星の海、漕ぎわたるとき







              プロローグ
 
 夜が明ける前に目が覚めた。男は『共同体』の洞窟を修業仲間を起こさぬよ
うに、そっと出た。死海から吹いてくる風が男の頬をなでる。毎日通る道を月
明かりを頼りに歩いてゆき、クムランでもっとも高い場所に立つ。
 男は夜空を見上げる。星の光が彼の目につきささらんばかりである。
 ヤハウェよ。私はあなたの行われた奇跡の中で星をもっとも畏怖しています。
 男は祈りを捧げた。と、その時背後に人の気配がした。男はぎくりとして振
りむいた。月明かりの下で見慣れぬ男が立っている。粗末な身なりの痩せこけ
た男だったが、変わっているのは額だった。中央におできのような赤い突起が
あり、月の光の下でぼんやりと輝いているのだ。
 ローマ人ではもちろんない。ローマ人が夜明け前にこんなところを一人であ
るいているはずがない。見るところユダヤ人にも見える。しかし額に宝石を埋
め込む氏族などユダヤにはいない。するとアラビアあたりからきた旅人か?
「おまえに良いことを教えてやろう」不思議な旅人は低い声で話しかけて来た。
害意はないようである。
「旅の人、あなたはいったいなにを教えてくれるというのですか」
「この世の始まりにして終わりのこと、終わりにして始まりのことだ」
「いったいなんのことです」男は遥か後に『外典創世記』と呼ばれる共同体の
書物の事を思い浮かべながら訊ねた。ああ、この人は自称「予言者」と呼ばれ
る山師の一人なのか?
「心配するな私は山師ではない。お前をかついでも益のないことだ。信じるも
信じないもお前次第。しばらく話を聞いてくれるだけでよい」
 旅人は岩場の上に腰掛けた。男は向かいに座りながら、考えを思わず口にだ
してしまったのか、と己の迂闊さを恥じている。
 日が昇り、『共同体』の人々が朝餉の支度をする物音がしだす頃、旅人は去っ
ていった。男は洞窟に戻り、ま新しい羊皮紙に旅人の話を書き留めた。
 不思議なことに旅人から聞いた言葉より多くの言葉が、心の奥底からわいて
くるような気がして、男は書き続けた。夕方までかかった。
 その文書は奇怪な予言書だった。その羊皮紙は西暦1947年まで朽ち果て
る事がなかった。そのあいだにユダヤの国はローマに滅ぼされ、ユダヤ人は離
散し、再び集結した。
 数々の帝国が崩壊し、そして誕生した。予言書は新しい帝国の手に渡った。
 予言に記された時が流れ始めた。

 時は流れ、2016年、セントラルドグマで再び静止した。
 
                 

                 1
 
 2028年。月周回軌道上。碇シンジはエントリープラグを思い出さずには
おかない着陸船の中で軽く目を閉じている。スペースプレーンのハッチが閉ま
る間際までアスカは心配そうに僕を見つめていた。シンジは思い出す。そして
月までの長い旅の間、アスカの顔を思い浮かべるたびに良心の呵責にも似た感
情が湧いてくるのはなぜだろうと考えている。              
 カウントダウンが始まっていた。24、23、22。ゼロになるとき僕は虚
空に飛び出すのだ。碇シンジは思った。軌道船と着離船との間はとっくに遮断
されている。後戻りは出来ない。眼下には「豊饒の海」が広がっているのだ。
そしてそこに僕を待ち受けるものがいる。もちろん肉眼では見えなかった。
 シンジは目を閉じた。いずれにしろコンピュータの選んだ着陸候補地点の確
認をするまで、全自動なのだ。僕がいてもいなくても関係ない。エヴァと大違
いだった。いや、あれにもダミープラグがあったな。そうだ。思い出したくな
い。僕は自動はいやだ。中にトウジがいるプラグを握り潰すなんて、思い出し
たくない。

 3、2、1。「ゼロ。切り放す」船長の声が聞こえた。
 碇シンジをのせた着陸船は、月面に向かってそっと滑り出る。いろいろなク
レーターが行き過ぎる。まるで船に乗っているみたいだ。ガラスの底に映る珊
瑚礁をのぞき込んでいる観光客のよう。
「・・・シンジ、気分はどう?」
 アスカの声が驚くほど鮮明に聞こえる。まるで近くにいるみたいだ。しかし
彼女は遠く離れたアメリカの宇宙センターにいるのだ。会話との間の長いタイ
ムラグが途方もない距離を感じさせる。
「うん?ああ、まるで遊覧船に乗ってる気分だよ」
「・・・そう、あたしも行けばよかったわ」
「ほんとだ。君と来たかったな・・・・。こんな詩知ってるかい?」

