What’s new?




 京都駅に1時55分に着く新幹線を、六分儀ゲンドウは待っていた。
 梅雨入り前の、観光シーズンを迎えて、北口の改札は、行き交う人で混雑し
ていた。
 腕時計を見る。
 2時だ。そろそろ来る頃だ。

 彼女が見えた。グレーの上品なスーツを着ていた。手を振った。六分儀も思
わず振り返す。

「待った?」碇ユイは言いながら、ごく自然な動作で、手に持っていた女性に
しては大きめのバッグを六分儀に渡す。持っていろ、ということらしい。
「いや、待ってない」背の高い大学教授は答えた。
「4時までしかいられないのよ。すぐ東京にとんぼ帰りしなきゃ」ユイは言っ
た。
「ああ」京都に来られただけでも奇跡なのだ。それ以上望むまい。

「どこへ行く?」その彼女の口調は変わらない。四十を越えても、まるで女子
大生のような口調。
「そうだな、考えたんだが、『しあんくれーる』でお茶でも飲もう」
「うれしい!」

 二人は地下鉄に乗った。電車の中は、今出川駅でおりる同志社大学の学生た
ちでいっぱいだった。
 何組かのカップルもいる。ユイは、そのうちの一組を見つめている。本を抱
えた真面目そうな女の子と、背の高い痩せた男の子。とても仲が良さそうだっ
た。
 気がつくと彼女の頭一つ上で、六分儀も彼らをながめていた。
「あのころの、あたしたちみたいだと思わない?」ユイは言った。
「おれはあんなに明朗快活そうじゃなかったな」
「そんなことを言ってるんじゃないわ」

「『ネイチャー』に載った論文、読んだわよ」
 地下鉄をおりて、烏丸通りから河原町通りへ向かって歩きながら、碇ユイは
言った。
「どうだった?」
「・・・あなたは変わらないわ。時間も、世間も、大学も、あなたを変える事
は出来なかったわね」そして私も。私という存在も。
「うむ。冬月教授も同じ事を言っていたな」
「そうそう、冬月教授はどうされてるの」
「ああ、退任して、奈良の方の私大の講師をやってる。君の事をいつも知りた
がっていた」
「そう」

 『しあんくれーる』はジャズ喫茶の老舗である。ユイと六分儀はよくここで
お茶を飲んだ。二人とも、一人でいたいときは、出町柳のクラッシック喫茶『
柳月堂』に行くことが多かったが、二人でいるときはたいていここだった。

 窓際の席に陣取る。店内には復帰後の『アート・ペッパー』の演奏が流れて
いた。二人はコーヒーを頼んだ。
「ねえ、ここへはよく来るの?」
「いや・・・十年ぶりぐらいかな・・・」六分儀は言って、所在なげにきょろ
きょろと視線をさまよわせる。
「この店もかわらんな。ほら、あのマイルスの写真もある」
「あら」

 二人の会話は途切れ途切れ。
 しかし、あのころもこんなもんだったわ、と碇ユイは思う。
「ねえ、『ヘレン・メリル』リクエストしてきて」彼女は甘えるように言う。
「ああ」六分儀は立ち上がり、カウンターのアルバイトの青年にぼそぼそとア
ルバム名を告げる。

 いきなり店内に『What's new?』がかかった。
「あら、一曲目だったかしら?」ユイの好きだった『ヘレン・メリル・ウィズ
・クリフォード・ブラウン』の一曲目は、昔CMに使われて妙に有名になった、
『You'd be so nice to come home to』のはずだった。
「いや、・・・この曲だけ聴きたかったんだろ?」六分儀が言った。
「そうよ、・・・この曲だけ、聴きたかったのよ」ユイは、なぜか、きらきら
光る目で、目の前に座る、自分にとって初めての男を見つめた。

「最近どうしてる?」ユイが言った。
「変わらない。家と大学と行ったり来たり・・・きみは?」
「変わらないわ、ロスとこっちを行ったり来たり」
「婿殿は元気かい?」
「うふふ」

 時間が来た。
 六分儀は、ユイを京都駅まで送った。
「長かったな、こうして会えるまで」珍しく感傷的な口調で六分儀は言った。
「ええ、あたしは京都から半径100キロ以内に近づかないって誓ってたから」
「なるほど」

 上り新幹線のホーム。
 気持のいい風が、さっと吹き抜けていく。

「いま何を考えてる?」ユイは六分儀の顔をのぞき込む。
「うん・・・君を抱きたい、って思ってた」六分儀はぽつりと言った。
「それは、駄目ね、六分儀くん。・・・そんなことしたら、あたし、夫を捨て
てここに来て、あなたの奥さんにこう言ってしまうわ。『この人を返して、こ
の人はあたしの家来だったんだから』って」ユイは微笑みながら言った。
 そんなことを笑いながら言うなよ、六分儀は思った。

 東京行きの新幹線がやってきた。
「じゃあ・・・ね」
「ああ」
 ユイは乗った。ドアが閉まった。

 ガラスの向こうで、席に座ったユイが微笑んでいた。
 六分儀ゲンドウは、おどけたそぶりでお辞儀をしてみせた。

 王様、このわたくしめを、どうか自由の身にしてくださいませ。

 よろしい、下がってよい、と答えたかどうかわからなかった。頭を上げると、
新幹線は走り出していたからだ。

 ゲンドウは、ポケットに手をつっこんだ。
 ユイ、ユイ、ユイ。君はいつもそうだ。勝手に『自分だけの物語』を語りは
じめて、さっさと語り終えてしまう。
 おれが、いつ妻帯者になったと言った・・・?・・・いつ、どこで?
 おれは、北区のはずれのマンションで、ずっと独り暮らししてるんだ。あの
三畳一間の下宿より、ちょっとましになったがね。訊いてくれれば、いつでも
答えたのに。What's new?とひとこと。
『ああ、変わった事は何もない、君が家を捨てて来てくれるまで、ずっと待っ
てたんだ』と。

 碇ユイは、窓の外をながめていた。
 窓の外に、お寺だらけの京都の街が広がっていた。
 しかし、あっと言う間に溶けだして、流れて、消えてしまった。



                              Fin.

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