PARADISE LOST




                      

            They, looking back, all the eastern side beheld 
            Of Paradise, so late their happy seat, 
            Waved over by that flaming brand; the gate 
            With dreadful faces thronged, and fiery arms:
 

                          John Milton     "Paradise Lost"
                          


 葛城ミサトは、第二坑道の氷の壁づたいに歩いて、父親に会いに行った。彼
女の父は南極の長い一日の半分以上を発掘現場で過ごしていた。父の印象はか
つて同じ屋根の下で暮らしていた頃とはまるで違っていた。14歳の少女には
うまく言葉に出来なかったが、母にいつもなじられていた父とは別人のようだ
った。 ミサトは氷の階段を足を滑らさないようにゆっくりと下ってゆく。床
一面を這うケーブルにつまずかないように『大聖堂』へ出た。『大聖堂』とい
っても何かの建物ではない。ドーム型にくり抜かれた氷の大伽藍だった。
 ドームの奥の氷の壁におそろしく巨大なものが埋まっているのが見えた。そ
れは人の形をしていた。巨人の頭部に当たるところに直径1メートルほどの穴
が開けられており、無数の色とりどりのケーブルが突っ込まれている。『大聖
堂』の底にぽつんと一人の人影があった。奇怪な実験器具とテーブルと椅子が
3つ置いてあった。彼は背中を向けていた。防寒着に包まれていても父がひど
くやせているのがわかった。ミサトは声をかけるタイミングを逸して、じっと
父の背中を眺めていた。幼い頃から、しょっちゅう、こうして何かに熱中して
いる父の背中を見ていたような気がした。ふいに父が振り返った。背の高い彫
りの深い顔。無表情に娘を見おろしている。
「来てたのか。気が付かなかったよ」父は言った。
「…ごめんなさい、黙って入ったりして。セルゲイの事で聞きたいの」
「セルゲイ?…ああ、カミンスキーの息子か。…彼には気の毒な事になったな」
父はこともなげに言った。
「それだけ?」ミサトは自分の感情が高ぶってくるのを感じていた。いつも、
なぜか父と冷静に話が出来ないのだ。そして最後には父をなじってしまう。母
がしたように。そんな夜は興奮してなかなか寝付けない事が多かった。枕を抱
いていると、何も言い返さぬ父の青い顔が頭に浮かんでくるのだった。
「それだけなの?セルゲイをあんなにして、気の毒な事になったってだけ?あ
の子、もう、ものも言わなくなったわ。一日中部屋の中でぼーっと天井を見て
るだけ。あの実験は父さんが考えたんでしょ?父さんのせいじゃない」
「わたし一人で考えたんじゃない」
「そんなこと問題じゃないわ!父さんに責任があるんじゃない?何が起きたの?
いったい」ミサトは父を睨み付けた。
 そういえばカミンスキーの息子と親しげに歩いているのを見たことがあった
な、葛城博士は思った。彼はテーブルの上に置いてある端末を操作して写真を
表示させた。それは人間の頭部のCTスキャンによる断面図だった。
「これを見なさい」彼は言った。14歳の少女は言われるままに覗き込んだ。
「これはセルゲイ・カミンスキーという16歳の少年の脳の断面だ。そしてこ
れが」といって葛城はもう一つのウィンドウを開いて別の脳の断面図を出した。
「そしてこれが、おまえの脳だ。…違いがわかるかい?」
「え?…・そうね。こっちが眼の方よね」
「ああ」
「セルゲイのここの部分がすごく大きいわ。腫れ上がっているみたいに見える」
ミサトは真剣な口調で言った。
「そうだ。ここが肥大して前頭葉を圧迫している。これが彼がああなった原因
だよ」
「でも、実験のせいでこうなったんでしょ!」
「実験はきっかけに過ぎない。あの少年はそうなる遺伝的な傾向があったんだ。
もしかしたら幼児のころに起きていたかもしれない。ただそれは16歳という
年齢で起きたために破滅的な結果になったんだよ」
「なんのことを言ってるのよ」
「一種の先祖帰りだ。しかし、『使徒』とのコンタクト実験からこんなに早く
起きるとは思ってもみなかったよ。してみると、我々の遺伝子は案外脆いもの
なのかもしれないな。セルゲイは、かつて人類の一部がそうであったものに回
帰しようとしたんだ。実証はまだ出来ないがそうとしか考えられない」
「だから、なに?」
「父さんとカミンスキー教授は『ホモ・トリスメギストス』と呼んでる。三つ
眼人といったほうがわかりやすいのかな?同じ霊長類だが人類とは別の系統樹
に属すると考えた方がいいかもしれない。むろん交配は可能だ。カミンスキー
一族がその証拠だ」父はその脳の腫れ物のような部分を指さす。
「最終的にはここが前頭葉をかき分けるようにして額まで飛び出てくる。そし
てそれはまるで額に赤いルビーを埋め込んだように見えるだろう。あの怪物と
同時に発掘された、額に小さな穴の開いた頭部の化石がそれを予感させるよ。
そう、第三の眼だ。しかしそれは普通の眼じゃない。光を見るための眼ではな
い」父はそこでまるで効果を高めるように言葉を区切った。くやしいけれど、
ミサトは続きを聞かずにはいられなかった。
「人間は生存競争の勝者だ。我々の身体には余分な器官や、二足歩行をしてい
るがゆえのハンデがいくつかあるが、こうして600万年も生きてきたんだ、
おおむね生存するための仕組みは揃っているハズだ。けれど、この種はさらに
もう一つの感覚器官を備えている。そしてその情報を処理するためだろう、松
果腺が肥大している。いったい、なんのためだと思うね?」
 ミサトは首を振った。想像もつかなかった。
「研究員の何人かは、可視光線外の電磁波を見るための感覚器官だろうといっ
ているんだが父さんはそれだけじゃないと思う。おそらくこれは時空を『見る』
ための眼なんだ。『千里眼』という言葉を知っているだろう?人間の空間感覚
は五感に縛られている。この眼を持つ人間は普通人より遥かに拡張された意識
を持つ。ああ、父さんだって彼らに世界がどのように見えるか聞いてみたいよ。
それはどんな感覚なんだろうね」父は遠くを見るように言った。
「そして『使徒』とのなんらかの意志の疎通の手段としても使われていた。君
やセルゲイのようにシンクロポッドに入って体中電極だらけにしなくてもよか
ったのかもしれない。わかるかい?こいつらは約1万5千年以上眠っていた」
彼は氷壁の巨大なシルエットを指さした。
「こいつらは明らかに進化の帰結による生物じゃない。この『ホモ・トリスメ
ギストス』達か、あるいはもっと高度なものの手によって作り出されたもの違
いない。我々とこいつを構成する物質はまるで違うが、遺伝子パターンは人類
と98以上パーセント一致している。そしてこれは、父さんのカンなんだが、
『ホモ・トリスメギストス』とは100パーセント一致していたんじゃないか
と思うんだ」
「それは、どういうことなの?」
「『創世記』を読んだことがあるかい」父は微笑みながら言う。それは、父と
の結婚の破綻の直後、カトリックの洗礼を受けた母を揶揄しているかのようだ
った。しかし、ミサトは不愉快な気はしなかった。むしろその悪戯っぽい笑顔
に魅力を感じている自分を見つけた。
「え、ええ『旧約聖書』は」
「不思議なことに『創世記』における神は、時たま『複数形』なんだ。いいか
い、『旧約』は代表的な一神教であるユダヤ教の聖典でもあるのに。たとえば
こう書いているのと同じなんだ。『我々は我々の姿に似せて人を作った』。そ
う、姿に似せて。『姿』は容姿ではなく遺伝子の事だとしたら」
「じゃあ、父さんはその三つ眼人が、自分たちの遺伝子パターンを使って『使
徒』を作ったと…」
「そうだよ。『創世記』第1章21節(Genesis 1:21)、神は海の怪物を創ら
れた。ここでいう海の怪物こそ、古代バビロニアの母神『ティアマト』さ。こ
れらの多神教の神々こそ、後に一神教において天使や悪魔や怪物と呼ばれるも
のだ。そしてそれは間接的に我々人類の誕生に関与してるんだ。ヤハウェは、
その怪物を倒し、人類を創造した同じくバビロニアの神、『マルドゥク』に影
響を受けてる。…神が自分たちの特徴であり、優位である機能を削除した、容
姿まで似せた『亜人類』を作ったとしたら?」
「そ、それがわたしたち?」
「確証はない。この南極では得られないかもしれない。けれど父さんはその仮
説に期待してるんだ。とても」
「なぜ?」
「この謎を解いたとき、人類は『神』になれるんだ。もともと人類の何パーセ
ントはそのポテンシャルを持ってるんだ。人類は『使徒』というほとんど不死
身の下僕と、時間を俯瞰する眼を持つ」そして父はミサトをみつめた。
「そして、母さんの好きなキリスト教は、他の宗教と同じく、『たわごと』であ
ることが『科学的に』証明される」彼は静かに言った。

 ミサトは凍った坑道を引き返しながら、怒りがなぜか収まってしまったのを
感じていた。彼女はあの哀れなセルゲイの事より、父が母に復讐をくわだてて
いるのだ、という発見が心の中を占めているのを感じている。それは、なぜか、
困ったことに、すごく魅力的な感じなのだった。北にロンネ棚氷の広がる、ペ
ンサコラ山群のある山の中腹にある坑道の外には、スキーを着けた双発の飛行
機が待っていた。それに乗せてもらい、強風の中、南極点にあるアムンゼン・
スコット基地に向かったとき、ようやく元気だったころのセルゲイの事を思い
だし始めた。

