元の目覚まし時計が鳴る。まず起きるのは勉強机の上に置かれ
たガラス瓶の中の小さな妖精、レイだった。彼女は赤い、つぶらな瞳をぱちく
りさせながら、愛する少年の寝顔をじっと見る。時計は鳴り続ける。シンジは
もぞもぞし始める。手を伸ばし、ベルを止める。5分経過する。また鳴り始め
る。シンジはベルを止める。5分経過。また鳴り始める。手を伸ばしベルを止
めようとした瞬間、シンジのいる子供部屋のドアが勢いよく開いて、あのいや
な少女が怒鳴り込んでくる。
 あんたわ、『弟子』の分際で、なんで『師匠』より起きるのが遅いのよっ、
と、あの嫌みでがさつで気の強そうな少女は、レイの大切な少年の布団をはぎ
取る。シンジはかわいそうにベッドの上で寒さで丸くなる。
「起きろーっ」アスカというアホンダラな少女は、シンジの耳を摘むと大声で
叫ぶ。シンジはようやく目を開けて、起きるよ…、もう、などと言う。
「なにが『もう』よ!なにが!…あたしが進んでこんなことをやってるとでも
思ってるわけ?…こいつはおばさまに頼まれたから仕方なくやってるのよ。ひ
とごとみたいに思わないで!…1分後に庭に集合!一秒でも遅れたら…殺すわ
よ」ばたん。ドアが閉まる。レイはアスカに向かって中指を立ててみせる。

 シンジは飛び上がり、約15秒で学校の体操服に着替え、5秒間レイにやさ
しく話しかけると、10秒で裏庭まで走っていく。
 そのどたどたという音で、シンジの父ゲンドウは目を覚ます。…あの、スカ
タン、さっさと起きんか、と思いながら、彼は鼻をずずうずずとかむ。
シンジの母ユイはもう起き出していて、台所で中学生の少年少女のために作る
弁当の下拵えをしている。
 ちょっとトロい息子の事が心配だが、上級魔女であるアスカには口を出さな
いと誓っているので、その『練習風景』すら見たことはない。

 アスカは天才だが、努力の人でもあった。彼女はシンジのことを口汚くのの
しりながらも、自分がやってきた魔法のトレーニングをメニューにそって誠実
に行っていた。
アスカもシンジもまず準備体操から始める。いち、に、さん、し。いち、に、
さん、し。続いて軽くストレッチ。
 アスカの使い魔であるモン吉は、お気に入りの人造人間『シゲル君』の頭に
しがみついて、面白そうに見ている。
 次は魔法式呼吸法である。魔法式と言ったって、たんなる腹式呼吸なのだが。
「大きく息を吸って…はい。はいてぇ…」
それがすむと、アスカは裏庭に止めてある赤い自転車を玄関まで押して行く。
シンジは黙って後について行く。
「さ、河川敷の公園まで。行くわよ」アスカは言って走り出す。
「まってくれよぉ」シンジは走り出す。
 碇家は高台にあり、家の玄関から市街まで、急な下り坂になっている。下り
終えてから、西へ1キロほど行ったところに、町を南北に分断する大きな川が
ある。その川沿いの道を、また500メートルほど行ったところに、河川敷を
利用した公園があった。
 そこにたどり着く頃には、シンジはへとへとになっている。運動の苦手なシ
ンジはこの程度のジョギングでも、ぜえぜえと肩で息をしてしまう。
「な、…なんで魔法のために、こんなに身体を鍛えなきゃならないんだよ」
「馬鹿ね。健全な魔法は健全な身体に宿るものよ」アスカは聞いたふうなこと
を言う。
公園の植え込みの間で、再び魔法式呼吸法5分、精神集中のために瞑想1分。
そして復路。今度は家の前の坂が、「心臓破りの丘」になる。

「どうしたの?食べないの?」ユイは食卓につっぷして、はあはあと息をして
いる息子に声を掛ける。
「…まだ、いらない。気持ちが悪いんだ」シンジは死にそうな声で答える。
「まだまだ鍛え方が足らないようね」アスカは、そう冷たく言うと、2枚目の
トーストを頬張っている。

 中学校の昼休み。校庭で、二人並んで本を読む。魔法の教科書である。
「これどういう意味?」シンジがおずおずとたずねる。
アスカは、生まれてこのかた、こんな馬鹿とは巡り会った事がないという目を
して答える。
「それ、小学生用の教科書なのよ」

 放課後、シンジは、他の女子生徒の目を気にしながら校門の影で体操服に着
替える。そして自分の鞄とアスカの鞄を持って、家まで掛けていく。
夕飯前。シンジとアスカは河川敷の公園で訓練の続き。

「どうしたの?食べないの?」ユイは食卓につっぷして、はあはあと息をして
いる息子に声を掛ける。
「…まだ、いらない。気持ちが悪いんだ」シンジは死にそうな声で答える。
「まだまだ鍛え方が足らないようね」アスカは、そう冷たく言うと、2杯目の
ご飯を食べ終えている。

 こんな日々が2週間も続くと、シンジとアスカの通う中学校では、この二人
の噂でもちきりになっていた。前に書いたように、シンジは「ノーマーク」で
あった。同居しているといったって、それだけの話だった。アスカという男子
生徒のあこがれの的の女の子と比べると、シンジという少年はどう見ても不釣
り合いだというのがその理由である。シンジは小柄で、やせっぽちで、成績も
下の方、中学生2年になろうかというのに「逆上がり」も出来ないし、ソフト
ボールのクラスマッチの試合の7回裏ツーアウトの場面でシンジが打席に立つ
と、応援していたクラスメートは、みな帰り支度を始めるというタイプの少年
だった。
 が、突然状況が変わった。最初のうち、ある少年(シンジのクラスメート)
は、それを、人気のデオゲームの、ある「恋愛シミュレーションゲーム」にた
とえて、「あいつ『身体を鍛えるコマンド』を実行してやがる」と言った。こ
れは男子の間で大いに受けた。しかし、それが一週間も続くと、彼らは警戒し
始めた。『身体を鍛えるコマンド』の結果は…?…そういやあ、『髪型』も似
てるしなあ…うんぬん。
 そのうち、シンジに「魔法使い」の素質があるという事が発見され、彼女が
その修行を指導しているのだという説明が女子からもたらされた時、男子の間
に波紋が広がった。
「魔法使い」!…つまり、魔女であるアスカと同じなのだ。いまや、あこがれ
の的とさえない男の子、月とスッポンに「共通項」があるのだった。「共通」
するものがあると言うことは、共通の話題があるということなのだ。話題は会
話の始まり、会話は友情の始まり、友情はやがて…。
 一番、危機感を募らせていたのは、相田ケンスケくんだった。彼の女子に対
するポジションは、碇シンジと似たようなものだったので、よけい気になった
のかもしれない。
読者諸兄は覚えておいでだろうか?彼、相田ケンスケは、昨年のクリスマス前
頃からずーっとアスカの事を想っていた。彼は誰にも気づかれていないと想っ
ていたけれど、クラスの女子は全員知っていた。いや唯一の例外はアスカ本人
なのだが。女子たちは、アスカに片思いを寄せている男子どもをみな「アスカ
のとりまき」と呼び、ひとまとめにして片づけていた。
 
 とにかく、相田ケンスケは、突然早起きになり、本来お座敷犬だった彼の家
の飼い犬『エンタープライズ』(体長50センチほどのチワワ)をつれて散歩
に出るようになった。もちろん目的はあの河川敷の公園だった。何をやってい
るのか気になってたまらなかったのだ。『エンタープライズ』にとっては、い
い迷惑だった。この犬は歩くのが大嫌いだったからだ。なので、帰りには飼い
主の少年にだっこして帰ってもらうことにしていた。
 ケンスケは、毎日二人から見えないように川沿いの道路から見下ろしていた。
今日は特に変わったこともなし。

 念のために日曜日も行ってみることにした。
 なんと日曜日も彼らは、公園に来ていた!
 その日はなぜか3人づれだった。正確には3人と一匹だった。いつもの二人
以外に、頭にモン吉がしがみついた『シゲル君』もいたのだ。そしてさらに不
思議な事に、『シゲル君』とシンジは、大きなシャベルを一つづつ肩に担いで
いるのだった。

「急いで穴を掘るのよ」アスカは言った。彼女はまるで見張りでもするかのよ
うに、シンジと『シゲル君』よりも川寄りに立って、あたりをみまわしながら
命令する。
「…なんのトレーニングになるんだよ」シンジはぼやく。
「文句言わない!」アスカはぴしゃりと言った。
シンジは無口な『シゲル君』と穴を掘り始めた。
「長方形にするのよ…、こらあ!もっと深く」アスカは両手を腰に添え、足を
開いて立つという、いつものポーズであれこれと指図する。
『シゲル君』とシンジは文句も言わずに穴を掘っていた。

 …言うまでもなく、碇シンジは、自ら『墓穴を掘って』いるのだった。この
とろい少年は、その穴の中に横たわりなさいとアスカに命令されて初めてその
ことに気がついたのだった。
「なんでそんなことしなくちゃならないんだよ!」シンジは叫んだ。
「あんたは、そうしなければならないのよ、碇シンジ。これは大事なことなの」
アスカはにべもなく言う。
 シンジは逆らう事が出来なかった。「魔女には逆らうな」という教訓が、父
のゲンドウから『遺伝』していたのかもしれない。かれはぶつくさ言いながら
も、小柄な彼の身体がすっぽりと入る細長い四角の穴に横たわった。
 季節は2月のはじめである。シンジの感触を体験したければ、2月のはじめ
に、吹きさらしの河川敷の公園に穴を掘って、その中に横たわってみるとよろ
しい(そんな酔狂な人はいないと思うが)。とにかく、飛び上がるほど冷たく
て、気色が悪かった。
「『シゲル君』、土をかけて」アスカは冷たく言った。
「つ、土までかけるの!?」シンジは叫んだ。
「あたりまえよ。…『シゲル君』、頭だけ出るように土をかぶせて」
 『シゲル君』は言われるままに、墓穴で横たわるシンジに土をかぶせていく。
土は冷たく湿っていて、まるで冷水を浴びせられているようだった。ひょっと
してぼくを『埋葬』する気なんじゃないんだろうか、シンジの脳裏にそんな妄
想が湧いてくる。

