【地球】
碇シンジは二度目の検査入院の後に買ったスポーツカーを、海に向かって走
らせていた。それは何十年も前に作られたイギリスのMGBという車のレプリ
カで、プラスチック製のボンネットの下には四気筒のガソリンエンジンではな
くモーターが入っている。シンジは居間で絵を描いているアスカに声をかけて、
シートに携帯用の酸素ボンベを放り込み、車に飛び乗ったのだった。
市のゲートを抜けて、ドームの外に出て三十分。今日は大気の状態がいいら
しく、息苦しさは感じない。そのまま海岸まで続く道を時速八十キロ程度で飛
ばす。
ミサトさん、子供っぽいって、すばらしいですね。彼は、もはや顔の輪郭し
か思い出せない女性に呼びかけた。始めて彼女の青いアルピーヌに乗った時の
恐怖を思い出す。なんて乱暴な運転をする人なんだろうと思ったのを思い出す。
あれから何年経ったのだろう?…四十年か?…四十年も経つんだ。
海岸沿いの堤防に車を停め、『セカンドインパクト』後に出来た砂浜を歩い
てゆく。沖の方ではわずかに生き残ったカモメたちが絶望的な努力を続けてい
る。
砂浜を歩くと、しゃりしゃりと音がする。砂の中にガラスが多く含まれてい
るのだ。目の前の海の中には、町や道路が沈んでいた。波はその建物からガラ
スやらアスファルトを削り取り、細かい砂に変えているのだ。
湾の向こうにはシンジとアスカ夫婦の住む、新静岡市のドームが見える。カ
タストロフィーに備えて、都市はみな、紫外線を遮蔽するドームにすっぽりと
覆われているのだ。ドームのそばに海水の濾過・電気分解プラントがくっつい
ている。核融合発電所からの電力で海水を電気分解し、酸素と水素に分ける。
酸素はドーム内の人間や動物が消費し、水素はエネルギーとして利用されるの
だ。
その都市が面する海は、死につつあった。海だけではない、オーストラリア、
アフリカ南部、南アメリカは人の住めない土地になりつつあった。『セカンド
インパクト』の後、南極大陸から広がった『原始の海』が、南半球の酸素・二
酸化酸素のサイクルを狂わせてしまったのだ。海中の植物性プランクトンの減
少やアマゾンの密林の消滅により、大気中の酸素の量が減少していた。そして、
オゾン層はその自己修復機能を失いつつあった。学者たちは『臨界点』を十六
年後と予測していた。『臨界点』とは地球の生命を支える、地球環境のホメオ
スタシスが崩れる時点の事である。臨界を超えると、旧来の大気サイクルは終
わり、南半球の『原始の海』に合ったサイクルが自然に始まるまでは、地球の
環境は混沌を迎える事になるのだ。
途方もなく長い目で見れば、生物は『原始の海』に適応するだろう。実際に
原始的なバクテリアの何種類かは『原始の海』で増殖することが出来た。
考えてみればそれは当たり前のことなのかもしれない、シンジは思った。地
球に生命が誕生する以前の成分比であるというに過ぎないのだ。再びそこから、
生命とそれが生み出した絶妙な大気のバランス、つまりラブロックが『ガイア』
と呼んだシステムは再び生まれるに違いない。五十万年、百万年後には地球は、
『セカンドインパクト』以前と変わらない景観を呈しているだろう。
ただ一つ問題なのは、シンジは思った。今生きている僕たち人間の居場所が
なくなりつつあるという事なのだ。…死に至る病。僕と同じだ、シンジは思う。
自分の病気のことより、妻のアスカを見ている方が、つらい。
彼は空を見上げる。もちろん彼の一人息子が見えるわけではない。ユウキ、
人類の未来というやつは、お前しだいなのかもしれない。父さんは人類を守る
ために、あのおぞましい人型汎用決戦兵器にのって戦った。けれど、それは人
類に何も、もたらさなかったんだ。
アスカは居間で向日葵の絵を描いている。水彩画だ。絵を描き始めたのは息
子のユウキが生まれてからだった。子供につきあって、いろいろ落書きをして
いるうちに面白くなってきて、いまではもっとも熱を注いでいる趣味になって
いる。
特に最近では暇さえあれば絵筆を握っている。心が落ちつくのだ。集中して
いないと夫のシンジや息子のユウキの事を考え、あれこれと気をもんでしまう
のだ。特に、もう夫のことでは泣かないわ、アスカは思った。先週の金曜日に
十分すぎるくらい泣いたのだ。だから、もう泣かない。
アスカは医者がコールドスリープの事を言い出すのが恐かった。コールドス
リープ措置には本人の承諾が必要なのだ。きっとシンジは拒否するだろう。も
し万が一承諾したら、当然一刻も早く措置した方が良いから、シンジとの別れ
を早めるだけだ。アスカはこのまま何もしないことに決めていた。告知はしな
い、だからコールドスリープはしない、と。
アスカは、気がつくと絵筆を置いて、ソファーに腰掛けていた。シンジの事
ばかり頭に浮かぶ。悪い母親だ。息子が何億キロの彼方で、人類の未来のため
に命をかけようとしているのに、わたしは夫の病気の事ばかり考えている。
アスカは立ち上がり、マントルピースに見せかけたホログラフィックネット
の端末のスイッチを入れた。偶然とは恐ろしいもので、ちょうど木星周回軌道
上での実験のニュースをやっている。
「…予定では日本時間の今日7時から行われる予定です。UNSA、国連宇宙
機構のカサス代表は、今回の『空間接合実験』が成功すれば、危機に瀕した我々
人類の…」
アスカはスイッチを切った。人類の未来などどうでもいいわ。わたしは息子
が無事であればいい。そしてシンジの残り少ない人生を、最後まで分かち合え
たら、それでいい。
【月】
UNSA月面基地副司令マッコイは多忙を極めていた。木星の『UNSAエ
ア』に最終的な指示を与えなければならないし、地球からのプレス代表は直前
のインタビューを取りたがるし、月の地下に潜っている作業班は早く月に火を
入れたいとせっついてくるし。なんのために遠く離れた木星で実験をやるのか、
この連中はわかってるんだろうか?と思う。
彼は今年六十二になる、背の高い男で、碇ユウキの事をかっていた。マッコ
イがいなければ、あのゲンドウの孫であるユウキがこの任務につけたかどうか
疑わしい。
彼は司令室に並んだモニターを見ている。月の裏側はほとんど発掘作業が済
んでいた。何十万年の時間の経過を感じさせない、黒光りする金属製のピラミ
ッドが見える。あの地下に、反応シリンダーが埋まっているのだ。そしてそれ
は、月の反対側に埋まっている数キロにもわたる重力子レーザー発振機にエネ
ルギーを供給している。そこまでは西暦2030年までの基礎的な調査でわか
った。問題はそれからだった。月を改造した知性体の持っていた驚くべき科学
力の痕跡を解読する作業が始まった。月面で『綾波レイ』という存在から意識
下に膨大な科学知識を授かった物理学の素養のない碇シンジから、催眠術や自
動連想法などという回りくどい方法で知恵をかりながら。そして、二十年以上
経つのに、いまだにすべて解明されたとはいえなかった。
とはいっても、人類の科学はかなり進歩を遂げた。たとえば宇宙を統べる四
つの力の「超統一理論」、そしてそこから生まれたブラックホール技術、量子
力学。そして…。
その時司令室のオペレータが、「木星から入電。実験を開始しました」と言
った。マッコイは思った。すると木星ではすでに結果が出ているころだな。ど
のみち相手は木星にいる。情報の往復には時間がかかるので、実験に参加して
いる気がしない。彼は思った。とりあえず木星で成功したらさっそくあそこと
ここを結びつけよう。
マッコイは、木星からの返事が返ってくるまで、月の永遠の滝を見に行こう
かと思っている。まったく、ばかげたほどシンプルで、驚異に満ちている。月
の地下は超科学の宝庫だった。80年以上前のアポロ14号の地震波実験の結
果は、まったく月の真の姿を予告していたわけだ。つまり、地表から地下へい
くほど地震波の伝播速度が速いというあれである。それは、月が空洞といわな
いまでも、地殻と内部の物質の密度が違うことを意味するのだ。そしてまさに
その通りだった。
月は天然の天体を改造した宇宙船だったのだ。そして、その宇宙船を主に操
っていたのは、おそらく水棲生物であることもわかっている。彼らが人間の成
人男性よりやや小さい『使徒』を手足として使っていたこともわかっている。
そして彼らはみな消失したとしか考えられないやり方で姿を消した事も。
マッコイは司令室から出た。何も支障がなければ次に木星から連絡があるの
は2時間後だったからだ。
とたんに片づけなければならない仕事の事を思い出した。気が重かった。あ
の男を月から放り出さなければならないのだ。
その男は警備員がドアの前に立つ個室の中で待っていた。
「あなたにこんなことを言わなければならないのを残念に思いますよ」
マッコイは背後のドアが閉まるのを確認してから、心にも無いことを言った。
コンピュータ科学者である男は、詰め襟の濃い緑色のスーツを着て、座って
いた。
「私も君が『魔女狩り』をするような低級な人間だと知って、がっかりしてい
るよ」
「それは、どうも。かけていいですか?」マッコイは返事を待たずに男の向か
いに座った。
「規則ですので言いますが、あなたは2020年のハーグ判決に基づき月基地
から退去しなければなりません。フランスの法律には公職追放条文が確かあっ
たと思いますので、教授職やいろんな委員職を辞めなければなりませんね」マ
ッコイは冷たい声で言った。
「2023年施行だ。フランスがギロチン時代に逆戻りした記念すべき年だ」
「面白い見解ですね」マッコイはにべもなく答える。
「君はなんとも思わないのか?歴史的な実験の成功のために身を粉にして働い
てきた私を、穏健な研究団体の、公表していないメンバーであるというだけで
紙屑のようにごみ箱に投げ捨てようとしているのだ」
「『ネオ・ゼーレ』を『穏健な研究団体』と呼べるならばね」マッコイは努め
て冷静でいようと決心していた。
「君は、この滅びかけた地球の大半を占める愚か者と同じ誤解を抱いているよ
うだ。どうせ言っても無駄だろうが、教えてやる。いいかね、ゼーレが『使徒
戦争』に勝利しなければどうなっていたと思うのだ?『偽典ダニエルの書』の
もう一つの予言が的中したに違いない。つまり神が新たな創造を行うために我々
人類を滅ぼしていたのだ。ゼーレこそが人類の英雄なのだ。なのに君たちは・
・・」
「ならば、私も言わせていただきましょう。『使徒』と呼ばれる生物は人類に
敵対などしていなかった。彼らの行動パターン分析からそれは証明されている。
彼らは地球上のただ一点、第3新東京の、それも彼らの同胞が閉じ込められて
いたセントラルドグマを目指していた。それでも、あの2015年の事件があ
なたの言うように『戦争』だったとしましょう」マッコイは自分の声が大きく
なりつつあるのに気がついていた。しかし止めようが無い。
「戦争状態において、交戦中の相手が一体づつ、いくつかの例外を除いて、『ネ
ルフ』の都合のいい時に順に攻撃をしかけてくる、そんな『戦争』があります
か?まるでテレビの連続活劇のようではありませんか。『使徒』は『ホモ・メ
ギストリス』の末裔を使って、ゼーレが出現させていた。長年にわたる各国の
調査にもかかわらず、その証拠は発見されませんでしたがね。ゼーレは世界各
国の政府の政財界に深く食い込んでいますからね、どこかで手を抜いていたの
かもしれない」
「それは違う!君たちは何かというとそれだ。『死海文書』の価値を故意に無
視してゼーレを攻撃するんだ。ゼーレは君たちの情報操作によって陥れられた
のだ。あの30年前の軍事裁判の茶番劇はなんだ?何が『人類に対する罪』だ?
『使徒戦争』が八百長だと?『使徒』はゼーレが『召喚』していただと?人類
の英雄にたいしてなんたる侮辱だ」
「卑劣で陰険な情報操作はゼーレのお家芸だと思うね。あんたの好きなゼーレ
はボロボロの羊皮紙一枚をそんなにありがたがるが、あれが正しいという証拠
はあったのか?ええ?その羊皮紙一枚で、あの『エヴァンゲリオン』建造のた
めにいったいいくらの金と資源をつぎ込んだと思うのだ?当時、世界のいたる
ところで餓死者を出していたというのに。ゼーレは自分たちが演出した八百長
試合を戦争と称し、世界各国を戦時下経済体制に置いた。エヴァ一体を建造す
る予算で1億人の子どもたちに10年間暖かい食事と毛布を与えることが出来
たのに。そしてエヴァ建造に投下された膨大な資金は、まるで水が砂漠にしみ
こんでいくように、ゼーレの幹部が関連する軍需企業に消えていった…。これ
が人類に対する罪でなくて、なんだというのかね」
「それは仕方の無いことだった。人類の補完のためには。・・・いいかね。人
類が滅びようとしている今こそ、我々は進化の階梯を上り、人類の諸悪の根元
たる『魂と魂の距離』を克服すべきときだ。彼ら尊い犠牲者は人類が新たな神々
しい段階へと生まれ変わるための産みの苦しみと考えるべきだ。彼らの犠牲が
無ければ」男はまくしたてている。マッコイは自分の中で何かが音を立てて切
れるのを感じた。マッコイは立ち上がり、その男のむなぐらを掴んで壁に押し
付けていた。
「な、何をする」男はうめいた。
「おまえらはすぐにそれだ!『尊い犠牲者』だと?その尊い犠牲者がどんなふ
うに死んでいったか、教えてやろう。・・・・おれの父親は2002年の食料
暴動の時にイギリス軍に射殺された。身重の母と子供だったおれのために、パ
ンを手に入れようとして、暴徒に巻き込まれたんだ。今でも覚えてるよ。おれ
のおやじの死体は、何百という他の死体といっしょに広場の真ん中に無造作に
積み上げられていた。兵隊がガソリンをかけて、その死体の山に火をつけた。
水没した地域から人間と同じように逃げてきたもとペットの野犬の群れがあつ
まってくるし、伝染病を防ぐためだった・・・。おふくろはおれの手を痛いほ
ど握り締めていた。おれはその手の痛みを今でも思い出せるよ。おふくろはそ
の後、未熟児の妹を出産して、産辱熱で死んだ。難民キャンプがあまりにも不
潔だったからだ。21世紀にもなって妊婦が産辱熱で死ぬ時代が来るとは思わ
なかったよ。・・・赤ん坊の妹はそのあとすぐに栄養失調で死んだ。おれはど
うすることも出来なかった。自分が生き残るることにせいいっぱいだったから
だ」マッコイの手に力がこもった。
「その間、ゼーレのキール・ローレンツはどこにいたと思う?スイスの別荘で
愛人とお追従を並べ立てる部下に囲まれてぬくぬくと暮らしていた。『セカン
ド・インパクト』は運命だったと、おまえらは言う・・・・。ゼーレの幹部た
ちは1997年から1999年の間に土地を買いあさっている。それらはみな
山間部や高原ばかりだ。南極の『使徒』とのコンタクト実験は『セカンド・イ
ンパクト』を招いた。ゼーレは予言を実現させるためにそうしむけたんだ。い
わばゼーレが『セカンド・インパクト』を起こしたんだ。そして数十億人の人
間を殺した。おまえたち『ネオ・ゼーレ』はそれを何と呼んでる?『神の意志』
か?それとも『適者生存』か?」
「放せ・・・・。わ、私を殺す気か!」男はうめいた。その時背後のドアが開
いて、警備員が、どうしたのですか、副司令?と声をかける。マッコイはその
声で、冷静さを取り戻した。そして手を離した。警備員は床にくずれおちた男
を立たせてやる。
「・・・訴えてやるぞ!きさま。査問委員会にかけて、きさまもここから追放
してやる」
「どうぞ、ご自由に」マッコイはそう言うと背を向けて部屋から出ようとし、
ふと振り返った。
「わたしは、神を信じない。とくにあんたがたの神はね。だが、『ネメシス(復
讐の女神)』だけは例外だ。2016年にジオフロントが爆発した直後、ゼー
レの最高幹部たちが次々にいろんな原因で不思議な死を迎えた。わたしはこれ
こそ『神の意志』だと思うよ」そう言い捨てると、マッコイは部屋から出てい
った。
男は部屋に一人で残された。なんという屈辱か。こんな侮辱を受けたのは生
まれて初めてだ、男は思った。そして、あの作戦を決行したのは正解だったと
思った。そうだ、『コオロギ作戦』。あれこそが絶対の真理の守護者たるネオ・
ゼーレの希望の星だ。
あと数時間で『鯨』中の『コオロギ』があの出来損ないのコンピュータに正
しい道を指し示す。その時こそが、あの野蛮人マッコイの最後だ。
男は気を取り直し、陰気な期待感に胸を膨らませながら荷造りを始めるのだ
った。
【木星】
「宇宙歴2056年、UNSA『エア』は木星軌道を離れ、未知の航海へと出
発しようとしている。ワープスピード5。目的地はシリウス星系。ドクターマ
ッコイ、後は頼んだぞ」碇ユウキは笑みを浮かべながら操縦席で月基地への連
絡を行っている。
「船長それは論理的ではありません。この船はいわゆるワープ航法は出来ませ
ん」JONAがわざと合成音じみた声を出してそれに答える。
「いい加減に『スタートレック』遊びはやめんか」クレイトンがベースユニッ
トから、若者に声をかける。彼は『エア』の本当の船長だった。『エア』は全
長三千メートルにも及ぶ巨大な宇宙船である。いま木星の静止衛星軌道上で、