 4カ月前、南極の夏の始まり。
 二人は、旧ソ連のボストーク基地よりほど遠くない氷原を散歩していた。セ
ルゲイはしきりにミサトを誘いたがった。暇を持て余した17人の少年少女の
間に、ロシア人の少年が、可愛い日本人の少女にご執心であるという噂が広ま
っていた。しかし南極はティーンエイジャーがデートするには不向きな場所で
ある。彼らにとって、風の穏やかな日に散歩に誘うのが、ひとけのない部屋に
誘うのに次ぐ人気のあるデートだった。
 セルゲイは頭のいいところを見せようとしてなのか、空飛ぶ円盤や超古代文
明や少年向けの雑誌にかいてあるようなたぐいのおとぎ話をつぎつぎとミサト
に聞かせてくれるのだった。
「南極にちなんだ話があるんだ、ミサト」いまも長身のセルゲイはミサトの顔
を覗き込むようにして言う。
「『ピリ・レイスの地図』って知ってるかい?知らないの。じゃ、教えてあげ
よう。それは、16世紀にピリ・レイスっていう人が発見した地図なんだ。そ
の地図は当時としては驚くほど正確な世界地図だった。けど、さらに驚くべき
は、氷に閉ざされていない南極大陸の海岸線が描かれていたんだ」
「それってすごいことなの?」
「ものすごい事だよ。帆船しかない16世紀に一体どうやって、南極のそれも
陸地の正確な海岸線を測る事が出来るんだ?おまけに、その地図は写本で、原
本がいつ作られたかはっきりとはわからないんだ。もし、南極が本当に氷に覆
われていなかったころに原本が作られたとすると、実に1万数千年以上前って
ことになる。旧石器時代に誰がどうやって地図を作れたんだ?」
「さあね。賢いクロマニヨン人のだれかさんじゃない」ミサトはいささかうん
ざりしていた。男の子ってどうしてこうなんだろう?その時初めて気が付いた。
セルゲイという少年と自分の父は、どこか似ている。
「違うよ。僕はたぶん、あの『ティアマト』と『アプス』の付近で発見された
人骨の化石の人々が作ったんだと思うよ」セルゲイは声をひそめて言った。
「『ティアマト』と『アプス』ってなに?あの大きなな怪物のこと」ミサトは
信号ケーブルでぐるぐる巻きにされた巨人を思い浮かべた。
「そうだよ。古代バビロニアの神様だ。僕たちがコンタクト実験をしているの
が母なる神『ティアマト』だ。そして彼女より下の地層にあって、身体を分断
されているのが『アプス』だよ」
「なんでバビロニアの神様がここにいるのよ」
「わからない。ここで神々の戦争があったのかもしれない。とにかく彼らは眠
りについた。超文明の担い手達とともに。僕たち人類の時間が終わった時に、
眠りから醒めて再び世界を支配するのかもしれない。『クトゥルー神話』って
知ってる?」
「知らないわ」
「それはアメリカの恐怖小説家『ラブクラフト』の作った創作の神話なんだけ
ど、人類に遥かに先行して世界を支配していた『古きものども』が異次元に追
いやられて眠っていて、再び世界を支配しようと虎視眈々と狙っているってい
う話なんだ。僕は、ラブクラフトは、なんらかの方法でこの南極の事を知って
いたんじゃないかと思うんだ」
「突拍子も無い話だわ。あたしはあれは太古に地球にきたETだと思うわ」
「そうかな?僕は違うと思う。僕らはきっと、僕たちが想像も出来ないような
大きな神話の枠組みの中に迷い込んでしまったんだ。僕の父が言っていた。バ
ビロンの新年を迎える儀式的演劇のように、『ティアマト』が蘇るとき、古い
時間、古い世界は終わる。『マルドゥク』が『ティアマト』を殺すことにより、
新しい時間が始まる。そして『キングウ』の血から、再び人間を作るんだ」
「なんのことを言ってるのかわからないわ」
「『ティアマト』は眠っているだけみたいだ。父が言っていた。『ピリ・レイ
スの地図』を作った超人類が眠らせたんだって。この南極はきっと聖地だった
んだ。ムーやレムリアやアトランティス文明を築いた人々の」
「セルゲイ。あんたおかしいわ」ミサトはそう言い放つと、きびすを返して基
地へ歩き出した。
「ま、まってくれよ。ミサト。いったいどうしたの?」
「何よ、黙って聞いていれば夢みたいな、おとぎ話みたいな事ばかり。まるで
あなたはわたしの父さんそっくりよ」ミサトは冷たく言う。
「おとぎ話じゃない。ミサト。あれが発見されるまでは確かに絵空事だった。
でも、もう現実なんだ。現に僕たちは『あれ』とコンタクトをするために南極
に立ってる。『あれ』は核兵器より危険かもしれないけど、うまく使えば、人
類に超文明をもたらすかもしれないんだ。ムーやアトランティスのように」
「じゃ、聞きますけどね。セルゲイ。あんたやカミンスキー教授が大好きなムー
やアトランティス文明が実在してたとしたら、なぜ滅んでしまったの?超文明
って何の役にたったの?遺跡すら残ってないのはなぜ?」
「それは。…戦争で滅んだのかもしれない。巨神達と仲違いしたとか。今度父
さんに聞いてみるよ。でも、僕たちはその超文明を理解できずに食いつぶした
デキの悪い子孫かもしれない。紀元前250年頃に本を書いたバビロニアの歴
史家ベロッソスは、世界最古の文明シュメールについてこう書いてる。『怪物
の集まりである一種族が、英知の神エア神に率いられ、ペルシャ湾からやって
きて、農業、治金、文字をもたらした。生活の改善に役立つものはすべてエア
神が人間に伝えた。その時以来それ以上の発明は行われていない』ってね。彼
らは、水没したムーからあの三つ眼人に率いられて、ティグリス・ユーフラテ
ス河口にたどり着いた。たぶん、南アメリカにも。けれどもはや昔日の栄光を
再現することは出来なかった」
「私たちは退化してるってこと?五千年かけて、忘れたことをゆっくりと思い
出してるの」
「たぶんね。山を動かしたり、空を飛んだり、死者を甦らせたり、神話に書か
れているような神の行いが『ほんとうに』あったことだったら?僕たちはまだ
まだ追いついてすらいないんじゃないかな?」
「でも、セルゲイ。あたし達はまだ滅んでいないわ。そこまで彼らの真似をす
る必要はない、そうでしょ?」
「そうだね」セルゲイは黙ってしまった。
 二人は危険なクレバスあるという地帯の縁まで来て、引き返している。
セルゲイがゆっくりと口を開いた。
「けどミサト、遺跡は残ってるよ」少年はそっと囁いた。
「え?」
「これは秘密だよ。……ここに。この南極の地下に埋まっていたんだ。なんと
石炭層に近い地層に。『ピラミッド』が。けど、今の人員じゃ、あの怪物を調
べるのに手一杯でとても発掘出来ないので、放置されてる。これはトップシー
クレットだから、ルームメイトのパットにも言っちゃだめだよ。なんか運命的
なものを感じないか?何かが起ころうとしてるんだ」
 少年はじっとミサトを見つめた。彼女は理由の無い怒りがわいてくるのを覚
えた。
「もういいわ!セルゲイ。もうまっぴら。あの気持ち悪い実験につきあうのも
もうたくさん。来るんじゃなかった。わたし帰るわ。日本に」
「でも来年にならないと船は来ないよ。ミサト」セルゲイはやさしく言った。
「じゃあ、実験ポッドに乗ってでも帰ってやるわ!」怒りにまかせて少女は言
った。そして、そのとおりになった。
 
「ねえ、ミサト、セルゲイのことどう思ってるの?」パトリシアという金髪の
大柄なアメリカ人の少女が二段ベッドの下から話しかけてくる。
「どうって。ただ父親の仕事についてきてるロシア人の男の子」
「じゃなくて。ふざけないで。どう思ってるのよ。彼はあなたの事を好きみた
いよ」
「そんな気分じゃないわ。それにあの子は、自分の話を目を輝かせて聞いてく
れる女の子が欲しいだけなのよ」
「ふうん。スティーブがいなかったらあたしがなって上げてもいいのにな」
「へー。意外」
「そう?彼って可愛いと思わない?」
「思わない。もう寝ましょ。明日はあのぞっとしない実験だから」

 葛城ミサトは、実験のポッドの中に、水着姿で入っている。ポッドはなま暖
かい液体で満たされ、寒くはない。彼女はインターコムとシュノーケルを兼ね
た器具を口にくくり付けられている。体中に電極がとりつけれて、ひどくいや
な気分だった。ポッドはそれが一本ぶんようやく通るような坑道を通って『大
聖堂』に向かって下降している。
 ミサトはさっきから背中がむずむずするような感触に捕らわれていた。いつ
もこうだった。氷の底に潜む怪物が彼女に探りを入れているかのようだ。

【ミサト】
「……いいえ、吐き気はないわ。大丈夫」
「『彼女』を感じるかい?何か、その異物のようなものが」
「あんなの『彼女』って言わないでよ。ダメ。ただ…。」
「ただ?」
「真っ白なの。眼を閉じると。洗いたて、いえ、新品のシーツみたいな感じの
ものが頭の中に浮かぶ。なんだか居心地が悪いわ」
「それだよ。君はもうすでにコンタクトしているんだ。『原罪』の無い精神と
はそういうものだよ」
「なぜ『原罪』がないといえるの?」
「あれは神か、神に近い存在だからだよ。完全無欠といっていい。居心地が悪
いのは君が人間だからだよ」
「私は新品のシーツに着いたシミってわけ?」
「ごめん、ごめん。でも、たしかに、コンタクトは人間の持つさまざまなコン
プレックスを強調するようだ。ありがとう、もう上がっていいよ」

【パトリシア】
「だめ。もう出ちゃいけないですか?吐き気がする」
「どうしたんだい、パット。まだコンタクトしてないんだよ」
「何か、とても邪悪な気配がするわ。触れてはいけないもののような」
「気のせいだよ。他の被験者はそんな事はないのに」
「他の子は気がつかないだけよ!とても怖ろしいものよ。これは。すべてを食
いつくす怪物」
「いや、あれには消化器官すらない。おそらく空間から純粋なエネルギーを摂
取するのだと考えられている。君を取って喰うことは出来ないよ」
「やっぱりだめ。あたし向いていないんだわ。こんなことオトナがすればいい
じゃない!あたし達にさせなでよ」
「いや、それは出来ない相談なんだ。パット。あれはいわば『母』なんだ。彼
女が自分の子供だからと誤解しているこそ、コンタクトが成立する。彼女には
生殖器官と目されるものは一切無いのに、そういう習性があるんだ。どうして
かは研究中だ」
「じゃ最初はオトナで試してみたの?」
「ああ」
「どうなったの」
「………」
「どうなったのよ?教えてくれないと協力しないわよ!」
「パット。私は葛城だ。答えよう。最初の被験者は、ボストーク基地の青年だ
った。彼は、精神を破壊しつくされた。今は本国で治療を受けているが、治る
見込みはまったくない」
「カツラギ!」
「いいんだ。パット、聞いてくれ。この仕事は君たちにしか出来ない。オトナ
の我々にはしたくても出来ないんだ。そしてこの仕事は、人類にとって有史以
来もっとも重要な仕事なんだ。貧困と無知から人類を永遠に解放できるかもし
れない仕事なんだ。頼む。パット」
「わかったわ。正直に言ってくれてありがとう。やってみるわ」

