錬金術師ゲンドウ

 第4話「台風がやってきた!(後編)」


 土曜日の明け方。ユイは、風の音で目を覚ました。隣に夫のゲンドウが寝て
いる。いぎたなくいびきをかいていた。薄い色の付いた眼鏡を外し、口をうっ
すらと開けている。寝顔を見ていると、やせっぽちの、ひょろりとした青年の
面影がある。ゆ、ユイさん、今度須磨の海水浴場に行きませんか!その青年が
言ったとき、女子大生のユイはとても驚いた。
…女の子と海に行くようなタイプには見えなかったわよ、ユイは思った。

 ユイは台所と続き間になっている居間に行き、テレビを付けた。台風は蛇行
していた。時速30キロ。ゆっくりとしたスピードだった。○○県に上陸する
かは五分五分といったところ。背後で物音がする。アスカだった。
「おはよ」
「あ、おはよう、おばさま」アスカは真っ赤にテディベアのプリント模様のパ
ジャマを着ていた。目をこすりながら、テレビを見る。
「来そう?」
「うん、たぶん。ここから魔力をぶちあてて、太平洋まで誘導すればいいわね」
ユイはテレビに映っている気圧配置図の一点を指さす。
「そうね」アスカは言った。
「嵐の中を飛ぶのよ、覚悟はいい?」
「もーちろん!ぜーんぜん平気。みてて」台風に向かって飛ぶのはもちろん初
めてだけど、天才のあたしならやってのけるわ、アスカは思った。

「それではよろしくお願いします」○○県体育協会の服部は床に額をこすりつ
けんばかりに頭をさげて言った。そして、これは規定の前金です、と茶色い封
筒をアスカに差し出す。アスカは封筒から結構な枚数の壱万円札を取り出すと、
すました顔で丁寧に数えた。
「わかりましたわ。すべてこの上級魔女、アスカにおまかせあれ」アスカは重々
しく言った。服部は帰って行く。

「おばさま、これ」アスカは数枚紙幣を抜き取ると、いつも着ている黒いワン
ピースのポケットに無造作にいれ、残りを封筒ごとユイに渡した。ユイは中を
見る。かなりの額が入っていた。
「ちょっとアスカちゃん、なにこれ」
「とっといて、今月の食費よ」アスカは得意そうに言う。
「そんなもの、受け取れないわ。修行中の女の子を住まわせるのは、魔女の義
務よ。お金のことなんか」ユイは封筒をアスカに返そうとした。アスカはそれ
を押し戻そうとした。
「いいから、受けとっときなさい」ふいに二人の背後に長身のゲンドウがぬっ
と現れて、そういった。扶養家族が増えたいま、自分の小遣いが減されるのは
確実だったからだ。

 モン吉は、『シゲル君』の頭が気に入ってしまった。このオス猿は、朝早く
から庭にある簡易トイレにしか見えない『シゲル君』の家に行き、荷物運び用
人造人間『シゲル君』の頭によじ登り、丸くなる。何が面白いのかわからない
が何時間もそうしている。

 家の中では朝食を済ませたゲンドウと息子のシンジの前で、大事な魔女の儀
式が行われている。それは『箒渡しの儀』と呼ばれていて、修行中の魔女が滞
在する家の、女主人たる先輩の魔女が、後輩に自分の愛用の箒を授ける儀式な
のだ。魔女の見習いは、その箒を4年間使わなければならない。
「格上のあなたにこんなことをするなんて、おこがましいのだけど」中級魔女
であるユイは上級魔女である14歳の天才少女に言った。
「とんでもないわ。うれしいです」アスカは目を輝かせて言った。
なんて、自信たっぷりな子なんだろう…。シンジは思った。この子にはきち
んとした目的もあり、誇りと、自分の仕事も持っている。同じ14歳なのに、
どうしてこんなに違うんだろう。
 ユイは、リビングに置いてある本棚の横から、一本の古ぼけた箒を取り出し
た。
「これは、晩年の『抱月』作、日本に数本の逸品『小林丸』よ。上級魔女が持
っていてもおかしくはないわ」そういってユイはアスカに箒を手渡した。
アスカはその箒を両手で持って、重さを確かめてみたり、香油を吸って黒光
りする柄の表面をじっと見たりしている。
「…すごい。ヨーロッパにもこれほどの箒はめったにない…。ありがとう、お
ばさま、うれしいわ」アスカはお辞儀をした。

