ナボコフの本のように





 『エリドゥ・キャンプ』はオーストラリアの内陸部、「ノーマンズランド」
の砂漠地帯にあった。巨大なすり鉢状のくぼみの中に、五十世帯あまりの人々
が細々と暮らしていた。あるものは、結構立派なプレハブ住宅に、あるものは
キャンピングカーに、あるものはコンテナの中に暮らしていた。

 その「親子」は、ボロボロになった黄色いスクールバスの中に住んでいた。
なぜカッコつきかといえば、その「親子」は本当の親子ではない、という噂が
あるからだった。
 「父親」は背の高い痩せた日本人だった。当たり前の事だが、強烈な紫外線
を避けるために、いつもサングラスをかけていた。「娘」は12歳から15歳
の間だろうか、極端に色の白い女の子だった。髪の毛の色も青みがかった白髪
と言ってよく、おそらく色素が少ないのだろう。
 その娘は、日中外出する事は全くなかった。出来ないのだろう。オゾン層が、
セカンドインパクトによって完全に破壊されているこのあたりでは。
 もちろん「キャンプ」の人々の死因のナンバーワンは「皮膚ガン」だった。

 オーストラリア政府が中央部以南の領土放棄を宣言した後でも、いや、宣言
した後にこそ、彼らは、ぽつりぽつりと、このやせこけた土地にやってきて、
住み着いているのだった。ここにはセカンドインパクトの環境の激変に対応す
るために各地に建てられた風力発電設備を備えた水耕栽培プラントがあるのだ。
無政府状態の中でそれは運営され続け、キャンプの「難民」たちの命を支えて
いた。

 退去命令は何度も出されていたが、彼らは、この神に見放された土地を離れ
ようとはしなかった。やがて「サードインパクト」によって世界が滅びるのに、
どこで暮らそうと勝手だろう、というのが彼らの言い分だった。オーストラリ
ア政府と国連はそんな彼らのために、強風をぬって定期的に医薬品などを投下
していた。

 砂漠の地平線に日が沈むと、温度が急激に下がる。だが、『エリドゥ・キャ
ンプ』の住人たちにとっては、ようやく外に出られる時間でもあった。
 彼らはめいめい鍋や瓶をもって、政府に廃棄された食料プラントへ水をくみ
に行く。誰がリーダーでもなかったが、『エリドゥ・キャンプ』は、セカンド
インパクト後出来た、このような「難民キャンプ」の中でも驚くほど秩序が保
たれていた。

 その「親子」も並んで水くみにやってきた。少女は無口だった。キャンプに
はわずかながら子供たちもいたが、会話を交わすこともなかった。水くみが終
わると、少女は住まいであるスクールバスの前にさびたパイプ椅子を置き、何
をするでもなく、明け方まで座っているのだ。
 月の夜、少女はたまに立ち上がって、頭上の銀色の円盤を眺めていることが
ある。まるで月光のシャワーを浴びるかのように、両手を広げる事がある。そ
の子はその子なりに、はしゃいでいるのかもしれない。

 「父親」は夜になると、よく近所の人々ととりとめもない会話を交わしてい
た。会話の内容は、行けもしない旅行の話や、セカンドインパクトの起きる前
に存在していた美しい港町の話だった。

「おれはね、ゴールドコーストで、サーフィン大会に出たことがあるんだ」ジョ
ーンズという髭だらけの男が、背の高い日本人に言った。彼もまた「娘」と同
じく無口だった。いつまで経っても返事が返ってこないので、ジョーンズは続
けた。
「美しい町だった。シドニーもいいが、あそこは人が多すぎる」
「・・・いまは魚たちさえ棲んでいないな」日本人は珍しく冗談めいた事を言っ
た。
「棲んでいないのかな?」ジョーンズは言った。
「たぶんな、あそこあたりで熱い風呂ぐらいの水温だろう」
「・・・ふうん。しかし、生物はいつか適応するもんだろう?」
「無理だな。高温では複雑な遺伝子情報を維持できない。バクテリアたちは平
気かもしれんが」日本人の男は言った。
「・・・何でも知ってるな、あんた。大学教授でもやってたのかい?」
「・・・」背の高い男は答えなかった。
「悪い悪い。ここじゃ、インパクト前の事を無理に訊くのは御法度だな」ジョー
ンズは言った。

