The Tyger!


 それは「死」と言えるのだろうか?碇ゲンドウは思う。ユイは生きていると 
もいえた。隠蔽されたアダムの中で、別の島宇宙に生まれ変わっているのかも 
しれないのだ。使徒たちにとって距離は存在しないのだから。ゲンドウはシン 
ジの恐怖に満ちた顔を思いだした。あたりまえだ。母親が溶けてしまったのだ 
から。

 ゲンドウは「ゲヒルン」の備品の、妻がよく使っていたワークステーション 
の前に座って物思いにふけっていた。
 ふと、気が付くと、画面の下の方にに見慣れないオブジェクトがあった。
 よく見ると天使のアイコンだった。彼はかすかな哀しみとともにそれをクリッ
クする。

「こんにちは。碇ユイです。パスワードを入れてください」とムービーファイ 
ルの中のユイが彼に向かって言った。実験の前の日に着ていた淡いピンクのブ 
ラウスを着ている。なんだろうか?彼は気が付くとあれこれとパスワードを考 
えている自分に気がついた。
「YUI IKARI」エンター。
「正しいパスワードを入れてください」ユイが首を振るムービーが再生される。
「つれない返事だな、ユイ」ゲンドウは悲しげに独り言を言う。

 息子の名前?違う。ユイの好きだった映画の題名?違う。誕生日、結婚記念 
日、違う。電話番号は全滅。3時間ばかりそうしていた。ふと気が付くと赤木 
ナオコが彼の背中に自分の乳房を押しつけている。腕を彼の首に回して耳元で 
囁く
「何をしているの?」
「いや、たいしたことじゃない。ユイの残したプログラムを見ていたんだ。パ 
スワードを訊いてくるんだが、わからない」
「解析してあげましょうか?」
「いや、いい。官舎に帰ったらきっと手がかりがあるだろう」
「そう」ナオコは嫉妬の疼きを抑えて、低い声で言った。

 待つもののいない家に帰った。1ケ月前に息子のシンジを弟夫婦に預けてい 
たのだ。ユイの本棚に目をやる。彼女の好みは、みな知っているつもりだった。 
たとえば嵐が丘は?シェイクスピアはどうだ?和泉式部は?ゲンドウは手帳に 
思いつく限りの単語を書き留めた。ばかばかしい行為かもしれないが、せずに 
おれなかった。俺の魂はまるで細い線で描かれた大きな真円のようだった。ゲ 
ンドウは思う。裏切ってはいたが愛していたのかもしれない。
 このパスワード探しは、俺の贖罪なのかもしれない。もと文学青年だったこ
の中年男はそう思った。

 翌朝、試してみた。みなだめだった。
 おまけに、部下の報告で実験結果ののもっとも重要な部分が暗号化されてい 
るのを知った。その暗号を解かないかぎり、「ゲヒルン」の仕事は暗礁に乗り 
上げるし、ゲンドウはただたんに妻を殺した男になり、ユイの父親は、祖父は、 
すなわち日本の暗部「ゼーレ日本支部」は、ゲンドウを八つ裂きにするだろう。
 ユイの「死」は「バイオハザード」として大々的に報道された。もちろん背
後には、事件を利用して、ゼーレの利権のおこぼれを頂戴しようとする日本政
府がいることは、ゲンドウにはじゅうぶん分かっていた。
 何よりも問題なのは妻を犠牲にしてまで得た成果を、その妻自身がなぜか隠
匿しているということなのだ。そうだ。すべてはリンクしていた。あのプログ
ラムが実験のデータを暗号化していたのだ。

 三日たって、これらがみな巧妙なユイの復讐だと思えてきたころ、ゲンドウ 
は京都のユイの実家に行くことにした。彼女の父親と祖父に会う為に。手がか
りを求めて。
 寝ている虎の尾を踏みに行くのだ、ゲンドウは自嘲した。