「      影見れば波の底なる久方の

           空漕ぎわたるわれぞわびしき       」

「・・・知らないわ。なんだかさびしい詩ね。5、7、5、7、7、短歌って
いうんでしょ。誰の歌?」
「紀貫之だ。いまから1000年も前の歌だよ。古典は苦手だけど、この歌は
今の気分にぴったりだと思うんだ」そして、僕はこの和歌を口ずさむ度に、レ
イの事を思い出すんだ。アスカ。どうしようもないんだ。
「へえー。教養あるとこみせるのね。みなおしたわ」
「ありがとう」

 シンジは文字どおり、コンピュータの警告で「起こされた」。気が付くと、
HUDが着陸フェーズに入った事を知らせる。着陸候補地を青い四角が点滅して
知らせている。センターに相談するまでもない。絶好の位置だ。
「こちら碇、第1候補地に着陸する」
「了解。しりもちをつかんようにな」軌道船から明るい声が返ってくる。
 減速と下降、わずかな衝撃。そして静止。シンジは月に降り立ったのだ。
「おめでとうシンジ。日本人では初めての月着陸だな。秘密任務でなければ君
は日本の英雄なのにな」アメリカ人の船長が気遣う。
「ありがとう、カーク。いいんだよ。僕は名誉のために来たんじゃない」
 レイのために、来たんだ。シンジは思った。

 目的の場所までは、歩いて行くことにした。「あれ」が月面車をいやがるか
もしれないからだ。シンジは、スキップするように歩き出す。
「はしゃいで怪我しないでよ」アスカの声が宇宙服のヘルメットの中に響いた。
もちろんだとも。重力は6分の1だけど質量は変わらない。自分自身の質量で
骨折はしたくなかった。

 ぎらぎらする「地球の出」が始まった。その青と白のまだらの球体を背に、
そのシルエットが見えた。奇妙なモニュメントのような。かつてゼーレが『ロ
ンギヌスの槍』と呼んだものが、月面に突き刺さっているのだ。そしてその槍
の根本あたりに「それ」は強力な電波を発し続けている。セカンドインパクト
の後も続いていた「サイクロプス計画」の担当者は腰を抜かしたに違いない。
その電波はFM波で、感度のいいラジオでも受信できるようなシロモノだった。
そしてそれは明瞭な日本語で、こう語りかけていたのである。
「碇くん・・・碇くん・・・ここまで来て。・・・私はレイ。綾波レイ」

 12年かかった。ゲンドウとともに3人目のレイが、溶解したジオフロント
の光と熱の中で行方不明になってから、12年の歳月が流れていた。
 シンジとアスカは生き残った。二人には愛が芽生えた。3年前、シンジは国
連から、月からの電波の事を知らされた。シンジにしてみれば断る事が出来た
だろうか?アスカの「いきなさい」の一言にシンジは感謝し、それに従った。
 アスカは葛藤の気配すらシンジに見せなかった。彼女もまたレイの事を知り
たいのだと、シンジは思うことにした。

 間近でみると『槍』がいかに巨大なものであるか思い知らされた。輝く地球
を背に、それは黒い影となってシンジにのしかかるようだった。シンジは音も
ない月面で、こわがっている自分に気が付いた。孤独感が胸に迫ってきた。
 自分の息づかいが早くなっているのに気が付いた。奇妙な確信が、胸の奥底
から頭をもたげてきていた。そうだ。彼女はここにいる。

「碇だ。目的地に着いた。やはり槍がアンテナなんだろう。他に人工の建造物
は見えない」
 タイムラグ。
「了解。ゆっくりと槍の周囲を回ってくれ」
 シンジは了解すると、槍の周りを歩き始めた。乾ききった埃がブーツの下か
ら舞い上がった。それがなんとなく面白く、足下ばかり見ていた。