【セルゲイ】
「……すばらしい。こんな体験は初めてだ。すごい!」
「セルゲイ。もう30分以上コンタクトしている。出なさい」
「もうちょっと待ってよ、父さん。いままた違うビジョンが始まったんだ。宝
石のような都市が見える。ものすごく進んだ文明だ。でも乗り物は見えない。
そこらじゅうに庭園がある。人はみんな衣のようなものを着て、ゆっくりと歩
いている。また場面が変わった。男が空を向いている。額になにか、赤い宝石
のようなものが着いている。天に向かってなにか話しかけている」
「何をしゃべっているのだ?」
「わからない。音のないビジョンなんだ。また場面が変わった。暗い海の底で
巨人が槍を持っている。怖ろしい。とてもこわい」
「セルゲイ、今日はもう止めよう。おまえは精神を汚染されてしまうぞ」
「大丈夫。父さん。また場面が変わったんだ。猿たちがいるんだ。とても不思
議な場所だ。猿は僕を見上げている」
「どんな種類の猿なんだ?」
「見たこともない。なんだろう?また場面が変わった。今度は真っ暗な空だ。
何かが起ころうとしてる」
「もういい、セルゲイ上がりなさい」
「待ってよ、父さん。今大事なところなんだ。とても大事な」
「だめだ。こっちでコンタクトを終了させる」

 子供達が帰ったあと、氷の『大聖堂』で二人の科学者が話し合っていた。
「どう思う?カツラギ。私の息子の事を」カミンスキー教授が言った。
「そうだな。ここだけの話だが、僕はあれが幻覚だとは思えない」
「と、いうと?」
「きみの息子は、実際にあの光景を『見て』いるんだと思う。もちろん実証で
きる材料はまだないが」
「しかし、『被験体』が息子に幻覚を送っているとは考えられんぞ。そのよう
な能力があるなら、他の子供たちの実験でも似たような事象が起きるはずじゃ
ないか?息子は勝手にある種の経験をしていると考えるのが自然じゃないか」
「常識で考えるとそうだ。しかし、これの発見以降科学的な常識は疑ってしか
るべきだよ。そうだ、これを見てくれ。被験者全員の脳波パターンを解析して
みたんだ」そう言うと葛城はテーブルに紙を広げる。
「ほう」カミンスキーは覗き込みながらうなる。
「今度、息子に精密検査を受けさせよう」
「それがいいと思うね」

 夜だと言うのに、太陽が地平線のすぐ上をのろのろと転がっている、長い長
い薄暮の南極の空に、花火が上がる。ぱん。様々な国籍の子供達は揃って拍手
と歓声をあげた。
 ミサトはパトリシアと並んで、花火を見上げていた。花火を見るなんて久し
ぶりだわ。彼女は思った。最後に父と花火を見に行ったのは、小学校に入って
からだっだ。両国の花火大会に行ったのだ。きれいだな、父は子供のように目
を輝かせていた。その父の顔を見上げながら、なぜかひどく切ない気分になっ
た事を思いだした。
「……」気がつくと隣に立っている大柄な少女が涙ぐんでいる。
「どうしたの?パット」
「帰りたいわ。ミサト。あたし。マサチューセッツに。こんな、なんにも無い
ところ、もういや」ミサトはやさしくパトリシアの手を握った。手袋を通して
そのアメリカ人の少女のやるせなさが伝わってくるような気がした。
「あたしも、同じ。日本に帰りたいわ」彼女はそっと答えた。
「手紙あげるね、日本に」
「あたしも」
 ふと気がつくと、セルゲイがあらぬ方向を見つめている。ミサトは気安く話し
かけた。
「どうしたの?セルゲイ。ボーっと地平線なんか見ちゃって」
「え?」少年は振り向いた。ミサトは息を呑んだ。防寒着のフードの中に、ま
るで見知らぬ人を見るようないぶかしげな表情を見たからだ。ミサトはもとも
とカンの鋭い子だった。不吉な予感が彼女の心を占めた。
「ど、どうしたの?気分でもわるいの?」
「え……な、なんでもないよ。考え事をしていたんだ」少年は無理に笑ってみ
せた。
「何を考えていたの?」ミサトはぎこちなく微笑んだ。
「なぜアステカで、少年や少女を生け贄として神に捧げていたのだろうってね」
少年は明日の天気を心配するような口調で言った。
「気持ちの悪いこと考えるのねえ!それで答えは見つかった?」
「答えは、いま、ここにあるんじゃないかと思って。つまり僕たちのやってる
コンタクト実験が歪曲されて伝わったんじゃないかと思うんだ」
「セルゲイ!アステカ文明は1000年も前に栄えたんでしょ。なんでいま私
たちがやってる事がその文明のおぞましい習慣に影響を与えたりできるの!」
「ミサト。違うんだ。かれらには時間は存在しない」少年は明るい声で答える
のだった。
 …このころからセルゲイの様子は、おかしくなっていった。

【ミサト】
「だめだわ。何も浮かばないわ。ただ真っ白な光のようなものが体を包んでい
る感じだわ。セルゲイみたいにすごい光景は浮かんでこない」
「彼は特別だよ。ミサト。君は君の出来ることをしてくれたらいい。じゃ、い
まから父さんがある単語を読み上げるから、それを強く念じてくれないか」
「いいわ」

【パット】
「やっぱりダメです。あたし、向いてないわ、これ。カミンスキー博士」
「なんだね?」
「すごく恐いんです。なんだか暗い海の底にいるぬるぬるした生き物に素手で
触っているような感触がする。ねえ、こんな怪物ほっといたら?」
「はは、それは無理だよ。これだけの発見を。この怪物がもし『人為的』に作
られたものだったら、すごいテクノロジーだし、もしこれが進化して自然に出
来たのだとしたら、それは途方もないことだ。どっちにしろこれは人類にとっ
て福音をもたらすものだよ」
「そうかしら?」

【セルゲイ】
「また、あの都市が見える。いっそうはっきりとしてきた。看板の文字すら読
みとれる。
何の文字だかさっぱりわからないけど」
「それを書き取れるかい」
「ええ、カツラギ博士。手元のメモ用紙に書いておきます」
「今日は何か変わった様子はないのか」
「そうですね。普段とあまりかわらない」
「前から聞こうと思ってたんだが、みんな額に眼のある人間なのか?」
「違います。無い人の方が多いくらい。あ」
「どうした?」
「場面が変わったんだ。父さん。『使徒』が山を切り裂いているんだ」
「『使徒』とはあれの事だね?」
「そうです。形は違うけど別の、ものすごく巨大な蟹のように『羽化』させら
れた使徒が山をくり抜いている。空がものすごく明るい。ああっ。あの美しい
都市が海に沈んでゆく」
「何がおきたんだ?セルゲイ」
「………だめだ、父さん。考えてはいけないんだ」
「なぜ、いけない?『使徒』に禁じられたのか?」
「ううん。『使徒』に似てるけど『使徒』じゃない。もっともっと賢くて人間
に近いものが、そう言ってる」
「それはどんなものだ?」
「それは、とても奇妙な怪物なんだ。そうだな、半分魚で、半分賢そうな人間
に見える」
「どう言ってる?」
「それを思い出すと時間は循環する、と。今この瞬間から『創造の時』が始ま
ってしまう、と」
「どういう意味だ?」
「この悪しきアイオン(世)の時間は満ちたことになるので、終わって別のア
イオンの時間が始まる、ことになるって。そうなると」
「そうなると?」
「お前たちは滅びる、と。滅びがいやなら、神と争え、と。創造の時をやり過
ごした時、祝福される、と、とうさん僕は疲れました」
「わかった、これくらいにしよう」

