聖母子像



                1

 天井が見えた。シンジは時たま、眼を覚ます瞬間に,あの頃の事がよみがえ
るのを感じる。もうエヴァに乗らなくてもよいのだ。心ではそう思っても、起
きあがり、服を着ようとすると,脇に青いプラグスーツが置いてあるような気
がするのだ。
 シンジは横を向いた。ダブルベッドの中は一人きりである。彼は急いで体を
起こした。
 キッチンの方で物音がする。心配はない。もう何も心配はない。彼女を失う
心配などないんだ。彼は自分に言い聞かせるように繰り返す。
 キッチンに続くドアを開ける。一人の女性が彼に背を向けている。何かを焼
いているようだ。空色の髪,透き通るような白い肌、小柄だがしなやかな肢体。
彼はその女の肩に顎を乗せ両手を細い腰に回す。
「起きたの?」
「うん」
「疲れているみたいだから、おこさなかったの」
「夢を見たんだ」
「おとうさんの?」
「ああ、最期に会ったときの」12年前のその時,彼の父は彼女のことやゼー
レの事、エヴァの事をすべて話してくれたのだった。
「いつまでもそんな夢を見るのはよくないわ」
「夢はコントロールできないからね」
「私はあの頃夢を見なかったわ。結婚してからよ。夢らしい夢を見るようになっ
たのは」
「どう感じた?」
「ああ、これが夢かって感じ」
「ぼくは、いまだに夢を見ているみたいだ。キスして眼を覚まさせてくれよ。
レイ」

 シンジは着替えながら食卓の上の新聞を手に取る。西暦2027年10月2
1日付けの朝日新聞の朝刊だった。見出しを流し読みしてゆく。突然、彼の眼
は社会面で止まった。背後にレイが彼にコーヒーを運んでくる気配がする。彼
はあわてて読みかけの新聞をばさばさと閉じようとした。
「もうそこは読んだから気にしなくてもいいのよ」
「読んだのか」それは衆議院の特別公聴会でいわゆる「クローン法案」が審議
されたことを伝える記事だった。
「思った通りだ。法案では、元の人間の嫡出子と同じ法的地位が与えられるら
しい」
 レイは彼の前に座り,彼の目を見据えて静かに言った。
「この法案がこんどの国会で可決されると、私とあなたは法律上は『兄妹』っ
てことになるのかしら?」
 シンジは思わず目を逸らす。
「いや,そうじゃない。この法律の施行後に誕生したクローンからの適用にな
る。それに公式には、クローン人間は、いま日本に存在しないことになってる
んだ」シンジはうつむいたまま言う。きみが「綾波」という作られた戸籍と住
民票を持っていたからこそ,ぼくたちは結婚することができたんだ。シンジは
コーヒーを一口啜る。
「私が存在しない人間だったからよかったのね」
「・・・でも碇レイは存在するよ。ぼくの妻だ。こんな話はもうよそう」
「そうね」

 シンジを職場へ送り出すと、レイは再びダイニングで新聞を読み始める。
 私たちには関係ないわ。こんな法律。私の出生の秘密を知る「ネルフ」の人
たちは、あの「黙示録的災厄」でほとんど死んでしまったし。レイは懸命に自
分に言い聞かせている。
 でも、なぜ、こんなにも不安なのかしら。彼女は思う。シンジがそばにいな
いときに限って、逃げ出したいほどの不安を感じる時がある。逃げるって、ど
こへ?私にはシンジ以外に逃げる場所がない。
 外にはよく晴れた青空が広がっているようだ。どこからか犬の鳴き声が聞こ
える。
 不安は往々にして的中するものだ。