 碇家は北山にある。近所に知らぬもののいない旧家だった。碇家の祖先は渡 
来系の豪族だったという。
「神功皇后の朝鮮征伐で功績があったのよ」ユイはいつかそう言った。
「皇后が、海中から『如意の珠』といって、この世を思いのままに出来る不思
議な力をもった珠を拾ったときに、それをまっさきに見つけて皇后に上奏した
のが私たちの祖先だというわ。『碇』はもとは錨じゃなくて海底の石を意味す
る言葉だったらしいの」
「ああ、その話は、虚構だよ。神話だ。そのころまだ日本には天皇制すら無かっ 
た。それに渡来人なのになぜ朝鮮侵略に協力したんだね」
「さあ・・・そのころから世渡り上手だったのかも。でも虚構だというけど珠
のことは『日本書記』に載ってるし、家には家宝として、その時に皇后から授
かったという『七支刀』が伝わっているわ」
「ふうん」
 その後結婚が決まってからゲンドウはその家宝を見せてもらった。それは武 
器というには装飾的すぎる刀だった。なにしろ剣に七つの枝が生えているのだ。 
その時にはゲンドウはそれと、後に「ロンギヌスの槍」と呼ばれるものとの相 
似には気づかなかった。

 碇タダフミはゲンドウを客間で待たせた。やがて女中が襖を開けて、碇ユイ 
の父は、屈強な若者二人に両脇を支えられたユイの祖父、碇タダヒトとともに 
現れた。
 ゲンドウはタダヒトに会ったことは数えるほどしかなかった。時の総理大臣 
を顎で動かすほどの実力者、碇タダヒト。闇の政商にして、「ゼーレ日本支部」 
そのものである男。彼は意外に小柄な皺だらけの老人だった。上座に座ったと 
ころはまるで置物のようだった。彼の跡取り、そしてユイの父の碇タダフミが 
その脇に座る。
「頭をあげろ。ゲンドウ」タダフミは甲高い声で言った。
 ゲンドウは伏した姿勢から身体を起こし、指すようなタダフミの目を睨み返 
す。
「ふ、弁解に来たのではなさそうだな。で、なんなのだ?」
「実験の成果をユイが封印しているのです。私は封印を解く鍵を調べたくて来 
ました」
「手は無いのか?」
「他に手はありません。家の中やユイの部屋を調べさせてください」
 沈黙があった。タダフミはタダヒトに話しかけた。
「よかろう。時間がかかるのか?」タダフミが言った。
「いえ調べてみないことには」
「では、やれ」
「ありがとうございます」
「いままで、愛人まで黙認してやっているのだ。後は無いと思え」タダフミが 
言った。
「はっ」ゲンドウは頭を下げた。
 その時、タダヒトは総領息子を呼び寄せて言った。そのしわがれた声はゲン 
ドウにも聞こえた
「ユイの事でわからぬ事があったら『のんのさん』に訊いてみろと言え」老人 
はこう言った。タダフミは当惑しながら、ゲンドウに同じ事を繰り返した。

 ゲンドウは六畳と八畳の二間ある、ユイが娘時代を過ごした部屋に入って、 
彼女の本棚からめぼしい本を拾い読みした。サブノートパソコンを箱根にある 
研究所のユイのワークステーションと電話回線を通して接続し、単語を片っ端 
から叩きこんだ。だめだった。やればやるほど真実から遠ざかっている気がし 
ていた。そうだ。俺は死への階段を転げ落ちているのかもしれない。ゲンドウ 
は思った。

 藁にもすがる思いで『のんのさん』に会うことにした。『のんのさん』とは 
碇家の者がその女性を呼ぶ愛称に過ぎない。ゲンドウは彼女は碇の家の親族で 
あり、出家しており、屋敷の近くの「月光庵」に住んでいるという事しか知ら 
ない。
「いったいいつから生きてるのかわからないのよ」いつかユイが言った。
「そんな馬鹿なことがあるか」
「そうでしょうけど。ほら、『八百比丘尼』って話があるでしょう。子供の頃
あの人がそうなんだ、800年も生きてるんだ、って思ってたわ」
「はははは。ところで『のんの』ってのは名前なのかい?」
 その時のユイの顔をゲンドウはありありと思い浮かべる事ができる。彼女は
さも意外そうに目を丸くしてこう言ったのだ。
「あら、知らないの。『のんのさん』って『月』の事よ」