「聞いたか?『時間は循環する』、だ。『永劫回帰』だよ。ただ、熱力学の第
二法則のせいで、循環しても少しずつ違った結果になるだろうけどな。ただ骨
格はおそらくは変わらないんだ。その骨格のことを『神話』と言い換えてもい
い。いやむしろ、その方が正しい。マルドゥクがティアマトを倒し、世界が始
まるといった神話がいつ繰り返されてもいいような宇宙に我々は生きているん
だ!エリアーデが人間の社会と精神について象徴的に述べた事は、実は現実に
起きてる!僕が漠然と思っていたとおりだ」カミンスキーは興奮してしゃべり
っぱなしだった。「飛躍するようだが、ビッグバン理論から求められた宇宙年
齢より古い星が存在するという矛盾はこれを研究すれば解決できるんじゃない
か?すごい発見だよ、カツラギ。ある意味では『使徒』という生物の発見より
すごいことかもしれんぞ!」カミンスキーはまくしたてた。
「しかし、なぜという疑問は残るよ。なぜ神話は繰り返されるんだ?なんのた
めに?」
「いままで、究極的な『なぜ』という質問に科学が答える事が出来たかね?そ
れは神の領域だ。……まてよ?面白い理論があったな…。思い出せない」
 カミンスキーは歩き回る。
「そうだ!思いだしたよ。あるユニークな事象が起きたとしよう」カミンスキー
は、ふいにテーブルの上にあるマグカップを取り上げて、床に叩きつけた。反
響により思わぬ大きな音を立ててカップは割れた。『使徒』の近くにいた何人
かのスタッフが振り返った。葛城は彼らに手を振った。
「これを、宇宙で最初にマグカップが割れたと仮定しよう。いいね」
「ああ」
「この事象は、つまり『マグカップが割れた』という事象は、『空間に記憶』
されるんだ。そして、そのことは『マグカップは割れることもある』という可
能性を補強する。言い換えると、いったん『マグカップが割れる』と他のマグ
カップが『割れやすくなる』。例えば化学実験で理論的には可能だが、なかな
か起きない反応があるとしよう。ある日、ある研究室で偶然に成功した後、突
然その化学反応は起きやすくなってゆく。そしてしまいには再現性100%の
ありふれた化学反応になる」
「ふむ。その反応の話は大学で化学をやってる友人から聞いた事があるよ。つ
まり君はこう言いたいんだろ?無から有が生じた真の『創造』が一度だけあっ
た。もしかするとそれは、この宇宙ではないかもしれないが。そしてその『神
話構造』は空間に記憶され、再び起こる可能性が高まった。そして2度3度起
こる度にそれは起きやすくなり、しまいには、ほんのちょっとしたきっかけで
局所的な『神話』の再現が起きるようになった」
「然り!『ハラショー!』と言いたいところだな。無から有を生じせしめた真
の創造とその合わせ鏡のように連続する創造との違いは、もちろん先行して物
が存在するかどうかだ。それが起きたときは先行する物質にとっては破滅を意
味するんだろうな。『創世記』の『原始の海』の問題を覚えているかい」
「ああ、わかったよ、第1章第1節(Genesis 1:1)だ。神が宇宙を創ったハ
ズなのに、」
「『原始の海』が創造に先行して存在するように見える。我々の『創世記』の
神は無から有を生じせしめた神ではなく、『海』と呼ばれるものを素材にして、
あまねく生命を創造しただけのようだ」カミンスキーは言った。
「そして、その創造はまた再び起きるかもしれない、と」葛城は言った。
「まるで髭を生やした予言者のプラカードのようだよ。この世の終わりは近づ
いた」
「しかし、息子の言うことを聞いたかい?創世記第32章25節(Genesis 32:
25)からのヤコブと天使との格闘を思い出さないか」
「ああ、連想した」
「ヤコブは、いわゆる、いい奴じゃない。兄になりすまして、兄が本来受ける
べきだった父の祝福をかすめ取った奴だ。彼は天使と格闘して負けなかったと
いうことで、神に戦いを挑むもの、『イスラエル』という名を賜り、いろいろ
と依怙贔屓を受ける」
「ああ」
「我々に遥かに先行した『ホモ・トリスメギストス』は繰り返される再創造の
際に滅んだのかもしれん。天使との格闘に負けるとかしてね。彼らの世(アイ
オン)は終わり、人間の世(アイオン)が始まった。そして人間の世は…」
「いま、終わろうとしているのか?第7の封印は解かれたのか…。ラッパはい
つ鳴った?」
「キリスト教嫌いのくせにえらく詳しいじゃないか」
「『黙示録』は、たわごと中のたわごとだよ、でもなぜだ?神を信仰する君だ
って、この肉体を持つ使徒が本来の意味で神でないことはわかってるだろう?
誰かに作られた代役に過ぎない」
「そうだな…、『マグカップ法則』拡張版だ。プロセスはプロセスの骨格が空
間に記憶される。本物でなくても、役者と出来事の意味さえそろっていればプ
ロセスは再現されうる…てのは、どうだ?」
「だとしたらおれは新しいイブを探さなきゃな」離婚を経験した葛城がおどけ
て言った。

 セルゲイは雪原にたたずんでいる。さっきからずっとあらぬ方向を見つめて
いた。ミサトは歩いて行って、その少年に話しかけた。
「セルゲイ?どうしたの?最近へんよ。気分でも悪い?」
「いや。べつに。ねえ、ミサト」
「なに?」
「どうして彼らは地底にピラミッドを作ったのかなあ」
「ねえ、セルゲイ。せめて実験の時以外は、そんなことを考えるのをやめたら?
パットも、アランも、ケイスケも、みんな心配してるわ」
「だいじょうぶ。それより、地底のピラミッドについて、どう思う」
「やめてよ、セルゲイ。たぶん隠れたかったのよ」
「何から?」
「わからないわ。空から見えるとまずいんでしょ」
「そう、空だ。空から見られたくなかったのかも……。それだ!」
 そのとき、突然、夜になった。ミサトは足がすくむほどの恐怖と不快感に襲
われた。予感がして夜空を見上げる。月。空の半分以上を月が占めていた。
『海』やクレーターが手を伸ばせば届きそうな距離に見える。徐々に、不快感
は吐き気に変わりつつあった。
ミサトは思わず声を上げそうになった。
「ミサト」その時セルゲイの冷静な声が聞こえた。彼女は再び空を見上げる。
明るい青空が広がっていた。さっきまで心をとらえていた不快感も嘘のように
消えていた。
「な、なによ、いまの!」彼女は叫んでいた。
「君も見たんだろ?ミサト。一瞬、君と僕はビジョンを共有したんだ。ごめん。
僕のせいかもしれない。こわかった?」セルゲイははにかむような笑みを浮か
べた。
 ミサトはふいに自分が涙ぐんでいるのに気がついた。

「それで、『ジオフロント』の方はどうなっているんだ」瀟洒な別荘の中に作
られた書斎で、キール・ローレンツは電話の相手に言った。
「計測機器はすべて準備を終えました。『ゲヒルン』科学部によると質量の置
換が起きたとき、重力異常が発生するそうです」
「共振とやらはどの程度起きるのかね?」
「施設に被害を与えるほどではありません。震度3程度の地震が起きるぐらい
でしょう」
「君は箱根に来ると決めてかかっているようだな。ゲンドウ」
「カンですよ。ミスタ・ローレンツ。それより南極からの報告を見ましたか?」
「見たよ。傑作だな。面白い。彼らが帰って来られたら、研究を続けて『カツ
ラギ=カミンスキー理論』として発表するだろうな」しかし、おそらく、それ
は出来ない相談だろう。ローレンツは思った。私はあの子供っぽい学者たちを
哀れんでいるのか?そうかもしれないな。
「しかし、彼らに『ダイアグラム』の一端でも教えておいた方がよかったので
は?」
「いや。それは必要ない。進行の妨げになる恐れがある。我々には『使徒』や
その他もろもろの科学的解明よりも『ダイアグラム』の大事なのだ。人間の科
学でわかる程度の事は、2千年前からわかっていたのだからな。君はそうでは
ないと思うのかね?君は学者だが、あの二人のような『学者バカ』ではないと
思っていたのだが」
「いえ。そんなことはありません。むしろスケジュールの進行に役立つ情報な
ら与えても良かったと思っただけです」
「そうかもしれん。しかしもう時間はない」
「そうですね」ゲンドウはあっさりと、南極にいる数百人の調査隊の死にゆく
運命を認めた。
「ところで、ゲンドウ。君の父上に言っておいてくれないか?」
「何をでしょうか?」もちろん碇タダフミの事を言っているのだ。貧しい彼の
実の父親の事ではない。
「あまり派手に遷都候補地の土地を買い占めない方がいい、とな。『あれ』が
起きた後に妙な事を書き立てられてもつまらんだろう?」
「お見通しですね。伝えます」
「では仕事を続けてくれたまえ」
 ゲンドウは接続を切った。
 キール・ローレンツの前には、フランス人が座っていた。
「ゲンドウごときに『死海文書』の『ダイアグラム』の事を教えてよかったの
かね?」
「大丈夫。彼はおそらく予言の実現までは裏切らんだろう。彼がなんらかの意
図を持って碇家に近づいたのは確実だがね。彼は使える男だ。学者にしておく
のは惜しい。実務家にして戦略家。軍隊でも成功したかもしれん」
「ひどくあの男を買っているんだな。まあいい。飼い犬に手を噛まれんように
な。話は違うが、さっき言ってたように、わたし自身に資産の移動はどうなっ
てるんだね」
「それはもう抜かりはない。ゼーレの評議委員クラスのプライオリティで進め
ているよ。『死海文書』の最大の功労者たる君のためだ」
「私は今の海岸沿いの家が気に入っているんだがな」男は言った。
「いや、『あれ』の後でも、海岸というものは、いつか出来るよ」ローレンツ
は彼自身がニースに持っているもう一つの別荘の事を考えていた。あの街は若
い頃から気に入っていたのだがな。大好きなモナコと同じように海中に没する
運命とは!

【セルゲイ】
「こないだ、ミサトと話してるときに、わかったんだ」
「何をだい?」
「『月』が何者か」
「なんだって?」
「『月』は地球の衛星じゃないんだ。僕はいま何もない夜の中に立っているビ
ジョンを見ている。あの宝石のような都市は、きらきらときらめいて地上の星
のようだ。額に眼のない人間達がぞろぞろと歩いている。妙に額が狭くて猫背
で、現代にいるどんな人種とも違う感じがする。肌は白い」
「『月』はどこへいったんだ?」
「違います。カツラギ博士。新月でもない、月が無くなったのでもない。まだ
来てないんだ」
「来てない?」
「そうだよ。来ていない。でもそれはやって来て、創造の時を満たすんだ」
「どうした?セルゲイ」
「夢の底に何かがいて、止めろって言ってる」
「『使徒』ではないんだな?」
「『使徒』なんかじゃない。彼女は今、肉体を持っていないんだ」
「彼女?女なのか?」
「ううん。冷たいけど、どこか優しくたおやかな感じがするんだ。だから彼女
って言ってみた」
「彼女はどこにいる?『使徒』の中にいるのか?」
「いいや。そこらじゅうにいる感じだ。父さんは感じない?」
「いや、感じない。わたしは、いい霊媒にはなれないな。その存在とコミュニ
ケートできるか、セルゲイ?」
「わからない。やってみる」
「………」
「どうだ?」
「『こんにちは』って3回心の中で考えたんだ。そしたら『さようなら』って
3回言われた」
「なるほど。数は数えられるってわけだ」

 少年は日に日に無口になっていった。仲間の少年少女と離れて、ぼんやりと
あらぬ方向を見つめていることが多くなった。コンタクト実験はほとんどセル
ゲイにだけ行われるようになっていたから、彼らはとても暇になった。そこで
さまざまな悪ふざけや、あそびや、恋愛ごっこにうつつを抜かした。
 ミサトは少女たちの中では綺麗なほうだったので、よく誘われた。けれど彼
女は、そういった、時にはとても露骨な誘いをすべて断った。そのかわりにあ
れこれとセルゲイの世話を焼いているところを目撃されるようになった。
「どうしたのよ、ミサト。セルゲイに急に優しくなったじゃない?」パットが
からかう。
「そんなんじゃないわ。ほっとけないじゃない」ミサトはむきになって言い返
すのだった。
 そんなミサトでも、父やカミンスキー博士に実験の中断を願い出てはいけな
かった。父の事を何となく煙たく思っていたからだ。母とは違い、家庭をかえ
りみることが無かった父を『それほどは』憎んではいないつもりだったが。
 …南極の夏は終わり、秋になっていた。彼らは、そのころ南緯66度より高
い、ペンサコラ山群の秘密基地にいた。やがて闇と星とオーロラの支配する冬
がやってくる。