 台風の蛇行によって、アスカの出発は何度も延びた。昼過ぎになっても、○
○県に上陸するかどうかは、不確定だった。午前中は、はりきっていたアスカ
も次第にいらいらし始めた。

「ちょっと、そこ、どいてよぉ」アスカは言う。
「な、なんだよ、さっきもどいたのに」シンジは抗議する。
「わたしは台所へ行きたいの!あんたなんで二階の部屋にいないの?」
「そんなの、ぼくの勝手だろ」

「なに一日中かき混ぜてるんですかぁ?」
「水銀だ」
「たのしい?」
「するとおまえさんは雨の日に家の中で水銀をかき混ぜるのは、楽しい行為だ
と思うのか?」ゲンドウは言った。
「ふうん」アスカは行ってしまった。
 なにが、『ふうん』、だ。この小娘めが、ゲンドウは思った。

「ねえ、『シゲル』、あなたはどうして『シゲル』なの?」
「ウキキキ」モン吉が『シゲル君』のかわりに答えた。

 唐突に出発の時間がやってきた。というより、アスカがしびれをきらしたの
だ。
「もーう、いや!…これ絶対上陸するわ!…行くわ。あたし。大丈夫よ、成功
報酬はぜったいもらうから」アスカはソファの上に飛び乗り、仁王立ちになっ
て叫んだ。
「もういいでしょ!おばさま」アスカは紅茶を入れながらテレビを観ているユ
イを指さして言った。
「そうね。行く?」
「もちろん!…そうときまったら…」アスカは、シンジとゲンドウを階段まで
追い立てる。
「あんたたちは、二階のシンジの部屋にでもいなさい!」
「な、なんでだよ」シンジは抗議する。
「…だまってのぼれ、バカモノ」ゲンドウはシンジの頭を押しながら階段を上
っていく。
「カーテン引いてじっとしてるのよ!部屋から出たら承知しないから!」

 シンジとゲンドウは、アスカの部屋の向かいになるシンジの子供部屋に入っ
た。ゲンドウは、シンジの勉強机の上のガラス瓶の中できょとんとしている小
さなホムンクルスのレイに手を振りながらいそいそとカーテンを閉めた。
「なにが始まるんだよ?とうさん」シンジは父の背中に声をかける。
「…おまえ、魔女が箒にのって飛ぶのを実際に見たことがないのか?」
「…ないよ」
 ゲンドウは、ふと手をとめて、息子の顔を見下ろした。そして、なるほど、
とひとこと言った。
「な、なにが、なるほどなんだよぉ!」薄暗くなった部屋の中でシンジは言う。
瓶の中のレイは、びっくりしたようすでシンジを見上げている。
「黙っておれ」ゲンドウは、なぜか忍び足で窓に近寄ると、カーテンのわずか
な隙間から外を見ている。分厚い黒い雨雲が広がっていて、まるで夕闇がせま
っているかのように薄暗い。庭にはユイの薬草用の菜園と、『シゲル君』の家
が見えた。しばらく見ていると開いた傘が二本、庭に現れる。
「ぼくも、みせてよ」シンジは長身の父親の脇の下から顔を出して、カーテン
の隙間を覗き込んで、思わず息をのんだ。
 