「きたのか」薄暗い庵の中に座っている、恐ろしく年老いた尼僧がそう言った 
時、ゲンドウは、これらが、つまりセカンドインパクトや、使徒との邂逅や、 
ユイの「死」が、すべて前もって定められていた事であるかのような、不思議 
な感覚に捕らわれた。
 彼女は目を閉じている。彼が庵の中に入り、座り込んでもまだ目を閉じてい
る。ところが、この尼僧には彼が何者であるかわかっているらしい。

「お宝は苦労をせねばならぬ。先祖は『如意の珠』を手にいれるために裏切っ 
た。『竹取』を読むがよい。そして『虎穴に入らずんば虎児を得ず』。お前が 
ユイをはじめて抱いた時の事を思い出せ」尼僧は言った。

 ゲンドウはユイを初めて抱いたときの事を思いだした。

「ねえ、私を見て」ユイの部屋で、詩華集を読んでいた六分儀ゲンドウは顔を 
上げて、ユイが前も隠さずに全裸で立っているのを見た。
「ど、どうしたんだ?」恋人のあられもない姿にゲンドウは目をそらした。
「目を逸らさないで。私を見て。綺麗でしょ」ユイはきらきらと目を輝かせて、 
放心状態のゲンドウの手をそっと取った。
「よ、よせよ。家の人が入ってきたらどうするんだ?」
「いいじゃない。かえって好都合でしょう。この家の人間は古風よ。私をキズ 
モノにしたあなたと、私とをむりやり結婚させようとするかも」
「君と結婚したいが、そ、そうなるとは限らないんじゃないかな」
「ええ、危うい賭けね。でも『虎穴に入らずんば』と言うでしょう。今のまま 
だと絶対に無理よ。どう?」ユイはゲンドウの手を自分の乳房の上に持っていっ 
た。彼の手のひらの中で冷たい半球が、まるで宝珠のような輝きを放っている 
ような気がした。
「・・・私が欲しくない?私は・・・綺麗じゃない?」ユイは首を微かに傾げ 
て彼を見つめた。
「・・・きれいだ。・・・とても。貧乏だが、プライドだけは高くて、傲慢で、 
そのくせ劣等感は人一倍強い学者の卵の俺にはもったいないくらいだ」
「じゃ、悩むこと、ある?」

「虎で思いだしたよ・・・・」ゲンドウは言った。
「なに・・・」目を閉じたユイが言った。

     Tyger! Tyger!  burning bright
         In the forests of the night,
         What immortal hand or eye
         Could frame thy fearful symmetry?             」

「・・・ブレイクの詩ね。続きは?」
「すまない、英語はサボってばかりで、暗唱できるのはここだけなんだ」
「・・・私は虎?」
「ああ、美しい虎」
「・・・じゃ、"Tigress"よ、お馬鹿さん」微かに声を荒げながらユイが言っ 
た。

  そして、ゲンドウは確信を持ってキーを叩いている。
「T I G E R」エンター。
「正しいパスワードを入れてください」ディスプレイの中のユイが楽しげに言 
う。
「T I G R E S S」エンター。
「正しいパスワードを入れてください」
 なぜだ。ゲンドウは焦っていた。なぜだ。確証はないがあれに違いない。あ 
れでなければならない。
 その時、記憶の彼方で疼くものがあった。
「T Y G E R」エンター。
「パスワードが解除されました。ブレイクの詩よ。あなた。"TIGER"じゃない 
のよ。"TYGER"なのよ。『虎』の古語。赤木博士を抱きすぎてぼけちゃったの? 
あんな年増より、あの時の私の方がよかったでしょ?」ユイは、悪意に目を輝 
かせて、笑いながら言う。
 ゲンドウは暗号化された膨大な実験のドキュメントが解読されてゆくのを表
すグラフを見ながら、椅子に深々と身体を沈める。

              *  *  *

 15歳の六分儀ゲンドウは、古ぼけたラジオから流れてくる空電の、砂嵐の
ような音に耳を澄ませていた。ざーっという激しい雨のような雑音の合間に、
微かに自分を呼ぶ声がするような気がするのだ。彼の家はあまり裕福では無かっ
た。狭い子供部屋の二段ベッドの下側で、弟が寝るのをまって、ラジオの深夜
放送を聞くのが好きだった。近所では『神童』という評判のこの少年は、子供っ
ぽい一面も持ち合わせていて、ノートに怪人や怪獣の絵を描いて遊んでいた。
 ずっと後に少年時代の落書きとほとんどおなじ形をした使徒が襲来してきた
時、彼は思わず笑みをもらした。この世界の神は面白い悪戯をする。