「メモの分析結果が出たよ」別荘で椅子に深々と腰掛けたキール・ローレンツ
に、その男は言った。
「同じだ。特に新しい発見は無い」
「そうか、しかしそれはすごいことなのだぞ。あの少年の能力は素晴らしい」
「たしかに。が、いいのかね。南極の彼らがあの少年を通して自分たちの運命
に気がつくことがありえるのではないか?」
「それは、心配ない。『安全装置』は動作しないように出来てる」
「ほう」
 男の言葉にローレンツはいささかショックを受けたようだった。『使徒』を
止める最後の手段たる『安全装置』がいざというとき動かないと知ったら、カ
ツラギやカミンスキー達はどう思うだろうな、彼は思った。
「箱根の具合はどうなんだ?」
「順調のようだ。受け入れ体制はほとんど整ってる」
「その場で見てみたいもんだな。人類のささやかな科学技術と想像力で及びも
つかない光景だろう」
「その場にいるのは危険だよ、ローレンツ。どうやっても原子レベルでの反応
は避けられないはずだ。大量のガンマ線を浴びる可能性があるよ」
「それは、残念だな」

「増員の件はどうなってる?」カミンスキー教授は葛城教授に言った。
「だめだね。予算無し、人員無し、時間無しだ。冬になったら、一切の増員は
不可能だと考えるべきだ。一体、彼らはこの南極の価値をどの程度だと思って
いるんだろう?」
「好意的に解釈したら、この発見が外部に漏れたときのパニックを警戒してる
んだろう」
「なるほど。牧師と神父の大量失業を心配してるのかな」
「カツラギ!私はまだキリスト教の信仰を捨てたわけじゃないぞ」
「なるほど。しかし、この『オーパーツ』の山を前にして、立派な態度だ。し
かし、文献班の報告書を読んだかい?メソポタミアはもとより、ヒッタイト、
スキタイ、そして地中海と、各地の神話はこの南極の記憶が伝播して出来たの
は明白だよ。『旧約聖書』もしかり。ユダヤ氏族の年代記を除けば、ほうぼう
の神話伝説のモザイクだよ。『新約』だってそうだ。『死海文書』に関する本
を読んだだろう?イエスの思想はさしてオリジナリティのあるもんじゃない。
キリスト教は、単なるユダヤ教の一宗派の信条がローマ人の政治的な都合でね
じ曲げられて出来たものだ。『処女懐妊』にしたってヘブライ語の『若い女』
をギリシャ語に翻訳した時の誤訳『処女』から生まれた勘違いに過ぎないし、
『復活』は単なる墓荒らしだよ」
「『愛』にオリジナリティが必要だとは思わないがな」カミンスキーは気分を
害したように言った。葛城はそのふくれっ面を見て吹き出してしまった。
「ははは、すまない。いや、愛にオリジナリティーはいらない。愛は平凡でよ
い。たしかにキリスト教はタワゴトだが、こいつはけだし名言だ」
「もう、よそう。それより『死海文書』で思いだしたんだが」カミンスキーは
急に小声になった。
「こいつはこっちの文献班のルナールに聞いたんだが、未だに公表されていな
い『死海文書』に『使徒』に関する記述があるものがあるらしい」
「しかし、きみ、『記述』だけなら、世界の巨人伝説はすべてそうだし、『創
世記』の不思議な第6章だってそうだぜ」
「そんな曖昧なものじゃないらしい。それは一種の予言なんだが、なんとそれ
には紀元前1世紀から21世紀までの事が記されているんだ」
「ノストラダムスの『諸世紀』みたいなものか?」
「だから、あんなどっちにでも取れるようなものじゃないってば。そのあまり
の予言の正確さで、『ダイアグラム』と呼ばれるほどなんだ」
「ほう?」

「君は一面で正しく一面で間違っているよ、教授」南極から遥か離れた南フラ
ンスの別荘の書斎で、キール・ローレンツはそう言った。机の上には、二人の
大学教授たちの会話を盗聴したミニ・ディスクプレーヤーが置いてある。
 ローレンツは引っ越しをしているのだ。残念ながらこの別荘は新しい海岸よ
りむこうにあるのだ。彼は壁に掛けてあるモリジアニの絵の裏にある隠し金庫
から、『ダイアグラム』のコピーを取り出した。それにはA4の紙にして10
枚ほどの英訳が付けられている。彼はもう何度も読んだその奇怪な文章を眺め
た。
 その古文書は、たしかに1947年に発見された『死海文書』と呼ばれる文
書群の一つだが、カバラ神秘主義者によって千年前から、あまりに衝撃的な内
容を密かに語り継がれていた文書である。そしてその価値を知るフランス人神
父の手によって『死海文書』から抜き取られ、ゼーレの手に渡ったのだ。
ごく一部の神秘主義的ユダヤ教徒によって、その文書は様々な名でよばれてい
た。『ダイアグラム』と呼ばれるのは、その文書全体の後半の一部分にすぎな
い。またその部分は『ダニエルの黙示録』と呼ばれることもあった。それと対
照的に前半部は『前創世記』とも、『創世記第零章』(Genesis 0:)と呼ばれ
ている。つまり面白いことに、一つの文書の前半がこの世の始まりを述べた
『創世記』であり、後半がこの世を終わりを述べた『黙示録』なのだった。
 文書の本当の名は『偽典ダニエルの書』という。正典の『ダニエルの書』は
旧約聖書の中の『預言の書』のうちの一つである。それに対してこれが後世の
人が預言者ダニエルの名をかたった『偽典』であるのは明らかだった。なぜな
らば、それは、大変な異端思想の書だったからである。
 妻帯もしない禁欲的なエッセネ派とも想定される、『死海文書』を残したク
ムランの人々が、そのような異端の書を大事にとっていたのはなぜかという謎
は残るものの、少なくともC14測定によると2千年前の文書であることは確
かだった。
 文書の前半は、正典のダニエル書と同じように、容姿端麗で菜食主義者のダ
ニエルが紀元前6世紀に滅亡したユダ王国から、『空中庭園』で有名な繁栄の
直中にある『バビロン』に捕囚として連れて来られたところから始まる。しか
しその後が違うのだ。紀元前18世紀に栄えた王朝を復興した新バビロニア王
朝の、ネブカドネザル王は、戯れにユダヤの博学多識で評判の少年を招き、こ
う訊ねるのである。『お前が物知りならばこの始まりを知っておるか』
 これに答えて後に預言者ダニエルと呼ばれる少年は、彼らユダヤの唯一最高
の神、すなわちヤハウェがこの世界を創られたと述べる。ネブカドネザル王は
それを否定し、バビロンの守護神マルドゥクの出てくる創世神話を物語るのだ。