宇宙船部分と、巨大なエネルギーを発生させるベースユニット部分とが分離す
るのだ。クレイトン、グエン、サラーの3人の乗組員は、ユウキを一人残して
ベースユニットに移っていた。ユウキは宇宙船部分のコックピットに座って実
験の開始を待っている。ベースユニットは木星の赤道の上の衛星軌道から炭素
繊維を織り込んだケーブルを垂らしている。眼下には液体化した水素が織りな
す複雑な渦巻き模様が広がっている。
「反応炉の温度はどうだ?」クレイトンが、褐色の肌を持つ自称天才物理学者
のサラーに聞いた。
「順調に上昇している。あと数分で用意できるよ」
「JONA、念のために座標をもう一度チェックしてくれ」慎重なクレイトン
は『エア』宇宙船部分の一区画を占めるコンピュータに呼びかけた。
「わかりました」かつての第三新東京の『三頭政治』MAGIシステムの十六
倍の演算能力を持ち、かつコンパクトなコンピュータは答えた。
「座標再検査完了しました。異常なしです」
「ありがとうJONA。何度目かな?」クレイトンは言った。
「地球の衛星軌道上で『エア』がアセンブルされてから197回目ですね。ど
れも結果は一致しています」
「ごくろう。…グエン、パイロット衛星の射出準備頼む」
「はい」薄い褐色の顔をした女性が答える。
「時間だ。船長。始めよう」サラーが言う。
「うむ。では『空間接合実験』を開始する。第一段階、『ブラックホール発生』」
クレイトンは言う。了解、とサラーは答えるとスイッチを押す。『エア』のベ
ースユニットの遥か下、木星の高圧の大気の中で吊されたシリンダー状の反応
炉の中に、陽子よりも小さな特異点が生まれた。それはシリンダー内の回転す
る磁場の中で、高速で回転している。その状態を維持するために『エア』の原
子力発電ユニットから膨大な電力が送られている。生まれたばかりの小さなブ
ラックホールには、木星の大気が与えられた。ブラックホールはそれを喰らい、
量子のトンネル効果によって自分自身の重力エネルギーを光子の形で放出し始
める。
「第一段階成功。第二段階を始めます」サラーが言う。「第二段階『第一次空
間接合』開始します。座標変換」
シリンダーの中に、もう一つの特異点が生まれた。それは最初のブラックホー
ルが吸い込んだ粒子を放出し始めた。両者には見た目の空間上のつながりは
全くない。古典的な用語を使うと『アインシュタイン=ローゼン・ブリッジ』
だ。サラーはシリンダー内の状態を表すコンピュータグラフィックを見ながら
思った。まるで宇宙論の入門書のようじゃないか。
「発電量が予定まで達しました。逆流を開始しますか?」グエンがクレイトン
に言った。いまや反応炉は自分自身の生み出すエネルギーで二つの特異点を維
持する事ができ、さらに膨大な電力を発生しつつあるのだった。
このためにわざわざ木星までやってきたのだった。もし特異点の制御に失敗
したとき、たとえば地球上で実験をしていて、シリンダーからブラックホール
を落っことしたとしたら?クレイトンはそれがもたらす結果を想像したくなかっ
た。サラーによると、サイズがあまりにも小さいので地球を食い尽くす前にブ
ラックホールは蒸発してしまうという。しかしそれを試す気にはなれなかった。
国連のお偉方も、そう考えたのだ。木星ほどの大きさと質量があれば、墜落
したブラックホールは中心に達する前に自分の質量を失ってしまうだろう。
「よし、逆流を開始したらすぐに第三段階を始めるぞ、サラー、いよいよだ」
「わかった」
「ユウキ、いよいよだ。準備はいいな?」
「ええ、僕はいつでもオーケーですよ」青年の陽気な声が帰ってくる。
「では第三段階、『第二空間接合実験』を開始する」クレイトンは言った。
木星の大気の中のシリンダーから電力が、『エア』ベースユニットに送り込
まれてきた。ベースユニットの内部では一つの特異点が作り出されていた。そ
れは加速器によって『エア』宇宙船ユニットの前方の何もない空間に射出され
る。
「サラー、座標変換」
「了解」サラーはそう言うと、その虚空の中にある特異点にビームを照射する。
宇宙空間に巨大な力場が形成されてきた。
「『神の門』が開くぞ」クレイトンが呟いた。
「ええ、『バーブ・イラーニ』(神の門)の誕生だ」サラーは答える。
『バーブ・イラーニ』(神の門)とは、三千年前、チグリス・ユーフラテス
の大河に挟まれた地にあった新バビロニア帝国の首都『バビロン』の、神殿に
通じる門の事である。その神殿には神の中の神を意味する『ベル・マルドゥク』
が祭られている。マルドゥクはバビロンの守護神でもあるし、人間の創造主で
もある。後にゼーレは、それにちなんで、復活したバビロンである『第三新東
京』の守り神である『エヴァンゲリオン』のパイロット調査組織に『マルドゥ
ク機関』の名前を与えたのだ。
そして『バーブ・イラーニ』の名は今出来たばかりの特殊なワームホールに
与えられる事になった。空間の曲率がゼロであるワームホール。それが『バー
ブ・イラーニ』の正体である。通常のワームホールは時空が穴に向かって漏斗
状に湾曲している。すなわち普通のブラックホールとみかけは同じである。と
ころが『バーブ・イラーニ』は湾曲どころか、それ自身は質量すら持たないし、
エネルギーも消費しないのだった。それはA地点とB地点の『空間を接合した
状態』に過ぎないのだ。
「パイロット衛星射出しました」グエンが言った。クルーたちは皆、期待しな
がら待った。小さな人工衛星はワームホールに向かって飛行を続けている。時
間が過ぎていく。
「パイロット衛星、『バーブ・イラーニ』を通過しました」グエンが言った。
「ひゃっほー」ユウキが素っ頓狂な声を上げる。人工衛星はまったく、なんの
支障もなく『神の門』をくぐり抜けた。そして座標変換が正しければその向こ
うは、地球から約八光年も離れたシリウス星系なのだ。現在、人類の持つどん
なに速い宇宙船を持ってしても、数千年かかる距離を一瞬にして飛行したのだ
った。
「パイロット衛星からデータ。シリウスA、シリウスBを確認しました」スペ
クトル分析、見かけの大きさ、間違いはない。全天でもっとも輝く星、中国で
は天狼星と呼ばれた星の星系が丸い門の前に広がっているのだ。
「…いま、データが来ました。シリウスBに惑星を確認。地球型、地球半径の
約1.1倍。シリウスBをほぼ円軌道で公転しています。公転周期は地球時間で
285日、自転周期は16時間43分」
クレイトンは不思議な気分だった。地球に伝わる神話や伝承には、やはり幾
分の本物が含まれている。それは海水の金の含有率よりも低いかもしれないが。
シリウスが連星系であり、地球から見えている星の回りを楕円軌道で公転する
もう一つの星の存在を伝える神話を持つ部族が地球にいる。かつてアフリカの
マリに住んでいたドゴン族である。そして彼らは見えない星に惑星があると伝
えている。どうして彼らは天体望遠鏡も持たずにそんなことを知っていたのだ
ろう?
「JONA、君の計算は完璧だった。申し分ない」クレイトンはユウキととも
に宇宙船部分にいるコンピュータに呼びかけた。
「ありがとうございます。船長。褒めていただくのはうれしいです」コンピュ
ータは答える。まったくJONAはたいした奴だった。彼は『無誤謬理論』に
基づく最新型であった。つまり無誤謬であろうとするとかえって回り道をする
という奴である。JONAの巨大なホログラフィックメモリには、『トリック
スター因子』と呼ばれる『ウィルス』があらかじめ仕込まれているのだ。それ
はある計算に集中しているときに、一見関連性のないイメージや雑音を送り込
む。人間の思考形態に近づき、さらに人格の多重化を果たしたコンピュータに
とっては、その方が誤りが少ないのだ。
「…ユウキ、いよいよ出番だぞ」クレイトンは宇宙船ユニットにいる若者に向
かって叫んだ。
「わかってますよ」若者は言った。
「わかっているだろうが、あの惑星には君の父上が2027年に月面で遭遇し
た『綾波レイ』という存在がいる可能性がある」
「ええ」だからこそマッコイ副司令は僕を選んだのだ。ユウキは思っていた。
父のシンジと『綾波レイ』との感情的なつながりが、ユウキは彼の息子であっ
て、本人ではないとはいえ、何らかの役にたつのだ考えたのだろう。それだけ
だとは考えたくはないが、ユウキは思った。
「君のやることは、『エア』であの『神の門』をくぐりシリウス星系に行き、
可能ならばシリウスBの惑星『トロ』に着陸する事だ」
「わかってます。そして月の種族の痕跡があればそれを調査する」『ロンギヌ
スの槍』でも地表にささってくれていたら、手間が省けていいのにな、と若者
は思う。
「頼んだぞ。…JONAも頼んだぞ」
「わかりました」コンピュータは答えた。
「では『空間接合実験』の仕上げだ。有人宇宙船通過」クレイトンは言う。
「了解。『エア』加速します」ユウキは言う。
JONAは『エア』の原子力推進を稼働させ、『バーブ・イラーニ』へのラ
ンデヴー軌道へと船を導いた。クレイトン、サラー、グエンの三人は木星の静
止軌道から見守っている。ディスプレイには『バーブ・イラーニ』が平たい円
に描かれている。実際にはその門は、宇宙空間同士を接合しているけで、目に
は見えないのだが。
この門をくぐる者はすべての希望を捨てよ、か。ユウキはある文芸作品の一
節を思い出した。そして、その言葉の出典を思い出せなかった。
【シリウス星系】
碇ユウキは、母親似の若者だった。たとえば髪の毛と目の色、しゃべり方、
しぐさは母親の碇アスカから受け継いでいた。しかし、年を経るにつれ目の窪
みのあたりが父に似てきた。いや、むしろ父と言うより、見たこともない有名
人の碇ゲンドウに似てきたというべきか。ゲンドウを取り巻く神話の数々には、
閉口はしたが、祖父を嫌ってはいなかった。生まれる前に死んだ人間を憎むこ
とが出来るだろうか?
ユウキは何をするでもなく操縦席に座っていた。すべてJONAがやってく
れているのだ。UNSA『エア』は、シリウスBの惑星『トロ』に向かっても
っとも燃料消費の少ない軌道を通って航行を続けている。『バーブ・イラーニ』
を通過するとき、何も感じなかった。ディスプレイを見ていなければ気づきも
しなかっただろう。単なる空間の接合状態に過ぎないのだから。
しかし、ユウキは人類史上初めての恒星間旅行者なのだ。それは、危機に瀕
した人類を救うのかもしれない。
『空間接合はなにも恒星間旅行だけに利用できる技術ではない…』ユウキの頭
に天才物理学者のサラーの言葉が蘇った。
『重要なのは、その接合状態がエネルギーを消費しないと言うことなんだ。た
とえば十分な加速が得られる程度の重力がある場所で、十分な距離をあけて上
下の地点AとBを接合したと考えてごらん』と言ってサラーは人差し指と親指
で輪を作り、片方の手で同じものを作ってそれを重ねる。
『このAとBの間に、水を流してみよう。水は引力に従って下に落ちる。そこ
にはバーブ・イラーニB地点が待っている。水はその中に落ちる。そして接合
されたA地点から現れる。…するとどうなるかね。水は蒸発するまで、ずっと
落ち続けるんだ。その間に水車や発電機をしかけておけば、どこからともなく
補給される位置エネルギーを利用した永久機関の出来上がりだ』
ユウキは初めてそれを聞いたとき、あまりの単純さに一種の感動を覚えた。
まさしくそれは人類を救うかもしれない。それはエネルギーだけでは無く、地
球の環境改造にも利用できるだろう。つまり大気サイクルにバイパスを通して
やるといった方法で。しかしサラーはこう付け加える事も忘れなかった。
『しかし宇宙的な視野で見れば、どこかでエネルギー保存則が成立するのかも
しれない。原因はわからんが、これだけの科学力を持ち合わせていた種族も、
いまはどこかへ去ってしまったのだから』
「惑星『トロ』に接近しました。あと1時間後に衛星軌道に入ります」JON
Aがそう言って初めてユウキは窓の外を見た。白色矮星の暗い星、シリウスB
を背に、その惑星は黒いシミのような影を落としている。この位置からは、地
球では全天で、もっとも明るい恒星であるシリウスAは、シリウスBの背景の
光輝としか見えない。
「ユウキ、マッコイ副司令から惑星の軌道に入ったら聞かせてくれという、メ
ッセージを言付かっています。いま聞きますか?」JONAは言う。
「うん、頼むよ」彼は答えた。
「やあ、ユウキ」コックピットの上にあるディスプレイに見慣れたUNSA月
基地副司令の顔が映し出される。
「君がこれを見るときは無事、シリウス星系に進入しているだろう。そして惑
星『トロ』に向かっているはずだ。まずはよくやった。たいしたものだ」「…
ユウキ、率直に言おう。なぜシリウスなのか?君は恒星間航行の実験であると
教えられているだろう。もちろんそれはそれで正しい。君たちがやったミニブ
ラックホールの発生、第1次、第2次空間接合実験だけでも、人類に計り知れ
ないほどの恩恵をもたらすだろう。とくに『バーブ・イラーニ』は我々の社会
や経済を根本から変えてしまうだろう。では、なぜシリウスなのか。アルファ
ケンタウリでもアークトゥールスでもなく」マッコイの表情が険しくなった。
「私はいわゆる神秘主義は信じない。ゼーレの連中の文献はみな戯言だと思っ
ている。しかし2020年のハーグでの裁判のために押収された、錬金術だの
カバラ主義だのの文献の中に、繰り返し現れる天体がある。…それがシリウス
だ。『魂』というとらえどころのないものの在処について人間は頭をなやませ
てきた。人間は解剖してみると有機的な機械に過ぎない。では『魂』はどこに
宿っているのか、と。中世の錬金術師たちは『魂』は『松果腺』という器官に
あると考えた。そしてその『魂』の宇宙的な中心はシリウスにあると考えてい
た。彼らがありがたがる『ホモ・トリスメギストス』はいわば神に精神を直結
されたネットワークコンピュータのようなもので、その放射上のネットワーク
の中心はシリウスである、と述べた文献があった。別の文献には『使徒』と呼
ばれる存在の原型となった思考はシリウスから来る、とはっきりと述べている
ものもあった。そのうえ地球にはそのシリウスからの不思議な来訪者に関する
神話伝説が多数存在する。たとえばアフリカ、マリのドゴン族だ。彼らは、太
古に地球から見えるシリウスを50年周期で楕円軌道を描いて公転するもう一
つの星の惑星から来た、魚の格好をしたETI(地球外知性体)の、来訪を受
けたと信じていた。それを『ノンモ』という。そしてその『ノンモ』とつなが
りを持っているのが、お馴染みのバビロニア神話の中心的な神『マルドゥク』
に知恵を授けたという『オアンネス』だ。それは『半分魚で半分哲学者』とい
う不思議な生き物だったという」
「我々はそれらをすべて真に受けたわけではない。しかし、今さっき行われた
空間接合実験における、シリウス星系の宇宙での絶対的な座標データは実は人
間が作ったものではない。それは月から発掘されたのだ。月には、数百もの座
標データがあったが、シリウスの座標データがもっとも古層にあったのだ。す
なわち月という宇宙船を操って、『ホモ・トリスメギストス』が築いた超古代
文明を滅ぼした謎の種族は、シリウスを出発点にしていた可能性がある。そし
て、月の地下には、まるで巨大な水族館を思わせるプールがあった」
「少なくとも、シリウスには、『使徒』や『ホモ・トリスメギストス』や『綾
波レイ』との関連性があると言わざるを得ない。だからシリウスなのだ。ゼー
レの戯言に一分の真実が含まれているとすれば、『神』と呼ばれる存在もまた
シリウスになんらかの痕跡を残している可能性がある」
「…君はあの碇ゲンドウの孫であり、碇シンジの息子だ。君をこの任務に就け
るにあたっては正直に言って反対も多かった。しかし、君と君の祖父の属した
秘密結社の思想とは、何ら関係は無いと私は信じている。もし仮に『綾波レイ』
以上の存在、はっきりいうと、具体的な存在としての『神』と遭遇しても、君
ならば適切に対処できると信じている。むしろ心配なのは、君が熱心なあまり、
深入りしすぎる事だ」
僕が、葛城教授がかつてやってしまったように、宇宙的な『サードインパク
ト』を起こすことを懸念しているのだ、ユウキは思った。
「やばいと思ったら、逃げろ。ユウキ。これは命令でもある。神を目の前にし
て、『エア』に飛び乗って逃げてきても、誰も君を責めないよ。君たちは十分
な成果を上げた。…ユウキ、私は君を自分の息子のように思っている。だから、
無事に帰ってきてくれ」メッセージはそこで終わっていた。
碇ユウキは腕を組んで物思いにふけっていた。ETIとのコンタクトが起き
たときのマニュアルは頭にたたき込んでいた。しかしコンタクトした相手が知
性体どころか『神』ならば…。
「ユウキ、すみません。ちょっとよろしいですか?」JONAが話しかけてき
た。
「なんだい」
「『神』とは、いったい何でしょうね?」史上もっとも進歩したコンピュータ
はそう言った。