 アスカとユイが傘を持って立っている。アスカは短めの黒のブーツを履き、
右手に傘を、左手に『小林丸』を握っている。いつもの大きな赤いリボンを、
黒のびろうどのリボンに変えていた。おまけに首に、同じ黒の細い紐のような
首飾りを付けている。
 …アスカが身につけているものはそれだけだった。つまり彼女はハダカだっ
たのだ。夕暮れのように暗い庭の中に、アスカの白く丸いお尻が浮かび出てい
るようだった。
 シンジの視線は釘付けになっていた。思わずカーテンの端を握りしめていた。
「…魔女は裸で箒に乗るのが正しい作法なのだ」ゲンドウは、声を殺して言う。
「…知らなかったよ。テレビじゃ」シンジは、かわいいミニスカートの衣装を
着ているテレビの魔女を思い浮かべる。
「…お子さま番組でこんなもん映せんだろうが、バカモノ」ゲンドウは言う。

 勉強机の上にいるレイは、ゲンドウとシンジ親子が仲良く外を覗いているの
が不思議でならなかった。彼女は瓶の中で背伸びしてみるが、外の光景が見え
るはずもない。しかし、なんとなくあの赤いリボンの女の子に関係のあること
ではないか、という不安がわいてくる。

「…何を興奮しておる」ゲンドウは言う。
「…な、何を言うんだよ。父さんこそ鼻息あらいぞ」
 その時、アスカが碇家の二階を見上げた。ゲンドウ親子は、ぱっと窓から離
れた。ゲンドウとシンジは顔を見合わせた。あせっていた。魔女を怒らせると、
どんなことになるか、考えただけでも恐ろしい。

「なーんか、見られているような気がするのよね」アスカは言った。
「き、気のせいよ、アスカちゃん。あ、香油塗らなくちゃね」ユイは言いなが
ら、あのろくでなしども、と思った。

 ゲンドウは、しばらくして再びそうっとカーテンを摘んでみる。シンジもゲ
ンドウのそばに行く。母親のユイが、アスカの身体に、油のようなものを塗っ
ている。
「か、かあさん、なにをしてるの?」
「香油を塗っておるのだ。実に古風な作法を使うな」
 古風どころか、むちゃくちゃエッチに見えるぞ、とシンジは思った。

「行くわ」アスカは箒『小林丸』にまたがった。ユイは思わずあとずさった。
見えない圧力のような魔力を感じたのだ。オートジャイロ、GPSシステム、
携帯高度計、速度計、携帯レーダーといった機材一式を背中に背負ったモン吉
が箒の先に飛び乗った。モン吉は機器の電源を入れると、アスカに親指を立て
てみせる。
「LP16でフォローよろしく」アスカは言う。
「了解。高度3000フィートまで一気に駆け上がって、水平飛行に移ってね」
「了解!…WWWA『レッド・ライトニング』発進!」
 そう言うが早いかアスカの姿はふっと消えた。一陣の風を受けながら、ユイ
は驚いて空を見上げる。遥か上空でアスカが、美しいとんぼ返りをうっていた。
なんという上昇力か!ユイは、この年下の魔女に、羨望よりも畏怖を感じてい
た。
 …スピードに関心はないみたいだけど、その気になれば、マダム・イエーガ
ーがXシリーズという箒で次々と打ち立てたスピード記録を一気に塗り替える
ことが出来るかも。ユイは思った。

「わわ」アスカが上昇してゆくとき、シンジは顔に手をかざした。
「どうした?」
「え?…風が吹いてきたろ」シンジは答えた。
「そうだな」ゲンドウは言った。窓はずーっと閉まっていた。…まさか、な。
 レイはシンジを見上げていた。シンジの顔に、羨望のような、あこがれのよ
うな表情が浮かんでいた。…わたしを見て!…わたしを見て!レイはガラス瓶
の中で何度もくるくると回ってみせた。…しかし、シンジは気が付かない。い
まや、カーテンを開けて、空を見上げていた。