『 最初に甘い水のアプスが一人おり妻の苦い水のティアマトを生んだ。
  甘い水と苦い水は混じりあい彼らがいろんな神々を生んだのだ。
  その子たる毛むくじゃらで泥だらけの神々が反抗したので、
  アプスは彼らをみな滅ぼそうとする。
  母なるティアマトはわが子を殺すことに反対する。
  ところが、英知の神エアはその計画を知り、
  アプスが眠っている間に彼を殺す。
  それをしったティアマトは怒り狂い、戦争が始まるのだ。
  ティアマトは戦いのために様々な怪物を生み出す。
  牙のある大蛇、虫のようなもの、ドラゴン、女性の怪物、
  大いなる獅子、狂犬、人間サソリ、吠える嵐、
  クリリ、クサリク、などを。
  そしてそれらの指揮官としてキングウを生んだ。
  神々の戦いはティアマト側が優勢だった。
  エアはその子マルドゥクを戦いに参加させる。
  マルドゥクは、ティアマトと一騎打ちになるようにしむけ、
  大きく膨らんだ彼女の腹に槍を突き立てる。
  彼はティアマトの身体を引き裂き天と地を創る。
  そして仲間の神々の求めに応じて、
  捕らえて地下に幽閉しておいた敵の司令官、
  キングウの首を切り裂き、その血と土を混ぜて、
  我々人間を創られたのだ。
  彼らにかしづく者を創るために。
  その礼として神々はこのバビロンを創られたのだ。
  これが正しいこの世の始まりだ。
  それが証拠に、見くらべてみよ。
  バビロンのこの空前の繁栄と、そなたの祖国の惨状を。
  それこそどちらの創世の話が正しかったかを 』
 王はユダヤの若者に意地悪な罠をしかけたのだった。それに預言者ダニエル
は当時の預言者としては一風変わった答えをするのだ。
『偉大なる王よ。おっしゃるとおりかもしれません。しかし神が創造された世
界は一つではないかもしれないのです。バビロンの神々が創造した世界もあれ
ば、われわれユダヤの神が創造した世界もあるかもしれません。いずれにしろ、
死すべき人間の身には、自分はどの世界に生きているか確かに知るすべはあり
ません。ただ言える事は、偉大なる王よ、この世の終わりにはすべて明らかに
なるということです。なぜならば神は、この世の終わりにあたって、再び創造
を繰り返されるからです。その時は我々人間でも、自分がどのような世界に生
きていたかをはっきりと悟るでしょう』
 ネブカドネザル王は思わぬ反論にたじろぐ。そしてその答えに感心し、預言
者に褒美をとらせるのだ。この挿話は一種の不可知論であるゆえに当時として
は異端思想だった。 この一風変わった文書はさらに続く。
 ある晩ネブカドネザル王は不思議な夢を見る。夢の中で彼は毛むくじゃらの
猿ような人だった。これは実は正典にもあり、したがって『旧約聖書』にも書
かれている。ところが後が大いに違うのだ。彼は、額に赤い石をはめた不思議
な神のごとき人ととっくみあう。取っ組み合いながらも彼はその相手がメソポ
タミア最大の英雄、『ギルガメシュ』であることに気がつく。すると自分は彼
の後には友人となる猿人『エンキドゥ』なのだとさとる。
 次の瞬間彼はギルガメシュと二人で旅をしている。
 旅の途中で王すなわちエンキドゥは死に、ギルガメシュは悲しむ。そしてか
つて人間を滅ぼした洪水に、英知の神エア(マルドゥクの父)の導きにより方
舟を創って生き残り、世界でただ一人の不死となった人ウトナピシュティムを
訪ね、不死の霊草を在処を尋ねる。ところが蛇にその霊草を奪われてしまうの
だ。王はそこで目覚め、預言者ダニエルを呼び彼に夢解きをさせる。
『偉大なる王よ、その私にとって異教の話は、私の神が王に不死のへの道を指
し示されたように思われます。洪水は神との契約にも関わらず、再び起きるの
です。それに生き残った時に、人間に不死が与えられるでしょう』
さらに文書は続き、ついに『ダイアグラム』と呼ばれる部分になる。
ある夜、ダニエルは夢の中で天使長ミカエルに会う。
ミカエルはこう言う。
『ダニエルよ、時は流れ、バビロニアは滅びる。しかし新たな帝国が現れる。
ユダヤの民はエルサレムを再建するが、またこれも別の帝国によって破壊され
るだろう。そしてお前たちは世界に散らばることになる。
その間も帝国は生まれ滅びる。お前たちはその中で大変な苦難を強いられるだ
ろう。苦難の中でも最大のものは、湧きいでる渦の紋章をもつ『鉄の帝国』が
与えるものだ。彼らは星の数ほどのユダヤを殺すだろう。
しかし、嘆く事はない。その鉄の帝国が滅んだあと、ユダヤはヤコブのもう一
つの名のもとに、再び集結するだろう』ローレンツは思った。学者に訊くまで
もない。この事が『ナチスドイツ』と、『ヤコブ』のもう一つの名、『イスラ
エル』でなくてなんであろう?
『集結の後、神の用意した審判の時までの時が刻まれる。それから7つの大い
なる時の後、世界は終わる』
この『大いなる時』は、一つ十年(decade)を指すと考えられている。そして
ユダヤ教の聖数である7。『イスラエル』建国70年後、つまり『西暦201
6年』に『世界は終わる』のだ。
その直前に神は大洪水を起こす。このように。
『見よ。神は契約の弓(Genesis 9:13)を雲の間から地上に降ろされた。悪し
き交わりから生まれた人間の行いが神をそうさせたのだ。もう契約は存在しな
い。神は洪水を起こされるのだ。その時氷に閉ざされた南の大地は灼熱の地獄
となり、人間を滅ぼす怪物が頭をもたげる。怪物は口から硫黄を吐き海の水を
毒に変えてしまう。天の軸がずれ、人間の造った街は海中に没する。死者が甦
り、白髪の子供が産まれる』
 そして今回は方舟はもたらされない。
『生き残った人間は蛇を味方につけ、異教と悪徳の都バビロンを再び蘇らせる
だろう。そして女は天使と交わり、巨人(ネフイリム)を産む(Genesis 6:4)
だろう。人間はその巨人を味方につけ神との戦いを準備する。ミカエルはそう
言うと、ダニエルは驚いて、神と戦うのですか?と聞き返した。ミカエルが答
えて曰く、
 この世の人間は生まれるべくして生まれたのではない。ネブカドネザル王が
言うように、神の子と人間の女の間に生まれ、異教の神に成りすました神人が
思い上がりのすえに神をまねて造ったのだ。人間の悪はすべてそれに起因する。
神はそれをすべて見通し、かつ様子を見られていたのだ。
 そして神と争い、負けなかったとき、その生まれに関わらず神の祝福を受け
る事が出来る。長男に成りすまし、父を騙して彼の祝福を受けたヤコブ(Gene
sis 27:23)は、神からも祝福を受ける。神と格闘し、負けなかったことによ
り。
人間も同じように、汚れた本性を真っ白に清められたあと、
祝福と不死が与えられるであろう。
もし負けることがあれば、神は生き残りの人間をすべて滅ぼし、本来行うべき
だった創造を続けられるであろう。
そしてその戦いは終末の一年前より始まる。』
 
 ローレンツは紙を机に置き、溜息をついた。若き日の事を思い出していたの
だ。大富豪の息子に生まれた彼が、黙示文学とカバラ神秘主義にとりつかれ、
難解なセフィロトの研究の末に、偶然にこの文書の存在を耳にした時の事を。
『人間はアダムとリリスの子!』その時読んだあやしげな本はそうこの文書を
紹介していた。リリスとは、堕天使サタンの妻の事である。その女悪魔が、バ
ビロンの母神『ティアマト』のユダヤ教版であるのは間違いなかった。いわゆ
る『死の商人』の息子に生まれ、父に反発していた青年期の彼にとってそれは
奇妙に心やすまる発見だった。 ローレンツは、そのあと父の後を継いでゼー
レの一員となった。
『ダイアグラム』には、世界の終わりだけでなく、ほぼ10年区切りで194
6年から2016年までの予言が書かれている。そのほとんどが戦争の予言と
言ってよかった。だから、その予言はローレンツの一族を大いに潤すことにな
った。
 神、神人(半神半人)、巨人、人間という、「金、銀、青銅、鉄」の帝国の
予言を思わせる潮流は、再創造を境に人間、巨人、神人と逆転するだろう。ロー
レンツのまだ見ぬ孫は、おそらくもう一つの眼を『補完』された、半ば神のよ
うな人であるべきだった。やがて、ローレンツ一族の末裔は神に到達するだろ
う。ちょうどセフィロトのパスをたどって、神へと辿りつくように。ローレン
ツは思った。

『地に置かれた契約の弓』すなわち、『日本列島』の某所で、碇ゲンドウは待
ち受けていた。傍らにはユイがいて、コーヒーを飲んでいた。
「それで『第3新東京』になるってほんとなの?」彼女は訊いた。
「うん」
「史上最後の『バビロン』にしてはさえない名前ね」彼女は言った。
「確かにそうだね。しかし事実としては正確な名だよ」ゲンドウはそう言うと、
研究所の窓から新緑につつまれた山を眺めた。『バビロン』!あの年寄りども
は旧約聖書という既存の宗教の枠の中でしかものを考えることができないのだ。
ゲンドウはコーヒーカップを口に運ぶ。最後の最後に彼らは、この宇宙の奇怪
さを悟るだろう。その時、彼の脳裏にふいに葛城教授の顔が浮かんだ。彼とカ
ミンスキーが生きて南極から帰ることができたら、おれが既に到達した理論に、
別の方法で辿りつけるだろうか?

 ミサトとセルゲイは、冷たいむき出しのフレームの簡易ベッドの上で、分厚
いセーターを着たまま抱き合っていた。セルゲイは母を求める幼児のように彼
女の唇を求めている。ミサトは自分に覆い被さる少年の固い肩に手を回しなが
ら、さっきから父の顔が浮かんでくるのはなぜだろう?と考えていた。

 冬の始まりの南極で、終わりと始まりの時が刻まれていた。

【セルゲイ】
「真っ暗な夜だ…。もう何度目だろう?空には何も見えないんだ」
「誰か側にいるのかい?」
「うん、父さん。あの魚のような人が僕の側にいる。とても悲しんでいるみた
いだ」
「なぜだ?」
「多くの人が死ぬっていってる」
「君は『オアンネス』かって訊いてみてみてくれないか?」
「カツラギ、なんだ、そりゃ?」
「いいから、いいから」
「そうだ、っていいました」
「じゃ、君は『蛇』かって訊いてみてくれ」
「そうともいう、と答えました」
「だから、なんだね?カツラギ」
「うん、あ。すまない。彼だか彼女だかしらないが、その存在はたぶん我々の
味方だ」
「だからなんなんだ?」

 セルゲイはコンタクト実験以外の時を部屋に閉じこもり、天井を見て過ごす
ようになった。ミサトが怒鳴るように話しかけても、鈍い死んだような眼で彼
女を見るだけだった。
 坑道と『大聖堂』を取り囲むようにして建っている秘密基地は越冬の準備で
あわただしかった。結局今シーズンの増員は見送られた。そして春までは彼ら
は冷たい暗闇の中に閉じこめられるのだ。時たまとりわけ美しいオーロラが観
測されるようになっていた。アメリカ・ロシアの古参の南極観測員にも経験の
ないような、大きく美しいオーロラが。
 しかし基地の外に出るのは命がけだった。風速70メートルに達する強風が
吹き荒れているのだ。そのような状況では体感温度は実に摂氏マイナス100
度近くにもなる。一番簡単な自殺方法は、裸で基地の外に走り出ることだった。
 人員は不足していたが、物資は豊富にあった。その中ですることが無くなっ
た子供達は、アメリカとロシアの基地からここに集められていた。17人の少
年と少女は狭い大部屋に押し込められて、毎日あくびをかみ殺しながらトラン
プをやっていた。
 セルゲイだけは一人背を向けて壁を見ていた。

 葛城教授とカミンスキー教授は、研究を続け数メガバイトに及ぶ報告書をま
とめつつあった。どのみち、すべては越冬してからの事である。彼らがもっと
も恐れていたのは、彼らの研究が世間に公表されないことであった。彼らは、
氷点下摂氏50度の『大聖堂』でそのことについて話し合った。計測機器は、
暖めないと動作しなくなりつつあった。『コンタクト』は出来てもあと1回だ
ろう。
「息子を誘導して闇の夜の次の光景を見てもらおうと思うんだ」カミンスキー
は言った。
「しかし、あの子はもう限界だよ。カミンスキー。いわば彼は自分自身でロボ
トミー(前頭葉切除手術)を行いつつあるんだ。もうそっとしておいてロシア
に連れて帰って手術するべきだ。君は息子の人生を台無しするぞ」
 カミンスキー教授は、黙った。じっとシートで覆った床を凝視している。
「息子の意志なんだ。息子はこう言った。どんなことがあろうと、実験をやめ
るな、と。中断したら一生私を許さないと。何が彼を駆り立てているのかはわ
からない。しかし私もこの先に何が待っているのか知りたいんだ」
「だが、危険すぎる。私は反対だな」
「息子は、こうも言った。この先には時間は存在しないと。僕は永遠の命の入
り口に立っているんだ、と。それは息子の思いこみに過ぎないかもしれない。
しかし『使徒』やあの謎めいた存在から得た予言かもしれない」
「いや、やっぱり止めた方がいい。少なくとも春になるまで待たないか?増員
願いをもう一度出そう、機器ももっといいものを入れよう」
「そして後から来た連中に我々の成果をかっさわれるのか?例えば君と同じ日
本人のロクブンギとかに?え?この地獄のような凍り付いた大地にへばりつい
て実験を続けた我々の研究資料をそっくり後から来た連中に、どうぞと渡せる
のか?」
「…君の気持ちは分かるよ。だがやはり私は待った方がいいと思う。この研究
を子供と引き替えには」そこまで言って、葛城の脳裏に、自分の結婚生活の光
景とと一人娘の顔が浮かんだ。そうだ。まさにおれは家族を生け贄に捧げたん
だ。その考えはしつこくからみつく蛇のような寒気となって彼の背中に忍び寄
ってきた。
「とにかく待て」葛城はそう言うのが精一杯だった。