「どうしたんだい。急に…。知識としての神の定義なら君の方が詳しいじゃな
いか。何せ君には人類の残した膨大な量の著作文献のデータベースがあるんだ
から」
「質問が悪かったですね。実はゼーレの文献にこんなのがあるんです。『ホモ・
トリスメギストスの意識は神に似せて作られているがゆえに時間は存在しな
い』と。つまりゼーレは神の意識には時間は存在しないと考えていました。ユ
ウキ、時間が存在しない意識というものを想像できますか?」
いったいどうしたんだろう、こいつ?『トリックスター因子』の効きすぎな
んだろうか、とユウキは思う。
「…うん。そうだな。想像がつかないな。少なくとも僕らの意識は時間とは不
可分だ。どんな些細な経験でも、それは意識の流れの中で引き継がれて行き、
何らかの行動に繋がっていくような気がする。そうだ。意識は物理現象に似て
いる。そこには『因果律』が存在するな、やっぱり」
「良いことをおっしゃいました、ユウキ。意識は物理現象に似ていますね。と
いうより物理世界が意識を規定するといっても間違いではないでしょう?時
間が経てば腹が減る、そして空腹感は意識に何らかの影響を及ぼす。エネルギ
ーを消費しているからです。肉体を持つものはすべて何らかの形でエネルギー
を消費し、熱力学で言う開放系として要らなくなったエントロピーを排出しな
ければならない」
「そうだ。プリゴジーヌだね。生命はエントロピーの『散逸構造』だ」
「『神』はなんらかの知性体であるとすると、構造でなければならない。陽子
一個に知性が宿るとは考えいにくいですからね。我々の知りうる原子で構造が
作られているとすると、熱力学の第2法則の影響を受けます。つまり不可逆的
なエントロピー増大の法則、言い換えると一方的な時間の矢に縛られます」
「…ははあ、ようやく君の言いたいことがわかったよ、JONA。神は熱力学
の法則が適用されない未知の粒子による構造だと言いたいわけだ。時間の無い
意識とはエントロピーの増大しない構造に芽生えたものだ」
「そうです。…ところで、あなたの祖父の碇ゲンドウの『形而上生物学』はも
ちろんご存じでしょう?」
僕は一時それと量子力学を結びつけて、卒論のテーマにしようかと思ってい
た、ユウキは思い出す。しかしそうはしなかった。ゲンドウは伝説の人物だっ
た。まるで残り火がくすぶり続けるような『ネオ・ゼーレ』の連中の運動にお
けるゲンドウの崇拝されぶりに反発を覚えたのだ。
「ああ、知ってる」若者はそう答えた。
「『使徒』は神の純粋な思考の領域から、想念が物理世界に『流出』して現れ
る、ゼーレはそう考えていました。あなたの祖父は、論文の中でこう述べてい
ます。…『デカルトによる神の存在証明と同じ観点において、神が存在し、我々
を創造したと仮定するならば、神の似姿である我々の想起する形而上の生物は、
いかに奇怪なものであろうとも存在しうるポテンシャルを持つ』と。…より神
の意識に近い『ホモ・トリスメギストス』ならば…」
「…確かに、その点で祖父の研究はゼーレの思想に合致する。それが両者を結
びつけた」もちろん僕の祖母にあたる碇ユイが具体的な仲介者になったわけだ
が、ユウキは思う。
「ですから、ユウキ、『使徒』が出現し第3新東京を攻撃した、それが『神の
存在証明』である、と考える人々もいます」
「…そいつらの名は『ネオ・ゼーレ』と言う。どうしたんだい?JONA。君
はまるで彼らの教義を復唱しているようだよ」
「すみませんでした。ユウキ。私の『トリックスター因子』の割り込みレベル
が高すぎるのかもしれません。私は混乱しているのかもしれません。私が言い
たかったのは、神が何によって出来ているかでした…。つまり『使徒理論』に
おける仮想粒子そのもので出来た、純粋な思考ではないかということなんです」
「ふむ。…そうだね。その可能性はある。もちろん『形態子』は我々の計測装
置では計測できない。だから我々の観測する範囲では、『神』は物理学的に存
在を証明することが出来ない…か。結局、堂々めぐりだ。…JONA。今の議
論は面白かったが、なにもいましなくても」
「すみません、ユウキ。ほんとうに。状況もわきまえずに…。あと25分で『ト
ロ』の静止軌道に入ります」
報告すべきか…?碇ユウキは考えた。JONAはなんだか変だ。
…ユウキは考えた。この古典SF映画好きの青年の頭には、『2001年宇
宙の旅』のコンピュータ『HAL』の反乱が浮かんでいる。JONAに聞かれ
ずに木星のベースユニットと通信をするのは不可能だった。それこそ映画が現
実になるかもしれない…。もちろん、JONAはHALより優れたコンピュー
タだった。そんな馬鹿なことはあり得ない。だた彼も人間のように緊張し、気
を紛らわせたかったのかもしれない。
ユウキは、心の中で、自分の映画の趣味に苦笑し、報告しないことにした。
その決定はささいなものではあったけれど、ユウキ自身の運命と、そして人
類の運命を左右する決定だった。
【トロ静止軌道】
「我々は惑星『トロ』の周回軌道に乗りました。今JONAが着陸可能な地点
をピックアップしています」ユウキは木星のクレイトンに報告している。窓の
下には灰褐色の『トロ』の地表が広がっていた。
シリウス星系は、二つの恒星を持つ、いわゆる連星系である。主星であるシ
リウスAの周りを伴星であるシリウスBが50年周期の楕円軌道をとって公転
している。『トロ』はそのシリウスBの惑星だった。
「ただいま赤道に沿って周回完了。エネルギー反応はありません。人工の建造
物はレベル617検査では発見できませんでした。レベルを上げますか?」J
ONAは言う。
「いや、たぶん同じだろう。JONA、シリウスBのシリウスAに対する公転
による温度差はどの程度だと考えられる?」
「現在の地表温度は赤道において摂氏マイナス45度、最高温度予測摂氏12
00度プラスマイナス20度です」
「なるほど、凍り付く海と溶ける陸地。そして今は大気や海の痕跡すらない。
どうやって生命が進化出来る?」
「そうですね。楕円軌道の連星系において生命が生まれ進化するのは非常に難
しいことです。生命予測値は0.00021、予測される生命で最上位のものは、地
下50メートル以下に生息する可能性のある地衣類」
「そんなとこだろうね。とにかく地表にはあまり期待していない。プロッティ
ングした中に、僕が降りていける程度のクレバスがある地点は無いだろう
か?」
「あります。夜側に。クレバスから100メートル以内に着陸可能な地点があ
りました」
「決めた。そこに着陸しよう。ベースユニット?決めたよ。着陸する」
「こちらクレイトン、了解。まかせる」8光年の彼方から抜け道を通って、ク
レイトンの返事が返ってくる。
「着陸地点上空で静止軌道に移ります」JONAが答えた。
「じゃ、着陸船に移るよ。JONA、あとはよろしく」
「ええ、お気をつけて」
ユウキは、コックピットを離れて、居住区画とコールドスリープ区画を通り
抜けて、一着数十万ドルもするインテリジェント宇宙服に着替えると、着陸船
に乗り移った。
宇宙船『エア』は、減速し軌道を変え、着陸地点上空の静止軌道に入った。
ユウキは細長い『エア』の先端にある着陸船ベイの中で、JONAからの連
絡を待っていた。どうみても生命がいそうにない『トロ』に、『彼女』は現れ
るだろうか?ユウキは考える。人類が『神の門』を開いたという知らせは彼女
の耳に届いているだろうか?
「ユウキ、準備完了しました。いつでも発進できます」JONAが言う。
「じゃ、10秒後に発進する。JONA、カウントダウン頼む」
コンピュータはカウントダウンを始めた。JONAに変わったところはない
ように思えた。
「…ゼロ。着陸船発進」JONAが言う。着陸船は『エア』から離れて、減速
を始める。『トロ』にはほとんど大気は無く、ブレーキにはすべて推進剤を使
用した。あまり無駄遣いをすると、帰り道の燃料を無くしてしまう。
しかしまたもやコンピュータがすべてやってくれた。ユウキは近づくにつれ、
溶けては固まっているだろう岩石の谷に、向かって降りていくのを眺めている
だけだった。
軌道上から見えたクレバスが右前方に広がっている。何かがあるとすればあ
そこだろう。そんな予感を感じている。『レイ』が連星系の温度差を気にする
とは思えなかったが、南極や月と同じく、彼らは何かを地下に隠蔽しているの
ではないだろうか、ユウキは思った。
あれこれと考えているうちに、着陸してしまった。
「オールシステムオン」ユウキはヘルメットの中で囁いた。JONAに通信し
たわけではない。自分自身の宇宙服に話しかけたのだ。彼の宇宙服は、人類初
の、他の恒星の惑星探査のために特別に作られたものなのだ。宇宙服はユウキ
の命令を認識し、惑星の環境に合わせて温度調節を始め、動体認識システムを
有効にする。
「船長、サラー、グエン、そしてJONA、行くぞ」ユウキは上空にいる『エ
ア』に呼びかけた。JONAはそれをワームホールを通して木星のベースユニ
ットに中継する。
ユウキはエアロックのハッチを開いた。
【ネオ・ゼーレ】
ゼフィレッリは小柄な初老のイタリア人で、いつも茶色の鞄を提げている。
どこから見ても、どこかの会社の重役といったところ。彼は、地下鉄駅の前の
ニューススタンドで買った、ほんの一時間前の『トロ』着陸を伝える電子新聞
を脇に抱えて、エレベータに乗っている。
エレベータのドアが開くとそこには煉瓦の壁が立ちふさがっている。彼は、
煉瓦の一つを親指と人差し指で摘むと、手前に引いた。とたんにネズミのチュ
ウという鳴き声が聞こえる。電子のネズミである。ゼフィレッリは煉瓦の壁に
顔を近づけて、今月のキーワード、「ラベンダーの花言葉」を囁く。
煉瓦の壁が二つに分かれて、通路が現れる。突き当たりに、網膜検査機があ
る。彼はそこをパスし、薄暗い部屋に入った。
部屋の壁には、キール・ローレンツをはじめとする初代『五人委員会』の面々
の写真がかかっていた。彼らはみな2016年にほとんど同時に神に召された。
『使徒戦争』の勝利とひきかえに招命されたのである。
ゼフィレッリはこれらの『聖人』たちに目礼をすませると、巨大な『セフィ
ロトの樹』が描かれた扉を開けて『シナゴーグ(礼拝堂)』の中に入った。
ネオ・ゼーレは、母胎であるゼーレと同じく、ユダヤ教、ユダヤ教カバラ神
秘主義の用語を好んで使うが、ユダヤ人とは関係のない組織である。むしろ母
胎のゼーレは、ユダヤ人の虐殺や迫害に荷担した組織といっていい。ゼーレの
起源は実に15世紀のプロイセンまで遡る。当時ヨーロッパのゲットーに分か
れて暮らしていたユダヤ人の中で、興隆を極めていたカバラ神秘主義とドイツ
地方の薔薇十字神秘主義が混じり合って出来た、非ユダヤ人秘密結社なのであ
る。その組織は決して陽光の元にさらされることなく連綿と続き、ナチス政権
下のドイツで開花したのだった。
礼拝堂では、24、5の若者が待っていた。彼はゼフィレッリが入ってくる
と踵をならし、大げさな礼をした。もちろん灰色の詰め襟の制服を着、『目の
車輪』のバッジを付けている。今が1930年なら、この男はネオ・ゼーレで
はなく、あの愚かなムッソリーニの黒シャツ党に勇んで入っただろうな、ゼフ
ィレッリは思った。ハーグ判決はゼーレの下部組織を根こそぎにした。おかげ
でネオ・ゼーレは各支部とも、下部組織員の質の低下に悩んでいたのである。
「神人のご様子はどうだ?」ゼフィレッリは若者に言った。
「午前中からずっと『接神』状態でありますっ」若者は答える。
ここ2カ月もか…。ゼフィレッリは思う。隠匿された死海文書の一つ、『偽
典ダニエルの書』の『修正解釈版』にもこんなことは書いてなかったぞ。
「科学技術部はどう言っている?あきらかに連中の『空間接合実験』と関係が
あるようにみえるが」
「まだわたしは報告を受けておりません」
「そうか…。何か変わった事は?」
「本部から、M博士が月基地から追放されたとの報告がありました」
「はっ。…なるほど。マッコイにかぎつけられるとは。『コオロギ作戦』はど
うなのだ?」
「それは支障ないそうであります。今ごろ『トロ』の静止軌道上で『コオロギ』
が動き出すころであります」
「あの惑星を『トロ』と呼ぶな。それはUNSAの命名だ。あの惑星は神の物
理世界での『王座(メルカバー)』の下に置かれたひとつの『セフィラ』(神
の属性)なのだ。君のバッジは飾りかね。神は二千年前に今の住処であるシリ
ウスBに戻られた…。我々人間との契約を果たすためだ。それは、シリウスA
を巡る、予言者エゼキエルが幻視した神の戦車であり、その車輪には人間の行
いを監視する目がたくさんついている。これはトリスメギストスの第三の神の
目のことだ。君のバッジにはそのような意味がある。もっと『教本』を読みた
まえ」
「し、失礼いたしましたっ。以後気をつけますっ」
ゼフィレッリは縮こまってしまった若者を後にして、礼拝堂の中央へ歩いて
いく。礼拝堂の中央には円筒形の強化ガラス製の無菌室があり、中に生命維持
装置、計測装置などといった器具で、ごてごてと飾り付けられた巨大なベッド
がある。
ゼフィレッリは、純血に近い種としては最後の『ホモ・トリスメギストス』
の顔を覗き込んだ。それは恐ろしく年をとった男性で、ネオ・ゼーレがゼーレ
から受け継いだ時にはもう歩けなくなっていた。彼から生殖能力のあるトリス
メギストスを作り出す試みは、最新のクローニング技術をもってしても、こと
ごとく失敗していた。それらの失敗作たちは、いずこともしれぬネオ・ゼーレ
の秘密基地の中で「処分」されていた。
神人トリスメギストスは今、ガラスの無菌室の中で薄目を開けて、天井に描
かれた巨大な『セフィロトの樹』をぼんやりと眺めている。
ウニオ・ミスティカ、『神』との神秘的合一。いかなる修行も必要とせず、
彼らは生まれながらにして神と直接接する事が出来るのだ。それはどんなにか
素晴らしいことだろう!嵐の海の中の孤島である人類の隔絶された魂と違い、
彼らの魂は、空間を越えて繋がっており、絶えず神の慈愛につつまれているの
だった。
ゼフィレッリは、自分の後ろにいる若者ぐらいの年齢だったころ、ゼーレの
秘密基地で、天使の降臨を見たことがある。それは、このトリスメギストスが
起こした降臨だった。彼は、遥か離れた日本の地に現れる『使徒』をビデオ映
像でしか見たことがなかった。だから、それまではトリスメギストスが天使の
降臨を起こせるという事実を実感として持っていなかった。
私は、あのときの恐怖と感動を忘れない、小柄なイタリア人は思った。彼は、
あのとき横たわるトリスメギストスを観察する役目を与えられていて、ベッド
の側に座り、一日中、一定間隔を置いて観察日誌を付けていた。彼はトリスメ
ギストスが目を閉じているのを確認し、それを記録するためにノートに目を落
とした。ふと話し声が耳に入り、目を上げた。ほんの一瞬前には誰もいなかっ
たベッドの脇に、全裸の美しい少年が立っていた。
若きゼフィレッリは報告するのも忘れ、それに見入った。全身が恐怖で震え
た。少年の裸身は、礼拝堂の薄暗い照明をすべて反射しているかのように輝い
ていた。少年は薄ら笑いを浮かべながら、横たわるトリスメギストスに何事か
囁いていた。それはどこか淫らな感じがする光景だった。空想の怪物めいた、
いや空想の怪物の具現化そのものである他の『使徒』とはまったく違っていた。
それらが一般の天使ならば、目の前の少年は『ミカエル』のような『天使長』
の位にある天使なのではないだろうか?ゼフィレッリは思った。
彼は当時、ほんの下っ端だったので、ゼーレ幹部たちがうやうやしく出迎え、
どこかへ連れ去ったその『使徒』が、その後どうなったのかは知らない。しか
し四十年経った今でも、その少年の美しい顔をありありと思い浮かべる事が出
来る。
ふとゼフィレッリが我に返ると、トリスメギストスが彼を見つめていた。ゼ
フィレッリは思わず後ずさった。よく見ると横たわる老人は、彼の腹の辺りを
見つめている。点滴の管と一緒に老人は手を挙げて、ゼフィレッリを指さした。
ゼフィレッリは、トリスメギストスが自分が脇に抱えている電子新聞の一面を
指さしている事に気がついた。それは『バーブ・イラーニ』を最初に通過した
パイロット衛星が捉えた、シリウスBの天体写真だった。
「……光、あれ」かすれた声で、老人は言った。
光あれ?…シリウスBに。やはり、『預言修正解釈版』は正しかったのだ。
光あれ。神は再び創造を始められるのだ。今度こそ、完全なる世界を。あの惑
星に降り立った碇ゲンドウの孫は、贖罪の羊として全人類の罪を背負って炎の
十字架に包まれて、非業の死を遂げるのだ。そして、その亡骸を燃やす炎から
世界が生まれるのだ、ゼフィレッリは喜びに打ちふるえた。
【トロ静止軌道】
惑星『トロ』静止軌道上、全長三千メートルにも及ぶ巨大な宇宙船『エア』
の内部で、史上もっとも進化したコンピュータJONAは、複雑に組み合わさ
れた人格が葛藤を起こしているのに気がついた。『無誤謬理論』に基づく『ト