 ふと、目を上げた。
「・・・・あ!」
「どうした?シンジ、応答しろ・・・シンジ?」
「あ、綾波」シンジは叫んでいた。
 それは幻影に違いない。綾波レイが、それも14歳の、第1中学の制服を着
た綾波レイが宇宙服も着ずに、歩いてくるのだ。彼に向かって。
「なんでもない、宇宙酔いかもしれんな」シンジはつとめて冷静に言った。そ
んな馬鹿な事があるはずがない。
「いや・・・シンジ。それは違う。・・・落ちついて聞いてくれ。それは、こっ
ちでも見えてるんだ。幻覚じゃないんだよ。幻覚はモニタにはうつらんだろ」
 震えるようなカークの声がシンジのヘルメットの中に響く。
「な、なんだって!!」
「あわてるな。君に敵意は持っていない。そんなことは君だって承知だろ」
「ああ」

 レイは近づいて来た。昔のままだった。白い肌。空色の髪。深い赤い瞳。彼
をじっと見つめている。唇はそっと閉じたままだった。レイだった。紛れもな
く綾波レイだった。
「来てくれたのね。碇くん」その声はヘルメットの中に響いた。あり得ないこ
とだった。しかし女子中学生が学校の制服姿で、月面を平然と歩いているのに
比べればなにほどのこともない。
シンジは3年間思い続けていたことを実行にうつす時が来たと思った。すまな
い、すこしだけオフレコにしてくれ、と言うが早いか、通信機のスイッチを切っ
たのだ。
 これで、誰も僕たちの会話を聞いてはいない。そうだ地球のアスカさえ。
 ・・・すまないアスカ。シンジは思った。

「・・・綾波、会いたかった・・・」シンジはレイの手を取ってそう言った。
 彼女には僕の声が聞こえるに違いないと思いながら。
「・・・ありがとう。碇くん」レイは微笑んだ。いつか灼けたプラグの中で見
せたような、ぎこちない笑顔だった。シンジは涙ぐんだ。

 シンジはいつのまにか自分が身長でレイを遥かに追い越してしまったことに、
否応なく気が付かされた。彼は少女を見おろしながら、やさしく言った。
「ジオフロントが消えた時、いったい何が起きたんだい?」
「・・・知りたい?」
「ああ。12年間そればかり考えていたんだ。ミサトさんや、リツコさんや、
・・・父さんに何が起きたのか?・・・君は知ってるんだろ?僕は、その、渚
君の事で、カウンセリングを受けていた。鎮静剤か何か注射されて眠っていた
・・・つぎに気が付いたのは、なぜかひどく熱いエントリープラグの中にいて
自衛隊の人にこじ開けてもらってる場面なんだ・・・。外に出るとクレーター
の真ん中にいた」
 レイは、年をとっていないレイは、躊躇しているように見えた。間があった。
「長い話しになるかもしれないから、座らない?いつかみたいに、星を見なが
ら話さない?」
「うん・・・。地球がまぶしくて、星は見えないけどね」シンジは言った。


                 2
 
 2016年。ジオフロント、ネルフ本部。
 碇ゲンドウと綾波レイは、エレベーターに無言で乗っている。『あれ』はた
ぶん、レイがそこに行くまで待つんだろうな、ゲンドウには確信があった。い
まごろ、すべて処理は終わっているのだろう。彼は思った。赤木リツコの顔が
浮かんだ。これは運命だったんだ。彼は今頃射殺されているだろう女性に言っ
た。葛城の娘といい、君といい、これを妨害せずにはいられないだろう。

 エレベーターが静止した。静寂がネルフ本部を支配する。
 次の瞬間『使徒反応』を知らせる警報が鳴り響いた。床に倒れた青葉の上で
モニタが「TYPE BLUE」という文字を表示している。エネルギーの束
がジオフロントの球体の頂点からネルフ本部めがけて下降しつつあった。
 それは、触れる物質をすべて消滅させながら下降を続けている。遮るものは
ない。エヴァンゲリオンは2体ともメンテナンス液の中で丸くなっている。パ
イロットが夢を見ているのだ。拘束具は外れているのだが、ピクリとも動かな
い。赤木リツコは、沈んだ人造人間の上で浮いている。
 侵入者にまっさきに気がつくはずの伊吹マヤも、日向マコトも無言だった。
かれらの身体にはいくつかの小さな赤い穴が開いている。サブマシンガンによ
る掃射を浴びたのだった。ミサトの十字架が血に濡れて輝きを失っている。

『・・・大空より人雲に乗りており来て、地より五尺ばかりあがりたるほどに
これを見て、内外なる人の心ども、物におそはるるやうにて、相戦はむ心もな
かりけり』                 (竹取物語)