 37歳の碇ゲンドウは後に「セントラルドグマ」と呼ばれる培養装置の中で、
ある細胞が、爆発的に分裂してゆく様子をモニタで見ている。まるで虚空に飛
び交う電波をとらえるように、明らかに人間のものではない魂を物質に固着す
ることに成功したのだった。それは、何万年も前から南極の古層に潜んでいた
のだ。ユイを喰ってしまった「第1素材」がこんなにも協力的になるとはな。
ゲンドウは思った。ユイのデータのおかげだった。つまりは人身御供というわ
けなのか?

 その夜、ゲンドウは「ゲヒルン」の研究所に独りだった。培養装置に背を向
けて仕事をしていたのだ。物音がした。背後に何かいる。振り返った。培養装
置を内側からこじ開けて、何かが中から出ようとしていた。ゲンドウはその何
かを覗き込む。 ある意味では緑色の怪物の方が良かった。しかしそれは人間
だった。人間に見えた。おまけにそれは小さな女の子で、ユイにそっくりだっ
た。ユイそのものではなかった。そんなはずはなかった。ユイはいかなる意味
でも消滅してしまったのだから。ゲンドウは円筒の中から少女を引っ張り出し
た。立ち並ぶ培養シリンダーたちは竹林を思わせる。そうだ。おれは「竹取の
翁」。『のんのさま』の言うとおり。ゲンドウは、再びこれが定めであるよう
な気がしている。

 ゲンドウは少女の身体を拭いてやり、自分が仮眠用に使っているベッドに眠
らせた。人間で言うと3、4歳といったところか。京都の生家で見た幼い頃の
ユイの写真にそっくりだった。そうだ。TigerとTygerの綴りの違い程度の違い
なのかもしれない。どちらも虎。不死の目、不死の手によって形作られた、夜
の森の中で赤々と燃える虎。

 赤木ナオコが自殺した。愚かな行為だった。レイは不死身なのだから。

 数年たったある日、赤木リツコは、むき出しのコンクリートの壁に囲まれた
研究室で、ベッドに横たわった綾波レイの健康状態が映されたディスプレイを
見ていた。そのころ「ゲヒルン」は解体し「ネルフ」に吸収されていた。ネル
フ司令となったゲンドウはリツコに呼ばれて、やってきた。
「どうなんだ?」
 高い天井にゲンドウの声が響いた。
「医療チームによると原因は不明です。もう5日間になりますね」
「ふむ」ゲンドウはベッドで目を閉じている11歳ぐらいの美しい少女の姿を
見おろした。
「何かの前兆であるということはあり得るのか?」
「無いと思います。どのようにスキャンしても変化はありません。松果腺にも
なにも変わりはありません」
「ダミーたちも何も無いのか」
「同様です」リツコは答えた。そうか、と言ってゲンドウはベッドの脇に腰掛
けた。
 そのまま「看病」でもするのかしら、リツコは思った。その通りだった。リ
ツコが立ち去ろうとするそぶりを見せても微動だにしない。執着しすぎよ。彼
女は思った。彼女はあなたの妻ではないわ。

 リツコが立ち去った後、ゲンドウはレイの額の汗を拭いてやっている。白く
雪原のような額。小さな形のいい鼻。薄く血の気のない唇。そうだ。少女はど
こからみても人間の少女だった。微かに胸が膨らみ、腰がくびれてゆく。やが
て女になってゆく。わたし、綺麗?彼はユイの輝くような裸身を思い出す。

「・・・あ。いてくれたのね」レイは目を開けて、大人びた口調でゲンドウに
言った。
「あの女はもう帰ったの?」レイは物憂げに言う。
「ああ。帰った」
「よかった・・・。恐かったわ。『私』を消去しようとしているのよ」
「大丈夫だ。そんなことはさせはしない」