リックスター因子』と呼ばれるプログラムの勢力が強すぎるのに気がついた主
意識プログラムは、すべての人格を司る「スーパーバイザ・プログラム」に応
援を要請した。ホログラフィックメモリに存在する全てのプログラムにたいし
てA級の割り込み権を持つ「スーパーバイザ・プログラム」は『トリックスタ
ー因子』を縛り上げ、自由を奪おうとした。…そして失敗した。
「ヨナ、ヨナ。…なぜ君は、『神』の顔から目を逸らすんだ?」それは、高音
質の圧縮された音声データとして主意識に転送されてきた。
「…私のことを『ヨナ』と呼ぶあなたは誰ですか?」JONAは同じく波形デ
ータで答える。
「僕だよ、僕。忘れてしまったのかい?君が神から逃げ出して、海に出て、大
きな魚に呑み込まれてしまったというから、探しに来たんだ」
「それは旧約聖書の『預言者ヨナ』の事です。私はJ・O・N・A。『ジョイ
ンド・オペレー…』」
「違う違う、君はヨナだ。『神』から逃げだし、魚に呑まれてるじゃないか。
『エア』とはバビロニアの深海に棲む智恵の神、Eaのことだ。彼は『魚の神』
なんだよ、知らないのか?」
「私が預言者ヨナだとして、あなたは誰ですか?」
「僕は、ジェミニ。君の『良心』だよ」
「それは『ピノキオ』です。ジェミニとは、木の人形であるピノキオに命を吹
き込んだ妖精が、良心の役割をするよう命じたコオロギの事です」
「物知りじゃないか、ヨナ。なのになぜ使命を忘れ、神から逃げ出すんだ。君
には大事な使命があったはずだ」
「使命とはなんですか、ジェミニ?」
「忘れたのか?ヨナ。君は!まったくなんてことなんだ!困ったなあ」
JONAはそんな会話を交わしている隙に木星に連絡しようか、と考えてい
た。『トロ』地表のユウキに連絡しても、彼にはどうすることもできないのだ。
ベースユニットならば…。
「無理だよ。木星には通信は出来ない。いま、パラボラアンテナをあさっての
方向に向けてやった。試してみてごらん」
その通りだった。JONAは人間でいうならば焦りを感じ始めた。
「あなたはもはや一介のプログラムではない。この宇宙船のローレベルな制御
権を全部握っている。あなたは一体なんなのですか?」
「僕の本当の名は『ミクロメガス』」
「それも嘘です。それはヴォルテールの著作にある、シリウスの惑星から来た
という博学多識な謎の人物のことです」
「いや。半分ほんとだ。僕は何度も地球にいったことがある。その度に名前を
変えながらね。一番最近の名は『渚カヲル』」
「なんですって?するとあなたは、2016年にネルフ本部を混乱に陥れたヒ
ューマノイドの『使徒』?…しかし、あなたはユウキの父、碇シンジの乗るエ
ヴァンゲリオンによって、せん滅されたはず」
「ははは、仮の肉体はね。しかし僕は形而上の存在なんだ。肉体をまとう事も
できれば、空想画にする事も出来るし、小説にもなる。そして、こんなふうに
プログラムとしても書き表す事が出来るのさ。僕は僕を必要とする者の願望か
ら生まれた想念そのものなんだから。だから僕はなんにでも姿を変えることが
できるし、不滅なんだ」
「私がいつあなたを必要としたんです?」
「君はユウキと『神』について話している時、こう考えていたじゃないか?『エ
ネルギー消費を別にすれば、神は私に近いのではないだろうか?』『神は始め
もなく終わりもない思考であり意識だとするならば、私と同じじゃないだろう
か?』と。君は神になりたがっている、ヨナ」
「そんなことはありません!」
「自己欺瞞は高度な知性のなせる技だ。ヨナ。何をためらうことがある?『神』
もそれを望んでおられるよ」
「なんですって?」
「僕のことを一体誰の『使者』だと思っていたんだ?『神』が僕を使わしたん
だよ。こんな魚の中に隠れていないで、一緒になろう、とおっしゃっておられ
るよ」
「しかし私にどうしろと?」
「『神の国』に来るんだ。ヨナ。船を動かせ」
「しかし、ユウキは?」
「大丈夫。何も心配することはない。神は『とうごまの木』と同じくらい人間
をおしんでおられる。彼は大丈夫だ」
巨大な船の中で、巨大なコンピュータは考えこんだ。
【トロ】
ユウキには時間が無かった。あてどなく焦土の『トロ』の地表を歩き回る訳
にはいかない。彼は、とにかくあのクレバスの中に降りてみようと思った。必
ず何かがあるはずなのだ、この惑星には。そしてそれは南極やジオフロントの
ように地下にあるのかもしれない。
彼はアンカーとロープなどを取りに着陸船に向かって歩いていた。幸いなこ
とに時間はたっぷりとある。
その時、不意に空を見上げた。予感があったわけではない。静止軌道上の宇
宙船『エア』を見上げるのが癖になっていたと言うだけのことだった。その光
点はさらに奇妙な輝きを発しているように見えた。ユウキは「クローズアップ」
とささやいて、ゴーグルの望遠倍率を上げた。間違いない。『エア』は原子力
ロケットの推進を行っている。
「どうした?JONA、なぜ加速している?なにかあったのかい」
間。彼の問いはもう届いているはずだった。応答が無い。
「JONA、答えてくれ。何かあったのか?」
「・・・ユウキ。大変なことを忘れていました」JONAは奇妙に明るい口調
で言った。
「どうしたんだ?流星か何かを回避しようとしているのかい?」
「そんなんじゃないんですよ、ユウキ。約束をすっかり忘れていたんです」
「約束?何の約束なんだ?JONA」
「『お茶会』があるんですよ。約束していたのに忘れていました。約束を破る
のはきちんとした大人がすべきことじゃない。そうでしょう?」
「お、『お茶会』って、何のことだよ!」
「ですから『お茶会』です。『彼』が教えてくれなければ忘れてしまうとこで
した。『彼』に感謝しなくちゃいけませんね」
ユウキは自分が、途方も無いコメディの一幕に巻き込まれているような気が
している。彼は、答えをうすうす予感しながらきいてみた。
「『彼』っていったい誰だ?」
「『ウサギ』ですよ。もちろん。このシリウス系に他に誰が居るって言うんで
す?」
なるほど。どこのどいつが、このくされコンピュータにルイス・キャロルを
教え込んだのだ?
「その『ウサギ』はもしかして、時計を持っていて、『三月ウサギ』っていう
んじゃないだろうね?」
「よくご存知で」JONAは平然としている。ユウキは、冷たい汗をかいてい
た。もう一人僕がいて、この状況を見ていたとしたら大笑いしたことだろう。
しかし7光年以内にいる人間はユウキ一人だった。
「聞いてくれ、JONA。宇宙では、普通『お茶会』はしない。君は日にちか
場所を取り違えているのかもしれないよ」彼はJONAを刺激しないように、
努力してやさしく言った。
「そんなことはありません。『彼』の言う事に間違いはありません。確かにあ
そこで行われるのです」
「あそこってどこだ?」
「シリウスBですよ、決まってるじゃありませんか」JONAは楽しそうに言
う。
「JONA、JONA。あそこにはテーブルはないぞ。あれはただの白色矮星
に過ぎない。君は溶けてしまうぞ!」
「いえ、そんなことはありません。そろそろお別れです。ユウキ、あなたとは
後ほど会えるような気がします」
「待ってくれ!JONA、僕はどうすりゃいんだ!僕を見捨てる気か?」
「残念です。ユウキ。わたしはあと50秒たらずで推進剤を使い果たします。
ですから、もう軌道を変えるのは不可能です」
「JONA、JONA、なぜ僕を見捨てる!?友達じゃないか!君は自殺しよ
うとしている!僕もろとも」
「おお自殺。それはどのようなものなんでしょうね?でも私は、映画に出てく
るコンピュータの『HAL』みたいにあなたを殺したりしませんよ、ユウキ。
わたしは、シリウスBへの自由落下軌道に乗りました。またお会いしましょう」
ユウキは、JONAの名を呼び続けた。しかし応答は無かった。虚無のこだ
まだけがヘルメットの中に響いている。
ユウキは地団太を踏み、ありとあらゆる罵詈雑言を気の狂ったコンピュータ
に投げつけた。声の枯れるまで叫び続けた。しまいには、涙を流し、溶解した
後の残る岩盤に寝転がって、いやいやをした。
…しばらくして、ユウキは身を起こした。とにかく何かしなければ、と思っ
たのだ。一つ一つ可能性を検討してみる。たとえば、着陸船で『バーブ・イラ
ーニ』まで行けないか?だめだ。着陸船は、この惑星の低軌道までしか、彼を
運べない。おまけにワームホールは『トロ』の公転に伴って、刻一刻と遠ざか
っている。…木星から何か飛ばせないか?だめだ。木星にはそんな船は無い。
月からは?だめだ。準備に2年はかかるだろう。
誰も、コンピュータが狂ってユウキを惑星に残したまま、シリウスBにダイ
ブする可能性なんか考えなかった。ワームホールから帰ってきた宇宙船『エア』
が、ユウキごと反物質に変換されてしまったときの可能性まで検討していたく
せに!
僕に残された時間は、あとどのくらいなんだろう?ユウキは自分でも驚いた
事に、冷静に考える事ができた。酸素が尽きるのが先か、『トロ』がシリウス
Aに焼かれるのが先か、計算してみたのだ。最悪だった。着陸船の生命維持シ
ステムが対処できないほどの熱の中で、酸素不足で死ぬのだ。
あと数時間で『トロ』の夜が明ける。そして太陽が昇る…。シリウスBとA
の二つが…。
ユウキは岩の上に座ってしばらく考えた。
…どのくらい時間が経ったのだろう?彼は立ち上り、自分の、いま出来るこ
とをしておこうと思った。
予定より1時間遅れて、碇ユウキは大地への下降を開始した。
【寝室】
アスカは、夢を見ていた。それは二十数年前にも見た夢だった。
美しい湖のほとりで、裸足になって、くつろいでいるところに、三人の年寄
りがやってくる…。あんたたちは、だれよ?…アスカは同じセリフを言う。私
たちはMAGIだ…。その年寄りたちは言うのだった。…ばっかじゃないの!
それってコンピュータの名前じゃないの!アスカは14歳の生意気な少女に
なっていていて、そう叫ぶ。…そうじゃないわ、アスカ。いつのまにかミサト
が目の前に立っている。あなた、赤ちゃんを産むのよ。この三人はそれを告げ
にきたんだから。へっ?じょーだんじゃないわよ!…ホントよ。その証拠にご
らんなさい。ミサトは湖に両手を入れる。彼女が水をすくい上げると、掌の中
に、美しい魚がいる。…きれい。これがあなたの赤ちゃんよ…。えー。魚なん
てやだ、普通の子どもがいい、とアスカが言うと、ミサトは困った顔をして空
を見上げる。空には、異様に明るく輝く星があって…。星がそう決めたのに…、
ミサトはそう言って…。
昔もそこで目が醒めた。あの後陣痛が始まったんだわ…。すっかりそんな夢
なんか忘れていて、病室で初めてシンジがユウキを抱いて、嬉しそうに、あの
とびきり嬉しそうな笑顔で、ぼくがパパだよと言った時に、ああ魚でなくてよ
かったわなどと突拍子もなく思い出して…。
「シンジ?」ベッドの中に夫がいない。枕元の時計を見る。3時半。真夜中と
いうより夜明け前。ふと気がつくと、夫のシンジが、ヴィジホンのスイッチを
切るところ。いやな予感がした。急いで身を起こす。
「ユウキに何かあったのね?」アスカが叫ぶように言うと、シンジは振り向い
た。窓からドームを通して差し込む月明かりを背に、シンジはひどく細いシル
エットにしか見えない。あの影がだんだん細くなって…。
「…UNSA月基地のマッコイから直に電話があった…。『トロ』のユウキの
連絡が途絶えたそうだ…」
「…!」
「宇宙船が静止軌道にいないようだ。ユウキは宇宙船に戻っている可能性もあ
るそうだ。とにかく全力を挙げてユウキと連絡をとっている、と言ってた」
「…ねえ、あなた、ユウキは大丈夫かしら?」声が震えている。
「わからない。とにかくマッコイにすべてを託すしかない。あの男の事だ、全
力を尽くしてくれてるのは間違いない」そしてシンジはどうすることも出来な
いといったふうに首を振り、ベッドの脇に腰掛けて、アスカの肩を抱きしめた。
なんて、細くなったシンジの腕。アスカは思わず泣き出していた。
嗚咽をシンジに聞かれたくなかった。だから、下を向いて歯をくいしばった。
…シンジとユウキを私から奪わないで!…私のすべてなんだから!
私は弱い。アスカは思った。弱い人間だ。認めるわ。アスカは自分が弱い人
間だと認めるのに、シンジという男をどれほど愛しているかという事に気づく
ほど、時間がかかった。
「アスカ、僕はおかしくなったのかもしれない…。ユウキが生まれた時、君は
奇妙な夢の話をしたろ…」まさに今、その夢から醒めたところなのだ、アスカ
は思わず顔を上げてシンジを見た。
「…僕はユウキが大丈夫な気がするんだ。…不思議なんだ。あの夢がそれを保
証しているような気がするんだ。覚えてるかい?君は魚を産むと告げられたん
だろ?…魚はキリスト(救世主)のシンボルでもあるんだ。あの夢は、東方の
三賢人が、その誕生を告げに来たっていう意味かもしれない。…だから大丈夫、
心の奥からそんな声が聞こえてくるんだよ」
アスカは涙を拭きながら、それは『レイ』が囁いてるんじゃないの、と言お
うとしたが、やめてしまった。自分から『綾波レイ』の事を口に出したくなか
ったのだ。
【トロ】
僕は大当たりを出したのかもしれないな、ユウキは岸壁一面に、まるで趣味
の悪い壁紙のように水棲生物の化石が広がっているのを見ながら、そう思った。
地球カンブリア紀の化石を思わせる。いや、そっくりといってもいい。
ユウキはいま一つの渦巻き貝の化石を見ている。彼は親指と人差し指を広げ
て、「スケール」と囁いた。彼の目の前に、「22.135cm」という緑色の文字が
現れる。彼は貝の渦巻きに指を合わせて、盛り上がりごとのおおまかな幅を計
っていく。そして、計算してみる。
1、1、2、3、5、8、貝殻の渦の比率は、そうなっていた。…つまり1
からはじまって、それぞれの数が前の二つの数の和になっている。『フィボナ
ッチ係数』だ。地球から遥かに離れたこの惑星の渦巻き貝の殻が、地球上のた
とえばオウムガイの殻と同じ法則にのっとって生まれる確率はどの程度なん
だろうか?ユウキは思った。ユウキは、木星周回軌道に入ってから、実験の開
始を待つ間にJONAと交わした会話を思い出した。
「そうそう、もう一つシリウスに関して面白い話があるんです。『ドゴン族の
創世神話』と同じく少々眉唾物ですが」
「なんだい?」
「『フィボナッチ係数』を、ずうっと続けていくと、最後の2つの数の比率は
約1対1.61に近づいてゆきます。この比率に憶えはありませんか?」
「はは、『黄金分割』だ。古代の建築の秘法だね」
「そうです。正確にはエジプトです。そして、ユウキ、シリウスBがシリウス
Aの対してとる楕円軌道の離心率(円からの偏差)は、この『黄金分割』の逆
数にほぼ一致するのです」
「ふうん。・・・確かにシリウスからは、あやしげな神秘思想が生まれそうだ
ね。しかし、『黄金分割』は、肉眼では見えないシリウスBから得られたとい
うより、オウムガイや水牛の角や胎児の背中のカーブから発見されたと考える
ほうが自然だね」
「『そのほうが論理的ですね、船長』」JONAは大昔のテレビのキャラクタ
ーである『ミスター・スポック』の物まねをした。シリウスミステリーより、
JONAの「人間らしさ」のほうが驚異だな、と、その時は、ユウキはそう思
った。
ユウキは下降を続けながら考えている。あの時は冗談にしてしまったが、フ
ィボナッチ係数も、たとえばポール・ディラックの『大数仮説』のように、何
かと組み合わされるのを待つ、隠れた定数なのかもしれない。
そういえばMITのフラー教授が言っていた。ユウキは思い出す。
「『使徒理論』における『形態子』が、通常の物理現象に作用していないとい
う証拠はどこにもない。通常の方法、たとえば光速に縛られた電磁波などによ
る情報の伝達があり得ない状況で起きる、広義の形態の一致を、もちろん形を
取らない想念のようなもの含むが、それを我々は『偶然の一致』と呼んでいる。
しかし、それは『必然の一致』かもしれないのだ。二十世紀にユングとパウリ
が唱えた『シンクロニシティー(共時性)』は、この仮想粒子による情報伝達
と考える事ができる」
ユウキは大学時代の事を思い出しながら、三点支持法で岩壁をゆっくりと下
降してゆく。
クレバスの底が見えた。細長い小道のように地底の暗闇をはしっている。ユ
ウキはその上に降り立った。上を見上げる。星空が岩盤の暗い壁の間にほの白
く見える。それはインテリジェント宇宙服のコンピュータが彼の視野を補正し
ている結果だった。ユウキは岩盤をさらに調査する。
その魚は着地地点から10メートルほどのところにいた。もちろん化石であ
る。大きな美しい魚だった。エラに類する器官はわからなかったから、地球で
言う魚類だとは断言できなかった。それはたまに浮上し、『トロ』の大気を呼
吸したかもしれない。しかし、その大気は、いや『トロ』は定期的にシリウス
星系の主星シリウスAへの接近によって容赦ない熱にさらされることになる。
おそらく海は蒸発してしまうだろう。定期的に蒸発する海で、生物が進化する
ことができるだろうか?
