スタンド・バイ・ミー



 青葉シゲルは、ある田舎町の小さな煙草屋に、祖母と二人で住んでいる。両
親は事情があって、彼が5つくらいの頃からいない。
 祖母は青葉イトという。正確な年齢は孫のシゲルも知らない。
「ほら、三葉虫がいた頃から生きてたってさ」シゲルはいつもそう答える。そ
んなくだらん冗談よりも、「さんようちゅう」という言葉を、あのシゲルが知っ
てるという事実の方が人を驚かせる。
 青葉イトはタフだった。シゲルが言うには、おそろしくタフなババアだった。
人口が一万人たらず、商店街といっても、八百屋がぽつん、雑貨屋だか文房具
屋だかわからない店がぽつん、とある中で、結構うまく商いをしていた。裕福
ではないが、孫を高校まで出してやり、ギターを何本か買ってやることが出来
る程度の儲けがあった。

 シゲルが音楽を好きになったのは、この祖母の影響が大きい。
 青葉イトは津軽三味線の名手だったのだ。津軽から遠く離れたこの田舎町で、
なぜイトさんが津軽三味線に魅せられたのかは不明だが、とにかく達者な弾き
手であった。
「ばあちゃんの『ライブ』って、サブイボできるんだよな(感動で皮膚が粟立
つこと)」シゲルはよくこう言って祖母の事を自慢する。ライブと言っても、
近所の公民館の演芸大会なのだが。

 校則破りの常習犯である青葉シゲルが、高校2年の時に「禁煙」した理由は、
彼が大好きなクラスメートの女の子、伊吹マヤから「いきがって煙草吸ってる
なんて最低」と言われたこともあるけれど、この青葉イトの存在もあった。
 煙草の吸い方が、かっこいいのだ。イトは「煙草を呑む」という言い方をす
る。彼女の吸い方が、まさに「呑む」といった感じなのだ。それは、人生の年
輪を重ねてきたものだけが持つ、かっこいい煙草の吸い方だった。あるとき、
それに気がついたシゲルは、「おれみたいな若造が煙草吸ってちゃいけねえ」
と、死ぬ思いで禁煙した。

「マヤ、おれ禁煙したんだよ!煙草が似合う年になるまで、もう吸わない」
 シゲルはある時、そう宣言した。
「高校2年で禁煙したなんて、自慢にもならないわ」
 彼女の反応はそっけなかった。

 高校生活も3年の冬休みに入ったある日、青葉イトは店先で、新製品の煙草
の味見をしていた。
「・・・まずいねえ。・・・ニコチン入ってないんじゃないか?」
「最近の流行なんだよ、ばあちゃん」孫のシゲルは後ろから声をかける。
「そうかねえ・・・。こんなもん、売ってるのかと思うと、良心がいたむよ」
「ははははは」
「・・・なあ、シゲルぅ。おまえ、伊吹さんのとこの娘さんに、迷惑かけてな
いだろうね?」
「め、迷惑なんて、かけてねえよ。・・・なんだよ、いきなり」
「ほんとかね?お客さんがさ、ちらっと言ってたんだよ。・・・おまえ、嫁入
り前の娘さんを傷もんにしたりしたら、この家、叩き出すからな」
「ば、ばかなこと言うなよ。そんなことしねえよ。・・・それにおれは高校出
たらこの家出ていくからな」
「どこへいくんだ?」祖母は言った。
「東京へ行って、ミュージシャンになるんだ。メジャーになってさ、この店建
て替えてやるぜ」
「なーに夢みたいな事言ってんだ、地道に働け。どっか・・・そのへんで仕事
探せ、たわけ」
「・・・だから、いきなり有名になろうとは思ってないよ。地道にギター弾く
んだ」
「ギター弾くのに、地道も派手もあるもんか」
「自分だって、三味線弾いてるくせに」
「ありゃ、『レクリエーション』てもんだ」青葉イトは孫より単語をたくさん
知っていた。