「何度も説明したように、この際、この方法しかないと思います」赤木リツコ
は冬月に冷静に説明した。
「しかし碇は反対するぞ」特に君が言い出したとなるとなおさらな、冬月は思っ
た。君が君だけにな。燃えるような目で碇を見ている時があるぞ。
「司令には・・・・事後承諾してもらうつもりです・・・」
「それはある意味で反逆罪ではないかね?」
「・・・そんなことはありません!これはネルフを守るためなんです!今のレ
イは計画を破滅させます」
 声が高すぎたかしら?リツコは黙り込んだ冬月をみて不安になった。
「高熱で弱っている今がチャンスというわけか・・・」恐い女だ。だが言って
いることは正しい。今のままだとレイは初号機を起動させたとたんに、我々を
ジオフロントごと、ディラックの海にたたき込むだろう。
「・・・仕方あるまい。碇司令へは私が説明する」冬月はそう言った。君が説
明して痴話喧嘩でも始められてはたまらんからな、初老の男はそう思った。

 ゲンドウはレイのベッドに頭をもたせかけて、うたた寝をしていた。レイは
半身を起こし、ゲンドウの髪をいとおしげになでていた。
「・・・眠ったのか」
「ええ、汗をかいていたわ」レイはまるで母のように言った。
「また同じ夢だ。朝、目覚めると、ユイがいて、小学生になったシンジがいて、
みんなで朝食をとっているのだ・・・。平和だった。俺は大学の助教授だった。
まだ教授になれないんだ・・・。これも一つの時間線なのだな?」
「そうよ。あなたの魂の一部分は、その時間線に絡まれているわ。そしてこの
世界はアダムと葛城教授が接触したことによって生まれた時間線。不安定でグ
ロテスクな時空。きっかけを与えるとすぐに消滅してしまうわ」
「しかし、その脆い世界で俺は、この時間線に生き残った40億たらずの人類
は、苦しみながら生きている」
「物としての生命は相対的なものよ、お馬鹿さん」少女は中年男に言った。レ
イはゲンドウに向かって両手を突き出した。光りが奇妙に屈折したかと思うと、
レイの空っぽの手のひらに、赤いルビーのような石が現れた。
「取りて食らえ、これは我が躰なり」少女は石をゲンドウの額にかざした。
「俺は学生時代、実存主義者だったことがある。この時間線で人類の味わった
苦悩は唯一無二の現実のものだ。救済はこの時間線で行わなければならない」
 レイは赤い石を握りしめた。
「それは、冬月副司令の考えでしょ。あなたはこの世界を消去しようとしてい
るわ。イブの子供としてやりなおしたいの?・・・可哀想なリリスの子供達」

 ゲンドウは午前2時に官舎に帰り、ベッドに入った。傍らには赤木リツコは
いなかった。彼女はまだ仕事をしていた。ゲンドウはベッドの中で、レイの事
を考えていた。少女の肉体に閉じこめられた、あらゆる時間線より一段上の視
点を持つもの。そうだ。彼女こそブッダなのかもしれない。いやこの世界にと
どまっているという意味で、菩薩というべきなのか。しかし彼女はいかなる救
済をも与える気はないらしい。既存の宗教概念を「レイ」に当てはめることは
出来ないかもしれない。神というより、神獣というほうがふさわしい。ゲンド
ウは眠りについた。夢の中で彼はインドのパンジャブ地方の狩人になり、人喰
い虎を探していた。

 レイの人格は眠っているうちに消去されようとしていた。赤木リツコが指揮
をとっていた。あなたがこの世界を虚無に帰さないように、私たちがあなたを
虚無に帰してあげるわ。リツコは年下の恋敵につぶやいた。
 そのとき、綾波レイは目を開けた。リツコは後ずさった。
「こんにちは、おばさん」少女は冷たく言った。