「あなた!パラボラアンテナを出してください!…それと後でお話があります
から、降りてきてね!」階下からユイが叫んだ。
 ゲンドウは、ちっと舌打ちし、二階の踊り場に行く。彼は、天井にある取っ
手をつかむと、屋根裏部屋の納戸の階段をおろした。そこをぶつぶつ文句を言
いながら上がると、腰を屈めないと頭を打ってしまうほどの低い屋根裏部屋を
歩く。
 部屋の中央に、潜水艦の潜望鏡のような、取っ手のついた鉄製の円筒がある。
 ゲンドウはその円筒に付いている小さなハンドルをキコキコと回した。
「とうさん、なにやってんだよ?」
「かあさんの言った事が聞こえなかったのか?アンテナを出しておるのだ、バ
カモノ」
 木造二階建ての碇家の屋根から、白くてぴかぴか光るお椀のようなアンテナ
がにょきにょき生えてくる。
 ユイは一階の和室で、パソコンのスイッチを入れ、あるシステムを起動する。
しばらく待つ。ディスプレイにはメルカトル図法で書かれた地球が写っていた。
夫が出してくれたアンテナに、遥か上空、宇宙空間を飛行する魔女衛星(ウイ
ッチサット)、『ラブポーション(媚薬)16号機』からのメッセージが送ら
れてくる。
 ユイは、衛星をプログラムし、アスカを追跡させた。
 衛星は、日本上空を通過するたびに、すなわち56秒に一度の間隔で、アス
カの固有魔法振動数を感知し、アスカの位置をディスプレイの中で拡大された
日本地図の中に赤い光点で示した。
 ユイは気象衛星から送られてくる台風の画像を、別のレイヤーとして、その
地図に重ね合わせた。
 …あの子は、台風に近づいているわ。ユイは思った。

 アスカは、雲の上を飛んでいた。すばらしい気分だった。この箒もよくしつ
けられていて、調子がいい。空は、薄紫色。高高度を飛んでいるときが一番す
き。アスカは思った。世界のてっぺんに立った気がする。
 箒の先には『使い魔』のモン吉が、計器とにらめっこしている。彼は手を軽
くあげ、上へ行け、と合図する。
 アスカはさらに高度を上げた。ここまで昇れる魔女は世界に百人といない。
台風そのものである荒れ狂った雲の塊が眼下に近づいてくる。アスカは、魔
法をかけるために台風とシンクロした。不思議な気分だった。非生物に魔法を
かけるとき、いつもなにかの発見があるわ、アスカは思った。彼女は台風の意
識のかけらのようなものを感じている。…いいこよ、いいこね。あなたは向き
をかえるのよ。アスカは意識を集中しはじめた。そのため、モン吉が腕で一生
懸命緊急信号を送っているのに気が付かなかった。

 その時、予想外の事が起こった。ほぼ正面の上空から、航空自衛隊○○基地
から発進した3機のF22Jが接近してきたのだ。
 アスカはそれにようやく気づき、あわてた。なぜ飛行機が接近しているのか
理解できなかった。けれどそれは「科学」の生んだ現実のもので、裸で箒にま
たがっている彼女に接近してくるのだ。
 そして、アスカは致命的なミスを犯した。急旋回し、「隠し身の魔法」を使
って、姿を隠したのだ。
 彼女は、中級以上、つまり複数の魔法を同時に使える魔女だった。その時「飛
行魔法」そしてそれに不可欠な「慣性無効魔法」、超大型の「物体誘導魔法」
を使っていた。彼女はそれに加えて、あわてて「隠し身の魔法」を使いだした
のだ。さすがの天才もその時一時的に魔力が底をついた。
 そして「慣性無効魔法」が、ほとんどゼロに近いほど弱まった。
 急速旋回中の彼女の身体の血液は、一気に慣性の法則に従った。彼女は目の
前がまっくらになった。「ブラックアウト」というやつである。そしてアスカ
は意識を失ってしまった。彼女は、きりもみしながら、台風の中に落ちていっ
た…。

「…隊長、いったいいまの、なんですか?」ひとりのパイロットが言った。
「…魔女だ。見たことないのか?…こんな高度を飛べるやつが日本にいたのか」
「しかし、突然消えちまいました。レーダーからも!」別のパイロットが言っ
た。
「おそらく、姿を隠す魔法をつかったんだ。科学の作ったものには写らないよ」
三機編隊は飛び去った。