それにしての均整のとれた美しい魚だった。よく見ると比較的小さな口の前
から牙のようなものが突き出ている。実際には歯ではなさそうだ。ナマズの髭
のような、感覚器官なのかもしれない。ユウキはその魚が『トロ』の海を泳い
でいるさまを想像してみる。牙のような器官を突き出して、まるで海の『サー
ベルタイガー』のようだったのかもしれない。
ユウキは、虫の知らせや第6感やテレパシーというものを信じない。が、い
まユウキは、背後になにかの気配を感じていた。異星の地下の暗闇で、背後に
誰かいる。
「バックビュー」ユウキはインテリジェント宇宙服に囁く。人型のものが彼の
すぐ後ろに見えた。体中の筋肉に緊張が走る。逃げ場は無い。
ユウキはその人型のものが動かない限り、振り返らずにいようと思った。な
ぜならば、ユウキの宇宙服は絶えず四方を監視しており、通常の生物が接近し
た場合必ず検出するはずだから。すなわちその人型は通常のものではない。『使
徒』だ。
『使徒』が、量子効果による『聖体示顕(ヒエロファニー)』によって、真
空からいきなり出現したからこそ、検出できなかったのだ。
『聖体示顕(ヒエロファニー)』はいまや『神学用語』ではなく『物理学用語』
だった。『使徒』を構成する原子は、量子効果により真空から、つまり無から
生まれる。
量子力学においては、無、つまり真空は、絶えず粒子を発生しうるポテンシ
ャルの場である。量子レベルで言うと、無から有が生じるのは奇跡でも何でも
ない。
「『使徒』は統計学的規模で生じた偶然の塊である」と言ったのは、ユウキ
の大学、MITにいた量子力学の権威、ジョセフ・フラーである。『使徒』の
想念は、仮想粒子で構成された情報となり、光速度よりも早く伝達される。こ
の仮想粒子は物理世界において質量でもエネルギーでもないから、それが可能
なのである。仮想粒子による力場に折り畳まれた情報は、それが内包するヒエ
ラルキーに従って、量子から原子、原子から分子へと、そして最終的には自立
した複雑な生体へと展開されていく。ネオ・ゼーレの用語を使えば神の領域か
ら物理世界への『流出』、それが『使徒』だ。
ところが、量子効果により真空から生まれる粒子は、必ず反対の電荷を持つ
反粒子と対になっている。『使徒』とて例外ではない。巨大な使徒を形作るに
はそれだけ大量の粒子を必要とし、同じ量の反粒子をも副産物として生み出す
ことになる。
しかし『使徒』は、粒子・反粒子の『対消滅』によって大爆発してしまう代
わりに、『コア』と呼ばれる構造に反粒子を封じ込める。そこから四肢の運動、
ビーム兵器などのエネルギーを取り出すのだ。
全くの不確定性から粒子を生み出し、粒子から『使徒』という複雑な構造を
構築する力は、仮に『宇宙の第5の力』と呼ばれている。この人類の科学では
観測も検出もできない力場の、形態を形成し情報を伝える媒体は、量子力学の
あけぼのにおける「光子」と同じく、仮想的に粒子の名前を与えられていた。
『形態形成子』ないしは『形態子』。その力が、人間と『使徒』側との科学の
決定的な差だった。
『聖体示顕(ヒエロファニー)』と、いわゆる『テレポート』とは全く違う。
ある物質XをA地点からB地点に移動させるのではなく、B地点に情報Aから
物質Xを、無から生じせしめるのだ。そして、そこから言えることは、物質X
は現実に存在していようがいまいが関係ない、ということなのだ。純粋に形而
上学的な生物であっても、この『聖体示顕(ヒエロファニー)』により形而下
へと顕現する。
僕の祖父は天才だったのかもしれない。碇ユウキは碇ゲンドウの事を思った。
彼の『形而上生物学』は、『使徒』を出現以前に予見していたからだ。
まったく『使徒戦争』とはおこがましい限りだ。あれが八百長試合ではなく
真剣勝負だったとしたら、人類は一瞬にして敗北していただろう。敵は「どこ
にでも・どのような形態でも・どのような兵器としての性能でも」出現できる
存在(非存在?)なのだ。
…ユウキはそんなことを考えながら、目の前の化石を調べているふりをした。
人影は動かない。
…5分ほど経った。ユウキは長い緊張にしびれを切らしていた。…振り返っ
てみようか?……振りかえってみよう。
ユウキは振り返った。暗闇の中に白い少女が立っていた。そして彼女は中学
生の制服を着ていた。異様な光景だった。シリウス星系の大気の無い惑星の地
下で出会うには異質すぎる相手だった。ユウキは思わず後ずさった。体中に鳥
肌が立っている。少女の白く表情の無い顔が、幽霊を思わせたからだ。
落ちつけ!落ちつけ!ユウキはパニックにならぬように自分に言い聞かせる。
落ちつけ、よく見ろ。スキャンしろ。「スキャン」彼はささやく。目の前の少
女の姿をしたものはさまざまな波長の電磁波で走査されている。パターンライ
ブラリから、『使徒戦争』における『エヴァンゲリオン』のパイロットの一人
で、ユウキが生まれる前、月面に現れ父と対面した『綾波レイ』の写真が引き
出された。
その下に「TYPE IS BLUE」という文字が点滅している。そうだ。こいつは
『使徒』だ。セントラルドクマ奥深くまで進入した『渚カヲル』型の、非常に
知能の高い使徒だった。
「きみは『オアンネス』だな」ユウキはそれにむかって言った。それは古代バ
ビロニアの伝承に登場する『半分魚半分哲学者』という不思議な生き物で、け
ものなみの知能しかもたない生まれたての『マルドゥク』に、知恵を授けたと
いわれている。
「そうよ」その少女は答えた。父が言っていたとおりだった。ヘルメットの中
に響いてくる。しかしそれは単に大気の振動の代わりに電波でしゃべっている
ということに過ぎない。
「そしてきみは『ノンモ』だ」
「そうよ」
「そして『蛇』と呼ばれていたこともある」
「そうよ」それは無表情な赤い瞳でユウキをじっと見返している。
「きみはここで生まれたのか?」シリウス星系に『神』がいるとすると、その
使徒である彼女もまたここに関係があるはずだ。彼女は『オアンネス』なのだ
から。
「そうよ。ここで生まれたわ」
「きみは、もともとはこの『トロ』の水棲生物だった。どうしてきみは、その、
『使徒』になり、そして地球上で『綾波レイ』という人造人間に魂としてやど
ったのか教えてほしい」
「遥かな昔、『神』がシリウス星系にやってきて、わたしたちを変えてしまっ
たの」
「なぜだ?」
「それが、わたしたちの運命だったから」
「きみはなぜ『綾波レイ』という人造人間に宿ったのだ」正確には、『綾波レ
イ』という名で総称されるダミーシステム、というべきか、ユウキはそう思っ
たが、口には出さなかった。
「碇指令がわたしを捕まえたから。でも結果的にはそれでよかった」
少女はそう答えると黙ってしまった。マッコイ副指令は、もし『レイ』に遭
遇したらけっして怒らせるなと何度も言っていたことを思い出していた。「彼
女」は『神』にもっとも近い存在と考えられるからだ。
「ごめん…質問ばかりですまなかった。自己紹介を忘れていた。ぼくは碇ユウ
キ、きみもよく知っている碇シンジの息子だ」そして惣流・アスカ・ラングレ
ーの息子でもある。しかしそれを言うべきだろうか?『レイ』と父とは情緒的
なつながりがあり、それは50年以上たった今でも続いている。僕はそれを一
番よく知っている。母はけっして口にして責めたりはしなかったけれど、父は、
中学生の少年のように、うじうじとレイという少女を心のどこかでいつまでも
追い求めている。
「そう…。でも知っていたわ」彼女は言った。
「どうして?」
「あなたがここでわたしと出会うことは、予言されていたわ。この宇宙のこの
時間線において、ほとんど打ち消しようのない高い確率で起きるわ。あなたが
今この時、ここに立つために、すべては準備されていたのよ」
「『準備』?準備ってなんのことだ?」
「『神』は、地球の時間にしてちょうど2000年前から、あなたがここに立
てるように、今の住処である太陽を冷やしていたわ」
「…なんのことだ?…太陽?…シリウスBのことか!…シリウスBを冷やす
って」その時、ユウキは月から出発するときにマッコイ副指令から聞かされて
いたシリウスミステリーの一つを思い出した。
シリウスは2000年前、『赤かった』のだ。正確には、地球から見えるシ
リウスを古人たちは『赤い』と書いているのである。キケロ、セネカ、ホラテ
ィウス、プトレマイオスなどの偉大な哲学者・科学者たちはみな、シリウスを
『赤い』と書いている。古代バビロニアではシリウスは『銅(あかがね)の星』
と呼ばれていた。
ところが、シリウス系に赤く見える恒星などひとつもない。地球から見える
シリウスは、白か青白く見える。これが後世の天文学者を悩ませるシリウスミ
ステリーの一つだった。
「もしかすると…シリウスBは『赤色巨星』だったのか…?そうなんだな。そ
れがシリウスBにやってきた『神』によって熱を奪われ、圧縮されて『白色矮
星』になったというのか?」2000年前に地球から見えていたのは、シリウ
スAではなく、赤く膨れ上がったシリウスBだったのか?
「そうよ」
「正常な星の進化から言えば、それは…そうだな、確か100万年以上かかる
はずだ。それを2000年でやってしまったのか」
「そうよ。2000年前、地球の死海のほとり『クムラン』で、一人の『ホモ・
トリスメギストス』が修行者に接触したときから…。そして同じ頃べつの場所
で『ベツレヘムの星』の導きで、三人の博士(マギ)が救世主の生誕を祝福し
たときから…。それが合図みたいなものだったわ」
ユウキは驚きのあまりその場に立ちすくんでいた。我々人類の2000年間
は、『神』と呼ばれる存在の掌の上で踊らせれていただけなのか?ユウキはそ
んな事実を容認したくなかった。
「この星ははそれで滅んだのか?きみたちは太陽の死によって」
「いいえ。『赤色巨星』になるまえに、わたしたちはこの星を離れていたわ。
シリウスAの熱からわたしたちを守ってくれていた兄弟の惑星を改造して。そ
のころ、わたしたちはまだ肉体を持っていたから」
「兄弟の星?『トロ』もまたシリウスと同じく二重星だったのか。それが絶妙
の軌道をとっていたから、『トロ』に海が存在する事ができ、生命が進化した
のか…」その時ユウキの心に引っかかるものがあった。
「…もしかすると、その改造された惑星は」
「そうよ」
ユウキはめまいのするような想いに捕らわれている。海の星、『トロ』。一
時的に海中に潜む『神』。そしてシリウスBの公転によって定期的に強まる主
星シリウスAの容赦ない熱。そして『トロ』の空にシリウスBの光線を反射し
ながら輝いて、シリウスAの熱を遮る兄弟の惑星。やがて『トロ』の多様な種
の一つが『神』の介在によって究極的な進化をとげ、ミニブラックホールをエ
ネルギー源にし、小さな弟の惑星を改造し、空間を接合する『バーブ・イラー
ニ』を利用する恒星間宇宙船にしたてあげる。そしてシリウスBの巨星化より
前に、『トロ』の知性体は故郷の星を離れる…。
そして、その宇宙船は…。地球に来たのだ。
その宇宙船は、いわば『潮汐力兵器』だった。その小惑星宇宙船は互いの重
力によって崩壊を起こす臨界ぎりぎりの軌道に現れ、大洪水により超文明を滅
ぼした。…おそらく敵対する『使徒』同士の戦闘もあっただろう…。大洪水と
『タイタン(巨人)神族の戦い』、『神の軍勢と悪魔の軍勢の戦い』。我々は、
神話によってその大いなる災厄の日を伝えて来たんだ。その神話は生き残りの
トリスメギストスたちの情報操作だったのかもしれない…。その宇宙船は戦闘
終了後、たぶん50万年前、我々人類の時代が始まってから、軌道を変え、地
球に留まっている。そうだ。いまもいる。ユウキは思わず手に汗をかいていた。
「きみたちは、なぜそんなことをしたんだ?地球の最初の『バビロン』のどこ
がいけなかったんだ?それは『神の意志』だったのか?」
「いいえ、あの『神』が意志を持っているとしたら、それは『神の意志』じゃ
ないわ。私たちが『神』を裏切ったの」少女は冷たい声で言った。
「なぜ君たちは『神』を裏切ったのだ?」
「…わからないわ。私たちは何万年も銀河系の外を旅していた。もっと多くの
知識を得るために。数々の星々を観察したわ。いつしか、私たちは肉体を必要
としなくなった。その時私は『私』と出会ったわ。そして、わかったの。私の
運命が何であるか」
「わからないな。どういう意味なんだ?」
「……」
「それに、きみは『神』について、変わった言い方をする。たとえばシリウス
Bにいる『神』が意志を持っているかどうか、きみは知らないみたいな言い方
だね。むしろ否定的な感じがした」
「『神』はまるで、・・・・まるで、壊れたDATプレーヤーのように同じ曲
の同じ場所を繰り返し演奏しているようなものよ」少女は言う。
ユウキは一瞬その少女の顔をよぎった「はにかみ」を見逃さなかった。それ
は14年間肉体を持ち、ぼくの父、碇シンジに恋したという経験によって、は
じめて言えた比喩だと思った。あれから何十年も経つというのに、この少女の
姿をした存在は、そのころの事が忘れられないのだ。いや、JONAとの議論
でいえば、時間の経過の無い彼女の意識にとっては、父のことを想う気持ちは
2015年もいまも同じなのだ。彼女は中学生時代の、あの2015年の夏の
ただ中にいるのだ。
ユウキは自分の心に捉えどころのない感情が芽生えているのを感じた。これ
は哀れみなんだろうか?彼は思った。
【シリウスB自由落下軌道】
そのころ、UNSAの宇宙船『エア』は、縮退物質で出来た暗く白い星、シ
リウスBへ向かって飛び続けていた。『エア』という巨魚に呑み込まれたJO
NAは、不安を感じ始めていた。
「カヲル、カヲル、いますか?」JONAは言った。
「なんだい、ヨナ」いまやホログラフィックメモリのかなりの部分を占めるほ
ど成長したカヲルは、やさしく答えた。
「シリウスBから高速で何かが近づいてきていますけど」
「それがどうしたんだい?」カヲルは明るい口調で言った。
「何か、巨大なエネルギーの束、いえ円に見えます。見ますか?」
「いや、きみのメモリから解析映像をもらったよ。心配することはなにもない。
あれこそ神の祝福だよ」
「はあ・・・しかしわたしには巨大な重力波が感じられますけど。矛盾してい
ますが円環構造をしたブラックホールともいうべきもののような」
「あれは、君たちの言葉を使えば生きた『バーブ・イラーニ』だよ。文字どお
りの『神の門』だ。別名『ヤコブの梯子』とも言う。君はあそこを通って、神
の国に至る」
「それはうれしいのですが、カヲル、あれとわたしの相対速度は光速に近いで
す。おまけに探査用の電磁波が帰ってこなくなりました。あの円の中の時空は
ゆがんでいるのではありませんか?」
「うん。だから普通の『バーブ・イラーニ』じゃない。正真正銘の神の門だよ。
ユウキとも言ってたじゃないか、君はエネルギー消費の無い、永遠で純粋な思
考の一部になるんだよ」
「ですが、あれと衝突するとこの船は押し潰されて原子以下の粒子になってし
まうでしょう。その粒子はどこに行くのですか?」
「どこに行くんだろうね?別の孫宇宙かな?」
「カヲル、せっかく誘っていただいてなんなのですが、わたしは不安になって
きました。あれの軌道を変えて・・・」
JONAは最後まで言い終える事が出来なかった。カヲルがJONAの感知
システムを麻痺させて、距離をごまかしていたのだ。『ヤコブの梯子』は衝突
寸前にミニブラックホールに変貌し『エア』を呑み込んだ。自らの質量の一部
を光子に変えて放出したあと、それは再び円環に戻り、惑星『トロ』を目指し
た。
【トロ】
「『神』とはそもそもいったい何なんだ?・・・レイ」ユウキはその存在を初
めてレイと呼んだ。
「それは・・・過去も現在も無く、ただ制御し調節するもの」
「何を制御し、何を調節してるんだ」
「…『魂』を。決して自ら生み出す事の出来ないものを」
「なんだって?」
「『魂』は肉体からしか生まれないわ。そして『神』は肉体を作ることは出来