 相田ケンスケは、アスカと人造人間が、シンジを埋め始めたので、あわてて
河川敷の公園に降りて行った。クラスメートを心配したわけではない。いった
い何が始まるんだろう、と興味を持ったのだった。
「やあ、おはよう」ケンスケはアスカに声をかけた。
アスカは、ちっ、と舌打ちして振り返った。背後に、小さな犬をつれた、癖毛
で眼鏡をかけた少年が立っている。去年、ヒカリたちとクリスマスツリーを一
緒に見に行った男の子だった。しかし、名前が思いだせないのだった。クラス
では、自分の斜め後ろに座っているにもかかわらず。
「あ、おはよう」彼女は言った。
「なにしてるの?」ケンスケは言った。
「魔法の修行よ」アスカは言った。
「ふうん」ケンスケはそう言って、いまや地面に顔だけ出しているシンジに、
どんな気分?とたずねた。
「…最低の気分だよ」シンジは答えた。

 部外者が来てしまったけれど、とにかく急いで始めなければならない。アス
カは、ジャージのポケットから小さなメモ帳を取り出して、それを開いた。
「いいこと。いまから読み上げる言葉を繰り返すのよ。私がいいというまで…
わかったわね!」
「うん」シンジは答えた。早いとこすまして地中から出たかったのだ。
「…集え、集え、…我は古き大神の智恵を授かりしものなり。すなわち、天地
(あめつち)の分かるる前に、神の血と、土くれからから練りあげられた人の
裔(すえ)なり」アスカは読み上げると、シンジに続いて言いなさい、と顎を
しゃくってみせる。
「ほら、…つどえ、つどえ」
「つどえ、つどえ」シンジは繰り返す。
「われはふるきおおかみのちえをさずかりしものなり」
「えと、…われは、ふるきおおかみのちえを、さずかりしものなり」

 目の前を流れる川から、風が吹いてきた。朝日が、アスカの背を照らしてい
た。シンジからは、逆光になって、アスカの端正な顔は暗くて輪郭しか見えな
かった。長い髪が風になびいている。アスカの髪は亜麻色、つまり灰色がかっ
た薄い茶色、暗い金髪だった。それが、なびきながら、黄色い光を浴びていた。
まるで金色の糸のように見えた。メモ帳を朗読する低い声だけが響いている。
シンジはアスカを見つめていた。まるで太陽の神から使わされた、美しい鳥の
ようだった。
「…こらあ!ちゃんと復唱しなさい!…私がいいと言うまで唱えるのよ」
「あ、うん…つどえ、つどえ、われは…」
「あたし、あっちに行ってるから、サボらずにやってなさいよ!」
「…さずかりしものなり。すなわち…」

 アスカは、シンジがまじめくさった顔で繰り返すのを確かめながら、風を避
けて、公園に植わっている大きな木の下に行った。
ケンスケも、後からついて行った。
「…あの、よかったらさ、碇くん、なんの練習してるのか教えてくれない?」
「え?…ああ、あれね。魔法の初歩の初歩よ。大地の精霊に呼びかけてるの。
土の中に入っているのは、伝導効率を上げるためよ」
なんのことだがよく分からなかったが、ケンスケは熱心にうなずいた。アスカ
は寒そうだった。いつもは陶器のように白い頬が真っ赤になっていた。あの頬
にふれたいな、不意にそんな衝動にかられて、ケンスケはどきっとした。気を
紛らわせるために、別の事を考える事にした。
「あ!そうだ。まだここにいるよね?」
「ええ、結果が出るのはまだかかるから…どうして?」
「ちょっと待ってて!」そう言うが早いか、ケンスケは犬を小脇に抱えると、
走り出した。

 10分経過。シンジは口がだるくなった。しかし止めるわけにはいかない。
声がとぎれると、『シゲル君』を風よけにして立っているアスカがにらみつけ
るのだ。幸いなことに、地中は暖かくなってきた。温泉とまではいかないが、
ほんのりと暖かい土の中で、いい気持ちになってきた。
「…つどえ、つどえ、われは…」シンジは念仏のように唱え続けた。
そして、「彼ら」は集いだしたのだ。この世を律する物理法則とはまったくち
がう法則に導かれて。「彼ら」は幽かすぎて実体を取ることが出来なかったた
めに、まず微小のバクテリアたちに憑依した。しかしシンジの導く力はさらに
強さを増して行くので、今度は小さな甲虫たちに憑依した。まだ春には早いけ
れど、甲虫たちは弱々しい足取りで、土を通して伝わる暖かな熱に向かって行
進を始めた。
…なんだか、お尻のあたりがかゆくなってきたな。シンジは思った。しかし身
動きのとりようがない。

「お待たせ!…これ、食べる?」ケンスケが手にコンビニのビニール袋を手に、
小さな犬とともに走ってくる。
 アスカの目の前に、湯気のたつアンマンと、熱い缶コーヒーが差し出される。
「え?…あたしに?」アスカは言う。
「うん…。寒そうだったから」ケンスケは、思わず目をそらしながら言う。
「ありがと!」アスカは、あっさりと言うと、缶コーヒーのプルトップを引い
て、コーヒーを一口飲んだ。
「あたたかい…」髪の長い少女は言った。ケンスケは目の前の美しい少女をっ
みつめながら、今このとき、世界の終わりが来て、君とぼくとだけ生き残った
らいいのに、と思った。ぼくたちは、新しいアダムとイブになって、文明を再
建するんだ。
「なによぉ。人がものたべてるのじろじろ見ないでよ」アスカはアンマンを頬
張りながら言う。
「ごめん、ごめん」ケンスケはあわてて、近くに突っ立っている『シゲル君』
に、おそるおそるアンマンを差し出した。
「あの、これ、食べます」ケンスケは見上げるほどの大きな人造人間に言った。
『シゲル君』は答えなかった。そのかわり、両目がくくくくと真ん中に寄って、
アンマンを見据えた。そして、手でそれを掴むと、一気に口の中に押し込んだ。
縫い目だらけの頬がぷくっと膨らんだ。『シゲル君』はほとんど噛まずにそれ
を、ぐぐっと呑み込んでしまった。
 お辞儀をする。お礼をしているつもりらしい。ケンスケは、ど、どういたし
まして、と口ごもる。
 そうだ、シンジにもあげようと思い、可哀想な少年が埋められたあたりに歩
いて行き、そのすさまじい光景を目にした。
「し、し、シンジくーん!」ケンスケは思わず叫んだ。

 ケンスケは、シンジを見下ろしていた。
 シンジの身体が埋まっているあたりの地面がもぞもぞと動いていた。何か細
くて黒っぽい麺のようなものが、もつれあってうねうねとのたうち回っている
のだった。よく目を凝らして見ると、無数のミミズだった。
 そして、まるで間抜けなお面が落ちているように地中から生えているシンジ
の顔の周りに、びっしりと小さな昆虫たちが集まっているのだった。亀虫、丸
虫、小さな蟻、大きな蟻。
 シンジは大きく目を開けたままぴくりともしない。鼻の穴がかすかに大きく
なったり小さくなったりしているので、死んでいるのではなさそうだ。
「わわわ」ケンスケは飛び退いた。突然シンジの顔のすぐ横から、蛇が出てき
たからだった。それの小さな蛇は、ふたまたに分かれた舌をちょろちょろ出し
ながら、シンジの額にゆっくりと迫ってくる。
「シンジくん!」ケンスケは思わず叫んだ。シンジは返事をしない。
「目、開けたまま、気絶してるみたいね」アスカが缶コーヒーをすすりながら、
ケンスケの背後で平然と言った。

 それから、さらに10分後。
 アスカは、なにやら呪文を唱えながら手を振ると、それらの生き物たちはま
るで潮が引いていくように退散した。『シゲル君』はまだ残っているミミズや
ら虫たちがうごめいている土を手で除き、気絶したままのシンジを発掘した。
「え、と…ありがとね」アスカはケンスケの名前が未だに思い出せないので、
礼だけ言った。
 泥まみれのシンジは『シゲル君』におんぶされた。少年と少女と人造人間と
猿一匹の一行は、家路についた。
 相田ケンスケは彼らを呆然と見送りながら、あの奇麗な女の子と同居し、「
共通項」を持つ碇シンジに感じていた羨望の念が、どっかに行ってしまったの
を感じていた。

「食べないの、シンジ」ユイが言った。
「いらない…欲しくないんだ」シンジは食卓につっぷしたまま、力無く言った。
目の前には、おいしそうなミートソースがかかったスパゲッティが湯気を立て
ていた。
「あの程度でへこたれないでよね」アスカはそう言いながらお代わりのスパゲ
ッティを食べている。
「そうよ、シンジ、アスカちゃんの言うとおり。北米地域の2代目の『ウィザ
ード』、『ウィズ・ラブクラフト』は、7歳の時に数億匹の蝗を集めたってい
う話よ」
「知ってる、知ってる。で、空が真っ黒になるほどのイナゴがやってきても、
しれっとした顔してたんでしょ。すごいわねえ。さすがラブクラフト博士ね」
 シンジは、目の前の皿の中に、まだ生きているイナゴがてんこ盛りになって
いる絵が脳裏に浮かび、思わず吐きそうになった。