 赤木リツコは、ふと気が付くと荒野の真ん中にいることに気がついた。厳密
に言えば赤木リツコは一個の生物ではないかもしれなかった。彼女は何千万匹
の進化した白蟻たちで構成されるゲシュタルトだった。彼女の意識は小さな蟻
のすみずみまで行き渡っている。個々の蟻達は黙々と働き、死んでいった。い
ま、彼女は苦悶のうめきを上げていた。死にかかっているからだった。
 彼女の外の世界は、化学的な平衡状態へと徐々に近づきつつあった。遡る事
の出来ない、エントロピーが増大してゆく過程としての時間を、かすめ取って
生きてきた生命にとって、死滅への秒読みが始まっていた。既に海は死んでい
た。大気は窒素の比率が増大しつつあった。それはある意味で美しい平衡の世
界だった。大地の神『ガイア』は生まれるべきものではなかったものとして死
にかけている。
 赤木リツコの魂はそんな時間線にとらわれていた。 

 ゲンドウは眠りから覚めた。傍らには妻のユイがいた。二人はいそいで衣類
をつけて、朝食の間へと向かった。家長のタダフミ、そしてその妻、つまりユ
イの両親はすでに食卓についている。ゲンドウとユイと、そして彼の一人息子
のシンジは深々と会釈して、着席する。
 やがて、長老のタダヒトが、薄暗い朝食の間に入ってきた。寄る年波はこの
老人の皮膚から張りを無くし、鶏冠をしおれさせていた。長老は、縦長の瞳を
さらに細めて、いならぶ一族郎党をゆっくりと眺めた。
「朝食をはじめよう」タダヒトは低い声で言った。 朝食が運ばれてきた。
 それは、油を塗った銀のボールの中の、生きた鼠だった。タダヒトはチュウ
チュウと鳴く小さな子鼠を、退化した耳たぶの下まで裂けた口に放り込んだ。
 老人はひどく苦労して、それを呑み込んだ。そして二股に分かれた長い舌を
ぺろりと出した。「結構だ」長老は言った。それが合図だった。一族は一斉に
鼠をほおばる。
 ゲンドウは大学へ電車で出勤した。彼の専門は形而上生物学。「哺乳類が進
化し万物の霊長になっていたら」などと、役にもたたぬ仮説を研究していると
いう噂のせいで、人気薄だった。
 新聞はあの戦争の話題でもちきりであった。政府は閣議で大統領同士の決闘
を決定していた。それは公海の無人島で、どちらかが死ぬまで行われる。
 いつもと変わらぬ仕事をすませて家に帰る。

 夫婦専用の巣穴にもぐりこんで眠っていると、夜中に何者かに起こされた。
 彼は猫のような瞳をこらして、目の前に立っている奇妙な人間をみつめた。
口は小さすぎ、あたまに空色の毛が生えており、目は赤く丸い瞳。彼の頭にま
ばゆい光のような直感がひらめく。
「猿のあなたもすてきだけど、トカゲのあなたもかわいいわ」綾波レイは言っ
た。
「なぜ俺には君の記憶があるんだ。ここは・・・ここは・・・」
「そう、『最初のインパクト』が起きなかった世界よ。もう一つの世界で猿た
ちはあなたを進化した恐竜と呼ぶでしょうね」
「すると俺の研究は正しかったのか?」
「ええ、あなたの考えた奇怪な生態系のすべてはそれぞれの時間線に存在して
いるわ。お猿のあなたも、トカゲのあなたもお互いのことを好きみたいね」
「そうか・・・・。君はいったい、どうして・・・」
「お別れにきたのよ。私は、今の人格は、ある時間線で消去されようとしてい
るのよ」そういって少女は微笑んだ。その世界のゲンドウの美意識では醜い生
物である少女を、彼は一瞬だけ美しいと感じた。

 べつの時間線で碇シンジは、夢を見ていた。施設の小さな窓を開けて、夜空
を見たのだ。長方形の窓一杯に月が広がっている。彼は顔を窓から突き出して
みた。窓どころか天球の半分を月が占めているのだ。「海」やクレーターが、
手を伸ばせば届きそうだった。手を伸ばしてみた。冷たい感触。彼はびっくり
して手を引っ込めた。ぼく、月にさわっちゃった。
 もう一度手を伸ばす。手触りがまるで人の肌のようだった。
 気が付くと、シンジは母親のユイの乳房に手を伸ばして触れているのだ。
「かあさん」シンジは呼びかけた。
「なあに?」綾波レイは、自分の膨らみかけた胸に触れている、シンジの手に
そっと自分の手を添えた。
「き、君はかあさんじゃない」シンジは慌てて手を引っ込めた。
「そうよ。またどこかの場所、どこかの世界、どこかの宇宙で会いましょう。
さようなら」少女は手を振る。
 シンジはつられて手を振りかえした。