 その年の大晦日。
 年が明けて、三学期になれば、たった3ヶ月で卒業だった。日向マコトは、
両親と妹と、「紅白歌合戦」を見ていた。
「ま・こ・と、くーん」玄関で気色悪い声がした。
「マコト、だれか来てるわよ」日向の母親が言った。
「ああ、わかってるよ。青葉だ」
「あ、あの子」あの面白い子、母親は青葉の顔を思い浮かべる。

「やあ、野球少年。元気してたか?」
 玄関の戸をがらがらがらと開けると、青葉シゲルが立っていた。
「なんだよ、大晦日の晩に」
「だから、大晦日の晩だから、来たんだよ。大晦日の晩に、清く正しい若者は
何をするのか知ってるか?」シゲルは言う。
「紅白歌合戦を見て、早く寝る」マコトは予防線を張る。
「・・・ちっちっち。これだから、シロートは・・・いいか、若者は、大晦日
の晩には、真っ先に除夜の鐘をつきに行かねばならん」
「じゃね」マコトは戸を閉めようとした。
「待て待て待って。・・・お願い。マコトくん、一緒に行こう」シゲルは哀願
するように言う。
 伊吹マヤだな。マコトは思った。シゲルが「お願い」という時は、たいてい
二人きりだとマヤが会ってくれないから、人数合わせに来い、という時なのだ。
 玄関に出てみると、自転車があった。
「何分ぐらいかかった?」マコトが言った。
「30分くらいかな。必死でこげば20分で行けるよ。ぼくと競争しよう」
「なーにが『ぼくと競争しよう』だ」

「なんで大晦日の晩に、自転車必死でこいで、隣町に行かなきゃなんないんだ
ろ?」マコトはそうつぶやいたが、心のどこかで、伊吹マヤと学校以外のとこ
ろで会えるのを楽しみにしているのだった。

「これくらいの石ないか?」篠原ユミの家の裏で、シゲルはマコトに言った。
「これくらいか?」マコトは石を拾って、シゲルに見せる。
「バカ、それじゃ窓ガラス粉々にしちゃうだろ?カチンって音するだけでいい
んだ」
「そんなに言うなら自分で探せよ」

「だれ?」窓が、さっと開いて、篠原ユミが顔を出した。
「ぎょっ」
「『ぎょっ』じゃないわよ。シゲルくんでしょ?出てきなさい」
「はいはーい」シゲルは手をあげて立ち上がる。マコトも立ち上がった。
「マコトくんまで・・・で、マヤちゃんでしょ?」
「うん」
「どこへ行きたいの?」
「○○寺に鐘突きに行きたいの」シゲルはカマトトぶる。
「じゃ、15分くらいたったら家の前で待ってて、て電話するね」
「お前、今夜は女神に見えるよ、篠原」シゲルが言う。
「ばーか」

 ユミを真ん中にして並んで歩いていた。
「両側に、こんな男前が二人もいてうれしいだろ、篠原」シゲルが言った。
「うれしかないわよ、どっちも目当てはマヤちゃんでしょ」
 マコトはぎくりとした。いま、篠原、『どっちも』って言ったよな、と思っ
た。
「そんなこと無いよ。今年の締めくくりに、ユミちゃんと会いたかったんだ」
シゲルは変わらぬ調子で、おどけて言った。

 いかにも農家といった感じの大きな木造の家の前で、伊吹マヤは待っていた。
 フードの付いた濃い灰色のコートに、白いミトンを付けていた。高校三年生
の格好にしては、少々子供っぽいかもしれなかったが、童顔のマヤにはとても
よく似合っていた。
「・・・なんだか、雪の妖精みたいだよ、マヤ」シゲルは言った。
「雪なんか降ってないわよ」篠原が言う。
「あ、ほんとだ」珍しく日向もふざけて空を見上げる。
「うるせーな!・・・すみませぬ、姫、家来どもがやかましくて」
「もう・・・」マヤはあきれたように首を振る。しかし、その仕草は、夏頃に
比べると、ずいぶん、やさしい感じがした。マコトにはそう思えた。