 ゲンドウは待ち受けていた。LCLの中で全裸の綾波レイは、そんなゲンド
ウを見つめている。
 冬月はゲンドウの後ろにたって下を向いている。彼は生きていた。しかし魂
が引き裂かれていた。
「ゲンドウ」彼はネルフ司令を呼び捨てた。
「君の奇怪な理論を信じたことを後悔し始めてるよ。何が起きてるんだ。ネル
フの本部に何が起きてるんだ?」
「今弱気になってどうする」ゲンドウは冬月の言葉を遮る。
 その時エネルギーの束が、セントラルドグマに到達した。光の束がレイを包
んだ。始まったのだ。ゲンドウは不思議な感動を覚えずにはいられなかった。
おれは、旧約聖書級の出来事を目の当たりにしているのだ。このために、これ
を起こすために、すべては準備されてきたのだった。

「『ヤコブの梯子』だな」聞き慣れた声がセントラルドグマに響いた。キール・
ローレンツの声だった。ゲンドウはたじろぐ。
「・・・顔色一つ変えないのはさすがだな、碇。でなくてはこのようなおぞま
しい計画なぞできないだろうが。よろしい。よくやった。しかしゲームオーバー
だ。我々ゼーレが今からすべてを掌握する」
「予言は、デマだよ、キール。君たちは誤解しているんだ」ゲンドウは吐き捨
てるように言う。
「誤解はしていなつもりだが。現にその娘の形をした生き物は変容を始めてい
るぞ」キールとは別の声が言った。ゼーレは評議会全員でこの部屋の様子を見
ているのだ。レイは変容を始めている。彼女のすべての筋肉が波打っている。
それは放浪する彼女の魂が模倣した、人間という「魂の座」の生体エネルギー
が解放されてゆく過程だった。同じ頃メンテナンス液の中に沈んだ初号機にも
変化が起きていた。

『・・・ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしかなしとおぼしつる
事も失せぬ』                (竹取物語)

「我々は誤解していないぞ。碇。『現実』を把握しているのは君ではなく我々
だ。セントラルドグマの通路を解放したまえ。我々の医療チームがそっちへ向
かう。そしてその娘から『松果腺』と『子宮』を摘出する」
「その娘が『生けるセフィロト』だ」ゼーレの一人が言う。
「その娘の神の御業を我々が取り込むのだ」いま、一人が言う。
「そして人類の補完が始まるのだ」もう一人の声が言った。
「そして人類は誕生して初めて『魂と魂の距離』を克服するのだ。お互いの魂
を隔てる物質の背後にある『久遠』を通して結ばれ合う」声が言う。
「神と人間を隔てるものも無くなる」ローレンツが言う。
「我々の孤独な、飢える魂の彷徨はここで終わる。我々が進化の階梯を一つ昇
ることによってだ。その光がその梯子だよ、碇。ヤコブが見た『梯子』だ」
「我々人類は進化するんだよ、碇。君もそう言ったではないか。『ホモ・サピ
エンス』から『ホモ・トリスメギストス(三重に偉大なるヒト)』への進化だ
と。第三の眼を得た我々は神に一歩近づくのだと」
「『ホモ・トリスメギストス』になった人類はみな、生まれたての赤ん坊すら
『覚者』だ。やがては世界を作り変え、宇宙の覇者になる」