 京都のさびしい庵の中で、ひとりの尼僧が虚空を見ている。久しぶりに彼女
は額の目を開けた。それは目と言うより、小さな赤い出来物ような突起で、薄
暗い部屋の中で静かに光りを放っているかのように見えた。

「成功です」ネルフのオペレーターは言った。レイは眠っていた。リツコは司
令室を出て、タバコに火をつけた。今夜も朝帰りだろうか?副司令への報告書
を作らなければ。リツコは喫煙室の隣にある自動販売機で、ファンタグレープ
を買った。プルトップを開けて、一口飲む。
 甘ったるい。「甘さ控えめ」の缶コーヒーにすればよかったわ。彼女は思っ
た。わかっていたのに。甘い物を買えば甘いわ。ネルフに入ればあの男がいる。
あたりまえのことじゃない。何がめずらしいのか。どうして母と同じくその男
と関係を結ぶのか。大学院を出るときにわかってたわ。
 その時リツコは、ファンタの缶の飲み口の近くを小さな虫がはっているのに
気が付いた。
「・・・ったく」リツコは指でその虫を摘んだ。指の中でひしゃげる感覚。
 目の前で見てみる。
 白蟻だった。彼女によって腹が潰されている。力無く足を動かしている。
 リツコは突然形容しがたい恐怖感におそわれて、叫びだした。彼女の悲鳴を
聞きつけて飛び出してきたネルフの職員に抱き抱えられても絶叫は止まらなかっ
た。

「というわけだ・・・」冬月はゲンドウに説明し終えた。意外にもゲンドウは
冷静に聞いていた。そうだ。碇。個人の執着の為に世界を危険にさらすわけに
はいかないからな。
「うむ・・・・赤木君はどうした?」
「今日は気分が悪いといって休んでるよ」めずらしいこともあるものだ、冬月
は思った。
「もう意識はもどっているのか?」
「いや、まだだ」そもそもその意識というやつをこれから作るのだ、副司令は
思う。綾波レイは新しい、そして何も持たない人間として生まれ変わるのだ。
「そうか、今日の『上』の連中との会議、代わりに出てくれないか?」
「な、今度こそ司令が出席すると約束してるぞ」冬月は抗議する。
「頼む。頼みますよ、冬月教授」ゲンドウは言った。懐かしい呼び名だった。
 碇、冗談のつもりなのか?
「しかたないな」冬月は言った。デキの悪いゼミの生徒のようだ。しかし、私
はその欠点を補ってあまりあるゲンドウの個性に心酔してしまったのではない
だろうか?冬月は思った。

 碇ゲンドウは、司令室に独りになった。
 司令用のコンソールに電源を入れ、パスワードを打ち込む。
「T Y G E R」エンター。
 司令室の壁面が開いて巨大なフラットディスプレイが現れる。ありし日の碇
ユイの顔が大写しになる。
「こんにちは、あなた」彼女はゲンドウに呼びかける。その人格はMAGIの中に
密かに構成されたサブシステムだった。
「『レイ』が消えたんだ」ゲンドウは言った。
「・・・そう、かわいそうに。気に入っていたのにね。あなた」
 ユイの姿はゆっくりとモーフィングしてゆき、天使の姿になった。その愛ら
しい顔は綾波レイそっくりだった。
「・・・おれは、おれは」ゲンドウは天使にひざまずく。
「いいのよ、ここで泣いてもいいのよ。世界のために頑張っているんだもの」
天使はレイの声でゲンドウの頭をなでる仕草をする。


 碇ゲンドウはそのまま眠ってしまった。

 夢を見た。彼は再びインドの狩人になった。密林で美しいベンガル虎を見つ
けたところだった。ゲンドウはライフルを手に持ったままその虎に見とれてい
た。虎は前脚で彼の胸を引き裂いた。痛みもないただ自己憐憫の中で、碇ゲン
ドウは、自分が生きたまま喰われていくのを、じっと眺めていた。    
       





お  わ  り

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