                2

「あの男が3番目のパイロットだったのか?」マンションから出たシンジが歩
いている歩道の反対側に、一台の車が停まっている。車の中には運転席に一人、
後部座席に二人、計3人の男たちがいる。
「3番目だ。われわれはサードチルドレンと呼んでいた」後部座席の男が隣の
男に答える。
「サードが初号機に乗っていたのか」
「そうだ」
「写真とだいぶ違うな」
「12年も経っているんだ、そりゃ違う。だが面影はあるだろう」
「そうかな。ま、それはいい。彼はどこに勤めてるんだ?」男は運転席の男に
話しかける。
「復興省食料局供給改善課、第4新東京市内です」運転席の男は答える。
「元エヴァンゲリオンのパイロットしては地味な職業だな」
「彼はそれを隠してます。どうします。しばらく監視させますか」
「いや、いい。彼は逃げも隠れもできやしない。問題は女だ。買い物にでも出
てくれるのを待とう」

 レイは料理は得意ではない。生理的嫌悪感のせいで、なまものがうまく扱え
ないのだ。シンジはやさしいから、何もいわないけれど、人並みにおいしいも
のを食べたいと思っているんだろうな、レイは考える。そうだ、今日はスキヤ
キでもしてあげよう。肉の臭いにもちょっぴり慣れた。
 昨日給料日だったもの。すこしは贅沢したって。

「出てきたぞ。彼女がそうか?」
「そうだ。少し伸ばしてるが髪の毛の色と、肌の色でわかる。ファーストだ」
「なるほど。写真は撮ってるか」男は運転手席の男に言う。
「はい」
「出来るだけ顔が解るようにな。美人に撮れよ。美人の方がインパクトは大き
い」
「ファーストはむかしから綺麗な子だった」
「ふ、あんたがたはその綺麗な女の子をおもちゃにして遊んでたわけか?」
「な、何を言う。こんな侮辱は耐えられん!私は帰る」
「まあ座れ。飛行機代も無いくせに偉そうに言うな。彼女は本当にそうか・・
・・あの碇シンジという男の母親の・・」
「そうだ・・母親のクローン人間だ・・・・。だがなぜそっとしておいてやら
ん?あの夫婦を破滅させる気なのか?」
「そんな事は望んでもいない。まあ、離婚したらしたで話題にはなるだろうが
な」
「・・・読めたぞ。この国の、あの法案だな。あの法律の成立を阻止したい連
中の手下なんだな。スキャンダルを起こして世論を操作しようとしてるんだな」
 ばしっ、後部座席の男は、元マルドゥック機関研究員の頬を手の甲でたたい
た。
「科学的な推論じゃないか。え。どうしてその才能を自分自身の人生に生かせ
なかった?」

                3

 その夜、ふたりはいつもより長く愛し合った。
 シンジは掛け布団の上で裸のまま横になって、ひんやりとした感触を楽しん
でいた。彼の隣には、あおむけの白く美しいレイの裸体があった。彼女がとき
おり見せる表情のように愛らしく上を向いた乳房をシンジは優しく愛撫する。
 この乳を吸う幼な子は産まれてこない、シンジは思った。少なくともぼくた
ちからは永遠に。
 結婚する前にシンジは手術を受けたのだ。その時レイは自分が不妊手術を受
けると言って聞かなかった。エヴァに乗ってる時も危険な任務といえばすすん
で志願していたな、シンジはその時思った。もしぼくたちが夫婦としてダメに
なっても、きみは新しい人とやりなおして子どもをもうけることができるじゃ
ないか。シンジはそう言って説得した。でもあなただって同じじゃない。しか
しシンジは意志を通した。なぜなら自分がレイ以外の女性と結婚するなど、永
遠にありえないと思ったからだった。
「・・・うん・・・」レイは顔を横に向けてシンジを見た。頬がぼおっと赤ら
んでいる。
 シンジはレイに何度目かのキスをした。
「シンジ・・・」レイはシンジを見つめた。赤い瞳が薄明かりに映える。
「・・うん・・・」
「まえ、言ってたでしょ。ほら、国連の、養子縁組の話・・」
「ああ、アフリカの・・」
「私たち育て親になってみない?」
「え・・・」シンジは驚きのあまり二の句が接げない。
 レイはゆっくりと、言葉を探しながら話しはじめた。
「・・・子どもがいたら、楽しいだろうな、と思えてきたの。最初は。・・・
それに・・・」
「それに?」シンジはレイの手のひらの中に包み込む。
「私たちは死ぬまで一緒よね?」
「ああ」
「今日、あなたが仕事に行っているあいだ考えていたの。私たちのどちらも死
んだ後、どうなるだろうなって」
「・・・レイ」
「私たちとこの世界をつなぐ絆はたちまちなくなってしまう・・・。そう思っ
たわ。私たちの手で終末を遅らせたかもしれない、この世界に・・・何か、私
たちがかつて生きていたということを残しておきたいの・・・」
「・・・でも、それだったら」
「人工受精はいや・・・・。私の生まれを連想するもの・・それに、誰かの精
子を使うということは、あなたの遺伝子を持つ子どもではないわ。だったら同
じでしょう」
「大変だよ」
「大変でもいい。あなたが時たま応援してくれるのなら。いい?」
「・・・ぼくの子どもでもあるんだぜ、”応援”なんて言葉使うなよ