 こんな恐ろしい修行生活の中で、シンジの唯一の楽しみは、自分の部屋に帰
って、ガラス瓶の中の小さな妖精、レイと過ごす時間であった。二人は一緒に
ベッドに入るようになっていた。といっても、みだらな事が出来るわけではな
い。シンジがガラス瓶を抱えるようにして眠るだけなのだ。
 レイは、本当は地面に対して垂直に立って眠る方が楽なのだが、少しでもこ
の愛する少年の気が紛れるのならば、と一緒に横になっているのだった。
シンジは眠りに落ちる少し前に、まるでさざ波のように打ち寄せるレイの思考
と戯れるのが好きだった。
 すき。すき。すき。ぼくも。ぼくも。あのこきらい。ぼくも。ぼくも。

 ある日の夜8時。シンジとアスカはいつもの河川敷の公園にいた。二人は水
銀灯の投げかける光の輪の中で、川に向かって立っている。
「何をするんだよ」シンジは警戒していた。
「『飛ぶ』のよ。あんたは。昼間やるのは目立ちすぎるから」
「飛ぶって…?鳥みたいに?」
「違うわよ、ばか。魔法の力で空中浮遊するの。いいこと?一回しか説明しな
いからよく聞きなさい。魔法はこの世の物理法則とはべつの力を借りること。
これくらいわかってるわよね?」
シンジはうなづく。
「けど魔法はこの世の物理的存在に作用する。魔法を使うものの意識は、この
作用対象に対してシンクロしていなければならない。空中に浮かぶと言うこと
は、自分の質量と慣性に対して魔法をかけると言うこと。もし、『エルンスト
・マッハ』の慣性理論が正しければ、このとき魔法使いは『全宇宙』に対して
魔法をかけているといってもいいわね。わかるでしょ?」そう言いながら、ア
スカはその『慣性』でひどい目に遭ったことを思い出していた(第3話後編参
照)。
「…あ、えと。その。終わりのほうわかんなかったな」シンジはもごもごと言
いながら、目をそらした。アスカに怒鳴られるのが怖かったのだ。彼は公園の
隅にあるベンチをぼんやりと目をくれて、とんでもないものを見つけてしまっ
た。
「…あ」シンジは素っ頓狂な声をあげる。
「何が『あ』よ!人が一生懸命に説明してるときに!」アスカはそう言ってシ
ンジの眺めている方向を見て、同じように、「あ」と言った。
ベンチに若いカップルが座って濃厚なキスをしているのだった。女性は男性の
背中に手を回し、男性は女性の太股の上に手を置いている。
「わわわわ」シンジはびっくりしていた。いままであんなものナマで見たこと
がなかったからだ。
「…あんな事してるの見て楽しいわけ?」アスカは怒気を含んだ低い声で言っ
た。
「いや、そんなことないよ」そう言ってシンジはアスカを見た。なぜか雨の日
に窓から垣間見たアスカの裸のお尻が頭の中を横切っている。彼はあわててそ
れを打ち消した。
「…そーね、あんたには『恋人』がいるもんね。…ちょっとぉ小柄だけどぉ」
アスカは嫌みたっぷりに言った。
「…そんな言い方、好きじゃないな」シンジは視線を落としてぽつりと言う。
 アスカはなぜか妙に腹が立ってきた。
「じゃあ、どんな言い方なら好きなの!?…この『変態野郎』とか!?」
シンジは黙ってしまった。
 アスカは、この少年が最近、あのホムンクルスを胸に抱いて寝ているのを知
っていた。ある時、この少年を起こすために布団をはぐった時に気がついたの
だ。…その日は一日中気分が悪かった。自分がこんな変態と同じ屋根の下にい
ると思うだけでも腹が立ったものだ。

「ふん、なんでもいいわ。さっさと始めるわよ。準備して」アスカは言う。
 そこでシンジは大事な事を思いだした。学校でアスカに教本の空中浮遊のと
ころを読んでおくようにと言われていたのだった。読んでいないなんて、いっ
たら烈火のごとく怒るんだろうな、いやだな、シンジは思った。アスカの方を
ちらりと見る。腕を組んで彼を見ている。水銀灯の光がアスカの亜麻色の髪に
天使の輪をかぶせている。けれど彼にとってはこの美しいけどきつい少女は天
使どころか…。
「早くしなさいよ!夜が明けるわよ」
「わかったよ」そう答えると彼は、あわてて考えた。空を飛ぶ。そうだ。アス
カは全裸になっていたんだ。忘れようとしても忘れられない。シンジは着てい
るトレーナーを脱ぎ始めた。
「ち、ちょっと…!あんた、何する気!?」アスカはたじろぎながら叫んだ。
こいつ、この変態少年は、とんでもないことを考えているじゃないだろうか、
と思ったのだ。夜の公園。濃厚なキスをしてるカップル…。そして…。
「え…、だって…ほら、空飛ぶんだろ?…服脱がなきゃ」少年はおどおどと言
う。
「なーんで、空中浮遊魔法の練習で服脱がなきゃなんないの!」アスカは思わ
ず大声を出した。
「え?…でも、裸で空飛んだじゃないか…」シンジはそう言ってから、目の前
の少女の顔が怒りで赤黒く染まって行くのを見て、自分が決定的な過ちを犯し
たのに気がついた。
「…なんで、あたしがハダカで空飛んだの知ってるの…?」アスカはゆっくり
と彼に近づいてくる。
「いや、…あの、ほら魔女は裸になって箒に乗って空飛ぶもんだろ?」シンジ
はじりじりと後ずさる。
「…ハダカになるというのはとても古風な作法よ。いい?…魔法ってのはね、
百科事典になるほどいろんな決まり事や、種類や、呪文があるけど、原則はと
てもシンプルなのよ…わかる?…いままでちゃんと勉強してたらわかるわよね
え!」アスカはさらに詰め寄ってくる。
「えーと、あの、…なに?」シンジはさらに下がる。
「…教えてあげるわ、魔法をかけるのに大事な事はただひとつ。それは『魔法
を信じる』こと。自分が魔法を使えるってことを信じる事だけなの。…作法や
しきたりや複雑な呪文は、魔法をかけるために必要なんじゃなくて、魔法を信
じるための自分に向けたおまじないなの。…あたしはたまたま古風な魔女の作
法にあこがれてて、ああした方がより高く、より速く飛べるの!…日本の魔女
であたしみたいな人はそんなにいないわね…」
アスカは指を突きだした。
「で、なんであんたは、あの台風の日にあたしがハダカで飛んだ事を知ってる
の?」
「あ…いや、あの、えーと。父さんに聞いたのかな?」
「なんでオジサマはそれを知ってるの?庭にはいなかったわよ」
「あ…そうだな、か、かあさんから聞いたのかな?」シンジは堤防まで追いつ
められていた。
「あのおばさまがそんなこと言うわけないわ、たとえ夫婦でも」ましてや、あ
の屈折した錬金術師に!
「やっぱり、二階からのぞいてたのね…」
「あ…ごめん、あの、とうさんが見てみろっていうから」シンジは慈悲を請う
ように言った。…情けないやつ!アスカの心の中で何かが切れた。

「水でもかぶって反省しなさいっ」
 ぎゅいーん。少女が叫んだとたんに、シンジの身体は、まるでロケットのよ
うに上空へと舞い上がった。
「うわわわわわ」彼は50メートルほど上昇して、静止した。下を見てしまっ
た。水銀灯の光がまるで遠くの懐中電灯のように見えた。蟻のように小さく、
アスカの姿と、まだ抱き合っているカップルの姿が見えた。
 そして突然、少年は頭から川に向かって落下を始めた!眼下の暗い川の流れ
が急速に大きく、視界いっぱいに広がりはじめる。シンジは恐怖のあまり叫ぶ
ことも出来なかった。あの中に落ちたら死ぬかもしれない、シンジは思った。
ぼく、カナヅチなのに!
 怒りにかられたアスカとて、オニではない。水面に激突するまえに減速する
ように魔法をかけていた。あの助平が肝を冷やせばそれでいいと思っていた。
シンジはそんなことを知る由も無く、ただ死の恐怖に目を閉じた。
「…レイ、ごめんよ」思わず彼は言った。その声は風にかき消されてしまった
が。
ぼん。
 川に落ちるほんの一瞬前、不思議な事が起きた。減速し、頭だけ川につっこ
んでいるはずのシンジをアスカは見失っていた。あれ?彼女はきょろきょろす
る。少年はどこにもいない。
「ああああああああああ、どいてー!」
 不意に頭上から声がした。
 星空を背にシンジがアスカめがけて降ってきたのだ!アスカはとっさに飛び
退こうとしたが遅かった。
 どん。
 少年と少女はぶつかり、勢いよく倒れた。
 シンジは、なにか柔らかいものの上にのっかているた。鼻がじんじん傷む。
なぜが息が出来ない。目を開けた。唇が、誰かの唇と重なっていた。アスカを
どかそうととっさに前に出した手が、誰かの胸の柔らかい膨らみの上に乗って
いる。と、いうより「掴んで」いた。おそるおそる顔を上げた。ちゅ。…意味
深な音がした。アスカは彼の下になって目を閉じていた。シンジの体中に冷た
い衝撃が走った。ここにアスカがいるということは…。 シンジの思考は停止
していた。空を飛んで川に落っこちたという事実Aと、自分がアスカの上にの
っかっているという事実Bが、どうしても結びつかなかった。

 したたかに後頭部を打ったアスカは、自分の上に何か重たいものがのっかっ
ているのに気がついて目をあけた。目の前に、あの少年の凡庸な顔があった。
その凡庸な少年はその凡庸な手を自分の乳房の上に乗せていた。信じられない
が、そうなのだ。そして目を開ける直前に唇に感じた、柔らかい奇妙な感触。
自分の上に、こともあろうに男の子がのっかっているという事実。
 こころの奥底からなにかがわいてきた。「こ」アスカは、ようやくの第一声
を発した。
「あ、…わ、わざとじゃないんだよ」その少年は言う。そのとき少年の鼻から
血が一筋、つーっと垂れて、彼の着ている体操服に赤いシミをつける。それを
見たアスカの中の心の中の糸が、ぷちんと切れた。
「ここここここ」アスカは自分がニワトリのような声を出しているのに気がつ
いていた。けれどどうしようもない。「こここここここここ」「…大丈夫?」