 突然背後の椅子に座っていた少女が立ち上がった。
 ジョーンズと日本人の男は振り返った。
「・・・あれ」少女は南の空を指さした。南十字星の下、空の底が赤く滲んで
いた。
「なんだ?」ジョーンズは斜面を登りはじめた。キャンプはすり鉢状のくぼみ
にあるので、地平線を見るためには、坂を上らなければならないのだ。
 背の高い日本人も、その「娘」も後に続いてくる。

 風速20メートルほどのなま暖かい風が、南から吹いていた。紫外線と宇宙
線、そしてこの止むことのないこの風が、政府をして領土放棄までさせた理由
であった。風は農作物をはじめあらゆるものを吹き飛ばし、恐るべき勢いで大
陸全土を砂漠と化しているのだった。
「『インフェルノ(南極のこと)』が燃えているぞ!」ジョーンズが風の中で
叫んだ。
 まさにそのとおりだった。夜の10時だというのに、南の地平線が夕焼けの
ように赤い。
「サードインパクトが始まったんだろうか?ゲンドー!」ジョーンズは日本人
に向かって叫んだ。
「まだだ、まだ早すぎる!」「ゲンドー」と呼ばれた男は答えた。

 その光は、『エリドゥキャンプ』から数十キロ離れたハイウェイを走る装甲
車の中からも見えた。
「・・・見えましたか、教授」空調の利いた装甲車の中で男は初老の男に話し
かけた。
「ああ、見えたよ。だが『死海文書』の示した『時』には、まだ早い」
「それは、わかってますよ、教授」
 装甲車は南に向かって走り続けた。

 キャンプの中では、あの空を染めている赤い光の事で持ちきりだった。誰か
が、セカンドインパクト後に、雨後の竹の子のように出来た新興宗教のひとつ
のパンフレットを手にかざして、「サードが来る!」と、うれしそうに叫んで
いた。何人かの男女が上半身裸になって歌を歌い出した。ぱん、ぱん、祝砲の
ように銃を空に向けて発射する音も聞こえた。

 「ゲンドー」と呼ばれた男は、住まいである錆だらけのスクールバスに戻り、
水瓶代わりの大鍋から水をくんで、一口呑んだ。
 少女がその傍らに立っていた。
「レイ、・・・あれは、そうじゃない。もっと違うものだ」男は言った。
 少女は答えず、男の胸に頭をうずめた。甘えるでもなく、媚びてるふうもな
かった。自然な動作だった。男は、少女の白髪に近い髪を撫でた。

 夜明け前に、少女と男は眠りに落ちた。
 騒いでいた連中も静かになっていた。
 そのころ、3台の装甲車がキャンプに到着した。彼らは住民たちを起こさぬ
よう、盆地へと続く、舗装のはがれかかった道に車を乗り入れず、徒歩でキャ
ンプに向かう事にした。
 装甲車の外に出ると、砂まじりの風が吹き付けて来て、服やサングラスに当
たってぱちぱちと音を立てた。
「なんだ、この風は!・・・すごいな」初老の男は風の中で叫んだ。
「静かに。・・・ほとんど止むことはないんですよ。教授、南半球の気象は無
茶苦茶です」
 二人は、暗がりの中、防弾チョッキにサブマシンガンを構えた男たちに囲ま
れて、巨大なくぼみに向かっておりて行った。その中心に砂漠の中にあるにし
てはモダンすぎるガラス張りの建物があり、そのまわりに様々な住まいが点在
している。
「あの建物は何だね?」
「ホメオスタシスを持つ食料プラントですよ。政府が放棄した後も彼らが動か
しているようです。」
「・・・言っておくが、彼らに危害を加えないでもらいたい」
「当たり前ではないですか。そんな、マンガじゃあるまいし。彼らを皆殺しに
して何の意味があるんです?護衛は『奴』があなたに危害を加えぬようにする
ためのものです」
 暗い道を下るに従って、風は穏やかになった。初老の男はぽつりと言った。
「その心配はないよ」