                               4

 そしてイチロウがやってきた。彼は暗褐色の肌を持つアフリカ生まれの1歳
半の戦災孤児だった。イチロウという名はシンジが付けた。最初は洒落のつも
りだったんだ。レイの子はやっぱりイチロウだろうなって。しばらくするとそ
れしか考えられなくなっていて、とシンジ。
 イチロウとシンジとレイの生活が始まった。二人には相談出来る人がいなかっ
たため、それこそ育児書と首っ引きで取り組まなければならなかった。しかし
楽しかった。
 あっというまに2週間が過ぎた。

 シンジの夢の中でイチロウが泣いている。大丈夫、ママはここにいるわ、レ
イの優しい声が遠い夏の声のように耳にこだましている。目を開けて隣をみる。
レイがイチロウを抱きしめて背中をそっと叩いている。シンジはその時、強い
既視感に捕らわれた。ぼく自身の記憶。ぼくの母の記憶なのか。いつか寝苦し
い夜、ぼくの母がぼくの背中を・・・。シンジはその連想を頭から追いやって、
レイに声をかける。
「おなかが空いたのかな」
「ごめんなさい。起こしてしまったわね。恐い夢をみたんだわ。最近何度かそ
れで目をさますのよ」
「こんな小さな子でも悪夢を見るんだ・・・。どんな夢なんだろう」
「さあ・・・。ミルクが足りなかったとか、母親がどこかへ行ってしまったと
か」
「きみを必要としてきた証拠だよ。きみを失う悪夢を見たのかもしれない」
 ぼくと、同じだ。シンジは思った。
 時計を見た。6時30分。彼は、もう起きるよ、といってそっとベッドから
出た。
 顔を洗い新聞を取ろうと居間を横切った時に、VFAXの保留中のランプが
ついているのに気がついた。シンジは再生のスイッチを入れた。それが白昼の
悪夢の始まりだった。
「はじめまして、碇シンジさん。わたくしMNNの記者の鈴木と申します。実
はあなたとあなたの奥様について取材したいのです。あなたの奥様がクローン
であるという情報を入手しまして。それにそのクローンの元となった人物はあ
なたにご関係の深い人物だそうで・・・。もちろんお望みなら実名は出しま」
 ぶちっ。シンジはVFAXの停止ボタンを押した。壁掛けテレビから鈴木と
名乗る男の顔が消えた。
「・・・まさか・・」シンジは呆然とつぶやいた。