「そうして、このおぞましい世界は存続する。あんたがたの支配する世界が、
『千年王国』がな」ゲンドウは言う。『自由意志』など遠からず死語になる社
会の到来だ。蟻塚の世界だ。
「だが、そんなことはさせん」レイを包んでいた光は消えていた。ゲンドウは
レイを『マトリックスポッド』から連れ出した。
「な・・・何をする気なんだ。計画と違うぞ」冬月が弱々しく声をかける。
「冬月副司令、碇はこの世界を『虚無』に帰そうとしてるんだよ」キールの声
が言う。
「碇は『それ』を羽化させて、アダムと接触させようとしているんですよ」い
まひとつの声が楽しげに言う。
「な、なんだって?本当なのか?碇」
「すまん、信じてくれ。いまは俺を信じてくれ」ゲンドウはコンソールからあ
るコマンドを発行した。それは2体のエヴァンゲリオンに対する誘導信号だっ
た。初号機と弐号機は眠るパイロットを乗せたまま、セントラルドグマに向かっ
て移動を開始した。
「信じるな、冬月、その男は自分の妄想から部下を皆殺しにしたんだぞ」
「・・・?・・・本当なのか?」
「信じてくれ!俺は正しい。この世界はもともと存在しないんだ。消去される
べきなんだ。あるべきように創造しなおされるべきなんだ」
「・・・そのために、みんな殺したのか?」
「そもそも存在すべきでなかった世界の生命なんだ。心配するな。別の時間線
でみな生きてるんだ。霊魂は不滅なんだ。レイの力によって意識すら引き継ぐ
事が出来る。いわば我々は『転生』するんだ」
「碇。碇。可哀想にな。お前は疲れてるんだ。その娘が人間でいる間に事をす
ませるんだ。『槍』が無い今、使徒を倒すのはやっかいだ」ローレンツは言っ
た。
「碇は妻を亡くしてから徐々に狂気にとりつかれていた。証拠もあるぞ。冬月」
「冬月、世界のリーダーたる先進国を代表する我々の意見と、その憑かれたよ
うな眼をした一人の男とどちらを信じる?」ゼーレ達が言った。
「さ、レイ。もうすぐ初号機がやってくる。始めるんだ」ゲンドウは、それを
無視して、悲しげに彼を見つめる少女に言った。彼女の背中の皮膚は分離しは
じめていた。ちょうど、それは羽を畳んだ天使のように見えた。
「ごめんなさい」レイは苦しげに言った。「ごめんなさい」
 ゲンドウは、敗北が、死が、自分に忍び寄ってくるのを感じていた。
「どういう意味だ?レイ?私を裏切る気なのか?」
「・・・この世界は消去出来ません」レイはうずくまった。変容のせいで、皮
膚がかさかさになっている。
「なぜだ?・・・なぜ、できん?」
「・・・この、世界の、この時間線の碇くんに、シンジくんに生きていてほし
いから・・・あのシンジくんのままでいてほしいから・・・」
「な。なにを言い出す!」ゲンドウは怒りで赤くなっている。
「はははは。彼女は君の息子を好きになったようだな。めでたいじゃないか碇」
 ゲンドウはレイを見おろしている。そうだ。人格を消去し、新たな意識を植
え付けた時から、『綾波レイ』は別の新たな人間の少女として生まれ変わった
のだ。14歳の息子に恋してもおかしくはない少女として。
「碇、碇、お前の負けだ。『ギルグール(輪廻)』はない」ローレンツはゆっ
くりと言う。『ギルグール』という単語に、冬月は反応した。それは以前ゼー
レに拉致された時に植え付けられた、後催眠の「引き金」だった。冬月は自分
の意志とは関わり無く胸の内ポケットをまさぐった。22口径のピストルが入っ
ていた。
「ゲンドウを殺せ」
 冬月は機械的にピストルを構えた。ゲンドウはレイを庇うようにして立って
いた。冬月はゲンドウの頭を狙って引き金を引いた。ぱん。乾いた音がして、
ゲンドウはくずれるように倒れた。まるで『ホモ・トリスメギストス』のよう
に額に赤い丸い穴が開いている。
「冬月、回廊のシャッターをすべて解放しろ」冬月はそうした。
「ご苦労。では死ね」
 冬月はピストルを口にくわえて引き金を引いた。

 レイは、ゲンドウの頭を膝に乗せて、髪をなでている。弾丸は貫通しており、
彼女の白い膝の上に赤と白の模様が広がる。

『 あふこともなみだに浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ 』
                          (竹取物語)

「・・・さあ、君の望んだように、この世界は存続するよ」ローレンツは猫な
で声で言う。
「天使との格闘に勝った我々がすべてを手に入れるんだ」もうひとりの老人が
言う。
「・・・いいえ。手に入れるのは、子供達だけ」レイはうつむいたままで言う。
「・・いま、何と言った?お嬢さん?」
 その時、光の束により天蓋に達するまでの穴が開いたセントラルドグマに紫
色の巨大な手が入ってきた。続いて赤い手も入ってきた。巨人の手には『N2』
と書かれた円筒形の物が握られていた。
「・・・な、なにをする?それをここで爆発させる気か?」
「自分も死ぬんだぞ」と言ってからローレンツはこの少女にとって『死』が何
の意味も持たない事に気がついた。

