あすかちゃん


 明日香は、まあたらしい靴をはいて歩いていた。それは黒の革靴で、シャン
デリアの光を反射してぴかぴか光っていた。分厚いカーペットを踏みつけなが
ら歩くと、きゅっきゅっと音がするようだった。それが意味もなく楽しくて、
彼女はロビーの端から端まで大股で行進していた。
目の隅には、あの男の子が母親に白いハンカチで胸元を拭かれているのが映っ
ている。
 スープすら満足にのめないなんて、ばかだわ、明日香は思った。それにいつ
もおかあさんの手をひいて、乳離れしていないみたい。
「明日香ちゃん」その母親が明日香を呼んだ。おとうさんと同じ大学のせんせ
いの奥さん。たしか、いかりナントカといった人。
「はい、おばさま」明日香はきちんとご挨拶をした。
「おばさんねえ、スピーチがあるからまた披露宴会場に戻らなくちゃならない
の。終わるまで真嗣と一緒に遊んでてくれないかしら?」
「はい、いいです」明日香は答えて、その男の子を見た。その子は後ずさって
母親のスカートの後ろに隠れた。やっぱり、ばかだわ、明日香は思った。
「ほら、真嗣、挨拶しなさい。来年同じ小学校に行く、明日香ちゃんよ、『こ
んにちは』は?」
「…こ、こんにちは」男の子はおずおずと言った。
「こんにちは、よろしくね」明日香はわざと大声で言ってやる。男の子がびくっ
となるのが面白かった。
「それじゃ、ごめんなさい。ホテルの中で迷子になっちゃうからあんまり遠く
に行っちゃだめよ」母親はそう言って、大きな扉を開けて、にぎやかな披露宴
の会場の中に消えた。
「はい、おばさま」明日香はそう言った。そして再び行進を始めた。
 男の子の視線を感じる。途方に暮れたようにわたしを見ているわ、明日香は
思った。そして、彼女は男の子の前に立ち止まると、人差し指でその子の額を
こづきながら言った。
「あんたは、わたしの『けらい』よ。いいわね」
「……」
「返事は?」
「…う、うん」
「『うん』じゃないわよ、ばーか。わたしが話しかけたら、『はい、お姫様』っ
て答えるのよ、わかった?」
「…うん」と男の子が答えるが早いか、明日香はげんこつでその子の頭をぐり
ぐりしながら言った。
「『はい、お姫様』でしょ、ばかっ」
「…はいっおしめさま」真嗣は『ひ』と『し』をうまく区別できないのだった。
明日香はもう一度男の子の頭をぐりぐりしてやった。


 明日香は、ランドセルを振り回しながら、公園めがけて走っていた。
公園では、真嗣が何人かの男子に押さえつけられている。
「おーっ。真嗣の『よめさん』が来たぞ」中の一人が叫んだ。男子たちはどっ
と笑い出す。
「あんたたちっ。たったひとりにそんな大勢でかかっていって、恥ずかしくな
いのっ」明日香は怒鳴り返した。
「おーこわ、『よめさん』が怒ってるぜ」最初の男子がそう言った。突然、赤
いランドセルが飛んできて、その男子の顔にばふっと音を立てて当たる。わっ、
と声を上げてその男子はのけぞった。
「くだらないこというんじゃないわよっ。この腐れミミズのゲジゲジやろうっ。
群れなきゃ喧嘩もできないくせにっ」明日香はランドセルを拾って振り回した。
男の子たちは逃げ出した。
「真嗣と明日香は似合いの夫婦、真嗣と明日香は似合いの夫婦」男子は10メー
トルほど離れたところではやし立てている。明日香はあかんべえをしながら、
真嗣を助け起こす。
「あんたもしっかりしなさいよっ。もう5年生でしょ。なんでやりかえさない
の?」
「…え、う、うん」真嗣はのろのろと立ち上がり、土埃だらけのズボンをぱん
ぱんとたたいた。
「あんまし、あんなの得意じゃないし」
「と、得意不得意の問題じゃないでしょ。…あたしもう帰るからね。変な噂た
てられて迷惑してるんだから」そういって明日香はすたすたと歩き出す。
「あ、待ってよ」真嗣は声をかけた。
「なによ?」明日香は振り返る。
「…ありがとう」真嗣はしんけんな顔をして言った。
「い、いいのよ」明日香は再び歩き始める。