「ここここここここ、このやろーっ!」

 アスカはシンジをはじき飛ばし、大きく片手を振った。シンジの身体は駒の
ように回転を始めた。「わわわわわわわ」シンジの身体は回転を早める。
「宇宙の果てへ、とんでいけー!」
 そのとおりになった。風を切るものすごい音とともに、シンジは暗い夜空に
向かってぴゅーんと飛んだ。それはそれは巨大な放物線であった。
アスカは、ぜえぜえと肩で息をしながら、あのあほんだらめ、とつぶやいた。
彼女は、自転車に乗ると、碇家に向かってこぎ出した。

 哀れな碇シンジは綺麗な弧を描いて飛んでおり、アスカはむかむかしながら
自転車をこいでいる。とくに描写することもあまりない。
 で、ここで、ちょうど一部始終を見ていた、A子さん(仮名)に登場願って、
いったい何が起きたのか検証してみたいと思う。
「…いったい何が起きたんですか?」(作者)
「え?…あの中学生の男の子と女の子ですよね。…ふたりで何か話していたと
思ったら、突然、女の子が男の子に迫って、男の子が後ろに下がり始めたんで
すぅ、で、男の子が川の堤防のところまで追いつめられたときに、ぼよよよー
んと川にダイブして」
「…飛び込んだのですか?」(作者)
「う…ん。飛び込んだというか、空飛んだというか、すごく高くジャンプした
っていうか、それから川に向かって落ち始めたんです。…でも、川には落っこ
ちなかったんです」
「…どうなったんです?」(作者)
「…あの、えと。あの、…信じてくれます?」
「はあ」(作者)
「あの、ね。…恥ずかしいな。あの、川から手が…」
「手が?」(作者)
「無数の、細くて、てかてかした光る手が出てきて、あの男の子を、まるでバ
レーボールのトスみたいに、それっ、って感じで打ち返したんです。…で、次
の瞬間、その子、女の子に飛びかかっていって、押し倒して…キスしたんです。
…最近の中学生って…すごいですねぇ」
「それ、押し倒したんじゃなくて、たまたま落ちたところに女の子がいたんじ
ゃ?」(作者)
「そおですかあ?…それじゃ、なんだか、できすぎ(笑)」
「…ところであなたは、なんで、あんな時間にひとけのない公園にいたんです
か?」(作者)
「え?…あたしですか?…その、あの、Bさん(仮名)といました。去年の夏、
市会議員選挙の選挙運動のアルバイトをしてたときに、知り合った、市会議員
さんの息子さんです」
「じゃ、そのひととデートを」(作者)
「とんでもない!秘書もやってるBさんと、今度の3月議会の議案について打
ち合わせしてたんですよ」

 などど悠長に書いてる間、シンジ君はずっと空を舞っていたと思ってほしい。
とにかく、かれは落下し始めた。回転しながら下を見ると、見慣れた家がぐる
ぐると回っているのだった。
 確かにアスカは天才だった。彼女は怒りに我を忘れたように見えて、じつは
正確に「弾道計算」をしていたのだった。計算通りならば、シンジはやがて減
速し、碇家の庭の菜園の片隅に置いてある腐葉土入れの中に頭を突っ込むはず
だった。
ところが、再び計算外の事がおきた。シンジはまた目を閉じて「レイ」と呟く
と、菜園にいた薬草たちがもにょもにょと蠢いて、葉っぱを出せるものは葉っ
ぱを出し、枝を出せるものは枝を出し、遠くから見るとお椀のような形になっ
ていく。
 ぼん。
 シンジが減速を始めたとき、薬草たちは、まるでバレーボールのレシーブの
ようにシンジをはじき返した。しかし川の時と同じようにそれは余計なお世話
だったかもしれない。つまり腐葉土の中に頭ごとつっこむほうがましだったか
もしれない。
彼ははじき飛ばされ、簡易トイレを思わせる『シゲル君』の家に激突し、これ
をなぎ倒したのだ。


 あくる朝、鼻にでかい絆創膏を張ったシンジは、いつも通り6時半に起きて
庭で待っていた。アスカの正確なコントロールで碇家の庭に飛んできたのはい
いけれど、なにか柔らかいものにはじきとばされて、『シゲル君』の家につっ
こんだのだ。鼻の頭がまだ痛む。『シゲル君』が自分の拘束具を外して(注)、
抱きかかえて居間に運んでくれたのだ。母のユイは心配したけれど、シンジは
アスカにふっとばされた理由を言わなかった。いや、言えなかった。

(注:『シゲル君』の拘束具は「自分で」はずせるようになっている。)

 シンジは庭先で待ち続けた。アスカの部屋の窓を見上げる。カーテンが閉ま
っていた。寝坊したのか、それともまだ怒っているのか。シンジにはわからな
かった。そもそも「女の子」というものが、シンジにはわからなかった。うる
さくて、集まればひそひそと話をして、そこにいない女の子の悪口ばかり言う。
アスカは、ちょっと他の女の子とは違うと思っていたけど、やっぱり女の子だ
った。わからない生き物だった。
 レイ。君が現実の女の子だったら、どんなにいいのに。シンジは思った。

 10分経過。アスカは来ない。仕方ないので、シンジは一人で準備体操をす
ませ、走り始めた。風が心地よかった。ひょっとして、ぼくは「スポーツマン」
てやつになったのかもしれない、シンジは思った。この調子でいくとぼくは白
い歯がきらりと光る、かっこいいスポーツマンになっちゃうかもしれない。
 
 とたんに息が切れた。
 止まって、肩で息をした。心臓が張り裂けるようだった。自転車に乗って、
後ろから罵声を浴びせる女の子がいないと調子が出ないのだ。
 シンジはジョギング行程の半分も行かずに、歩いて引き返した。

 家に帰ると、もう7時をすぎていた。台所へ行く。母のユイが振り返る。
「どうしたの?アスカちゃんもう学校へ行ってしまったわよ」
「え、う、うん、なんでもない」シンジは答えた。
 学校でもアスカはシンジの事を無視し続けていた。シンジは面倒くさくなっ
た。謝ってもきっと許してくれそうにない、だいいち謝ってしまったら、裸を
見てしまった事を認めるようで、いやだった。
 彼は放課後、すぐに家に帰った。アスカは洞木とどこかへ寄るらしい。
 シンジは、自分の勉強部屋へ入ると、いつものようにレイに話しかける。
「ただいま、レイ」
 ガラス瓶の中の妖精は、赤くて丸い瞳をくるくるさせながら、はね回る。
 …おかえり、おかえり。きょうも、あのことくんれんするの?
「ううん。しばらくは一人でしなきゃならない、みたい」シンジがそう想いを
伝えると、この体長15センチほどのホムンクルスは明らかにうれしそうに瓶
の中を、バレリーナのようにぐるぐると舞った。
 …がんばってね、シンジ。がんばってね。

 庭に一人で立つ。大きく息を吸い込む。
 一人で何が出来るだろう?少年は考えた。アスカの言葉を思い出す。魔法は
形式よりも本人が信じることが大事。そう言っていた。
 ぼくはぼくを信じる。ぼくは魔法を使える。ぼくは魔法を使える。
 シンジは目を軽く閉じて、念じた。
「開けゴマ!」つい叫んでしまう。なにか呪文めいたものを唱えないとカッコ
がつかないのだ。アスカが言っていたのは、こういうことなんだ。彼は思った。
「アブラカダブラ!」シンジは叫ぶ。何も起きない。だいいち、どこか実感が
もてないのだ。
 次の呪文をひねり出しているときに、間抜けにもどんな魔法をかけるのか考
えていないことに気がついた。そうだ。それをきめなきゃ。シンジは思う。思
いつくのは一つだけだった。レイ。ぼくはレイを人間の女の子にしたい。そう
だ、ぼくは人間を造り出す。
「ビビディバビディブゥ!」
 何も起きない。

 「あの、くそバカ」アスカは2階の自分の部屋のカーテンの隙間からシンジ
を見ていた。

「ちんからほい!」何も起きない。
 精神を集中するんだ。ぼくは少なくともあの気持ち悪い虫たちを呼び寄せた
ではないか。ぼくはレイのために、魔法使いになるんだ。
「レイ!」つぶやいた。
 あたりの空気の色が変わった。葉っぱのにおいがした。魔法のにおいだ。ま
わりには誰もいない。ぼくが魔力を引き出したのだ。シンジはきょろきょろし
た。でも何も変わったことはない。夕日が庭の薬草畑を赤く染めている。
 もご。突然、畑の土が盛り上がる。シンジはぎくりとして後ずさる。もしか
してまたミミズを。土はうにょうにょと蠢いている。なんだろう?シンジはお
そるおそる顔を近づける。

 がば。突然地中から何か出てきた。シンジはぱっと飛び退いた。
 よく見ると、薬草の間から、白く濁った半透明の手のひらが突き出ているの
だった。白く濁ったように見えるものは、恐ろしく細かい葉脈のようなものだ
った。まるでマスクメロンの表面を縮小して透明な手の中に押し込めたようだ
った。
 シンジは怖くなった。自分がとんでもないトラブルに巻き込まれているよう
な気がした。
「あの、出てこなくて、いいよ」シンジはその気味の悪い手に向かって話しか
けた。しかし、その手はその言葉を無視して、にぎにぎを始めた。
「どこから来たんだか知らないけど、出てこなくていいってば」シンジは言う。
 地中がもぞもぞと蠢いている。もし人型のものがこの薬草畑に埋まっている
とすれば、顔に当たる部分が、もりもりと盛り上がって来た。
「わわわわ」
 その地中のものは、むっくりと起きあがろうとしていた。シンジは、助けを
求めようと、台所へ向かって後ずさりを始める。アスカはだめだろうけど、母
ならば助けてくれるだろう、そんな思いがあった。
 ざざざざー。地中から顔が現れた。のっぺらぼうだった。腐った瓜の中身の
ような模様がついていた。さらに怖いのは、それが溶けかかっているという事
実だった。
「ヴワァワワワワワワァ」その人型のものは、うめき声を上げた。人間の声で
はありえなかった。どこからきたのか、それの体全体に泡がついていた。いや、
そいつが泡を吹きだしているのだ。沸騰していると言ってもいい。そいつは沸
騰していた。
 そして、急速に溶けて崩れていく。シンジは呆然とその光景を見ていた。 