 葛城が眠ったあと、カミンスキーは宿舎から息子を連れだした。少年は父に
手を引かれるままついてきた。神にわが子を生け贄に捧げよと命じられたアブ
ラハムのようだった(Genesis 22:2)。『大聖堂』の上に実験ポッドの挿入用
の坑道があり、粗末な小屋が建っている。二人はその中に入った。
 小屋の中の暖房をいれ、父は息子の着替えを手伝ってやった。セルゲイは額
に電極を付け、シリンダー状の実験ポッドの中に滑り込んだ。それはまるで聖
なる儀式のようだった。
 ポッドのハッチを閉めるときに父は息子の顔を覗き込んだ。うつろな目の中
に情熱のゆらめきがあった。父は息子に頷いてみせた。
「閉めるよ」父は優しく言うとハッチを閉めた。それが別れだった。
 カミンスキーは『大聖堂』に戻るとコンタクトシステムのスイッチを入れた。
ヒーターが結露した回路を暖めるのを待つ間、彼は息子のセルゲイが、難産の
末に産まれた日の大騒ぎを思い出していた。
「システム・スタンバイ」電子合成された声が冷たく言った。一瞬ためらった
後、カミンスキー教授はコンタクト開始スイッチを押した。
 そして、それは、のちに言う『セカンドインパクト』の引き金でもあった。
 セルゲイの身体は狭いポッド専用の坑道をゆるゆると下降していった。彼の
通る坑道の脇には細長い『安全装置』が突き刺さるようにあったが、ポッドの
中の彼に見えるはずもない。
 接触領域を越えて、セルゲイの頭の中には、懐かしい、母のような使徒の思
念が流れ込んでくる。

【セルゲイ】
「聞こえるか?セルゲイ」
「うん」
「言ったように実験はこれが最後だ。頼むぞ」
「うん」
「月の無い夜の続きが見えるか?」
「やってみる」
「あれは邪魔しにこないか?」
「ちょっと待って…。『使徒』達が見える。一つはこいつだ。もう一つのやつ
が、山を削ってる。人間達が…。逃げてるみたいだ」
「人間達は三つ眼人か?」
「うん、ほとんど彼らだ…。なんだろう?何が始まるんだろう?不安なんだ。僕は死ぬ
のは初めてなんだ」
「どういう意味だ」
「僕は……」
「セルゲイ?」

その時、少年の声の調子が変わった。落ちついた低い声が言った。
「…わたしは、わかった。死の意味が。そしてあの意味が」
「セルゲイ?どうした」
「わたしは、見た。今起きつつあることを。今目の前で起きつつあることを」
「何が起きてるんだ?」
「『月』が来たのだ。我々の文明を滅ぼしに」
その時カミンスキー教授は突然遥か昔に沈んだ大陸で、もっとも栄えた都に立
っていた。地球最初の『バビロン』、という言葉が浮かんだ。おれは息子とビ
ジョンを共有してるんだ。彼は思った。不安が喉の奥から突き上げてくる。見
たこともないような金属の塔が光を放って、夜空を照らしていた。
 その時突然、空を切り裂いて『月』が現れた!それは途方もなく大きく、空
の半分を占めるかのようだった。
 彼は突然体重が軽くなったような気がした。体感できるほどの重力の相殺を
起こしてるんだ。恐怖とともに彼は思った。『月』は、おそろしく地球に近い
軌道に開いたワーム・ホールを通ってどこかからかやって来たのだ。
 彼の周りのすべすべした建物は崩壊し始めた。大地は小刻みに揺れていた。
カミンスキー教授は美しい舗装がなされた歩道を、這うようにして歩き始めた。
これは幻影だ。これは幻影だ。これは幻影だ。彼はこころの中で繰り返した。

「これは現実だ」気がつくと目の前に、不思議な男が立っていた。額にはおで
き大の赤い宝石のようなものがついている。長身で目が大きく、縮れた黒い髪
とたくましい顎が特徴だった。わたしは、生きた『ホモ・トリスメギストス』
の前に立っているのだ、カミンスキー教授は思った。
「これは現実なのだ。あなたは、息子を通して我々の『意識集合体』に、ほん
の少し触れているのだ。この天変地異は、その意識にとって現実に起きている
のだ」
「カツラギの言った通りなのか?君たちはその第三の眼で、時間を見ているの
か?」
「そうではない。我々の意識は広大な時間と空間の間に引き延ばされているの
だ。我々には時間は存在しない。そのように作られたのだ」その男はそう言っ
た。
「誰に作られたのだ?」カミンスキー教授はその問いの答えを知っていた。け
れど聞かずにはおれなかった。
「この宇宙を創られたお方にだ。そのお方にとって時間は存在しない。我々は
そのお方に似せて作られたがゆえに我々にとっても時間は存在しない」
「そのお方の名は?」
その時背後に轟音が響いた。カミンスキーは振り返った。天に届くかのような
金属で出来た高い塔よりさらに高い暗い水の壁がうねりながら近づいて来るの
だった。近すぎる『月』が、その巨大な潮汐力で起こしたのだ。
「なぜだ?君たちは戦争をしているのか?だれがなぜ『月』を?」カミンスキー
は叫んだ。
「夜と昼、太陽と月、生と死を分かつために『蛇』が使わしたのだ」
「『蛇』が?なぜだ?」カツラギは味方だといったじゃないか?
 その時二人は津波に呑まれた。カミンスキーは冷たく苦い海水が肺に流れ込
むのを感じて、思わず悲鳴を上げた。それは長い恐怖の叫びだった。
「カミンスキー!カミンスキー!きみはいったい何をやったんだ!?」
 気がつくと目の前に僚友の葛城教授の顔があった。葛城はカミンスキーの肩
に手をかけて大声で叫んでいた。
「きみはいったい何をやったんだ!!『使徒』が起きあがろうとしてるぞ!」
 その意味に気がつくのに一瞬、間があった。
「え?なんだって?」
「見ろ!目の前を見ろ!」
 カミンスキーは目の前を見た。『大聖堂』の氷壁が振動していた。巨大な
『使徒』のシルエットの頭部にあたる部分の氷が溶けているのか、怪物はもが
くように頭を動かしていた。
「『使徒』の胸部の温度が上昇しています!」研究員が叫んでいる。葛城は走
っていってモニターを覗き込んだ。確かに人型の怪物の胸部にある『核』と呼
ばれる部分が白熱している。800、900、1000…。温度は急上昇して
いる。
「奴は体内に発電器でも持ってるのか!?」葛城は叫んだ。まったくすごい生
命体だ、彼は思った。一万年以上休止していたのにいきなりこれとは。
「セルゲイが…。セルゲイが実験用『坑道』にいるんだ…」
「な、何をやってるんだ!だったら早くポッドを射出しないか!」
 カミンスキーは足をもつれさせながら計器に走り寄り、緊急射出スイッチを
押した。
「氷壁が崩れます!」誰かが叫んでいる。
「…聞いてくれ。『使徒』はおそらく不死身だ。あれを人類の軍隊が止める事
が出来るとは思えない。残念だが『安全装置』を使うことにしよう」葛城は
『大聖堂』にいる研究員全員に聞こえるように叫んだ。
「カミンスキー、異存はないな?」葛城は言った。
「あ、ああ、やむを得まい」
「キーは持ってるな?」
「ああ」
「全員退避してくれ!」葛城は怒鳴った。そしてメインコンソールの赤く囲ま
れたガラスを叩き割り、ポケットからキーを取り出した。カミンスキー教授も
同じようにキーを取り出した。どん。その時大きな音がして、机ほどもある大
きな氷の塊が床に落ちた。あと十数分で『使徒』は上半身を起こせるだろう。
二人は同時にキーを差し込んだ。「いくぞ、いち、に、さん!」二人はキーを
ひねる。
「『披験体致死モード』が作動しました。5分以内に退避してください」電子
音が言う。
『安全装置』とは名ばかりで、とても原始的なしかけだった。まず二体の『使
徒』が発見されたとき、一体がひどく損傷していた。そしてそのすぐ側に先が
二股になった、未知の金属で出来た奇妙な槍のようなものが埋まっていたので
ある。まるで殺人事件の犯行現場を調べる刑事のように、葛城たちは推理した。
その結果、その槍は『使徒』を損傷させうる武器であるという結論に達したの
である。槍は発掘され、おそらくは『使徒』の動力炉というべき胸部の『核』
に突き刺さるような位置に置かれたのだ。
「出よう、もはや心配しても仕方がない、セルゲイを助けに行くんだ」葛城は
言った。 もし油圧によって滑り出る槍が『使徒』をしとめる事が出来なかっ
た場合、彼らには逃げ道が無かった。なにせ外は厳冬期の、それも南緯80度
以上の南極なのだ。
 二人は『坑道』を通って外に出た。強風が彼らを襲った。二人は実験ポッド
が射出されて戻っているはずの小屋に向かって風の中歩き始めた。
「父さん!」
 葛城は振り向いた。ミサトが彼に不安げな視線を向けていた。
「ばか!基地から出ちゃいけない!大変な事が起きてるんだ!」
「でも、でも、とても変な夢を見て、月が、月が。そしたら地震があって…」
 その時、槍は『使徒』に達していた。それは『使徒』の肉体をやすやすと貫
き『核』に迫った。『使徒』は生きたままピンに刺される昆虫のようにもがい
た。しかし、あと少し、というところで槍はなぜか静止してしまった。『使徒』
は防衛本能を働かせ、自分を貫く槍と何万トンという土と岩と氷をはねのけよ
うとした。
 その時地上では、カミンスキー教授が、目と鼻から血を流しているセルゲイ
をポッドから引きずり出していた。
「セルゲイ!セルゲイ!」父はわが子に向かって叫んだ。
「父さん、お別れだ」少年は父の腕の中で言った。
 そのころセルゲイを助けに行こうとするミサトを葛城は押し止めていた。
「だめだ!危険だ!行っちゃいけない」
「何を言ってるのよ、あの化け物のこんなに近くにいるのに安全なところなん
か無いじゃない!」ミサトは言い返した。
 その時『大聖堂』が、その天蓋の上にある小屋とともに爆発した。ミサトと
葛城教授は吹き飛ばされた。一瞬気を失っていたろうか、葛城は激痛にうめき
ながら体を起こした。驚くほど大量の血が雪の上に滴りおちた。彼は娘を捜し
てあたりを見渡した。そして目を見開いた。吹き飛んだ『大聖堂』の天蓋の岩
と氷が、数百人の人間が眠っていた基地を押しつぶしていたのだ。
 視線を落とすと娘が倒れていた。彼は立ち上がり、娘に向かって歩いていっ
た。彼女の胸には小屋の建材なのか、鉄板の小さなかけらが突き刺さっていた。
葛城はそれを引き抜いた。彼女は息をしていた。が、気を失って出血していた。
それは厳冬期の南極では、確実な死を意味している。
 娘を少しでも生きながらえさせること。それだけが自分もまた重傷を負った
葛城をつき動かしていた。方法は一つしかなかった。背後で聞いたことも無い
ような大きな叫び声のようなものが聞こえた。振り返った。『使徒』が光に包
まれて立ち上がっている。それは途方もなく大きな生き物だった。『使徒』は
腰にあたる部分をかがめて何かを探していた。
 葛城は足を早めた。自分から体温が、そして命が急速に去って行くのが感じ
られた。彼はそれでも歩き続けた。
 崩壊した基地から、何人かのうめき声が聞こえていた。しかし彼にはどうす
る事も出来なかった。
 おれは幸運かもしれない、男は思った。それが無傷で残っていたからだ。彼
は実験ポッドのハッチを開けて娘を中に入れた。内蔵電池による暖房と酸素発
生器が、もしかしたら10時間、娘を生かすかもしれなかった。そうだ。なに
もしないよりはましだった。
「父さん…」ミサトはその時目を開けた。
 男は娘に黙って頷くと、ハッチを閉めた。
 彼は『使徒』を見た。やつは目的のものを見つけたらしかった。それは分断
されたもう一体の『使徒』だった。そいつはそれを掘り起こし抱き上げるよう
に持ち上げた。下半身の欠落したもう一体の『使徒』の腕がだらりとたれさが
った。そうだ。『ティアマト』は眠りから覚めたとき、夫の『アプス』が殺さ
れているのを見て、怒り狂うのだ。
「しかし、そいつを殺ったのは人類じゃないぞ」葛城はそう言った。ふと見る
と、ポッドの側に実験撮影用の予備の電子カメラが落ちていた。葛城はほとん
ど感触の無くなった手でそれを拾い上げ、『使徒』の写真を撮った。
「美人にとってやるから、怒るな」葛城は彼の人生最後の冗談を言った。それ
を聞くものは誰もいなかったが。
 そこで力つきた。彼は建物の破片が散らばる床にへたりこんでしまった。座
ったが最後、もう二度と立ち上がることは出来ないだろうと思った。
 彼の意識は薄れだした。不意に、10年前の、家族だけのクリスマス・パー
ティの事を思いだした。そのころは、妻とはまだうまくやっていた。3人でケー
キを囲んでいた。ミサトは誕生日のお祝いと勘違いしていて、どうしてもロー
ソクを4本立てるのだと言って聞かなかった。
「あたしおおきくなったらパパのおよめさんになるのよ」彼女はそう言った。
でも、そしたら、ママはどうするんだい?と聞き返すと、ひどく困った顔にな
るのだった。可愛かった。
 あのころにかえりたい、混濁した意識の中で男は思っていた。死んだらやり
直す事ができるのかな?その時、ふいに男の体が軽くなった。おれは天国に昇
ってるんだ。男は思った。薄目を開けた。
 醜い『使徒』の顔が目の前にあった。彼は怪物の巨大な手に握られているの
だった。しかし凍死寸前の男は、恐怖も痛みも感じなかった。ただ、あのころ
にかえりたい、人生をやりなおしたい、という言葉だけが心の中を木霊のよう
に駆けめぐっているのだった。
 その時、『使徒』と葛城は『シンクロ』していたと言っていい。『使徒』は、
猿から作られたちっぽけな生き物の思考を取り込み、呑みこんだ。かえりたい。
やりなおしたい。『使徒』はとても混乱した。人間の感情に当てはめると、途
方に暮れていたといっていい。『使徒』はとりあえず自分に与えれた命令を実
行するのが一番よいと考えた。
 『使徒』は、その生き物を握り潰すと、心に刷り込まれたプログラムに従っ
て、天に向かってエネルギーを解放し始めた。エネルギーは、時間と空間が存
在しない領域から、『核』を通っていくらでも送られて来た。
 この惑星をマスターの言うとおり改造しなければならない。その作られた完
全無欠の生き物は思った。最後に接触した意識がその仕事に影響を与えていた。
こうして、陰鬱な時間線が分岐した。