 かすかな足音と人の声で、少女は目を覚ました。パイプを器用に溶接して作っ
たベッドから起きあがった。大きな男は眠っていた。少女はバスの窓から、外
を見た。誰かが徒歩で、近づいて来る。

 男は、空からおびただしい火の粉が降ってくる終末の夢からさめた。少女が
裸で彼の顔をのぞきこんでいた。赤い瞳が闇の中で、暗いルビーのように鈍く
光っていた。
「どうした?」
「・・・知らない誰かが来る」少女は低い声で言った。
 男は起きあがり、音を立てずに服を着た。ベッドの下に潜り込み、銃身を金
鋸で切り落としたショットガンを取り出した。接近戦にはこれに勝る武器はな
い。
「服を着ろ。音を立てるな」裸でいることで、夜盗かもしれない敵に害を加え
られるかもしれない、と思ったのだ。
 少女は、窓から見えないようにしゃがんだまま、いつも着ている横縞模様の
プリント地のワンピースを着た。

「ゲンドウ。わたしだ」馴染みの声が、突然、そう言った。
「・・・まさか。あんたがなんでここにいるんだ」
「君に会いに来たんだよ。君をどうこうしようとするつもりはない」
 ゲンドウと呼ばれた男は、少女がたまに使う手鏡を手に取り、窓に突き出す。
月明かりの下にいくつかの人影が見える。
「何人も武装した情報部の特殊部隊を連れてきて、何もするつもりが無い、と
言いたいのか?」
「彼らは護衛だ。海江田司令がつけたのだ」
「海江田?」
「今の日本の『ネルフ』の司令だよ。・・・君を殺すつもりなら、もう殺して
いる。話がしたいんだ。武器は持ったままでいいから出てこい」
「なるほど。しかし、あんたが入ってこい。乗車券はいらんよ」
 薄暗がりの中で、初老の男が苦笑した。「冗談が言えるようになったんだな、
碇」彼は手をあげて護衛の者と同行の男を制すると、バスの乗車口のドアを手
で開けて、中に入った。