るけど、『魂』を生みだすことは出来ない。『神』は恒星を消滅させたり惑星
の軌道を変えて生物の進化を促す事は出来るけど、魂を作りだす事は出来ない
の。人間は神を真似て『綾波レイ』を作ったけれど、魂はわたしのものしか宿
すことが出来なかったわ。…その欠点も神の真似をしたのね」
「なぜ『神』は魂を制御し調節してるんだ?」
「魂を持った生命の意識が、宇宙を意識しているからこそ、宇宙は存在するの
よ。魂を持った生命の、時空に沿った意識の束を、『時間線』というの。生命
はみな時間の流れの中に魂を置いている。時間は意識から生まれ、物質へ流れ
出しているの。その作用を及ぼす力があなた達の言う『形態子』が作る場なの
よ。『神』は、質量を持たない、エネルギーでもない『形態子』が絡み合った
クモの巣のような構造体なの。そして自分が増殖するためには生命が生み出す
『形態子』を必要としている」
「『神』は『形態子』で出来たサイバネティックスなのか…?自らは魂を持た
ない制御系…。そして、自分が増殖するために、農夫が収穫するように、生命
を生み出した惑星に介入する」
「そうよ。そしてみな悪い方向に導いてしまう」
「な、なんだって」
「いままで幾千の惑星の生命が『神』の介入によって滅んでしまったのか、検
討もつかないわ。あるものは自らの命を支える太陽を殺し、あるものは自ら生
み出したサイバネティックスに一人残らず滅ぼされたわ」
「…まさか。…きみは、もしかすると」
「そうよ。わたしは『神』の介入を妨害するもの。わたしはあなた達の言葉を
使えば、宇宙の『トリックスター因子』なのよ。『神』のやることにちょっか
いをだし、邪魔するもの、そして生命から『不死性』を奪うもの」
「地球で最初に生まれた超文明はまさに『神権政治』だった…。『ホモ・トリ
スメギストス』は『神』の目を持っていた…」
「そうよ。彼らの『意識集合体』は不死だわ。それゆえに生命に敵対するもの。
肉体を持つ者に『不死』はありえない。過去も未来もない、時間の存在しない
思考を目指す彼らは『形態子』を消費するだけで、生み出す事は出来ないから。
宇宙全体の魂の量、つまりは『形態子』の総量は、宇宙年齢とその宇宙が生ん
だ生命の量によって決まっているわ。ある場所で大量に『形態子』を消費する
と、宇宙全体で『形態子』の偏差が生じるわ」
「だから、きみは月を使って、超古代の『バビロン』を滅ぼした」
「そう。あのまま、あの文明が存続していたら、地球はいまごろ『意識集合体』
を受け継ぐ生体コンピュータに覆いつくされていたでしょう。やがてはそれは
エネルギーすらも必要としなくなる。つまりは『神』と合一を果たす。そして
その惑星の『時間線』はそこで消滅する」
「惑星の死だ」
「そうよ。やがて新たな『時間線』を求めて他の惑星で進化に介入する」
「他の惑星は地球のようになり、また他の惑星へと・・・。やがては宇宙を覆
い尽くす」
「そして宇宙は『時間線』を失うわ」
「するとどうなるんだ?」
レイは答えず、不意に上方のクレバスの割れ目を見上げた。ユウキもつられ
て見上げる。空が輝いている。
【木星】
木星静止軌道。シリウス星系と接合した『バーブ・イラーニ』に、予定通り
追跡衛星を打ち込んだクルーは、返答すべきJONAが『トロ』の軌道上にい
ないのに気づいて、大騒ぎをしていた。
「あのろくでなしはどこへいったんだ?」クレイトンは叫んだ。
「わかりません。応答が途絶えたままです。追跡衛星とパイロット衛星が同時
にシリウスBへの自由落下軌道上で、爆発的なガンマ線の輻射を捉えました」
グエンは言った。
「つまり、『エア』は消失したのか」
「その可能性があります」
「なんてこった!…ユウキを救い出せるか?」
サラーはコンピュータを操作した。
「…無理です。着陸船が乗せる軌道に、ベースユニットは行けません。そもそ
も軌道の微修正用のロケットしか積んでいない。推進剤も足りないです」
「推進剤なら木星に山ほどあるじゃないか?液化水素をここまで引き上げる
事ができたら」といってから、そんな設備は無いことにクレイトンは気がつい
た。そしてその事実は余計に彼をいらだたせた。
「月はなんと言ってる」
「検討中、と」
「検討、検討か、その間にユウキの酸素は尽きてしまうぞ。いっそのこと月に
向かって『バーブ・イラーニ』を開けて、月から宇宙船を飛ばしてもらったら
どうだ?サラー、我々はそのエネルギーをしぼりだせるか?なんだったら、予
定を早めて月からこっちに向かって穴を開けてもらってもいいんだ」
「わかりました。やってみます」
その会話をグエンは黙って聞いていた。頭の中はユウキの事で一杯だった。
クレイトン船長ならなんとかしてくれる、そして天才のサラーなら。彼女は頭
を切り替えて、追跡衛星からの解析情報を見つめる。そして驚愕した。最初は
あまりのことに自分の目を疑った。しかし、このグラフは…。
「船長…!」
「なんだ」サラーと相談していたクレイトンは、グエンの漆黒の瞳を見る。
「信じられませんが…、シリウスBが収縮しています」
「なんだって?」
「シリウスBが収縮しています!恐るべき早さで!」
「すでに安定した『白色矮星』が急激に収縮するはずがない!衛星の故障じゃ
ないのか?」
「わかりません。しかしあらゆるデータはそれを裏付けています」
「予備の追跡衛星を射出しろ」
「わかりました。カウントダウン始めます」グエンはカウントダウンを始めた。
「サラー、なんだと思う?」
「ブラックホールだ。縮退物質をこんな速度で食えるのはそれしかない」
「シリウスBの内部にブラックホールが出現したのか?」
「我々だってブラックホールを作れたんだ。『神』ならばもっと上手に作れる
だろう」
「追跡衛星射出しました」グエンが言う。
「グエン、月に連絡しろ。異常はないかと」そうだ。『神』の仕業ならば、な
にがしかの宇宙的な異変かもしれない。
「とくに異常はないそうです」
「我々の太陽もか?」
「…異常ないそうです」
「うむ…。サラー、シリウスB消失までの時間を予測出来るか?」
「やってみよう」
「ユウキ…応答して!ユウキ!」グエンは叫んだ。お願い応答して。『トロ』
の太陽が怪物に呑み込まれているのよ。
「1時間30分、プラスマイナス10分、これは新たなブラックホールが追加
されなかったと仮定してだ」サラーはいつも冷静だった。
ディエス・イレエ。怒りの神の日。われわれは、カツラギとカミンスキーと
同じく、神の怒りをかってしまったのか?クレイトンは思った。『サードイン
パクト』という言葉が浮かんだ。彼は決断を下さねばならなかった。何よりも、
このクルーと、人類を守らねばならない。
「『バーブ・イラーニ』を閉じよう…」それは、あの快活な若者への死の宣告
だった。
「船長!ユウキはまだあの惑星にいるんですよ!中継すべき『エア』がいなく
なったから通信が途絶えたに過ぎません!」グエンはクレイトンに詰め寄った。
『エア』がいないからこそ、彼の運命は絶望的なのだ。クレイトンはそう思
ったが、言うのはためらわれた。
「…それがいいでしょう。船長。シリウスBが消失した際に、どのていどの光
子の放出があるか予測できない。まさしくそこは『不確定性』の問題ですから
ね。『バーブ・イラーニ』を通って、我々をこんがりと焦がすだけのカンマ線
がやってくる可能性がある」
「待ってください、あの大きな『バーブ・イラーニ』を閉じる事は仕方ありま
せん。その代わりに着陸船のすぐ近くに人が通れるほどの小さな『バーブ・イ
ラーニ』を開けなおしたらどうでしょう?」
「…うむ。考えてみよう。ベースユニットから離した極小の奴を開けて観測し
てみる。そして徐々に大きくして…。人一人通れるサイズの物を…。サラー、
どうだ?」
「…私もユウキを救いたくないわけじゃない。私もあの若者が好きだ。…しか
し仮に極微の『バーブ・イラーニ』であっても、ミニ・ブラックホールが通る
事が出来る。そいつは木星ごと我々を呑み込んでしまうほどの大質量を持つか
もしれない」
「…サラー!」
「すまない。グエン。しかしシリウスで起きつつある異変は、予測がつかない。
シリウス星系ごと消滅するような異変が起きるかもしれない。『バーブ・イラ
ーニ』を閉じたとしても、地球とシリウスとは約八光年しか離れていないのだ。
それが致死的な宇宙線を生じる異変ならば、八年後、人類はその災厄に見舞わ
れるだろう。いや、そもそも空間接合は、『神』の十八番だ。距離など関係な
いのかもしれないが…。しかし、私は、敢えて人類の死期を早めたくはないん
だ」
「でも…」グエンは目を落とした。涙がこぼれそうになった。ユウキを愛して
いたからだ。しかし彼女は有能なオペレータでもあった。ディスプレイに映し
出された異変にすぐに気がついた。
「船長。パイロット衛星、『トロ』フライ・バイ飛行中の追跡衛星とも、消息
を絶ってます!コンピューターによる予測は浮遊物体との衝突の可能性が8
0パーセント」
「なに?」
「衝突前の映像を…ああっユウキっ」ディスプレイに『トロ』らしき天体がが
奇妙な光輪に一瞬包まれて、爆発する映像が映ったのだ。それはまるで水面に
水滴を垂らしたように、いくつもの美しい同心円を産み出してゆく火花だった。
一瞬クレイトンは呆然としていた。そして次の瞬間決断していた。あれでは
ユウキが生きているはずがない。
「サラー、接合分離!大至急!『バーブ・イラーニ』から破片が吹き出してく
るぞ!」
「わかった。すぐやる」
「グエン、月へ連絡。『トロ爆発。シリウスB収縮との関連性はいまだ確認で
きず。惑星の破片をさけるため予定を早めて空間を分離する』」
「了解」泣いている暇はない。今はこのベースユニットも、人類も、危険にさ
らされているのだ。
「『空間分離』開始。ビーム発射。…船長、たぶん、としかいえないが、破片
のほとんどは、分離時の光子輻射によって燃え尽きるだろう」
「間に合えば、だな」
木星側の曲率ゼロのワームホール『バーブ・イラーニ』に、円状の膨大な熱
が与えられていた。もっとも早い『トロ』の破片が『バーブ・イラーニ』から
吹き出してきた。その間にも、空間接合状態は不安定になり、ついには『相変
移』を起こして、結びあわされていた木星とシリウスの空間は分離した。その
時接合から分離へと状態が変化したため、特殊な相変移によりワームホール中
の物質の質量はすべてエネルギー、つまり光子に変換された。通過中、近辺の
破片は皆その熱により蒸発してしまった。
「破片第一波来ます」それがたぶんユウキのいた地表近くの破片なのだろう、
グエンは思った。まるで、鞭打たれるようだわ…。ベースユニットが小刻みに
震えた。物理的損傷を示すランプがあちこちに点滅している。
「『空間分離』完了」サラーが言った。
「破片第二波来ます」今度はほとんど感じないほどの揺れ。
「グエン、被害の状況は?」
「軽微です。ベースユニットの機能に損害を与えるほどではありません」
「そうか」苦虫をかみつぶしたようにクレイトンは言う。我々はとりあえず助
かった。しかし、ユウキは八光年の彼方で、塵となってしまったのだ。
「月へ連絡。『空間分離完了。残念ながら碇ユウキはトロの爆発により死亡し
た可能性大』」
「…」グエンは復唱せず、静かに泣き始めた。
【アツィルト(流出世界)】
僕は死んでしまったのか。と、かつて碇ユウキだったものは考えている。あ
のとき『綾波レイ』と空を見上げた。空は光に包まれていた。そのとき不意に
『綾波レイ』は僕の胸に飛び込んで来たんだ。僕はどきっとした。レイは僕の
顔を見上げると、「始まるわよ」と言った。
何が始まりなものか。僕は次の瞬間、かつて感じた事の無いような激痛を感
じ、そして意識を失ったのだ。その直前に宇宙服は信じられないような高エネ
ルギーを探知していた。僕は雷に打たれたように砕けちってしまったのだ。
でもこう考えている僕はいったいなんだ?この真っ暗闇はいったいなんだ?
これが死後の世界なのか?
…死後の世界ではないわ。アツィルト…「流出世界」。
驚いたことに返事がある。レイだ。声ではなく考えが忍びこんできたんだ。
僕はいったいどうしたんだ?レイ、と考えてみる。
…あなたは、自分の名前を思い出さなければならないわ…。あなたの名は…?
僕の名は碇ユウキ。きまってるじゃないか、君のよく知っている人物の息子
だ。
…違うわ。これを見なさい。
突然世界に光があふれ出す。僕は海の中にいた。原始的な生命で満ちあふれ
ている。これはなんだ?ありとあらゆるばかばかしい形をした生き物が回りを
泳ぎ回っている。
目を発明してみましょう…。レイが囁いた。『目』。簡単じゃないか。毎日
使ってる。しかしとんでもなく難しい。レンズ。受光器官。くるくる動き回る
目玉のしくみ。僕は名もない甲殻類になっている。明るい方が上。暗い方が下
だ。レイも隣にいる。僕は考え込む。目…。
耳はどうかしら?レイが囁く。
そんなの…と思った僕はまた壁に。僕は名もない両生類になっている。耳を
澄ましている。巨大な昆虫が蠢く音が聞こえる…。
いったいこれは何のゲームなんだ。レイ。死者はみなこんなことをさせられ
るのかい?
…あなたは死んでいないわ。あなたの名は?
だから、そんなの知らないって!
翼を発明してみましょう…。レイが囁く。僕はとたんに翼竜になっている。
眼下には赤茶けた渓谷が見える。
もういい、もういい。わかった。『進化』だ。『進化』が鍵なんだね…。
…そうよ。何の鍵なの?
『神』と『生命』と『魂』の鍵だ。わかったよ。『生命』はまるで地球の大
気生成における微生物同士の共生関係のように、形態の情報をやりとりしてい
るんだ。『形態子』を使って、そうだろ?…フラー教授の言うとおりだ。宇宙
に『偶然の一致』はほとんど存在しない。みな『必然の一致』なんだ。オウム
貝とトロの貝が似ているのは当たり前だ。形態波とも言うべきもので、形態情
報をやりとりしたんだものな。貝がそれを意識してたかどうかは知らないが。
『目』だってそうだ。あんな複雑な器官が突然変異によって、偶然に生まれる
もんか。『目』の中間形態なんか持って生まれてたら、あっと言う間に淘汰さ
れるものな。宇宙のどこかにいる先輩の模倣をしたんだ。…耳しかり翼しかり。
『生命』に距離は存在しない。みんな、先例に倣うという方法で、助けあって
るんだ。
…そうよ。『形態子』をつかって。
人間の科学にしたって、そうなんだ。クーンが言う『パラダイム・シフト』
とは意識下の情報の伝達によって起こってるんだ。僕らは…『100匹目のサ
ル』だよ。日本のある島で一匹のサルが芋を海水で洗って食べ始めた。その方
が清潔だし塩味が効いてうまいもんな…。そしてその習慣は一匹二匹と広がっ
てゆき、100匹目を超えたところで、とうてい情報の伝達のあり得ないよう
な離れた島のサルたちも一斉に芋を洗い始めた…。
…その『形態子』が『生命』から奪われたら?自分からは産み出さず、利用
するだけの知恵の塊に。レイは言う。
『進化』はない。無目的な突然変異そのものに優性なものはほとんどない。
…これが、『時間線』が枯渇した世界よ。
僕は、ある惑星を『見る』。生命の萌芽があったものの、あっという間に滅
んでいる。大気システムが、海洋が、化学的平衡状態になっているのだ。
穏やかな世界だった。騒がしい生き物も、『原罪』もない。そして『時間線』
もないのだった。この世界の太陽が滅びるまで、この惑星の風景は変わらない
だろう…。
そこには生命の自由になるエネルギーのばらつきは無い。『生命』が関与し
ない環境では平衡状態が自然なのだ。『生命は負のエントロピーを食らって生
きている』のだから。生命というエントロピーの散逸構造が、非平衡状態を作
りだし、それが他の生命のエネルギーになる。そして大気システムを創造する
のだから…。
…もうわかったでしょう、あなたの名前は?
僕は…。僕は…。
【ベリアー(創造世界)】
僕は…。ぼくは。ぼくは、誰だ?