 ユイは、アスカの位置をしめす光点が消えたのを見て腰をぬかしそうになっ
た。
「…あなた!アンテナを見て!…異常ない?」
「ないぞお」上の方からゲンドウの間延びした声がする。
「…どうしたの?…いったい?モン吉!モン吉!」魔女は魔法を使うとき「科
学」で作られたものを身につける事が出来ない。だから使い魔のモン吉が通信
機を持っているのだ。
「どうしたの?かあさん」
「アスカちゃんが、アスカちゃんが、大変なの!」ユイは叫んだ。

 モン吉が比較的早く回復したのは、奇跡といってよかった。彼は気が付くと、
自分が箒にしがみついているのを発見した。彼は急いで振り返った。アスカは
目を閉じていた。箒を持つ指が力無く離れようとしていた!
モン吉は、機器をすべて放り出すと、アスカに飛びついた。その時アスカの
指が箒を離した。
 ぱしっ。モン吉の手が吹き飛ばされようとするアスカの足首をつかんだ!
 モン吉は足で箒をしっかりと挟むと、アスカを引き寄せようとした。しかし、
台風の雲の下へ落ちて行く彼らを強風が襲った。
「キキキ…!」モン吉は苦悶の呻き声をあげた。モン吉は箒とアスカのあいだ
でぎりぎりとねじられているのだった。
 離してたまるか、モン吉は思った。体中の骨がバラバラになってもいい、腕
がちぎれなければ。ワシは、この娘を、命にかえても守るんだ。モン吉は思っ
た。
 激痛で気が遠くなった。モン吉は、気をまぎらわせるために、忘れられない
思い出の事を考える事にした。はじめて、この人間の娘と出会ったときのこと
を。
 それはドイツの小さな町の公園だった。モン吉は逃げ出したペットだった。
そしてその公園にすんでいた。ある日彼は野良犬におそわれて、コテンパンに
やられた。
 遊歩道の脇の木の下で、ぼろくずのように横たわって、自分の血が、だらだ
らと落ち葉に流れていくのをぼんやりと眺めながら、ワシは死ぬんだなあ、と
考えていた。
 その時、頭に赤いリボンを付けて、黒い服を着た女の子がやってきて、彼を
抱き上げた。女の子の黒い服に、彼の血のシミが広がっていく。しかしその子
はそれを意に介するふうもなく、彼の頭をなでていた。そして、こういったの
だ。
「…あなたも、ひとりぼっちなのね…」
 モン吉にはその言葉の意味は分からなかった。しかし、その言葉と、その時
少女の浮かべた、やさしい、けれど、さびしげなほほえみを忘れたことはない。
だから、ワシはこの娘を護る。モン吉は思った。

 その時、アスカの意識が戻った。彼女はひとめで状況を理解すると、半径5
メートルほどの、大きなボールのような魔力の力場を作った。モン吉と『小林
丸』とアスカの落下が止まった。アスカの目の前に、意識を失いかけた猿が浮
いてきた。
「…ごめん!…ごめん、モン吉。あたしのせいで」アスカは猿をだきしめた。
モン吉は力無く目を開けて、アスカをじっと見ていた。アスカはあまり得意で
はない「治療魔法」をモン吉にかけた。そして、彼を片手で抱き抱えるように
して上空を見上げた。
 嵐の雲が広がっている。
 アスカは無性に腹がたってきた。自分のうかつさに腹がたった。相棒のモン
吉をあんな目にあわせた自分が許せなかった。

「誘導魔法なんか、性にあわないわ!」
 アスカは片手を天高く突き出した。
「…風よ、空気の精よ、われに力を与え賜え」アスカはつぶやきながら、彼女
の最大にして最強の魔法を、台風にぶつけた。