 バスの中は、まるで家だった。座席はすべて取り外されており、粗末なキッ
チン、タンスと、とトイレらしき小部屋と、そしてベッドがあった。ベッドは、
一つしかなかった。
 床に碇ゲンドウと、『綾波レイ』と名のるはずだった少女が伏せていた。
 初老の男は顔をしかめてベッドを見ながら、こう言った。
「・・・君は、『人間のクズ』だな、碇ゲンドウ」
「人の家に上がり込んでいきなりクズ呼ばわりか、冬月副司令。それに俺はも
う『碇』じゃない。六分儀ゲンドウだ」
「・・・何でもいい、立ちたまえ。君たちを狙撃するようなせこい真似はせん
よ。それに、わたしもまた『副司令』ではない。とっくに解任されているよ」
「それはお気の毒に」
「座ってもいいか?」冬月は言った。
「どうぞ。狭苦しいところだが」
「・・・船で南極へ行った事があるが、大陸がこんな事になってるとはな」冬
月は言った。
「日本の、第三新東京は、別の世界のようだろう?」ゲンドウは言った。
「・・・そうだな」
「ここにいると、終末が実感として分かるんだ。教授」
「・・・そうだな」
「こんな話をしに来たんではなかろう?」
「ああ、海江田に命令されたんだ。MAGIにあの小さなプログラムを入れた
のは君だろう?」
「・・・ああ、保険のためだ」
「君は馬鹿だな。・・・君がまさか、あんな事をするとは思わなかった。レイ
を連れて逃げるとは。わたしは何か、深謀遠慮でもあるのかと思った。しかし
そうではなかった。君は・・・」冬月は、まだ伏せて彼を見上げている、危う
いガラス細工のように美しい少女を見た。
「かまわんよ、レイのことは気にするな。彼女は何でもわかっている。遠慮な
く、ののしれ」
「君は自分の娘ほどの少女を連れて、逃亡した。自分の責任から、人類の未来
から、逃亡したのだ」
「ああ・・・そうだよ。冬月教授。人類の未来から逃亡したのだ」
「なぜだ?」
「そんなことを訊きにきたんじゃあるまい?」
「訊きたいのだ。おそらく、君と会うのも、これが最期だろう。ユイさんのた
めにも、訊きたいのだ」
「・・・おれは、自由なのだ。教授。・・・これが人間の自由なのだ。それに
気がついたんだ。数十億人の人間を『セカンドインパクト』で殺したあげくに
手に入れるはずだった、ゼーレや俺が考えていた『人類の未来』には、人間の
愚行や失敗の自由がないんだ」
「・・・犯罪者の言いそうな屁理屈だな。・・・君は疲れていたんだ」
「・・・そうだ、屁理屈だ。もういいじゃないか。俺は、少女と地の果てで、
世界の終末を待っているケダモノだ。それで、いいじゃないか」ゲンドウは面
倒くさそうに言った。赤銅色に灼けた頬に、シミがいっぱい浮き出ていた。や
がてはそのシミはガン細胞に変化するのだろう、冬月は思った。
「わたしは、君を理解できない。・・・いいだろう。コードを排除する方法を
教えてくれ。教えたからといって、君を逮捕したり、射殺したりする事はない。
そんな暇など、もうないんだ」

 ゲンドウは、ペンライトを取ると、紙に鉛筆で何事か書き付けた。そして、
にやりと笑いながら、こう言った。
「冬月教授。ぼくの修士論文ですよ。いかがです?」

 夜が明けていた。赤い光が、狭い盆地を照らし出している。あたりが血のよ
うに赤い光で染まっているのは、朝焼けのせいではなかった。遥か南の「南極」
という名の煉獄が燃えているのだ。
 冬月は護衛の者たちと歩いて去っていた。
「教授!」背後で声がした。冬月は振り返った。
 赤い光の中で、六分儀ゲンドウが、白い少女と並んで立っていた。彼は少女
の肩を抱いて、引き寄せていた。
「『ユイ』によろしく言っておいてください!」ゲンドウは叫んだ。
「馬鹿な事を言うな」冬月は答えた。ゲンドウは、ははははは、と笑った。そ
んなふうに笑ったその男を見るのは、はじめてだった。

 空調の効いた装甲車の中、冬月は目を閉じていた。車の外では止むことのな
い嵐が吹き荒れ、容赦ない宇宙線が降り注いでいた。

「明日世界の終わりが来るとしたら、教授はどうされます?」まばゆい追憶の
中で、碇ユイという女子学生が言った。京大の、冬月の研究室の中だった。
「うむ・・・、そうだな、いつもと変わりなく、本を読み、鉢植えに水をやっ
てるだろうなあ」
「あたしは、いちばん愛する人と一緒に過ごしたいです。・・・素敵だと思い
ませんか?」若く、美しい女子学生はそう言った。
「世界の終わりを素敵だと思ったことはないよ」冬月はそう答えた。

 目を開けた。窓の外を見る。車は、ゲンドウが少女と住んでいる世界から遠
ざかっている。
 そうだ。もっと離れなければ、冬月は思った。
 早く第三新東京に帰るのだ。今離れつつある世界は、わたしの世界とは別の
宇宙にあるのだ。
 『愛』という、書物から生まれた神が、すべてを支配する別の宇宙なのだ。 
ウラジミール・ナボコフの、あの本のように。



END

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