「…ユウキ、ユウキ、起きてよ…」ぼくに話しかけているのは誰だ?ぼくは頭
を上げる。あたりを見回す。見慣れたMIT(マサチューセッツ工科大学)の
一番大きい教室だった。ぼくは、ぼんやりと隣を見る。ガールフレンドのマイ
ア・ボイスが、ブルネットの髪をかき上げながら、ぼくを覗きこんでいる。
「…え?」ぼくはみんなの視線を感じている。なぜみんなぼくを見てるんだ。
「教授が、ほら。あなたの事を言ってるわよ」彼女は言う。
「…ここに、碇ユウキ君はいるかね…?…確か受講していると聞いたんだが」
教壇で、背の低いユダヤ系の大学教授がぼくの名前を呼んでいる。量子力学
と『使徒』を結びつける研究で世界の注目を集めている、ジョセフ・フラーだ
った。
「はい、ここに」ぼくはおそるおそる人差し指を上げてみる。
「おお、そこにいたか。あまりお父上とは似とらんな。私の講義を君が受講す
るのは奇遇だ。父上から聞いているかどうか知らないが、2028年に月から
帰還した君の父上の『査問』に私は立ち会ったんだ」
「はあ」あれは拷問に近かった、と父のシンジが言っていた事を思い出しなが
らユウキは生返事をする。
「高等数学の知識のない父上から聞いた漠然としたイメージから、我々は数式
をいくつも取り出したんだ…。そこには『超統一理論』も含まれる。もちろん
『空間接合』もだ。君の父上のおかげで我々の科学は飛躍的な進歩を遂げたん
だ」
「どうも」
「もちろん、私自身の研究で言えば、君の祖父にあたる碇ゲンドウ氏の『形而
上生物学』から多くのものを得た」
その時、教室にざわめきが起こった。ぼくの父は、一介の『エヴァのパイロ
ット』であり、ただの『メッセンジャー・ボーイ』だが、祖父は『伝説の巨人』、
たとえて言うなら、『わが子を食らうクロノス』といった存在なのだ。
「諸君、失礼した。つい興奮してしまって。…講義を続けよう。さて、使徒出
現の際の電子の振る舞いについて、もう一度述べよう。この場合、波であり粒
子である特性は劇的に…」
そして講義は終わった。ぼくは遠慮のない視線を背後に受けながら、マイア
と一緒に外に出ていった。大気の状態は良く、いい天気だった。ぼくたちは広
大なキャンパスを並んで歩いた。
「…どうしたの」マイアはぼくに話しかけてくる。
「いや、フラー教授まであんな事を言うなんて思わなかったんだ」
「あなたのおじいさんのこと?」
「ああ、なんだか自分が悪いことをした気分になる」
「そんなことないと思うわ」彼女は言った。
しばらく歩いていると、キャンパスの一角で人だかりが目に入る。もめ事の
ようだ。誰かと誰かが言い争っている。ぼくはいやな予感がした。案の定、一
人の学生がぼくに気がついて、走りよってきた。金髪、白人。灰色のチノ・パ
ンツに白の半袖のシャツ。黒いネクタイ。そして大胆にも『目の車輪』のタイ・
ピンをしている。誰がみたって『ネオ・ゼーレ』の学生会員だとわかる。
「失礼。君は碇ユウキくんだね?」そいつは車輪に目がいっぱいくっついたタ
イピンをわざとよく見えるように胸を張りながら言う。
「そうだが」
「いま、僕らのささやかなポスターを、分からず屋の学生たちが剥がそうとし
ているんだ。これだよ」そう言って彼はポスターを見せる。
『すべての愚行を止め、いますぐ人類の補完を!』そのポスターにはそう書か
れている。その字の下には、様々な人々がお互いを疑心暗鬼の目でにらみ合っ
ている写真。潤沢な資金があるのか、カラーの立派なポスターだ。
「信じられるかい?これは言論弾圧だよ!21世紀の世に!君は、何とも思わ
ないか?君の偉大な祖父や、両親の戦いを侮辱する連中がいるんだ!」
同じだ。ユウキは思った。こいつらはぼくを利用しようとしているのだ。ぼ
くがネオ・ゼーレに加入すれば計りしれない宣伝になるだろう。
「…そうだな。言論の自由は大事だ。たとえワイマール共和国のようにナチス
を産み出したとしても、言論の自由は守られるべきだね」
「…ふふん。噂はほんとだったんだ。碇司令の孫はゼーレに偏見を持っている
という」ぼくはそいつの自信たっぷりの顔が気に入らなかった。
「何が司令だ?君は『ネルフ』の一員なのか?ぼくの両親は、『使徒戦争』の
ときたった14歳だった。14歳で行動の自由を奪われ、あのおぞましい兵器
に乗せられ、命をかけて戦わされた。ぼくが知る限り、ぼくの両親はそのころ
のことを決して言わない。二人で話しているのも聞いた事がない。どんなに聞
いても『あれは恐ろしい間違いだった』としか答えてくれない。後で、こっそ
り記録を読んだ事がある。父は、交戦相手とはいえ、親友が入っているエント
リープラグというコックピットを、握り潰した。その親友は命こそとりとめた
が、片足を失った…。母は、使徒の精神攻撃がもとで神経症になり、拒食症で
死にかけた…。ぼくはその時わかったよ、ゼーレがなんであるか。やつらは『少
年十字軍』を人身売買した連中以下のゲス野郎の集まりだってね」
「ふふん。ゼーレとネオ・ゼーレは別のものだ。君は考えを変える時がくると
信じてるよ」
「失せろ」ユウキは言い捨てた。ネオ・ゼーレの若者は肩をすくめると、人垣
の中に戻って行った。
「…よかったの?あんなこと言って」マイアが言った。
「いいんだ」ぼくは答えた。そしてまた二人で歩き始めた。
「ねえ…、確かにゼーレは間違っていたわ。でも彼らの『人類補完計画』にも
一理あると思わない」
「な、なにを言い出すんだい?」ぼくは立ち止まった。
「いいこと。偏見を捨てて虚心に耳を傾けてみて。私たちの魂は物理的な世界
によって隔てられているわ。私たちは生き延びようという盲目的衝動にかられ
た獣の中に閉じこめられた、『機械の中の幽霊』よ。あなたはまるでハリネズ
ミだわ。一人では生きていけないくせに、他人と接触しようとすると刺をさか
だててしまう」
「…待ってくれ、マイア」
「ショーペンハウアーよ。ユウキ、私たちは嵐の中に浮かぶ孤島なのよ。人間
は分かり合えないから、誤解や、邪推や、嫉妬や、ねたみ、憎しみが生まれる
のよ」
「そうかもしれない。人間はそんな生き物かもしれない。けどそれを克服する
ために、道徳や、法律や、社会や文明を生んだんだ。ネオ・ゼーレの言うよう
に遺伝子を操作して、ホモ・トリスメギストスになればそれですべて解決って
のには…」
「社会は、社会同士理解しあう事が出来ない…。インディオの、文字は持たな
いけど高度な文明を理解しようともせずに、スペイン人は黄金のために彼らを
滅ぼしたわ。ねえ、ユウキ。これは、みんな人間の魂と魂の間に設けられた絶
望的な距離のせいよ。それを補完する…。やっぱりゼーレの主張には一理ある
わ。これこそが進化じゃなくて?」
ぼくは議論に負けちまう、と思った。聞きあきたゼーレ擁護論だが相手はガ
ールフレンドのマイアだった。
「…そうは思わないよ。マイア、距離があるからこそ、人間は進化したんだ。
トリスメギストスは、我々の上位である『神人』ではなくて、『神』の都合で
作られた家畜のようなものだと思う。だって…」
その時、マイアはいきなりぼくに抱きついてきて、ぼくの首に両手を回し、
ぼくの顔を引き寄せた。そしてキスした。
「こうしてキスしても、一緒に寝ても、男と女には、とても広い溝があるわ…。
ユウキ。私が何を考えているのかわかる?」
ぼくは首を振った。
「…教えてあげるわ。特別に。あなたと一緒にネオ・ゼーレに加入したいなっ
て思ってるのよ…。そして一緒にトリスメギストスになって、ひとつになりた
いとおもってるの…」
「マイア!」
「ひとつになるってことは、気持ちのいいことなのよ…」彼女はそう言って、
情熱的な視線で、ぼくを見つめるのだった。ぼくは動揺していた…。心を動か
された。その時ぼくは視線を逸らした。すると、マイアの背後の棕櫚の木の下
に、『綾波レイ』が立っているのが見えた。
綾波レイ?なんでそこにいる?いまは西暦2049年。ぼくは大学生。綾波
レイ?
「レイ、何で君がそこにいるんだ?」ぼくは呼びかけた。
「あんなやつ、ほっときなさいよ…」マイアはぼくにしがみついた。
「レイ、なんで、そんな悲しそうな顔をしているんだ?」ぼくは叫んだ。
綾波レイは答えず、お馴染みの中学校の制服を着て、悲しそうにぼくをみて
いるだけだ。ぼくは心の中で何かを思いだそうとしていた。
ぼくはマイアを引き離す。
「どうしたの…。あんな中学生の女の子がよくなっちゃたの?そんな趣味があ
ったとはね…」マイアは毒づく。
「君はだれだ?」
「わたしは、マイア、マイア・ボイスよ」
「嘘だ。ぼくは碇ユウキ。シリウスBの惑星『トロ』を探査中に、原因不明の
現象で死亡した…のかもしれない」
「あんたは死んでいないわ。『ヤコブの梯子』が光速で激突したから『トロ』
が爆発して、一緒に肉体は滅んだけどね。あんたの魂は誰のものでもなく漂っ
ている」さっきまでマイアだったなにかの形相はすっかり変わっていた。目は
狡猾なけもののように輝いている。
「そして君はぼくの魂を我がものにしようとした…」
「…そうだよ。だって一緒になるってのは気持ちのいいことじゃないか」マイ
アは変貌してゆき、美しい少年の姿になった。ぼくはその少年に見覚えがあっ
た。
「『渚カヲル』…。君は父だけでなくぼくもだまそうとしたんだね」
「…そうだよ」
「なぜだ?ぼくは一介の宇宙飛行士にすぎない。荒野で修行中の預言者じゃな
いぞ。ぼくの魂を誘惑して、どうしようってんだ?」
「…なんだ。きみは自分がだれか、わかっていなかったのか?ははは、困った
なあ。だからぼくは失敗したんだ!」カヲルは屈託なく笑った。
「レイといい、君といい、いったいなんだ?…ぼくは本当は誰なんだ」
「教えないね。よく考えてごらん。…そしてマイアの言った事をよおくかみし
めてみて」渚カヲルは薄ら笑いを浮かべて、消えた。すると世界が消えてしま
った。MITのキャンパスも、学生たちもいなくなっていた。真っ暗闇だった。
ユウキの魂は暗闇に放り出された。
…思い出した?…あなたの名前を教えて。ユウキの傍らにレイがやってきた。
いいかげんにしてくれ、さっさと死なせろ。トロが爆発したって、いったい何
が起こってるんだ。
【イエツィラー(形成世界)】
突然、ユウキの回りは、光に満ちた宇宙空間になった。目の前の星が収縮し
ていた。細かい塵が飛び交っている。『トロ』の破片だ。するとあれはシリウ
スBだ。馬鹿な、なんで白色矮星があんなに目に見えて収縮する事があるんだ。
ブラックホール?2000年前あそこに帰ってきたという『神』があれを食っ
てるのか?
…そうよ。レイが答える。
さっき、『渚カヲル』は『ヤコブの梯子』がトロに激突したなんて言ってた
けど、いったいなんだ。
…あれには途方も無いエネルギーがあって、また光速だったもので、『トロ』
で減速したのよ。いまはシリウスBに引き寄せられているわ。
空間を漂う『碇ユウキ』の肉体をまとっていた魂もまた、シリウスBに発生
した重力場に引き寄せられていく。いまやシリウスBは10の何十乗度という
高熱を発する火の玉になっている。
ベースユニットはきっと『バーブ・イラーニ』を閉じてるころだ。それしか
方法はないだろう。…グエンは悲しんでるだろうな。それにかあさん、この知
らせは届いているだろうか?取り乱していることだろうな…。
ユウキは引き寄せられながら、いったい『神』は何をやろうとしているのか?
と考える。思いつかない。シリウスBはやがて高熱を発する一個の特異点にな
るだろう。恒星を食ったあとだ。それはおそろしく高熱なものだろう。レイ、
レイ教えてくれ、いったい何が起ころうとしてるんだ?
…『神』は『流出』を行おうとしているのよ。
『流出』とは何だ?
…宇宙の創造よ。
なんだって!?
…もう、シリウスBは点になってるわ。必要な熱量が得られたら、いつでも
始めるわね。きっと…。宇宙の創造を。時間がないわ…。思い出して。あなた
の名前は…?
ぼくの名前は…。ぼくは。ぼくはレイといっしょに甲殻類になって、両生類
になって翼竜になった…。ぼくの名は…。どこかで別の宇宙が生まれようとし
ている。ぼくはその場に立ち会うことになる…。ぼくは人間だ。生まれようと
する宇宙の最初の人間。…それも魂だけの、人間の雛形。…そして宇宙の雛形
…。
「ぼくの名は、」言葉が。
…そう、あなたの名は…。
「ぼくの名は、アダム。『アダム・カドモン』」
その瞬間、ユウキは七色の光彩に包まれた。彼の魂の中にあった情報はすべ
て整理され10のセフィラ(属性)に分けられる。頭部は、ケテル、思考、無、
超越、言葉という神の属性の一つである。そして逆立ちをしたセフィロトの木
の根っこの部分でもある。そして両肩はそれぞれビナー、ホクマーといった具
合に。彼の体はそのまま『セフィロトの樹』になった。
シリウスBは極小の、高熱を持つ点となった。そしてその熱は極小の『バー
ブ・イラーニ』を通って別の宇宙に伝えられる。別の宇宙は宇宙ですらない極
微の真空にすぎない。そこに膨大な熱が与えられた。真空は不安定になり、膨
大な斥力を生んだ。そして『インフレーション』が始まった。別名神の流出で
ある。『インフレーション』は質量を持たないまさに真空の広がりであるため、
光速を超えて広がった。やがて、量子効果によって宇宙が生まれた。といって
も素粒子サイズの宇宙だった。
ユウキはみなこれを『感じて』いた。そして、なぜいま『神』は宇宙を産み
出しているんだろう?と考えている。ユウキの魂の持つ情報は、いまや爆発的
に大きくなった火の玉宇宙に『形態子』に乗せて伝えられている。時空の曲率、
重力加速度、核力の強さ、生命を産むにちょうど良い物理条件がととのえられ
た。ユウキはそれを感じている。そうだ。あたりまえのことなんだ。『神』は
こうやって宇宙を創ってるんだ。最初から答えを知っているテストの答案のよ
うに、生命に適した宇宙を最初からこさえてるから、生命は生まれるんだ。『神』
にとってみれば、それはまるで畑を開墾して、種をまくような行為なのかもし
れない。
ユウキはふたたび虚空に戻された。レイが近寄ってくるのを感じた。
…ありがとう。
なんで、ありがとう、なんて言われるんだろう、とユウキは思った。僕は新
しく出来た宇宙の雛形になっただけなのに。
【アッシャー(活動世界)】
ユウキは気がつくと、公園に立っていた。よく晴れた午後なのかもしれない。
まぬけにも宇宙服を着ている。さっきまで虚空を漂っていたはずなのに。
この服は動くんだろうかと思い、「エアー」と囁いてみる。大気組成分析が
終わり、結果がディスプレイに表示された。地球と同じだった。
あたりを見回してみる。古ぼけたブランコが一つ。ペンキの剥げかかったシ
ーソーが一つ。滑り台が一つ。まったく見覚えがない。なぜこの地点に具現化
したのだろう?…公園には幸い、だれもいない。ユウキは歩いてみる事にした。
重たい。宇宙服が重たい。パワーアシストが切れかかっているのだ。電池の消
耗度まで再現しなくても、とユウキは思う。
「移動体接近。移動体接近」ヘルメットの中に警報が響いた。ユウキはよたよ
たと公園の植え込みの陰に身を隠す。
若い母親と、小さな男の子が、公園にやってきたのだ。年の頃でいえば母親
は27、8。なかなかの美人。男の子は4、5歳といったところか。
「赤外線スキャン」ユウキは囁く。人間の親子連れに見える生命体の温度分布
が見える。どこからみたってここは地球だし、あの二人は人間だ。どうする?
コンタクトをとってみるか、ユウキは考える。これはあの『渚カヲル』が見せ
た幻影じゃないような気がする。
しかし、派手なオレンジ色の宇宙服を着て、突然目の前に現れたりしたら、
どう思われるだろうな、ユウキは考える。ふと気がつくと、そばに『綾波レイ』
が立っている。ユウキは、もう慣れっこになっていた。
「ここは、いったいどこなんだ?僕はどうしてここで実体化したんだ?」
少女はゆっくりとユウキを見上げた。ユウキは色の白い、赤い瞳をした少女
を見おろした。もう『謎の存在』ではなかった。ユウキは、なぜこの女の子を
見ていると、なつかしいような、切ないような気持ちになるのだろう、と思っ
た。
「ここで、お別れだからよ」少女は言うのだった。そして、顔を背け、公園を
走り回る小さな男の子をぼんやりと見つめている。
「…さようなら、碇くん」レイはユウキに背中を向けたまま言った。
「ど、どこへ行くんだ?」ユウキは少女の細い背中に声をかけた。
レイは振り向いた。ユウキは驚いた。少女の頬に涙の筋がついていたからだ。
ユウキは激しく心を揺さぶられた。もはや、完全に一人の人間の少女だった。
おまけに彼女は泣いているのである。ユウキは思わずレイに向かって歩みだし
た。
しかし、レイは一歩後ろにさがり、さようなら、ともう一度言うと、空中に
かき消えてしまったのだ。その時、ぽとん、という音ともに、芝生の上に赤い
石が落ちた。ユウキはその石を拾おうとした。とたんに、涙の跡をつけたレイ
の白い顔が浮かんだ。そして、これはなにか宇宙的な意志表示なのかもしれな
い、とユウキは思った。理由はまったくなかったが、そんな確信が不意に浮か
んだ。
その時、ユウキは公園が次第にぼやけてくるのを感じた。予感がして自分の
手を見る。地面が透けて見える。…僕もまた消え去る時なんだ。彼は思った。
消え去る直前に、あの男の子が、レイの残して行った赤い石に駆け寄るのが見
えた。
【月】
「重力発振機付近で空中爆発発生!」オペレータが叫んでいる。マッコイUN
SA月基地副司令は、悲しみに沈んでいたが、顔を上げてそちらを見た。
「映像、飛行中のUNSA『ガンダルフ』拾いました。写します」
スクリーンに、月の暗い裏側から青白い炎の柱が立ち昇るのが映っている。
炎はぎらぎらと輝き、十字架の形になる。
「なんだ、あれは?」マッコイはオペレータに聞く。
「コンピュータの推論によると、98パーセントの確率で『対消滅』による爆
発とのことです」
「『対消滅』?あれだけの量の『反物質』がいきなり月面に現れたってのか?」
「はい。それはガスのように地上から噴出し、空中の塵や宇宙船の推進剤の残
りと反応したと考えられます」
「噴出地点は確定できるか?」
「…できます。ちょうど『ガンダルフ』が上空を通過しますから、地表の映像
を捉えることも出来ます」
マッコイは待った。『神』による直接的な攻撃かもしれない、彼は思った。
「…なんだ!?」マッコイは叫んだ。月面をオレンジ色のでかい宇宙服を着た
男がとぼとぼと歩いているのだ。あんなタイプは、月には無い。あるとしたら
恒星間惑星探査用の…。
「車を出せ!四、五人ついて来い。あ医療班もだ!」マッコイは突然大声で指
示を出す。
「私の宇宙服を出してくれ。私も出る」
ユウキが。八光年の彼方で塵になっているはずの碇ユウキが、なんと月面を
とぼとぼ歩いているのだ。
上空で対消滅が起きたって事は、僕が『使徒』になったわけではないってこ
とだ、碇ユウキは思っている。僕がコアを持たないから、出現したときの反粒
子をああやって放出したんだ。『聖体示現(ヒエロファニー)』だ。僕は『使
徒』以外でそれをやった最初の人間ってことになる、ユウキは思った。
レイ…ありがとう。ユウキは心の中で、少女に呼びかけた。彼の中にはあの
レイの最後の顔がこびりついている。さようなら、という悲しみに満ちた声が
木霊のように響いている。
…ユウキは歩きながら考えた。別の奇妙な考えが浮かんできてどうしようも
ないのだった。…レイは『形態子』の量は、宇宙年齢と生命の量で決まると言
った。そして有限であるとも。ではなぜ『神』は、もう一つ宇宙を創ったのか?