 四人はいつもの配置、つまり、マヤとシゲル、マコトとユミといった二組の
カップルになって、暗い大晦日の夜の町を歩いた。都会と違って、夜歩きはそ
んなに危険ではない。ただ真っ暗なだけなのだ。気をつけなければならないの
は、田圃用の水路に落ちる事である。

 そのお寺は、町を見下ろす標高七百メートルほどの山の麓にあった。
 シゲルがなぜここに来たかったかといえば、客が少ないのと、大晦日の晩に
は無料で甘酒がふるまわれるからだ。
「ふー。あったまるねー。マヤ」シゲルは、甘酒を飲みなから言った。
「そうね」マヤは答えた。

 ごーん。ごーん。四人で交代に鐘を突く。

 12時が来た。あけましておめでとう、四人は口々に言い合った。
 なんとなく、楽しい気分だった。身体は寒かったけれど、暖かい感じがした。
四人でお寺の隅の石垣に腰掛けている。オレンジ色の明かりが、除夜の鐘を突
きに来た人々を照らし出していた。

「もう三学期ね」篠原が言う。
「マコトくんは就職するのよね」マヤが言った。
「うん、オヤジのコネで、市役所に就職することが決まってるんだ」
「じゃ、お前のことを野球少年じゃなくて、地方公務員て呼ぶことにしよう」
「よせよ・・・、篠原は専門学校に行くんだろ?」マコトが言う。
「通ればね、美容師の資格取りたいから」
「美容師か・・・じゃ、おれがメジャーになったらヘアメイク係で雇ってやる
わ」
「ばーか。ほんとに、こっちで就職先探さないの?向井が言ってたよ、青葉だ
けは、進路相談にならないって」ユミが言った。
「おれは、おれを試したいんだ。おれの夢だったんだ」
「あんたの夢っていっぱいあるのね。マヤちゃんとダンスしたいとか、秋祭り
に行きたいとか、鐘突きに行きたいとか・・・」
「いいじゃないか、夢はいっぱい持つ方が」
「マヤちゃん、早まっちゃ駄目よ・・・。こんな奴について行くなんてことし
たら、一生ドツボよ」
「こらぁあ!」
「あたしは、こっちで就職決まってるから」マヤは言った。それは唐突な感じ
の声だった。真面目な声だった。他の三人は、一瞬、だまってしまった。

 伊吹マヤの家の前。
 ちょっと、あっちに行ってくれ、と青葉に言われて、ユミとシゲルは5メー
トルほど後ろに下がっていた。
「・・・」ところがシゲルは何を言うでもなく、黙って突っ立っていた。
「どうしたの?」マヤが言った。
「・・・あ、ごめん。おやすみって言いたかったんだ」シゲルは珍しく沈んだ
声で言った。
「おやすみなさい」マヤは家の中に入ろうとした。
「マヤ!」そんな彼女をシゲルが呼び止めた。
「なに?」マヤは、すぐに振り返った。
「いや、呼んでみたかっただけだよ。・・・ごめん。・・・おやすみ」
「おやすみなさい」マヤは戸を閉めた。シゲルはぼーっと立って、その閉じら
れた玄関の戸をながめている。
「いつのまに、そんなにいい雰囲気になったのよ」篠原がはやし立てる。
「ばか、そんなんじゃねーよ」

 篠原ユミを家まで送った後、二人の少年は、なんとなく自転車を押して歩い
ていた。
「なあ、野球少年・・・。星が綺麗だな」シゲルが言った。
「そうかい?」
「きっと初日の出も、綺麗だぞ」
「な、何が言いたい?」マコトは警戒している。
「うん?・・・これからどこへ何しに行くか、思いついたんだ」シゲルは言っ
た。

「何が悲しくて、大晦日の真夜中に、山登りをしなきゃならないんだ?」マコ
トは息を切らせながら言った。
「弱音を吐くな、野球部の練習より楽だろ?もうすぐ頂上だよ」
 二人はさっき行ったばかりのお寺の裏山を登っているのだ。標高700メー
トルほどの山だから、ゆっくり歩いても1時間ほどで頂上に登れる。