                5

 悪夢は始まったばかりだった。シンジは群がるマスコミのレポーター達の人
垣をかき分けるようにして出勤しなければならなかった。職場に着いたら着い
たで上司や同僚の無遠慮な視線にさらされた。昼休みにレイに電話した。何度
かけても話し中。自分のデスクに戻ると机の上に今日発売の写真週刊誌が置い
てある。
かれはページをめくった。買い物に出かける時の写真だろうか、レイが歩いて
いる写真。彼女の目は容疑者のように隠されているが、一目でレイとわかる。
「母親のクローンと結婚した男」という文字が踊っている。そうだ、ぼくのこ
とだ。ぼくがレイにプロポーズし、3年越しで説得して、ようやく去年結婚し
たのだ。背徳。罪。神への冒涜。言葉だけなら、まるで聖書のようだ。シンジ
はその週刊誌を見て思う。
 彼は意地でも定時まで職場にいようと思い、歯をくいしばるようにしてそう
した。5時が来た。モノレールの中まで記者を引き連れて彼は妻子の待つアパー
トへ急ぐ。
 飛び交う質問の中で怒鳴るようにぼくだシンジだと言って部屋に入る。
 ドアをロックして、顔もろくに見ずにシンジはレイを抱きしめた。1分ほど
そうしていたろうか?レイがそっと彼の腕をほどく。
「・・・シンジ!」彼女の声は震えていた。
「大丈夫だ。ぼくがついている」シンジはそう言いながら、このぼくに何が出
来るだろうか、と考えていた。

 テレビ番組は彼らの話題一色だった。レイとイチロウには見せないようにし
て、シンジは一人でテレビを観ている。奇妙なことに彼らの過去、つまりジオ
フロントの消滅とエヴァンゲリオンとの関係は巧妙に隠蔽されていた。情報操
作だ。シンジは思った。あの今はなき「ネルフ」がよく使った手だ。マスコミ
はレイがぼくの母の遺伝子を持つという一点に話題を集中させようとしていた。
いろんな『評論家』が、クローン人間に法的権利を与えるにしても「一般人」
の権利より制限してしかるべきで、今の「クローン法案」は修正すべきである、
と、言葉を変えて喋っているのを聞いて、シンジはこの背後にいるものの意図
を悟った。

 何日かたっても嵐は止まなかった。どのメディアもシンジとレイの実名を伏
せてはいるが、連日大勢の記者たちがアパートに詰めかけるため、この界隈で
は知らぬものとていない状態になっていた。レイとイチロウは一日中アパート
の一室に閉じこもって外へ出ようとしなかった。
 職場から帰宅する際に、アパートから2駅離れたコンビニで買い物をするの
がシンジの日課となった。もちろんいつも影のようにつきまとう記者たちを引
き連れて。あらゆる人が彼を指さし、噂話しをしているようだった。出来合い
の総菜とおにぎりとを買い、近くの薬局で離乳食の缶詰を買って再びモノレー
ルに飛び乗り家をめざす。
 アパートの部屋の前にはいつものように何人かのレポーターがたむろしてい
る。しかしその日は何か変だった。いきなり質問をぶつけてこずにシンジの様
子をうかがっているかのよう。シンジはドアを開けようとして、ハッと手が止
まる。フラッシュが左右から彼と彼のアパートの一室のドアに書かれた落書き
とを一緒に写そうとパシャパシャたかれる。シンジは一斉に突き出されるマイ
クを払いのけるように中に入った。