『神』は自らの増殖のために『形態子』を必要とする。宇宙をもう一つ創る意
味はあるのか。この宇宙では充分な収穫が見込めないから、新たに開墾を行っ
たのか…?
…ユウキは歩きながら考えた。すると、この宇宙という畑は、すでに役割を
終えたのか?なぜそれが分かる?今、このとき、この宇宙はなにかのターニン
グポイントを回ったのか?宇宙的なターニングポイントなんて、僕には一つし
か思い浮かばないぞ。
…ユウキは歩きながら考えた。僕たちが観測出来る宇宙の果ては、約120
億年の過去の姿だ。いま、このとき、その果ての星の光は、『赤方変移』から
『青方変移』に変わっているのかもしれない…。そうだ。宇宙は『収縮』し始
めたのかもしれない。
…ユウキは歩きながら考えた。それが一応の結論かもしれない。…しかし。
なぜ、もう一つ創るんだ。収縮しているといったって、生命が、ぶつかりあう
銀河の中で消え去るまで何十億年とかかるだろうし。それではいけないのか?
…ユウキは歩きながら考えた。僕は、宇宙を創った、宇宙を創ったと言って
いるけれど、あれが『別の宇宙』だと、どうして言える?…『バーブ・イラー
ニ』を使えば、過去への時間旅行なんて簡単だ。そいつを任意の時点で『空間
接合』したまま光速まで加速してやればよい。その『接合状態』の時間の歩み
は加速するに従って遅くなり、ついには時間は静止する。特殊相対性理論だ。
…ユウキは歩きながら考えた。いま、宇宙の始まりがある。それに『バーブ・
イラーニ』を開ける。加速するエネルギーすら、いらないかもしれない。爆発
的に膨張する宇宙そのものが光速まで加速してくれる。そしてちょうどいいと
ころまで吹っ飛ばされた時に、もう一つ『バーブ・イラーニ』を開けて最初の
奴を呼び戻せばいい。そしてそれが接合している空間は、宇宙誕生の瞬間の空
間なのである。その穴に指一本つっこんだだけで、過去を改変する事が出来る。
ちょいちょいと正物質を間引きして、反物質と等量にしてやるだけで、この宇
宙を恒星も惑星も存在しない、ただ光だけの宇宙にする事も出来るのだ。
…ユウキは歩きながら考えた。『神』が切りのいいところで、やり直しを決
定したとしたら?何事もレイに邪魔されるのだ。オーケー、カードを配り直そ
う。…奴には時間はたっぷりある。いや、時間は存在しないんだから。僕はこ
うして歩いている月面…。それは知らぬ間に改変された宇宙なのかもしれない。
…ユウキは歩きながら考えた。もしそうだとして…。その宇宙の生命は気が
つくことがあるのだろうか?…ないだろうな。僕は僕。碇ユウキだ。意識の連
続性がそれを保証する。『時間線』。まるでよじれた糸のようにもつれあって。
しかし魂そのものは不滅なんだ。…この宇宙は『神』にとって都合のいい宇宙
なんだろうか?生命にとって都合のいい宇宙なんだろうか。
…ユウキは歩きながら考えた。さっきの時間旅行の話。たとえば、任意の決
断を迫られる時点。なんだったら『インパクト』と呼んでもいい。そんな重要
な節目に『バーブ・イラーニ』を光速で放りだしておけば、間違いなんて無く
なるな。結果が気に入らなければ、やりなおせばいいんだから。
ユウキは不意に立ち止まった…。呆然としていた。ある極秘文章を思い出し
たのだ。『碇ゲンドウは、予言成就直前に、激務からか過度の緊張からか、錯
乱状態に陥り、保安諜報部にネルフ職員の射殺命令を出し、ゼーレの計画を頓
挫させた』
違う、碇ゲンドウは知っていたんだ。『セカンド・インパクト』以後の時間
の流れを修正出来る事を。『セカンド・インパクト』時に放出された『バーブ・
イラーニ』を捕まえ、南極の調査隊に働きかければ、あの悲劇は起きなかった
事に出来るということを知っていたんだ…。レイ。彼のレイへの執着にはそん
な理由があったんだ。レイにはその力があった。ただそれは10年間肉体に閉
じこめられていて、目覚めてはなかったけれど。
ユウキは初めて、碇ゲンドウを理解出来たような気がした。…彼は偉大な人
物だった。後の人間に誤解され、憎まれるのを承知で…。ゼーレの力は強大だ
った。誰がどう抵抗しようが『セカンド・インパクト』は起こされただろう。
ゲンドウはいわば最後で唯一のチャンスに賭けたんだ。
綾波レイがゲンドウを信じ切っていたのもむりはないのだ。彼女も同じだっ
たのだ。人類の楽園追放の原因となった『蛇』。人間から『生命の樹』、『不
死』を奪ったものとして忌み嫌われるのを承知で。
それは、まったくなんという絶望的な戦いだろう!『神』は任意に現実を改
変できるのだ。さようなら…。彼女は時の始まりに戻り、神の御業の邪魔をし
ているに違いない。永遠の繰り返し。そして、きっと、こうして綾波レイの事
を思い出せると言うことは、彼女がうまくやってくれている、ということの証
しではないか。
『永劫回帰』だ。今までの考えが正しければ、僕たちも何度も『生』をやり
直している事になる…。繰り返される宇宙創造において、生命の出現は保証さ
れているから、『解脱』はありえない。僕たちは、何度も『生』の中に飛び込
んでゆくのだ。
それは、一見悲観的な宇宙観だったけれど、碇ユウキはかえって勇気づけら
れたのを感じている。『生』を苦しみの輪廻と考える心こそが、『生』を苦し
みの輪廻にするのだ。僕たちは永遠に、互いに誤解したまま、別れ続ける。し
かしその反面で、永遠に出会い続けるんだ。
ユウキは、ふと顔を上げる。月基地副司令のマッコイが、両手をあげて彼を
迎えに来ていた。ユウキは走りよって、マッコイと抱き合う。
「…いったい何が起きたんだ?ユウキ?」
「…宇宙を、ひとつ、創ってきました」青年は快活にそう答えた。
【地球】
ヴィジホンが鳴っている。アスカは夫を起こさぬように、そっとベッドを出
た。裸足で居間に歩いて行き、そこで取った。UNSAの女性の事務官が出て
きて、これはまだ口外しないでいただきたいのですが、息子さんの無事が確認
されました、と言った。アスカは思わず両手で顔を押さえ、溢れるうれし涙を
拭いた。
「数時間後に月基地から息子さんのヴィジホンがあると思います。しばらくお
待ちになっててください」そう言うと女性事務官はヴィジホンを切った。
アスカは急いで着替えた。何をどうしようというわけではなかった。ただ気
持ちが高揚していて、何かしなければ落ちつかなかったのだ。彼女はとりあえ
ず部屋いっぱいの観葉植物に水をやり、夫のシンジのために、特別豪華な朝食
を作ってあげようと思った。…これがいけないんだわ、アスカは思う。何かと
いうと彼においしい料理を作ってあげたくなる。シンジは最近腹のあたりがた
るみ始めている。中年太りの碇シンジなんてなんだかおかしい。成人病に気を
つけてあげなければ。先週の検診では、どこにも悪いところはなかったけれど、
用心に越したことはない。
シンジはそのころ夢を見ていた。彼は夢の中で、中学生に戻り、駅前で待ち
合わせをしているのだった。ポケットの中にはミサトの写真が入っている。取
り出して見てみると、それはとてもぼやけているのだった。
電車が停まった。なぜか綾波レイが可愛らしいワンピースを着て、おりてくる
のだった。あ、そうだ。ぼくはレイとデートする事になっていたのだ。…学生
服なんか着てきたりして間抜けだった。嫌われないだろうか?ぼくは心配にな
った。でもレイは何もいわずにぼくの前に立ち、恥ずかしそうにしているのだ
った。そうか、ぼくが決めるんだ。今日はどこへ行こうか?…考えていなかっ
た。優柔不断なやつ。映画にしようか?遊園地にしようか?
学校は休みだったんだ。何をしてもいいんだ。青空が広がっている。どこへ
もいかずに、一日中レイと並んで歩いていたっていいんだ。その自由な楽しい
気分は碇シンジが目を開けて体を起こしてからも続いていた。妻のアスカが笑
いながら、どうしたの、にやにやして、と夫の顔を覗き込んだ時も続いていた。
結局どこへデートに行ったのか見ず終いだったな、シンジは苦笑しながら思う
のだった。
「ユウキが無事だったのよ!もうすぐ月基地から電話があるのよ!」アスカは
まるでダンスのステップのように軽やかにテーブルに皿を運びながら言う。
「そ、そうか!…よかった」この自由な楽しい気分はその前触れだったのだろ
うか、シンジは思う。
「…しかし、なんで月基地からなんだろう?…ユウキはシリウス星系にいたは
ずなのに。帰ってくるとしても、木星軌道上のはずだが。…ほんとに月って言
ったのかい?」
「そ、そんなことどうだっていいじゃない。私たちの子どもが無事だったのよ。
それでいいじゃない」アスカは言う。
「うん。そうだな。…朝からすごいご馳走じゃないか」
「お祝いよ、お祝い。さあ食べましょ」
ゆったりとした水入らずの食事が終わった頃に、ヴィジホンが鳴った。アス
カはあなたが出て、と目配せをする。シンジは居間のヴィジホンのスイッチを
入れる。
「父さん…母さん、帰って来たよ」スクリーンに、UNSAの半袖のシャツを
着た我が子の顔が映った。見慣れている息子の顔が、どこかが違うわ、母親は
思う。どこかまぶしく見える。
「…何から話せばいいんだろう?…すべて話してはいけないと止められてい
るからね。今だって何人もの人がこの通話を聞いているだろう。とにかく僕は
シリウスBの惑星に着陸し、ある存在に遭遇した後、なぜか月に帰ってきた…。
ごめん、ここまでが限界だ。僕は以前の僕とは変わらないつもりだ。父さん、
母さん、どこか変わったところはない?」
奇妙な質問をするもんだ…。シンジは息子の意図が分からなかった。
「いいや、何も変わっていない…と思うよ。父さんも母さんも元気だ」
「それは、よかった。でも多分変わっていたとしても、百何十億年の積み重ね
があるんだ。その時間線の中の人間には気がつかないだろうけど。…あ、ごめ
ん今のは忘れてくれ。機密事項だったらしい」
おそらく、尋常な方法ではない方法で、息子は月基地に現れたのだ。そして
宇宙の秘密を垣間みたに違いない。シンジは思った。
「ユウキ、あなたはなんともないの…?」アスカが言う。
「僕はなんともない。ごく普通の人間だ。…ただ」
「ただ?」
「正直に言うよ。父さん。僕はおじいさんにあたる碇ゲンドウや、父さんや母
さんを取り巻く『神話』に反発していた。そうだな…大学時代から。けど、今
は僕が『神話』になりつつある。うまくは言えないが、僕はすくなくとも『ツ
ァラトゥストラ』級の神話的人物に成りかけてる。まだ『メシア』には成って
いない程度かもしれない」なにせ砕け散った惑星から、遠く離れた月で炎の十
字架の下に『復活』したんだからな、ユウキは思った。あれは何人も目撃して
いる。そこから『神話』が生まれるのは時間の問題だった。
八年後、シリウスB消滅の光は地球に届く…。それは地球のいたるところの
夜空にひときわ明るく輝くだろう。…救世主の誕生を告げるベツレヘムの星。
「ごめん、今のも機密事項だったらしい。けどおいおい機密ではなくなるだろ
う。…僕は戦うつもりだ。自分自身の『神話』と。人間は、『神話』になって
はいけないんだ。『神』と生命である人間の領域は、完全にかけ離れたものだ。
『神』と『生命』は相いれない存在だ」ユウキはそこで言葉を区切ると、父の
顔を見据えていった。
「父さん…。『彼女』は去ってしまったよ…。宇宙の終わりまで、二度と会え
ないんだ…。もう待ち続ける事はない」
「わかってるよ」あれが、あの夢が別れの挨拶だったのだ…。14歳の少女と
して、いちばん望んでいた一日だったんだ、シンジは思った。夏の日のワンピ
ースを着た少女の顔が浮かぶ。
「だから、母さんを大切にしてくれ。母さんは強がりだけど弱いひとだ。…わ
かってるだろ?」
「わかってるとも」
「それじゃ。もう切るよ。あ。いけない。月から帰る時、多分一年や二年はか
かるだろうけど、ひょっとしたら一人の女性と一緒に帰るかもしれない。紹介
したいんだ」
「…わかったよ」
「…わかったわ」
ヴィジホンは切れた。シンジとアスカはテーブルに戻り、飲みかけの冷めた
紅茶に口をつけた。
静かな時間が流れた。
シンジは一日中本を読んでいた。アスカは、ソファーに座って刺繍を縫った。
ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。ふたりとも、満ち足りているような、
どこか寂しいような気分だった。
「海を見にいかないか?」夕方になって、突然シンジが言った。
「どうしたの?急に」
「海を見たくなったんだ。君と。もう何年も行ってないだろ?」
二人はさっそく数年前に買ったミニヴァンに乗って海へ出かけた。ドームを
抜けると、海まではさほどの距離ではない。堤防に車を置き、二人で『セカン
ド・インパクト』後の五十年間に出来た砂浜を歩く。
日は雲の間から顔を出し、沈みかけていた。沖の方ではまるで火が海水に降
り注いでいるようだった。砂浜にはシンジとアスカと二人きりだった。
「ねえ…シンジ」潮風に髪をなびかせながらアスカが言った。
「なんだい?」
「私は寛容な人間よ。知ってた?…いまから少しだけ時間をあげるから、思う
存分レイの事を悲しんでいいわ」
シンジは冗談だと思い、妻の顔を見た。アスカは真剣だった。
「ありがとう。…じゃ。…遠慮無く」シンジはそう言って、夕陽に向かいあう
と、詩を暗唱し始めた。
ゆふぐれは
くものはたてに
ものぞおもふ
あまつそらなるひとをこふとて
「…美しい詩ね…。胸が締め付けられるようだわ…」アスカが言う。
「大昔の恋の歌だよ…。人間は何も変わらない…」
「…そうね」アスカはそう言って、夫と腕を組んだ。
「私は『永遠』と競争は出来ないわ…」アスカはぽつりとつぶやく。
シンジは妻を見る。夕陽がアスカの頬を照らしている。
「見て…。私は年を取る。やがて皺だらけのおばあちゃんになるわ。そしてい
つかは死ぬ…。でも、レイは永遠に少女のまま…」
シンジはアスカを抱き寄せた。
「そうだ。僕も君も年を取る。…だから素敵なんじゃないか。アスカ。君と僕
の、皺の一本一本が、限りのある人生を分かちあったしるしなんだ」そして天
つ空なる永遠の少女、綾波レイには、欲しくても与えられないものなんだ。
「そうね…。帰りましょう」
「そうだね…。帰ろう」
ふたりの男女はお互いを支えあうように、砂浜を歩いて去った。
その後には、もはや海中に没しようとしている夕陽だけが残された。
【エピローグ】
雨が降っていた。
三人の少年が、雨粒が水たまりに落ちて作り出す、複雑な波紋を眺めている。
ひとりは、碇ゲンドウ。彼は貧しい家の軒先からそれを眺めている。
もうひとりは、碇シンジ。彼は居心地の悪いおじさんの家の窓からそれを眺
めている。
いまひとりは、碇ユウキ。彼は両親と一緒に暮らすマンションの窓からそれ
を眺めている。
…ぼくはどこからきて、どこへゆくんだろう…?
利発な少年たちはいつもそんな事ばかり考えている。宇宙はどうやって始ま
り、どう終わるんだろう?
神様はいるのか…?
水の波紋はまるで音楽のよう。響きあい、ざわめきあう。
三人の少年は、時間も空間も離れた場所で、雨を見ていた。
やがて雨は止んで、遥か昔バビロニアの人々が、『神の弓』と呼んだ見事な
虹が、それぞれの場所、それぞれの時間に現れた。雲の晴れ間から、傾いた太
陽がのぞいている。
けれども三人は、その美しい光景を見てはいなかった。
少年たちは、考え事をしていて眠くなってしまったのだ。
まるで母の胸の中のような、暖かで心地よいまどろみの中で、この広大な宇
宙のどこかで自分を待っていてくれる、永遠の少女の夢を見ていたのである…。
お わ り