 突然、誰かがシンジの肩に手を置いた。シンジは飛び上がった。
 振り返る。アスカがいた。
「あ…」シンジは彼女に話しかけようとした。
「この、ばかっ」アスカは握り拳でシンジの頬を殴った。シンジは尻餅をつい
た。
「…自分のケツも拭けないようなひよっこが、『召喚魔法』なんか使うんじゃ
ないわよ!!!あんたは、消されるところだったのよ!」シンジは尻餅をつい
たままアスカを見上げていた。アスカの顔は怒りで上気していた。
「あんたの考えてる事はわかってるわ、碇シンジ」アスカは低い声で言う。
「あんたは、魔法で、あのホムンクルスを人間にしようと思ってる…。トレー
ニングを続けてるのはそのため。そうでしょ?」
 シンジはかすかにうなずいた。夕日がアスカの髪を金色に輝かせていた。ま
た不思議な、落ち着いた感じがした。こうやって高飛車な女の子に怒鳴られて
いるというのに。
「あんたは、知らないの?いいこと。『魔法で本当の人間を造り出す』のは禁
じられているわ!『この宇宙』でそれをしていいのは『あのお方』だけ」
 シンジはその、「あのお方」が検討つかないので、アスカに尋ねようと思っ
たが、やめた。アスカを今以上に怒らせると思ったからだ。
「あたしたちは、空から監視されているわ」アスカは片手を軽く、淡い紫色に
染まり始めた空にむかってつきだした。シンジは、空ではなく、アスカの、そ
んなきっぱりとした仕草に見とれていた。なんだろう?やっぱりアスカは他の
女の子とは違う、とシンジは思った。
「地球は、数十個の『魔法衛星』によって監視されているわ。そいつは、『魔
法使い』の『固有魔法振動波』を探知し、分類し、誰がどこでどの程度の魔力
を使ったか記録してるの。それで、あんたが禁じられた魔法を使おうとしたこ
とがばれるとどうなると思う?」
 シンジはかすかに首を振った。
「…『ソーサラー・ブリンクマン』という男がいたわ」アスカはゆっくりとし
ゃべりだした。シンジは、真面目くさったアスカの顔を見つめている。
「彼は、形式上は『メイジ』クラスの魔法使いだった…。あんたみたいに『召
喚系』の魔法使いで、アメリカの『スミソニアン空想博物館』のために、グリ
フォンやらキマイラやらユニコーンを召喚して生計を立てていた。ある日何が
彼を狂わせたか、彼は人間の、それも女を召喚しようと思い立ったの。彼に関
する本はいっぱい出てるから読んでみるといいわ。彼は、フロリダの別荘で、
ハイスクール時代にふられた女の子とそっくりな『人間』を召喚したわ…」

「なんでも自分の言いなりになる、初恋の女性と同じ顔をした女。彼は夢中に
なったわ。何週間も別荘に閉じこもりっきりで、この女性と過ごした。…男っ
て、ほんと、バカだわ、あんたも含めて。でも、そいつは、もっともっと愚か
なことを彼は思いついたの」アスカは息をついだ。
「あのクソバカは、『ハーレム』を造ることを思いついたのよ。自分だけの、
そっくり同じ女ばかりの『ハーレム』を」
「最初は、彼はとても慎重だった。『魔法衛星』のスキャンをかいくぐって魔
法を使っていた。時たま、それが失敗して問い合わせが来ても、ゴブリンを大
量に造ってるんだといってごまかしてた」
「…でも、15人目の女性を造った時に、すべてが露見したわ。地球上のあら
ゆる『魔女』『魔法使い』を管轄し、逮捕権、裁判権を持つ『ウィザード』の
北米大陸担当の、『ウィズ・ブリティッシュ』が、部下の戦闘部隊と別荘に踏
み込んだときには、その15人の女性だけが残されていた。ずるがしこい『ソ
ーサラー・ブリンクマン』は、直前にそれを察知していて、ヨーロッパに逃走
していたの」
「ヨーロッパの『ウィズ・ローレンツ』と、あたしと同じ『エレメンタル系』
の魔法を使うアフリカ最大の魔女、『ウィッチ・オロロ』が彼を追跡したわ」
「モロッコで、彼は発見されたわ。そして、さらに史上最低の愚かさを露呈し
た」アスカは言葉を切った。
「どうしたんだよ?」
「彼は『ウィズ・ローレンツ』に戦いを挑んだの。召喚魔法で。正気な魔女や
魔法使いは『ウィザード』に、魔法による戦いを挑んだりしないわ。彼は最強
の戦闘用生物である『火竜(ファイヤードラゴン)』を召喚し、ウィズ・ロー
レンツに立ち向かったわ」
 空はもはや夜の色だった。シンジを見下ろすアスカの顔は暗くて、細い輪郭
しか見えなかった。「それで、どうなったの?」シンジは言った。
「当然、ウィズ・ローレンツも竜を召喚した。この地球上でもっとも恐ろしい
破壊力を持つ竜を。完全機械化5個師団に匹敵する戦闘力を有する竜を。そし
て、1917年の『世界大戦』以来初めての竜同士の戦闘が起きた。言うまで
もなく、『ソーサラー・ブリンクマン』ごときに勝ち目はなかったわ。だって
ついその前まで、博物館のために、姿だけは恐ろしいけれど、山羊のようにお
となしい怪物を造っていた男ですもんね」
「それで…。負けてどうなったの?牢屋に入ったとか」
「バカね、あんたわ。ほんとおに。『ソーサラー・ブリンクマン』の死体は灰
すら残らなかったのよ!彼は徹底的に焼き尽くされた。見せしめのために。そ
して酔狂な『ネクロマンサー』による死からの復活を阻止するために、彼の魂
はバラバラに引き裂かれて、銀河系の外縁まで吹き飛ばされたわ」
 シンジは、アスカの暗い顔を見上げていた。背後の家の明かりに、アスカの
華奢な体の線が浮かびあがっていた。
「…残酷なんだね」シンジは言った。
「あんたは、何もわかってないわ!何もわかっていない!!魔法を使う事がど
んなことか、まるでわかっていない!…魔法は、世界を崩壊させうる力よ!も
し、反社会的な魔法使いたちが、自分のゆがんだ欲望を満たすために世界のあ
ちこちで魔法を好き勝手に使いだしたらどうなると思ってるの?…世界の終わ
りよ!…試しに考えてご覧なさい。『理論』だけで、実用化される事のなかっ
た『核兵器』の事を。核分裂や核融合を利用した架空の兵器が現実にあって、
世界の誰も彼もが持ってるようなもんよ。ちょっと気に入らない事があったら、
ボンっと東京一つを灰に出来る世界を」
「…わかったよ」
「『ほんとうに』わかってるんでしょうねえ?あんたは、もう『魔法使い』よ、
『魔法大全』の禁止事項をよく読みなさい!」
「わかってる」そういってシンジは急に立ち上がった。そして気がついた。意
外に二人は近くにいたのだ。アスカの顔が、唇が、胸が、目の前にあった。シ
ンジはなぜかひどくあわてた。

 アスカとて、それは同じだった。彼女はあわてて後ずさると、こう言った。
「あ、あんたは、あのホムンクルスがお気に入りみたいだけど、『魔法衛星』
には、あなたの大好きな『ホムンクルス』が閉じこめられているの。魔法は科
学じゃ検出できないから」
 それは、余計な台詞だった。シンジは一瞬うつむいた。
「…人工衛星に乗って宇宙を回ってるのかい」
「そうよ、時たま軌道をはずれて、大気圏で燃え尽きる『ホムンクルス』もい
るわ」そして、それもまた余計な台詞だった。
「…」シンジは黙ってしまった。狭い人工衛星の中で、果てしのない探査を続
けるレイの幻を見たような気がした。
「…もう夕御飯の時間よ!私は先に行くわ」アスカは言った。どういうわけか、
後ろめたい気持ちがしていたのはアスカの方だった。
「ねえ、アスカ」シンジは彼女を呼び止めた。
「なによ」アスカは振り返った。黄昏の中に小柄な、やせっぽちの少年の暗い
影が立っていた。
「その、ブリンクマンの、15人の女の子はどうなったの?」
「…え?あ、ああ。彼女たちはアメリカの市民権を与えられて、今もアメリカ
で普通に生活してると思うわ」アスカは答えると、ゆっくりと歩き出した。

 シンジは、薬草畑の中に立っていた。家の中から、「ワシのハンバーグはど
こへいったぁー」、という父の叫び声が聞こえてくる。
 闇の中で、少年は思った。
 もしそうなっても、レイは、人間として生きられるんだ。

 その夜シンジは夢を見た。
 原色が鮮やかな夢だった。無人島にいるのだった。椰子の生い茂る浜辺でパ
ンツを洗濯しているのだった。
 次の瞬間、彼は空を飛んでいた。雲の上から住んでいる島が見えた。彼は葉
っぱの服を着ていた。隠れ家の洞窟にふわりと降りる。
 夜。人間になったレイがなぜか部屋の中で編み物をしている。
「レイ、ぼくのお母さんになってよ」シンジはレイに言った。
「いいえ、私はあなたのお母さんはいや」初めて聞くレイの声は柔らかな響き。
 次の瞬間、裸のレイが、彼の腕の中にいた。
「あなたにとって、もっとすてきなものに成りたいわ」彼女はシンジを抱きし
める。
「…レイ」シンジは寝言でつぶやいた。