「…アスカ!」よかったわ。ユイは思った。再びアスカを示す赤い光点が地図
上にプロットされたのだ。彼女は無事で、魔法を使っているらしい。ユイはふ
と推定魔力値を示す数字を読んだ。
「…さ、さんまん、ごせん…?」飛行しながらの誘導魔法にはせいぜい700
0いくらあればよい。その5倍もの魔力が、なぜ検知されたのか?
 ユイは気象衛星からの画像が落ちてくるのを待った。そして、驚いた。
 日本上空に、巨大な、細く綺麗な円状の雲があった。…それだけだった。後
は雲といえる雲がない。太平洋上をくまなく探しても、台風のかけらすらない。
 アスカは、台風そのものを消し去ってしまったのだ。そうとしか考えられな
い。おそらく台風の下から、面状に斥力を与える魔法をかけたのだ。それが強
すぎて、日本上空の雲という雲が、吹き飛んだのだ。今頃は成層圏で、細かい
氷の結晶になっているだろうか?それとも、もっと遠く、地球を脱出している
のだろうか?
 ユイは、ねんのために運輸省の航空局に電話して、日本上空を飛行していた
飛行機に異常がなかったかどうか、尋ねた。なんともなかった。どの飛行機も
雲が突然消えた事にたまげはしたが、無事飛行中だった。「科学」の力と違い、
魔法は魔女の意識と同調するものにしか効かないのだ。
「…この子は本物だわ」ユイはぽつりと言った。

 夜も更けて、ようやくアスカは帰ってきた。ユイはアスカを出迎えて、モン
吉をアスカの部屋に置いてあるベビーベッドに寝かせてやった。それは昔シン
ジが使っていたものだ。そういやあ、シンジもサルみたいだったな、と、ベッ
ドの掃除をさせられながらゲンドウは思った。
 アスカはゆっくりとぬるい風呂に入った。予定とは違ったけど、とにかく仕
事の結果は出したわ、彼女は思った。

 次の次の日、服部はやってきた。アスカは服部に、あんた、航空自衛隊に連
絡するの忘れたでしょ!と怒鳴った。すっかり元気になったモン吉が、彼女の
肩から歯をむき出して服部を威嚇した。
 とにかく、服部の体育祭は大成功だったので、彼は危険手当を上乗せした額
の小切手を持ってきた。ゲンドウはその小切手の額面をひょい、とのぞき込み、
おれも魔女に生まれてくればよかった、と思った。大柄だけど、美人の魔女に
なるのではないかと想像してみる。

 次の日、アスカとユイはお揃いの黒いワンピースを着て、街へ出かけた。姉
妹に見えるかしらん、とユイは思った。ユイは銀行へ行き、アスカの口座を作
ってやった。アスカは預金通帳を受け取ると、何度も残高を見ながら、
「おばさま、わたし大金持ちよ!」と嬉しそうに言うのだった。ユイはほほえ
みながら、そんなアスカを見て、ものすごい魔女だけど、やっぱり14歳の女
の子ね、と思った。
 それから二人は車に乗って、ある中学校に行き、入学手続きと、教科書と制
服など一式を買いそろえた。もちろんアスカのである。
「なんで中学校なのよ」アスカは文句を言う。けれど、目は嬉しそうだった。

 さらに、何日か後。
 レイはガラス瓶の中から、窓の外を見ていた。
 あの、女の子がいつもと違う服を着て、シンジと出かけるのが目に入った。
 どこに、いくのだろう?小さなホムンクルスの女の子は考えた。
 どこに、いくのだろう。二人きりで。
 どこへ。
 レイは瓶の中で逆さになって、小さな泡を立てた。

「出来るだけ離れて歩いてね!」アスカは一人早足でシンジの先を歩いている。
「わかったよ」シンジはアスカの後をとぼとぼと歩きながら、あの日、カーテ
ンの隙間から見たアスカのお尻の事を頭から追い払おうと努力していた。
「…どっちに曲がるのよっ」気がつくとアスカは交差点の角に立ち怒鳴ってい
た。
「右だよ、右」シンジは叫んだ。          

つづく

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