                6

 居間ではレイが一人でテレビを観ていた。画面には見慣れたアパートの一室
の玄関のドアが映っている。そしてそのドアには赤いペンキで、
『MotherFucker!』
と書かれていた。シンジはいきなりテレビのスイッチを切った。
「夕方黒服を着た若者達が来て怒鳴りながら書いていったの。テレビではなん
とか教の原理主義者行動隊っていってたわ」レイの声から感情が消えている。
「なんてやつらだ」シンジはそう言うのがやっとだった。
「・・・すごく、恐かったわ・・」
「いざとなったらすぐに警察を呼ぶんだ。いいね。法的には、ぼくたちにやま
しいことは何もない。守ってくれるはずだ」
「・・・私には実感は無かったけれど、この世界を救ったという事を、少しだ
け、誇りに思っていたのよ・・・バカみたい・・」レイは両手で顔を覆った。
シンジはレイの肩に手をかけた。しかし何と言えばいいのか何も思いつかなかっ
た。
「・・・落ちつけよ。ともかく・・」
「・・・私は、私よ。あなたの母親なんかじゃない。あなたを産んだ覚えなん
かない」
「・・・落ちつけったら!」
「・・・私は実験室の暗闇の中から産まれてきたわ・・・小さい頃、あの研究
室で、何度かマウスのケイジの隣で待たされた事があるわ・・・。実験される
ためよ。マウスは別の実験のために、待っていたの・・・。一緒に並んで待っ
てたのよ」延々と続く暗い隧道。シンジの心にそんなイメージがわく。
「やめろ!」シンジは顔を覆うレイの両手を掴んだ。レイは泣いていた。赤い
瞳が涙で濡れている。
「・・・最初に私を人間扱いしてくれたのは碇司令。日増しに自分の奥さんに
似てくるんだものね。どんな気持ちでいたのかしら」
「やめるんだ!・・・お願いだから」
「・・・後悔している?でも、シンジ、あなたが言い出した事なのよ。私はあ
なたの愛人でも何でもよかったのよ。たまに会ってくれてさえ」
「ばかっ。さんざん話し合って決めたことじゃないか?それに、きみがしっか
りしないとイチロウはどうなる?」
「そうね。・・・ごめんなさい」
 その時、奥の部屋からイチロウの泣き声が聞こえた。レイははっと我に返っ
たようにシンジの手を振りほどきイチロウを抱き上げにゆく。
 シンジは居間のカーペットの上に座り込んだ。逃げちゃだめだ。シンジは自
分に言い聞かせるように言う。しかし暗い連想が次々と浮かんでは消え。
「・・・ぼくは・・・間違っていたんだろうか・・・」
 彼はそうつぶやいてみた。わざと離婚して、レイとイチロウを引っ越しさせ
たらどうだろう。レイが言うようにぼくたちはたまに会えれば・・・。シンジ
はそう考えてから自分を恥じた。その案はレイの肉体から何かをもぎ取る行為
に等しい。もしそうしたら、あっという間に、ぼくたちはダメになるだろう。
 シンジはうなだれた。


                7

 しばらくたって、シンジは顔を上げた。
 レイは、すっかり自分を取り戻していて、ガーゼを持ち、イチロウの汚れた
頬を拭いている。レイはもう涙を拭いていて、イチロウに微笑みかけていた。
まるで泉が湧き出るような自然な感情がレイの身体全体にあられている。レイ
はこの12年間のあいだにずいぶん変わったな。シンジは思った。なのにぼく
は相変わらず責任から逃げ出そうとしている。
 イチロウはきゃっきゃと笑いながらレイから白いガーゼを取り上げて、彼の
母の頭の上にのせようとする。汚れが拭けたので、レイは彼のしたいようにさ
せている。その時レイはシンジの視線に気がついて彼と目を合わせた。
 締め切ったカーテンの隙間から一条の光が、レイの白い布がかぶせられた頭
を照らしている。糸くずのような細かな埃が、白く光りながら雪のようにゆっ
くりとレイに舞い落ちていた。
「・・・シンジ」逆光を背に、彼女はシンジを上目遣いに見つめながら落ち着
いた声で話しかけた。腕には笑みを浮かべた黒い肌の幼な子を抱いている。
「12年前、私はあなたを命がけで守ったわ・・・。おぼえている?」
 忘れるものか。シンジは灼けたエントリープラグの前で感じた焦燥感をおぼ
えている。彼女を失うのではないかという激しい不安をおぼえている。
 レイは少しだけ顔を傾けてかすかな微笑みを浮かべた。偶然にもイチロウも
シンジの方を向き彼に笑いかけた。一枚の絵のようだ。シンジは思った。レイ
はやさしく、けれど力を込めてこう言った。
「・・・借りを返して・・。あなた・・・。私たちを守って」
 その時シンジのからだ全体を電流がはしった。全身の皮膚が粟立ってゆく。
彼を形作る細胞のすべてが震えながら目を覚ましてゆくようだった。一瞬レイ
とイチロウの姿がぼやけた。シンジは親指で自分の眼を拭った。すべてが、はっ
きりと見えだした。これまで以上にはっきりとレイやイチロウや彼らを取り巻
く何もかもがよく見えた。・・・ミサトさん・・・。脳裏には最期の最期まで
自分を気遣ってくれた、美しい女性の姿が浮かんでいる。
 ミサトさん・・・ぼくは、みつけた。ぼくがこの世に生を受けた理由を。
 この母と子を、ぼくの家族を、命をかけて守るためだったんだ・・・。
 レイはシンジの表情に変化が起きたように見えた。眉間の暗い陰は消えてお
り、今までよりもっと優しげな目をしているわ、とレイは思った。


