雨の王 (King of Rain)


 京都の七月は、湿気との戦いである。六分儀ゲンドウは、パンツを3枚腐ら
せてしまった。
 彼の下宿は今出川通りと堀川通りの交差点の手前から西陣の方へ向かって、
いりくんだ路地裏を入ったところにある、風通しの悪いところで、夏はたまら
ない。

 京大からだいぶ遠い西陣界隈に住んでいるのは理由がある。とにかく下宿代
が安いのだ。
 三畳一間で8000円。
 三畳一間など、人間の住むところではない、碇ユイは彼の住まいを聞いたと
き、そう言った。

 たしかに、君には想像のできん話だろうよ。六分儀は、ユイの学生にしては
簡素ではあるけれど、高価そうな服装を見て思った。
「君の実家は、何部屋あるの?」ある時そう訊いてみた。ユイは上を向いて真
剣に数えだしたので、六分儀は、気が滅入ってしまった。
 数秒ほどかかったので、いったいどんな豪邸に住んでいるんだろうと思った。

 ユイとは住む世界が違いすぎた。何ごとにつけ、それを思い知らされた。
 違いすぎるので、かえってこんなに長くつきあいが続いているんだ、と思う
時がある。そうでも考えないと、須磨の豪邸に住んでいるらしい美しい女性が、
おれとつきあっているなんて、なにかの間違いだと思えてくるのだ。


 祇園祭は、雨になった。
 六分儀とユイは河原町三条で雨に遭い、あわてて近くの喫茶店に駆け込んだ。
雨は激しさを増す。たまたま店内に空席があったのは奇跡といってよかった。
 ユイも六分儀も、びしょぬれだった。
「ひゃー、冷房が寒いくらいだな」六分儀は言った。
「そうね。今日降らなくてもいいのに」久しぶりのデートらしいデートだった
のだ。夏休みには入っていたが、ゲンドウはバイトが忙しく、なかなか会えな
かったのだ。
「冬月教授がね、今日は六分儀くんと出かけるのかい?って」ユイはいたずらっ
ぽく笑った。
「なんで、あのひとが」
「よく訊かれるのよ。あなたと会ってるのか、って」
「・・・君に惚れてるんだよ」
「まさか」
 それはあるかもしれない。六分儀は思った。君は自分が男性にとってどれだ
け魅力的か気がついていないんだ。この宇宙で一番罪なタイプの女かもしれな
い。

 雨は降り続いていた。
「電車が無くなるわ」宵山の人波を避けるために裏通りを歩きながら、ユイが
言った。
「駅まで送っていこう」六分儀が言った。

 水たまりに小さな波紋が出来ている。ほんの微かな雨が降っているのだ。

「まるで王冠みたいね」
「君はいつも浮き世離れした比喩を使うね」
「いいじゃない。しばらく、浮き世離れしていたいんだから・・・」
「縁談の事、言ってるのか?」
「そんなこと言ってないわ」
「でもそんな感じだったよ」
「結婚なんか、したくないわ。とくに父の決めた相手とは」
「相手に会った事があるのかい?」

 ユイは立ち止まって、六分儀の前に立ちはだかった。それは、いかにも「立
ちはだかる」という感じだった。足を開いて、腕を組んで、立っているのだか
ら。
「六分儀くん!・・・わたしに結婚して欲しいの?」
 街灯の光が、ショートカットにしたユイの頭に「天使の輪」を作った。いや、
さっきの比喩ではないが、王冠のようだった。
「いいえ、王様、そんなことは・・・」六分儀はお辞儀をする。
「うむ。・・・よろしい」ユイは言った。

 京阪の駅。

 ユイは立ち止まって、やせっぽちのくぼんだ目をした青年を見上げた。あな
たは、王様のけらいには向かないかもしれない、と思った。謀反を起こしそう
な顔をしているわ、と思った。その何をしでかすかわからない目。そのへの字
に結んだ口。

「・・・命令よ。キスしなさい」

 雨の中の、宇宙で一番罪な、一番美しい王様が言った。



END

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