 閃光がゼーレ達の眼を貫いた。次の瞬間、もはやダミーシステムも持たない
綾波レイの魂は、久しぶりに解放された。
 レイは肉体を失った。彼女はまるで鳥かごから放たれた小鳥のように世界を
飛び回った。彼女の目には世界が、つま弾かれたあとに、ふるえながらも徐々
に静止してゆくビオラの弦のように見えた。
 彼女は、アダムとリリスの間に生まれた小悪魔のように世界を飛び回り、因
果律に介入していった。ほぼ同時に世界に点在するゼーレ支部で、事故の蓋然
性が急速に高まった。
 あらゆる災厄がゼーレ達を襲った。漏電による火災、交通事故、飛行機の墜
落。キール・ローレンツは階段を踏み外した。秘書があわてて駆け寄った。彼
の以前から弱っていた心臓は、ショックで停止していた。
 2体のエヴァンゲリオンは光りと熱の中で溶解したが、信じられない事に、
エントリープラグは無事だった。後々までそれは『奇跡』と称された。
 

 レイはそれを見つけた。それの存在は通常の時空を突き抜けて、『久遠』の
中の特異点になっていた。『槍』だった。
 正確には、それは『槍』ではない。『混沌(カオス)』のうちにある搖籃期
の宇宙をかき混ぜて『秩序(コスモス)』に整える道具だった。それを人間達
が模したものが、ユイの家にもあった。「七支刀」であった。それは「ヘルメ
スの杖」であり「天の沼矛(ぬぼこ)」でもあった。
 レイは一瞬にして月に立った。距離は存在しないのだ。そこには、この物質
世界での時間にして数億年前、彼女がそこを通って初めてこの世界に現れた門
があった。彼女はそこで、しばらく待つことにした。まるで待ち合わせに早く
来すぎた少女が、好きな少年が現れるのを待つように心をときめかせながら。

                3

 月の上で、時間が凍りついたようだった。肉体は大人になったシンジは、か
つてほのかな思慕にも似た気持ちを抱いていた少女を見つめた。なんと言えば
いいのか思いつかなかった。その気持ちは、二人めのレイが自爆した時に似て
いた。 
 シンジはそこが月である事を忘れた。もう27歳であることを忘れた。14
歳の少年のように、レイに恋していた。彼女が何者でもよかった。ただ、20
15年の「あのころ」にもどって、レイのために何かしてやりたかった。もう
いちど彼女の笑顔が見られるなら、僕の命をなげたしたってかまわない、彼は
思った。
「僕は、やり直したい。この気持ちのままで、時間を遡って、君のためになに
かしてあげたい」シンジは、レイの手を取って、そっと立った。少しかがんで
そのか細い少女を抱きしめた。分厚い宇宙服を通して、レイの存在を感じるこ
とが出来た。セカンド・インパクトの起きなかった世界、ジャイアント・イン
パクトの起きなかった世界、何も進化しなかった世界、さまざまな時間線にあ
まねく『綾波レイ』は存在しているのかもしれないけれど、このレイは、この
僕が知っているレイは一人だけだった。シンジは思った。
「・・・あなたは時間を遡ることはできないわ・・・。肉体を持つものは、み
な、時間とともに、増大するエントロピーをも糧として生きているのだから。
そして、あなたはこの時間線の上で精一杯生きてゆく義務があるわ・・。悩み
ながら、苦しみながら・・・」
 シンジは黙った。そうだ。僕は、死すべき運命を持つ生き物として、時間の
中で生きているのだった。そして眼の前にいるレイは、そうではない。おそら
く不死の手、不死の眼が造りたもうた時間より外のもの。シンジはレイを見つ
めた。
 