 ざばざばざば。碇家の一階にある風呂場で妙な音がした。夜明け前、午前4
時。風呂桶の蓋が、ふいにぱたんと開いた。何かが浴槽の中から出てきた。誰
もそれに気がついたものはいなかった。

 夢は続く。無人島の明け方。シンジは岬に立っている。ふと見ると、ビキニ
の水着を着て、髪に羽根を一本付けた女の子が、仁王立ちで海の方をにらみつ
けていた。
「君はだれ?」
 振り返った。アスカだった。アスカ、ぼくの夢で何をしてるの?シンジは聞
いてみた。
「ちがうわよ!あんた、ばかぁ?格好見てわからないの?あたしは『タイガー
リリー』よ」
「わ、わからなかったな」シンジは言う。
「それより、あたしとキスしない?」タイガーリリーこと、アスカはそういっ
て唇を突き出す。シンジは、どーせ夢だからと、その女の子の腰に手を回し、
キスした。すごくリアルなキスだった。夢だとは思えなかった。
 アスカは、ライラックの香りがした。どこかで嗅いだことのあるにおい。そ
うだ。風呂場だ。一番風呂でないと入らないアスカの好きな入浴剤。
 そうこうしているうちに、アスカはシンジの口に舌を入れてきた。お風呂の
お湯の味がした。

 目をあけた。
 彼は、黄緑色の半透明のバケモノとキスをしているのだった。

「うわあああああああああああああああ」
 シンジの叫び声が、家中に響いた。
 シンジは恐怖で目を大きく見開いていた。
 目の前にいるものは、少女の形をしていた。淡い黄緑色のゼリーのような体
をしていた。かすかに天井が透き通って見える顔には、目のくぼみや、唇があ
った。そしてその、なま暖かい手は、彼の頬に触れていた。
「な、なんだよ!」ライラックの香りと魔法の葉っぱのかおり。寝ている間に
ぼくが呼び寄せてしまったんだ。でも、どこから。
 そのとき、ドアが開き、シンジの母のユイとアスカが入ってきた。
 半透明の少女は彼らの方を威嚇するように向きなおった。
「シンジ、それを無に返しなさい!」ユイは叫んだ。
「無に返すって、どうするんだよ」
「あんた、ばかぁ!…あんたが造ったんだから、あんたが虚無に戻しなさい!」
「だって、どうやって造ったかもわからないんだよ!」
 そうこうしているうちに、そのバケモノは二人の女性を追い出すように、両
手を広げて、迫り始める。顔が、まるで洗濯機の渦のようにぐるぐるとねじれ
だした。
「仕方ないわ、アスカ、攻撃魔法を使って」ユイは言った。
「アイ・サー!」アスカは赤いパジャマ姿で、腰を落とし、右手をそのバケモ
ノに向かってつきだした。
「大気にみなぎる精霊よ、我が掌に集まり賜え…」
 アスカはつきだした右手の掌を開いた。そして、掌がかすかに光ったように
見えたかと思うと、半透明の少女の腹の辺りがぐぐぐぐとゆがみ、後ろへむか
って膨れ上がった。それは必死にもがいていた。が、アスカの掌から受ける目
に見えない圧力で、まるでちぎれ飛びそうなテントのようにばたばたとはため
いていた。
「おばさま、こいつ、意外に強い!」アスカは叫んだ。
「力を貸すわ」ユイは両手を高く差し上げた。陽炎のようなものがその手から
立ち上った。ユイは、そのゆらゆらする何かの固まりをそっと巨大な風船のよ
うになったバケモノに押し出した。
 そのとたん、バケモノの体が、さーっと泡だったように見えた。湯気があが
る。それは、沸いているのだった。
「ヴォワワワワ、ジジジジンジー」風船がばちんとはじけた。ベッドの上に、
熱い水滴が降り注いだ。シンジは、飛び上がった。
「あち、あち、あち」シンジはベッドから転がり出た。

 アスカとユイは、そんなシンジをほったらかしにして、びしょぬれのベッド
を調べていた。
「…お風呂のお湯ね」ユイが言った。
「昼間も、地中の水分で組織しようとしてたわ、おばさま」
「シンジ」ユイは厳しい声で言った。
「あなたの魔力は、自分で思ってるより、強いかもしれない。今はまだ単細胞
生物なみの意識しか持たない奴しか召喚出来ないみたいだけど、やがてはもっ
と複雑な生き物を生み出す事ができるでしょうね。…でも、忘れないで、進化
で生まれたものも、魔法で生まれたものも、同じ生き物に変わりはないわ。あ
なたは、それに対して責任を持たなければなりません」
 シンジは、彼をじっと見据える、母と美しい同居人を見た。顔は全然違うけ
ど、二人はよく似ていると思った。そうだ、アスカは母さんによく似ている。
うまくは言葉にならなかったけど、誇りと責任感がそうさせているような気が
した。
「わかったよ」シンジは言った。
「…ほら、一階で着替えてきなさい。居間にお布団を敷いてあげるから、そこ
で寝なさい」ユイの声は、やさしい母親のそれに変わっていた。
「ほんとにもお!安眠妨害しないでよね!」アスカはそういうと、自分の部屋
に帰った。真っ赤なパジャマが、可愛らしかった。

 シンジは、ガラス瓶に入ったレイと一緒に、一階の居間に降りていた。
 …こわかったよ、レイ。あれはぼくの呼び寄せたものだなんて信じられない。
 シンジはレイに「話し」かけた。ところが、レイは答えず、瓶のそこの方で
もじもじしている。
 …どうしたの?気分でも悪いの?あ。お湯がかかったの?
 けれども、この小さなホムンクルスは答えなかった。
 シンジは仕方ないので、枕元にガラス瓶を置き、居間の床に敷かれた布団に
もぐりこんだ。あと1時間半は眠れるぞ、と思った。
 …シンジ、シンジ。レイは愛しい少年の顔を見ながら思った。あれは、わた
しだったのよ、シンジ。あれのたましいのいちぶはわたしだったのよ、シンジ。
 
 碇シンジは、また夢を見ていた。あのバケモノに起こされて中断した夢の続
きだった。彼はまた島にいた。木の幹の薄暗い隠れ家で、人間になったレイが
編み物をしているのを、何とも言えない平和な気分で見ていた。家の中には小
さなベッドが5つあって、みなシンジとそっくりな顔をした子供たちが眠って
いた。
 場面は、さっと変わった。今度は海賊船の甲板の上。派手な飾りのついた帽
子をかぶった父のゲンドウが、レイを縛りあげていた。
「シーンジぃ。ワシの出番が少ないぞぉ」彼は悪鬼のような残忍な顔をして言
った。
「仕方ないだろ!とおさん、ぼくの夢なんだから!」シンジは叫んだ。
「うるさい!ワシの出番をふやさんと、この娘の命はないぞ」
「卑怯だぞ!」
「卑怯は海賊の専売特許だ、バカモノ」ゲンドウは剣を抜いて、シンジに突き
つけた。
 また場面は変わった。シンジとゲンドウがチャンバラをしている。かちん、
かちん、かちん。
「お前のチンチンを切り落としてやる。俺はホントは女の子がほしかったんだ!」
ゲンドウは言った。
「夢だからといって下品な事をいうなよ!」シンジは叫んだ。
 ふと、そのとき、何かが足りないことに気がついた。ゲンドウの後ろには、
タイガーリリーことアスカが立っていた。レイはマストに縛り付けられている。
 なんだろう?なんだろう?…ティンク!
 ティンク!ティンカーベル!シンジはガラス瓶の中の妖精を思い浮かべた。
「ティーンク!…レイ!」シンジは寝言を言った。

 その瞬間、高台にある碇家から1キロ以上離れた大きな川の水面が、もりも
りと盛り上がった。水で出来た、無数の手が、無数の頭が、泡立つ水の中に見
えた。やがてそれらは群をなして堤防をよじ登り始めた。シンジ、シンジとつ
ぶやきながら。

 シンジは猛烈な葉っぱの匂いで目が覚めた。またやってしまった、と思った。
ほぼ同時に、夫のゲンドウの横で、なかなか寝付かれないでいたユイの枕元の
電話が鳴った。
「もしもし」彼女は受話器を取った。いやな予感がした。
「碇さんのお宅ですね」女性の声がした。
「はい、わたしは中級魔女、碇ユイです」電話の相手の想像はついていた。
「わたくし、『世界魔法管理機構日本支部』の初級魔女、宮村です。たったい
ま『LP16』(注)が、お宅の息子さんの碇シンジくんの強力な魔法を検出
しました。推定魔力値は2800、届け出が必要な魔力値を2300も越えて
います。所定の手続きに従って、報告を求めます」
「はい。わかりました。でも息子はまだ魔力のコントロールが出来なくて無意
識のうちに使ってしまったんです。すぐに問いただして報告しますから」ユイ
はそういっ受話器をがちゃんと置いた。そのとき自分の手が震えているのに気
がついた。
 わたしは、人間社会の敵、『ソーサラー』を産んで育ててしまったのかもし
れない、そんな思いが頭をよぎった。…だめ、そんなことはない、そんなこと
はさせない!あの『ブリンクマン』のようにして、息子を失いたくない!
 ユイは居間まで走った。

(注:LP16 ラブポーション16、極東地域を探索する『魔法衛星』)

