流れの下で (Undercurrent)



 ベージュ色のバスタオル。ハンドタオル。バスローブ。石鹸。歯ブラシ。消
毒済みと書かれた紙でくるまれたガラスコップ。シミ一つないシーツ。ブルー
ベリー柄のシーツカバー。小さな丸い灰皿。黒いテレビ。小型の冷蔵庫。

 みんな持って帰ったら、バレるだろうか、と六分儀ゲンドウは思った。
 電話が、かかってくるだろうか。しかし予約はユイの名前でしているし、お
れは夫ということになっている。若い夫婦。大学生、か大学院生に見えるカッ
プル。

「なにを考えているの?」ユイが言った。まだスカートをはいていなかった。
「うん・・・この部屋のもの、全部持って帰ったら、ばれるだろうか、と」
「あははははは・・・馬鹿ね」
「バレないような気がするんだが」
「・・・あなたのあの狭い部屋には似合わないわ」
「一点豪華主義だ」意味不明の答えだった。

 六分儀は、どこかおかしかった。調子が悪かった。プールやフィットネスク
ラブがついているようなホテルに泊まった事がないのだ。

 水の中。
 プールの底が青い。青く塗られているのだ。ひとかきして進む。仰向けにな
る。その室内プールの天井は全部ガラス張りだった。空が見えた。でかいホテ
ルの隙間から。

 水の中に潜る。心地よかった。

 ユイは白い、ワンピースの水着で、水に浮いていた。水の中から彼女を見上
げた。背中からお尻にかけた線が、きれいだった。なにか、別の、水に棲む生
き物のようだった。
 ゲンドウは浮上する。潜水艦のように。ちょうど、ユイの脇のところに浮上
するように。

 ざばー。頭から水が滴り落ちる。
「・・・ふう」彼は息をついた。
「潜るのが好きなのね」ユイの声がした。
「いいや。水の中からきみのお尻を見あげるのが好きなんだ」六分儀は普段、
こんなことは言わない。
「じゃ、水の中でキスして」ユイは甘えるように言った。
「息が出来ないよ」
「あたりまえでしょ」

 三日間、なにもしなかった。どこへも行かず、部屋か、ホテルの中のレスト
ランか、プールにいた。扉には「起こさないでください」というカードをずっ
とぶらさげて。

 キス。毎日取り替えられるシーツの中で、六分儀はユイにキスしている。けっ
こうキスが上手になってきた。

 キス。レストランで、キスしてみた。

 キス。ラウンジ・バーで、テーブル越しにキスしてみた。ゲンドウはメニュー
に載っているカクテルを右から順に注文していって、しまいにへべれけになっ
た。

 キス。馬鹿でかいバスルームでキスしてみる。ユイは裸で、大理石の浴槽の
縁に腰掛けている。六分儀は、部屋の中のミニバーで、カクテルの瓶を開け、
グラスにそそいで彼女に持っていく。ハリウッド映画みたいだ。

 ベッドの中でルームサービスの朝食を食べる。

「ブドウがついている」ゲンドウがぽつりと言った。ベーコンの横に小さなフ
ルーツ皿。
 ふと横を見ると、ユイの唇が、彼の唇を塞いだ。甘い、丸い、つるつるした
果実が、柔らかい舌と一緒に押し込まれてくる。
「はい、剥いてあげたわよ」ユイは、いたずらっぽく言った。
「もう一個くれ」六分儀は言った。

 チェックアウト。
 ユイはカードで払っている。サインしている伝票をのぞき込んでみる。五十
万を越えている。三泊四日で五十万。

 馬鹿でかいホテルの前で、ドアボーイに頼んで記念写真を撮ってもらった。

「礼を言えばいいのかな」六分儀は言った。
「いいのよ。父さんのお金なんだから。・・・資本家のブタどもに復讐出来た、
同志六分儀?」
「うむ。プロレタリア独裁の世が来ても、このホテルは残しておいてやろう」

 阪急三宮の駅の前で、六分儀は言った。
「250円、貸してくれないかな?電車賃足りないんだ」
「ちゃんと返してよ」ユイは小さな赤いがま口から、百円玉一枚と五十円玉三
枚を背の高い男に渡す。
「明日、学校で返すよ」

 堀川今出川のバス停でおりて、六分儀は西陣まで歩いた。
 古い木造の家の中に入る。まるで土蔵のような急勾配の階段をとんとんとん
と上がり、部屋の戸を開ける。
 窓といっても、五十センチ四方しかない小さな明かり取りの窓を開ける。
 三畳一間の部屋の中に、専門書と万年床。まるで阿片窟のよう。

 なるほど。六分儀ゲンドウは思った。



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