「私が何者か聞かないの?」レイは首を傾げて言った。
「・・・もし、君が話しても支障なければ訊くよ」
「私は智恵を与えるもの。そして、あなたのお父さんに、14年間、地上に引
き留められていたのよ。あの人は、私を捕まえたとたん、私を肉体という入れ
物に閉じこめていたの。肉体の中にいると、私は帰る事が出来ないのよ」
「どこへ?」
「久遠へ。私は久遠から来て、久遠に帰るの。私は『羽衣伝説』の天女でもあ
るし、ミューズでもあるし、蛇だったこともあるわ。私は、肉体を持たないと
き、何にでも姿を変える事が出来るの」
「どうして僕を呼んでいたんだい」
「私の役目を果たす為に。あなた方が選ばれ、あなた方に星々が与えられる事
になったことを伝えるために。誰でもよかったのだけど、さいごに碇くん会い
たかったの」レイはそう言った。
 それは「あのころ」にはシンジに見せたことが無かった表情だった。シンジ
はレイを、もういちどゆっくりと抱きしめた。
「きっと、地球に帰ったら、みんなが、碇くんを調べるでしょう。だから直接、
智恵を授けるわ。進化が終息して死を迎える前に、星々へ飛び出せる力を」
 シンジの中に何かが流れ込んできた。それはシンジには理解出来ない程高度
な知識だった。しかしきっと誰かがそれを理解するだろう。シンジは思った。
そして、きっと、使徒ではなく人類が星々の覇者となるのだ。

 シンジはレイが消えてからしばらくして、彼女が立っていたあたりに何か人
工物があるのを見つけた。彼は老人のようにそれに近づいた。それは見たこと
もないような金属で出来た台座だった。その時二股になった『ロンギヌスの槍』
からの地球光が、台座に細い光の筋を作った。台座の表面が虹のように輝いた。
よく見るとその表面に見慣れぬ文字が書かれているのに気がついた。それは彼
女のように孤独な、さまよえる魂のための道しるべなのかもしれない。彼女は
そこを通って久遠に帰ったのだ。そしてこれはやがて人間の一里塚になるのか
もしれない。死すべき運命と不死との境界の目印かもしれない。
 僕たちがまだ猿だったころから、君は僕を待っていてくれたんだね。シンジ
は自分が泣いているのに気がついた。

「アスカ、・・・すまない」シンジは着陸船に戻り、船長やらクルーやらの怒
声に謝りとおしたあと、そっと呼びかけた。
「・・・いいのよ。私に聞かれたくなかったんでしょ。あのころ、ファースト
に夢中だったもんね。あんたは」アスカはなじるでもなく、冷静に言った。シ
ンジには、それがかえってこたえた。
「・・・ごめん」
「謝らなくてもいいのよ。覚悟はしていたから」
「でも、アスカ。出発する前から言おうと思ってたんだ。そうだよ。帰還する
前に言おうと思ってた。・・・・結婚してくれないか?・・・こんな僕だけど、
いや、こんな僕だからこそ、君が必要なんだ」
 長い、沈黙。タイムラグよりそれは遥かに長かった。拒絶の言葉を考えてい
るんだろうな、シンジはほとんど絶望していた。
「・・・ずるいわよ。男は。謝った後にプロポーズ?平凡な男なのね。シンジ。
・・・じゃ、あたしは平凡な女として言うわ。とにかく無事に帰ってきなさい。
返事は帰ってきてからよ。お・あ・ず・けってやつね」
 わかったよ。アスカ。僕は帰る。

 人々が星の海を漕ぎわたり、宇宙の秘密をすべて解きあかした時に、僕の子
孫は君を本当に知る事が出来るかもしれない。シンジは、脱出速度まで加速し
た着離船の中で、巨大な『ロンギヌスの槍』を眺めながらそう思った。





               エピローグ

 西暦2003年。セカンドインパクトからこっち、住宅建設のためにめっき
り減ってしまった公園で、母と子が散歩していた。風邪をひかせてしまい、し
ばらく高熱が続いていたのだが、今日はうって変わって元気に走りまわってい
る。いまも、銀杏の木の下で走り回っていた。何かを見つけたのか、あっ、と
声を上げるとしゃがんでそれを拾い上げる。
「ママ、ママみて、みて、きれいないし、ひろった」
 見るとそれはルビーを思わせる小さな赤い石だった。碇ユイは、そう、よか
ったわね、と答えながらも驚愕を隠すのに必死だった。奇妙な確信があった。
それは南極の『あれ』と同じ物にちがいない。でもなぜ、彼女は思う。なぜ、
『コア』がここに落ちているのか?そしてなぜ、息子のシンジがそれを拾わな
ければならなかったのか?『シンクロニシティー(共時性)』という言葉が浮
かんだ。「偶然の(意味上の)一致」。
「世界は『意味』で満ち満ちているわ、シンジ」彼女は息子の頭をなでる。
「ぼく、たからものひろったの?」シンジは不可解そうに母を見上げている。
「そうよ、きっと」あなたや、あなたの住む世界を変えてしまうような宝を。        
             





お  わ  り

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