                8

 その時、VFAXの警告音がなった。レイは立ち上がろうとする。
「ぼくがみるよ」レイを制してシンジはVFAXの前に行く。またぞろレポー
ターか、ファンダメンタリストか、いたずらだろう、彼は消去ボタンを押そう
としてふと発信人の名前が出ているLCDを見た。そしてあわてて再生ボタン
を押した。
「ハーイ、シンジ、レイ元気?」壁掛けテレビに、マントルピースを背に座っ
ている、若い女性の姿が大写しになる。
「アスカ!」シンジとレイはほとんど同時に声を上げた。イチロウはきょとん
と母を見上げる。
 12年の歳月がこましゃくれた少女を、成熟した、美しい女性に変貌させて
いた。しかし生き生きとした青い目は見間違うはずもない。
「結婚式以来1年ぶりね。二人とも。私はごらんの通り、家と研究所を行き来
する毎日。退屈でどうかなりそう。ところで」アスカは眉をひそめる。
「シンジ、レイ、あんたたち、アメリカでも『時の人』よ。やっぱりガチガチ
の清教徒の国だわ、ここは。しばらくアメリカ旅行は控えた方が賢明ね」
「正直な話、あんたたちが結婚するって聞いた時には、将来、こんなことが起
きるかもしれないって思ったわ。でも、シンジの意志はとても堅そうだったか
ら、何も言わなかったの。『結婚』なんて時代遅れの馬鹿げた制度にこだわる
シンジの気持ちが、その時は分からなかったけど。でもこの騒ぎが起こってみ
て、かえって分かったわ。シンジはレイに少しでも多くの絆を与えたかったの
ね。たとえそれが一枚の紙切れに過ぎなくても」アスカは真剣にそう言った。
「だから、・・・・頑張って。私はなにもしてあげられないけれど、『DEU
S IRAE』にも生き残ったわれらがチルドレンの強運を信じなさい」
 シンジの脳裏には、あの『怒りの神』の日、かつてはジオフロントと呼ばれ
た巨大なクレーターから、レイと共に、重傷を負ったアスカをかばいながら歩
いて脱出した日の記憶がありありと甦っていた。7人のうちの最初の3人のチ
ルドレンの『予定外の行動』があの忌まわしい預言の成就を妨げ、現在の人間
の世界を終末に導く『再創造』を防いだ、という事実を知るのは、脱出後だい
ぶ経ってからだった。
「チルドレンのリーダーとして命令するわ」アスカがおどけて言う。
「サード!ファーストを守るのよ。くじけないで。・・・ファースト!サード
を信じて、支えてあげて。・・・バカかもしれないけど、あなたへの愛はほん
ものよ」
「騒ぎが一段落したらゆっくり会って話をしたいわね・・・・じゃ、また。さ
ようなら」アスカの映像がふっと消えた。
「バカだけは余計だよな・・・」シンジは思わずぼやくように言う。レイはそ
んなシンジが、いとおしくて、おかしくて、クスリと笑った。久しぶりに笑っ
たような気がした。
 シンジはレイに向かって言った。
「さっそく返事をだそうよ。レイ。イチロウを抱いてこっちへおいで。・・・
月並みな文句だけど、『こんどわが家にベイビーがやってきました。近くにお
越しの節はぜひお立ち寄りください』とね・・・」

 


おわり

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