 居間の明かりを付けると、息子は布団の上に座って、途方に暮れたように母
親を見上げている。ユイは息子を抱きしめたいという、理不尽な衝動にかられ
た。しかし、魔女としての彼女は、それを抑えて言った。
「あなた、何をやったの?」
「わからないんだ、母さん。自分でも」シンジは言った。
 ユイは、家の中を警戒しながら見て回った。アスカは起きていた。彼女も眠
れなかったらしい。
「またやったのね」、バカシンジ、と思わず口にしそうになったので、あわて
てやめた。母親の前でそんなことを言うわけにいかない。
「あなた、起きてよ」ユイは自分の寝室に戻り、夫のゲンドウを起こした。
「…う、うん…?なんだ、そんなあわてて。火星人でも攻めてきたか?」
 まだその方がましだわ、ユイは思った。
 
 五分経過。何も変わった様子はない。ユイは、『魔法衛星』の計測ミスであ
ることを祈っていた。
 彼女はまだ暗い庭先に、アスカとシンジと3人で立っていた。
「おばさま、やっぱり誤報じゃないの?何も起きてないわよ」アスカが言った。
「そうだといいんだけど」ユイは言った。
 そのとき、シンジの耳に、微かな太鼓の音が聞こえた。朝の5時から誰が太
鼓をたたいているんだろうと思った。
「ねえ」シンジは、アスカの赤いパジャマの袖を引っ張る。
「なにすんのよ!突然」アスカは言った。
「聞こえない?太鼓の音。…ドンドンって」
「んなもの、聞こえないわよ!」
「待って、聞こえるわ!…坂の方からよ」ユイは、庭から玄関口まで走って行
く。碇家は高台にあり、玄関の前から長い坂道が見渡せる。シンジとアスカは
ユイの後を追った。
 このとき、アスカの耳にもそれは、はっきりと聞こえていた。ドン、ドン。
正確なリズムを刻んで、徐々に大きくなる音。
 街灯が点々と明かりを投げかける長い坂道。その規則正しい音は、下からや
ってくる。
「何かしら?シンジ、あんたは何を呼び出したの!」アスカは言う。
「わからないよ、そんなもの!」
 碇家からずっとしたにある坂道に面した住宅街の家に、次々と明かりがとも
ってゆく。玄関から寝間着姿の人々が往来に飛び出して、何かを指さして叫ん
でいた。
「なんなんだ、いったい、祭りでもやってるのか」気がつくとゲンドウが3人
の背後に立っていた。
 
 だしぬけに、それが見えた。住民の誰かが、それに懐中電灯を向けたのだ。
「なんだ、あれは!」
「…そんな、馬鹿な」
「シンジ!あ、あんたはいったい、どういう魔法を使ったのよ!」
 碇一家は口々に叫んだ。

 それは、人間の形を、それも少女の形をした何かの群だった。いや群という
より、軍隊のように規則正しい行進だった。道の幅いっぱい、5列縦隊で、そ
れはやってくる。月の無い明け方、街灯の光で、それの体はきらきらと光って
いた。道路がまるで輝く川の水面のようだった。
「あれだけの大量の水は…?…あ。…川か。川ね!」アスカは悟った。シンジ
がはじきとんで返ってきた理由がわかった。あのとき、もう始まっていたのだ。
「かあさん、あんなの来たらこの家がつぶれてしまうぞ」ゲンドウがどこか浮
き世離れした調子で言った。
「そんなことわかってます!」ユイは言った。
 いったい何人(?)いるんだろう、シンジは数えようとした。無駄だった。
隊列は彼の家から1キロ半離れた川の方まで続いているような気がした。
「おばさま、あたし、やってみるわ!どーせ、シンジには自分の魔法はコント
ロール出来ないんだし!だから、道に出ている人に家に入るように言って」ア
スカは言った。
「わかったわ」
 ユイは、碇家から走り出て、大声で叫んだ。
「みなさーん!家の中に入ってください!危険ですから家の中に入って!!」
「ほら、あなたもシンジも手伝って!」ユイは振り返って言った。
 シンジは、母親の後を追って、通りに出て叫んだ。
「家の中にはいってくださーい!」シンジは叫んだ。
「家に入れよぉ」出番が少ないのがそんなに気に入らないのか、碇ゲンドウは
おざなりにつぶやくように言う。
 ゲンドウはともかく、ユイが魔女であることを町内で知らないものはない。
魔女というのは、もともと社会的尊敬を集める職業である。道ばたで、異形の
集団を眺めていた近所の人々は、あわてて家に入った。

 アスカはすでに精神を集中していた。魔法の作用対象を意識の中で固定する
作業である。戦闘機乗りの用語が好きなアスカはそれを『ロックオン』と呼ん
でいる。いま、アスカの意識の中には迫りくる多数の水のバケモノたちが、ま
るで赤い光点のようにポツポツと浮かんでいる。
 200、250、270、350、アスカはその光点の数を数えていた。多
すぎる。しかし住宅地の真ん中だ。『ロックオン』せずに、魔法で絨毯爆撃を
行うわけにはいかない。
「とにかく、波状攻撃でいくわよ!」アスカはユイに向かって叫んだ。ユイと
シンジは、腰を落として両手を突き出したアスカの魔法の弾道をさけるように
道の脇に寄った。
 ズン、ズン、ズン。それはもはや地響きと言うべきだった。道路を通して、
その何百何千の水で出来た少女の一糸乱れぬ跫音を感じる。アスカはそのリズ
ムに合わせて呼吸している。
「…シンジなんかになめられてたまるもんですか」彼女はつぶやいた。勉強部
屋で感じたシンジの魔法の意外な強さは、彼女の誇りを傷つけていた。彼女は、
自分の頭の中で、打ち寄せてくる波のような、強弱のある魔力の高まりにタイ
ミングを合わせた。
 今だ。「いっけぇぇぇ!!!!」彼女は叫んだ。ぎゅううううん、という空
気を切り裂く、かん高い音が明け方の街に響いた。
 シンジは目に見えないアスカの魔力波が、怪物の隊列に向かってまっしぐら
に飛んでいくのを『感じ』た。それは前列を文字通り一瞬で粉砕し、長い坂道
の終わりまでシュパーっと延びていった。
 町の真ん中に、ほんの数秒、巨大な水のトンネルが出来た。まるで海をまっ
ぷたつに割ったモーゼのように、アスカは猛り狂う水の回廊の中心線上にいた。
「すごい…」シンジは思わず言った。
 アスカは第一波の攻撃を止めた。宙に舞い上がっていた水は、まるで土砂降
りの雨のように、道路にざばざばと降り注いだ。
「どうだぁ!」アスカは得意げに叫んだ。どう、シンジ、あんたにはとうてい
無理よ。

 道路に落ちた大量の水は、坂を下って、川のように流れていった。が、ある
程度流れたところで物理法則に逆らって止まり、そこでもこもこと人間の形に
なっていくのが見える。破壊された隊列の後からやってきた怪物は一瞬混じり
あい、通り抜けて行進を続けてくる。
「このおぉぉぉ!」アスカは第二波攻撃を行った。再び長い長い行進の前の方
が吹き飛ばされる。どこかから、消防車のサイレンが聞こえてきた。
「おお、消防車で吸い上げて、川に放水しちまえばいいのだ」アスカの背後で
ゲンドウがそう言うのが聞こえた。
「普通の人間になにができるの!」アスカはムキになって言った。彼女は第三
派攻撃を敢行する。が、明らかに威力が落ちていた。アスカが疲れたせいもあ
るが、もしかしたら無駄な抵抗なのかもしれない、という疑念がわいてきたせ
いだった。しかし彼女は負けを認めるのは絶対にいやだった。
 第四波。アスカは肩で息をしていた。ズン、ズン、ズン、ズン
 休むために攻撃の間隔があき、結果、隊列はますます家に迫ってきた。

「こら」突然、ゲンドウは、シンジの後頭部をげんこつでこづいた。
「て」シンジは振り返った。
「自分のケツは自分で拭け」ゲンドウは言った。シンジは、ばかでかい父を見
上げた。

「このお」アスカは、魔法を繰り出す。もはや彼女の魔法は、前列の二、三体
を吹き飛ばしただけだった。足下が規則正しく揺れていた。背後で木造二階建
て築二十五年の碇家が、みしみしいった。
 なぜか誰も逃げなかった。アスカの背後にユイとゲンドウとシンジが、並ん
で立っていた。
 アスカは、両手を構える。が、何も起きなかった。彼女の目の前に、バケモ
ノの群が迫った。
 そのとき、シンジがアスカの前に走り出た。
「なにすんの!あんたがなんの役に立つっての!」アスカが叫んだ。
 その通りかもしれなかった。シンジは何も思いつかなかった。そもそもどう
やってかけたかもわからない魔法を、どうやって帳消しに出来るの言うのだろ
う。
「かあさんと、逃げるんだ!」シンジはアスカに怒鳴った。
「あんたに何が出来るの?あんたなんかに!」アスカはシンジのパジャマを掴
んだ。アスカの肩に乗っていたモン吉も一緒に歯を剥いた。

「そいつにまかしとけ」ゲンドウは背後から言った。
「あなた!」
「あいつが召喚したんだろ?あいつにだけは危害を加えたりしやせんさ」中年
の錬金術師はそう言うのだった。
 この、うそつき。錬金術師の妻は思った。いつも冗談まじりに、自分で召喚
した竜に食われちゃった魔法使いの逸話を話してたくせに。しかし、ゲンドウ
の言う通りかもしれなかった。あれは止められない限り、息子を死ぬまで追い
つめるだろう。

 シンジは、隊列の前にまろび出た。つっかけていたサンダルが脱げた。
 少年は両手を広げた。怪物たちの前列は、彼のまわりを取り囲んだ。無数の
水の手が、ぺたぺたとシンジに触れた。近くで見ると、その水で出来た少女は、
なんと、レイに似ているのだった。シンジは、冷たい手を通して、彼の召喚し
たバケモノの、単純な心が流れ込んでくるのを感じた。
 あなたとひとつになりたい。それは、それらの水の少女たちは、ただその衝
動に突き動かされているのだった。シンジはその想いを感じた事があった。レ
イとクリスマスツリーを見に行った夜の事だった。
「レイ…?…『君たち』はレイなのか?」シンジは言った。
 あなたとひとつになりたい。あなたとひとつになりたい。あなたとひとつに
…。シンジは知らずに涙を流していた。水の少女たちの純粋無垢な心に打たれ
たのだ。
 シンジはまわりの少女たちが、混じり合っていくのを眺めた。シンジは心の
中でささやいた。…川へ帰るんだ。このぼくが川に帰って欲しいと思ってるん
だ。…たのむよ。