「始まりました。今、ペンタゴンから連絡があったとこです」電話の中の声は
そう言った。ローレンツは目をこすりながら、始まったな、と思った。彼は起
きてガウンを羽織った。電話を切り、日本のゲンドウに電話した。
「はい」
「私だ。人工衛星が南極での閃光を記録した」
「始まったのですね」ゲンドウは何の感情もない声で言った。
「君はこれから忙しくなるな」ローレンツは言った。
「そうですね。素材を手に入れてから、15年しかない。それまでに『エヴァ
ンゲリオン』を建造しなければならないのですからね。失敗は許されない。そ
うでしょう?」
「やはり『エヴァンゲリオン』にしたのかね」
「ええ、我々人類にとって『福音』になるはずです」
「そう願いたいね」ローレンツは答えた。

 箱根で地震が起きた。その震源地は、地中に埋まった、太古の城塞都市の下
部であった。電話を切ってから、じっと待っていたゲンドウは、計器が重力異
常を検出するのを見た。すごい、彼は思った。まったくなんというテクノロジー
だろうか?1万年以上経ってもなお動作するとは!この驚くべき遺産をすべて
理解する日がくるのだろうか?ゲンドウは思った。
 超太古の謎の装置が作動し、球体のジオフロントの下部の地層を虚数空間に
転送し、替わりにいまや熱い海水に沈んだ南極のピラミッドを招きいれた。そ
れは後に「セントラルドグマ」と呼ばれるものの一部分だった。軌道上の目か
ら身を隠す、太古の惑星生命管制システムだった。
 瞬間、光速に近い速度で運動するいくつかの原子核同志が重なり合った。そ
れらは放射線をまき散らした。何万トンという転送された海水がジオフロント
の中で、コップの中の嵐のように激しく波打った。
『神は契約の弓を地上に置くのだ』ゲンドウは薄暗い部屋でローレンツが『偽
典ダニエルの書』を引用するのを思い出していた。この知らせは宇宙を駆けめ
ぐっているのだろうか?

 ミサトが助かったのは奇跡といっていい。彼女は、氷河が爆発的に溶け、な
ま暖かい濁流となった水流にのって、かつてロンネ氷棚だった大河に乗り、南
極半島に向かって滑り落ちていたのだった。あと数十分遅かったら、熱にやら
れていただろう。そして後にオーストラリア海軍の艦艇に救助されることにな
のるのだが、それは数時間後の話だった。
 ミサトはハッチをこじ開けた。肌着にこびり付いた乾いた血が傷口にこすれ
てとても痛かった。彼女はポッドから顔を出した。熱風が吹き荒れていた。雲
がおかしな具合に大陸の上を渦巻いていた。海はみるみる赤く染まっていた。
この世の終わりのようだった。
 ほとんど熱湯に近い海に、おびただしい白いものが浮いている。彼女は目を
凝らした。そして思わす、わっ、と声を上げた。何千、いや何万というペンギ
ンの死体が波に漂っているのだった。その中には幼鳥や雛もいた。みな死んで
いた。ミサトは思わず口を覆った。そして、南極半島の付け根の内陸に皇帝ペ
ンギンの大コロニーがあったのを思いだした。熱湯の濁流は彼らの安住の地を
直撃したのだった。
 ミサトは遠目で、かつて自分が半年間生活した南極大陸を見た。不吉な赤い
炎が天に向かって吹き上がっていた。いや、それは炎でなく羽のように見えた。
ミサトは、不幸な結婚生活の終わったあとに洗礼を受けた母に薦められて読ん
だ、ミルトンの『失楽園』を思いだした。剣を持ったケルビム(守護天使)に
追い立てられて、寂しい道をとぼとぼと歩き始めるアダムとイブの姿に、思わ
ず涙がこぼれたことを思いだした。
「セルゲイ…、パット…」彼女は友の名を呼んだ。
「とうさん…」彼女は胸の中で次第に大きくなってゆく父を呼んだ。彼女は南
極での生活が自分にとって何だったかを、それを失ってから初めて知った。
 涙が溢れてきた。ミサトは両手で顔を覆った。嗚咽が止まらない。あたしの
そばにはだれもいてくれない。あたしは一人で楽園を去らなければならない。
今はもう溶けてしまった南極の氷壁のように、冷たい絶対的な孤独だった。彼
女はその嘆きの壁の前で泣き崩れているのだった。
 しばらくたって、涙を拭きながら、彼女はもう遠ざかる守護天使の炎の剣を
ながめながら、空虚な心をあるものが占めていくのを感じていた。そうだ。氷
点下50度を下回る氷に閉ざされた土地での過酷な生活も、父のためならば耐
えるつもりだった。父の仕事に役に立っているという充実感に包まれて、いい
気分になっていたのだ。その仕事が、父と母とミサトを引き裂いたにもかかわ
らず。
 もはやあの楽園に帰るすべはないのだった。彼女はすべてを失い、愛だけが
残った。
 その、行き場を失った愛は、報われることのない愛は、これからどこへ行く
のだろう?ミサトは不安とともに考えた。

・・・その想いのゆくえに畏れを抱いた少女は、自分の心を閉ざすことにした。







お  わ  り

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