 小さな田舎町は闇の中に沈んでいるようだった。明かりがまばらだった。
 二人は汗をかいていた。頂上の岩場に腰をかけた。
「なあ・・・田舎だな、ここ。夜景なんてもんじゃねえぜ」シゲルは言った。
「そうだな」マコトは答えた。

「・・・おれは東京へ行くよ」
「そうかい。・・・がんばれよ」
「おざなりに言うなよ、野球少年。寂しくないの?このボクがいなくて」
「なにが『ボク』だよ。いつでも帰って来られるじゃないか」
「そうだけど、さ」
「それより、伊吹、どうするんだ?」マコトは言った。
「え?」
「だから、どうするんだよ。あの子、放っておくのか?」
「・・・そういやあ、そうだな」
「『そういやあ』って、お前、あの子のこと、真面目に考えてないのか?・・
・・お前はいいだろうけど」なぜか、日向は腹を立てていた。そして、こう言っ
た。
「音楽とマヤと、どっちを取るんだよ」
「・・・」シゲルは考え込んでいた。柄にもなく『ディレンマ』などという、
高尚なものに陥ってしまったのかもしれない。

「・・・歌、歌おうぜ、野球少年。なんか歌いたくなってきたよ」
「何だよ、急に」
「なあ、歌おう。教えてやるからさ。なにがいいかな・・・あ、これだ」
 シゲルは膝を叩いてリズムを取った。そして歌い出した。
 聴いたことが無い歌だった。しかし、シゲルは、マコトが一緒に歌えるまで
何度も繰り返した。しまいにはマコトも、「Stand by me」というリフを、大
声でがなるように歌った。

 いったい何コーラス歌っただろう?二人は声を枯らして、へたりこんだ。
「・・・気持いいだろ、『スタンド・バイ・ミー』って歌だ」
「・・・ああ、いい曲だ」マコトは答えた。

「・・・なあ、野球少年。遠慮はするなよ」シゲルは、まだ暗い、東の空を見
ながら言った。マコトには、シゲルが何を言いたいのか、すぐにわかった。
「ああ」と彼は答えた。理由はないが、そう答える方が、シゲルが喜ぶと思っ
た。
「遠慮なんか、年寄りのするモンだって、ばあちゃんがよく言ってたんだ」
「はははは。・・・お前がそんな性格に育った理由がわかったよ」


 それから3ヶ月後だった。その事件が起きたのは。
 兆候はあった。あの青葉シゲルが、時折ふさぎ込むようになったのだ。だれ
かが冗談で、「これは天変地異の前触れか」と言うくらいに。
 卒業式の朝。シゲルは来なかった。マコトはマヤを見ていた。マヤはシゲル
の普段座っている、空っぽの席を見ていた。

 間の悪いことに、町の教育長挨拶の時にそれは起きた。
 ばん、ばん、ばん。
 えらく高いところで、ガラスを叩く音がした。全校生徒、先生たち、来賓全
員が見上げた。
 体育館の一番高い窓に、青葉シゲルが張り付いていた。必死で窓を叩きなが
ら、こう叫んだ。
「マーヤーッ」
 何もかもが、まるでストップモーションのようになった。先生たちは駆け出
し、卒業生の目は伊吹マヤ一点に集中し、伊吹マヤは、両手で顔を押さえてう
ずくまった。

 それから、何年か経っても、日向マコトは、あの青葉シゲルの、おそろしく
真剣な顔を思い出すことがある。それは、幼い子供が、泣きべそをかいている
ようにも見えた。
 ・・・おれが悪いんだ。マコトは、いつも後悔とともに思い出す。おれが、
「音楽とマヤのどっちを取る?」などという、答えようのない、バカな質問を
したから。

 やったことはバカだけど、この友が、どんな想いで伊吹マヤの名を呼んだの
か、わかるような気がするのだ。痛いほど。
 なぜなら、彼は、「ついてきてくれ」とも「まっていてくれ」とも言わなかっ
たからだ。言いたくても・・・言えなかったのだ。
 だから、名前だけを、叫んだのだ。


 


おわり

inserted by FC2 system