そんなに近くに立たないでくれ。


 冬月教授の研究室の匂いが好き、碇ユイは思った。
 彼が煙草を吸わないという理由もある。ユイは煙草が嫌いなのだ。彼女の父
は葉巻を吸う。煙草が嫌いな人にとって、葉巻の匂いは苦痛以外の何者でもな
い。ユイが父と折り合いが悪いのは(悪いと彼女が思いこんでいるのは)、葉
巻のせいかもしれない。

 研究室には所狭しと本が積み上げられている。
 その中に、どこかの事務所で使うようなスチールデスクが一つ置かれている。
机の上は資料の山。ユイは、きれい好きなので、たまにその上を片づけてあげ
ることにしている。最初、冬月はその整頓された机の上をみて呆然としている
ように見えた。すみません、差し出がましいことして。ユイが謝ると、冬月は、
「いや、とんでもない。ありがとう」と答えた。それ以来機会があればユイは
冬月の机の上の資料の山を整理している。

「性格に問題があるが、彼はすごい」冬月はある紙の束を持ってそう言った。
 『性格に問題がある』という物言いがおかしかったので、ユイはくすくす笑っ
た。座っている冬月のすぐ後ろにユイは立っていた。体温を感じるほど近くに。
ユイの笑いが、空気の振動として伝わってくる。

「たいした洞察力、構築力だ。もちろん科学的な実証性は無いが、素晴らしい
よ」
「でしょう」ユイは得意げに言うのだった。その調子には、恋人が誉められて
うれしい、という感じがあった。冬月は、心のどこかで、何かが異議をとなえ
るのをおぼえる。
「しかし、わたしはあのような男は好かない。よくある文学青年タイプだ。自
我が、部屋に入りきれないほど肥大してるんだろう、言い回しの端々に感じる
よ」
「ええ、彼の下宿は三畳一間ですからね」ユイはおかしそうに答える。
 冬月は、とっさに『あいつの部屋に行ったことがあるのか?』と尋ねそうに
なったが、さすがにそれはやめた。どう見ても嫉妬しているように見えるだろ
う。

 車の助手席で、ユイは足を揃えて座っていた。ベージュの地味なスカートか
ら、白い足が伸びていた。信号待ちの一瞬。冬月はその足の上に手を這わせる
などというけしからぬ衝動にかられ、自分を恥じた。そんなことをすれば永遠
に、この関係は、いまや冬月の私生活の関心のほとんどをしめる、この若く美
しい女性との、師弟とも友人ともつかぬ関係は壊れてしまうだろう。

「残念でしたね、雨が降ってしまって」
「ま、嵐山にはいつでもいけるさ。こんどは嵐電で行こう」冬月は言った。

 二人はレストランに寄り、食事をとった。
 カツレツにナイフを入れるユイを見つめながら、他人には私たちはどう映っ
ているだろう、と思った。親子?師弟。・・・恋人。不倫の恋人。そんなこと
はあり得ない。

「行動を慎まれた方がいいですよ、教授」ある日、久光という助教授が小声で
言った。
「どういう意味だね?」
「この間同○社の教授の自殺、女子学生との恋愛が原因だったそうですよ。世
間の目が、大学内の『そういったこと』に注目してるんです。もちろん教授は
そういうおつもりではないと思いますが」
「失礼だぞ、きみ」冬月はその時、怒ってみせた。内心は恐怖を感じていた。

 レストランを出るとき、狭い出口のところで、ユイの胸が、冬月の腕に触れ
た。
 ああ、そんなに近くに立たないでくれ。碇ユイ君。

 二人は研究室にいる。
 外はまた雨が降っている。京都の梅雨はほんとうに鬱陶しい。梅雨が明けれ
ば明けたで、蒸し暑い盆地特有の夏がやってくるのだった。
 ユイは冬月が見ている、彼女の恋人の論文をのぞき込む。冬月の肩に手をか
けている。うなじに息がかかる。

 そんなに近くに立たないでくれ、碇ユイ君。

「冬月教授と嵐山に行ったそうだね」六分儀は言った。
「よく知ってるわね?誰にも言ってないのに」
「噂になってるんだ」背の高い青年は言った。
「・・・妬ける?」ユイはいたずらっぽく笑った。


 二人は研究室にいる。
 ユイの手に、冬月の手が触れている。

 そんなに近くに立たないでくれ、碇ユイ君。



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