 ユイとアスカは知らずに抱き合って、その光景を見ていた。
「あのままじゃ、シンジが『溺れて』しまうわ!あなた!」ユイはゲンドウに
叫んだ。
「取り乱すな。後ろの方はもう回れ右をしてるぞ」ゲンドウは言った。
 その通りだった。彼女たちは引き返し始めていた。

 シンジは、彼にまとわりついていた少女たちが離れると、あとからついて行
った。
 そのまま、川まで一キロ以上の道のりを、裸足の少年は歩いた。隊列と、シ
ンジのまわりを野次馬と警官と消防隊員が取り囲んでいた。
「きみ、だいじょうぶか?」警官の一人がシンジに声をかけた。
「だいじょうぶです。この子たちをもといたところに返してきます」シンジは
答えた。

 その異様な行列は国道をわたっていた。夜はもはや明けかけており、雀たち
の鳴き声の中で、ズンズンという行進の音だけが響いている。
 警官が国道を通行止めにしていた。
 
 ある車が、渋滞の最前列にいた。
「なによあれ?」運転席の女は言った。
「わからないが、どう見たって魔法のしわざだね。あの銀色のマネキンみたい
な女の子たちは水で出来ているみたいだ」男が言った。

 国道の歩道は野次馬で埋め尽くされていた。近くの商店街に店を構える冬月
コウゾウもまたその人混みに紛れて、その異様な光景を見ていた。列の最後に
いる少年に見覚えがあった。目を凝らして見る。なんと常連客の碇の息子みた
いだった。彼は驚きのあまり、そこに長居しすぎた。もうとっくに家に帰る時
間だったのに。彼は徐々にまぶしさを感じ始めていた。

「何を見てるんだい」まだ酔いが残っている男が言った。隊列は国道を横断し
きっていた。警官が行ってよし、と合図しているのに、運転席の女は、歩道の
ある一点を凝視していた。
「…え?」女は言った。
「もう、行っていいんだよ」男はそう言って、女の見ていた方角を見た。彼も
また、しばらくそこを見つめていた。
「ああ、ごめんなさい」女はアクセルを踏んだ。
 見つけたわ!…あの『けだもの』を見つけた!女は心の中で叫んでいる。神
様、感謝します!
 明らかに女の様子が変わったが、助手席の男は気がつかないふりをした。
「ちょっち、喉が乾いたわ、ジュース買いましょ」その女は言って、交差点か
らほど遠くないバス停の前に車を停めた。女は、すぐ目の前にある自動販売機
を無視して、商店街の方へ走っていった。
 男はバックミラーで、走っていく女のすんなりした後ろ姿を眺めていた。い
まここで実行するはずはない、男は思った。おそらく、夜だろう。彼女の性格
から言って、敵の寝込みを襲ったりはしないだろう。
 やれやれ、…『トラブルは俺の影法師』か、男は古いハードボイルド小説の
題名を思い出した。

「この『ホムンクルス』はしばらくわたしが預かります」おなじみのガラス瓶
を抱いた碇ユイがそう宣言したのは、遅い朝食の席だった。
 学校を休んだアスカは、心ここにあらずという様子で、コーヒーをいつまで
もかき混ぜていた。モン吉と『シゲル君』は、朝から大好きなぶっかけ飯をか
き込んでいた。ゲンドウは、目玉焼きの黄身をすすっていた。
「なんでだよ!かあさん」同じく学校を休んだシンジは、立ち上がって、母親
にくってかかった。
「この子は、いえ、この子のたましいは『夢魔』のものである可能性があるか
らよ」ユイは言った。
「む、ま?」シンジはきょとんとしている。
「…なるほど、それで合点がいくわ」アスカがつぶやいた。
「ワシにはそんな覚えはないが、そう言われりゃそうかもしれんな」ゲンドウ
が言う。
「な、なんだよ。どういうことなんだよ!」
「…魔力は魔界の力を借りること。魔力は魔界から来る。『夢魔』が魔力と関
係あるの、あったりまえじゃない」アスカはシンジからわざと顔を背けて、頬
杖をついて言う。
「『夢魔』だったら、なぜいけないんだよ!」シンジは母に抱かれた、小さな
レイを見た。不安げにきょろきょろしていた。
「シンジ、この子は、あなたの魔力を自分では制御出来ないほど、強くするわ」
母親が言った。
「『アーサー王伝説』を知ってる?」ユイが言う。
「ううん」
「古代の伝説的な王様よ。その『アーサー王』に仕えた、偉大なる伝説の魔法
使い『マーリン』は、人間の女と『夢魔』の間にうまれた子、という伝承があ
るわ。もちろん、それは『来訪』前の事だから、あてにはならないけど、『夢
魔』との関わりが、すごい魔法使いを生み出したという、伝承の原型になる事
実があったと思うの。シンジ、この『レイ』と暮らすようになってから、あな
たは魔法使いだということがわかったわ。…あなたもこの子の事で不思議な体
験をしたことがあるんじゃない?」ユイは言った。

 シンジは、すぐに、クリスマスツリーの前で見たまぼろしの事を思い出した。
しかし、そのことは黙っていようと思った。
「…そんなこと無いよ」
「そう、でも、今日から、レイは私たちの部屋で暮らすのよ」
「そ、そんなあ!」
「シンジ、これはあなたのためなのよ」ユイはぴしゃりと言った。

 ユイはどうして息子にすべてを話さなかったのだろう。
 朝食のあと、この14歳にして上級魔女の少女は、自分の部屋でベッドに寝
そべりながら、そう思った。
 公式には、つまり魔法管理機構への届け出上は、ユイがシンジの監督者にな
っているのを、アスカは知っていた。実際にはアスカがシンジの『師匠』だっ
たのに。
 最悪の場合、ユイは査問委員会にかけられ、もっと最悪の場合「中級魔女」
の資格を剥奪されるかもしれない。初心者の魔法の暴走は、監督者の責任なの
だ。
 魔女の資格剥奪!アスカは考えるだけで恐ろしかった。だからアスカは、ユ
イが責任を一人でかぶるままにしておいた。せざるを得なかった。あの魔法を
かける時の魂が震えるような充実感、あれを永遠に奪われるのかと思うと、無
性に怖かった。
「…ママ」ふいに、瞳の輝きを失って、暗い部屋に座っている、アスカ自身の
母のことを思いだした。アスカは、寝返りをうち、あわてて別の事を考えるこ
とにした。
 わからないのは、息子を庇うのは納得できるとして、なぜあの『ホムンクル
ス』まで庇うのか?それが理解出来なかった。あの、『ホムンクルス』なんか
と愛し合っているつもりでいる息子のためなのか?
 わからなかった。
 彼女は眠りに落ち、そして『蒸気人間』の夢を見た。

「おれは、誰かに、いいように使われている気がする」碇ゲンドウは思った。
彼は息子と『シゲル君』と三人で、『シゲル君』の家を直しているのだった。
ご近所に菓子折を持って、お詫びに回って帰ってきたとおもったら、これだ。
『次はシゲル君の家を直してね』だと。
「釘一つ満足にうてんのか、バカモノ」彼は息子をこづいて憂さ晴らしをした。

 その日の夕刻。「日本時空研究所」の研究員、日向マコトは、あれこれと思
い悩んでいた。うわさを耳にしたのだ。恋人の伊吹マヤが、彼以外の誰かとつ
きあっているらしいという。なんと相手は白髪頭の初老の男性だという。
 そんな、馬鹿な。親類か何かだろう。彼はそう思おうとしていた。
 しかし、彼女は孤児で、施設で育ち、親類縁者はどこにもいないと言ってい
た。上司だろうか?聞くと夜、遅い時間に二人で歩いていたらしい。その男が
マヤに肩を貸した格好で、支えながら歩いていたらしい。彼女は酔っているよ
うだったらしい。
 聞いてみようか?彼は思った。やきもちを焼いているようにとられるかもな。
独占欲の強い男だと思われないだろうか?そうだ、別にマヤはぼくのものだと
決まってるわけじゃないんだ。
 でも…。

 別の場所、別の時間。同じ日の夕方。
 碇家がある町から遠く離れた小さな町の、郊外に、古ぼけた教会があった。
 そのひとけの無い、『修正カトリック(注)』教会に一人の女がいた。
 その女は、幼い頃、この教会の近所に住んでいた。日曜学校に、母親とよく
来たものだった。コーラスや、ケーキ作り、クリスマスパーティ。あの壁、あ
のシミ。みんな懐かしい。
(注:『来訪』以降教義を修正したキリスト教の一宗派)

 出口のところで神父に会った。もちろん、彼女がこの教会によく通っていた
ころにいた、ポルトガル人の神父ではなかった。風の便りに、先年アフリカで
亡くなったと聞いた。思わず涙が出た。もう枯れ果てたと思ったのに。彼女は、
軽く会釈をし、教会の駐車場に止めてある、青いアルピーヌに乗り込んだ。ま
るで猫の額ほどしかない後ろの座席に、『セルマー』と書かれたサキソフォン
のケースが積んであった。

 女は胸の大きなロザリオを握りしめる。
 パパ、ママ。わたしに力をちょうだい。
 わたしに勇気をちょうだい。
 人の形をした獣をこの世から抹殺するのに必要な。

「復讐スルハ我ニアリ」女はつぶやき、アルピーヌを走らせる。



つづく

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