 明日香は、物陰に隠れた。映画館通りのマクドナルドの前。ちょうど斜め向
かいにケンタッキーがあり、白いひげのおじさんの後ろに隠れる事ができた。
綾波麗と碇真嗣がマックから出てきた。並んで歩いている。綾波は笑いながら
真嗣の腕をぽんとたたく。いやらしいったらありゃしない。彼女はクラスの男
子全員にあんな風に笑って、あんな風に腕を叩いたりする。真嗣の馬鹿、誤解
するんだろうな、明日香は思う。この子ぼくに気があるのかな、なんて。そん
なこと金輪際ないわよ、馬鹿。あんたなんか相手にする物好きな女の子いない
わよ。…めったに。
 ある日、中学校からの帰り道、明日香は思いきってきいてみた。
「ねえ、こないだの日曜日、綾波さんとどっか行ってなかった?」
「え?…あ、あれね」真嗣はそういってしばらく間をおいた。
「あの、うん。あれはね。綾波さんが、親戚のお兄さんに男物の何かをプレゼ
ントしたいから、一緒に見てくれってたのまれたんだ」
「…ふうん」明日香は言った。もうこれ以上訊くもんか、彼女は思った。まる
でやきもちやきの女の子が、あれこれと詮索しているみたいじゃない。
「で、何買ったの?」明日香は言った。
「え、ああ、気に入ったのがなくて、結局買わなかったんだ」真嗣は答えた。
「…ふうん」明日香はそっけなく答えた。
 秋だった。どこまでもつづく、高い、青い空が広がっていた。
「じゃ、また行くんだ」明日香はぽつりと言った。
「ううん、もう行かないよ、…たぶん行かないと思う」
「…どうして?」
「…いや…なんとなくかな」
 きっと、恋多きあの娘のお気に召さなかったんだわ、明日香は思った。


 明日香はその言葉を信じられなかった。目の前の女の子はしゃべりつづけて
いる。
「でさー、真奈ったら、もうべたべたでさー。真嗣君のこと『シンちゃん』な
んて呼んでるのよ。でもねえ、あんな派手な子、真嗣君と合わないと思うんだ
けどねー。…どうしたの?明日香?ぼーっとしたりして?…あ、そうかあ、あ
の子ちいちゃいころからあなたの『子分』みたいだったでしょ。ほんと月日の
たつのは早いもんね。あんたもあたしも花の女子大生だし、真嗣君にカノジョ
が出来るご時世になったもんねー。あ、あたしったらオバンくさ」
 友達はまだしゃべり続けていた。明日香は、その声が自分を通り抜けて、後
ろにある掲示板にぱんぱんと当たってはじかれているような気がした。友達と
別れた。電車に乗った。駅から家まで、とぼとぼと歩く。
わたしには、祐司も、俊治も、大地もいるわ…。そうよ、学だってキープして
ると言ってもいいかも。明日香は思った。…真嗣がなによ。そもそもきちんと
『つきあった』って意識すらなかったじゃない。…たぶん、お互い。
 部屋に入り、大きな音でキャロル・キングをかける。古い歌。『イッツ・トゥ
ー・レイト』。…ぴったり?…なんでぴったりなのよ?なんで今の気持ちにぴっ
たりなのよ。
 明日香は目のあたりがしきりに、きりきりと痛むのを感じている。コンタク
トがあっていないのかも。明日、眼医者に行こう。時計を見る。午後4時。明
日まで、なんて長いんだろう?…寝よう。もう、寝よう。
 明日香は夕食も食べずにベッドで丸くなって眠った。


 明日香はだだっ広いホテルのロビーで待っていた。もう1時間も過ぎていた。
コーヒー2杯目。
「…ごめん?…怒ってる?」気がつくと、真嗣がさえない紺色のスーツを着て、
彼女をのぞき込んでいた。
「…怒ってなんか、ないわ。ただ、あなたに『バカヤロウ』と言いたくて、待っ
てたの」
「…ほんとうに、ごめん。課長が、突然明日のプレゼンの資料出来てるかって」
「出来てなかったんでしょ?」
「うん」彼はそういって、明日香の向かいに座った。
「あんたって、ほんと、ばか」明日香はため息混じりに言うのだった。
「ごめん、すまない、こんな夜に遅れるなんて、申し訳ない」
「いいのよ、あたしは。これもなんかの定めなのよ。あんたと会った時から、
決まってたのよ。神様が他の女の子に迷惑をかけないように、あなたのお守り
をするようにって」
「…ずっとお守りしてくれない…かな?」
「え?、もっと大きな声でいいなさいよ」
「あ…あの、ほら、これ」真嗣は突然手に持っていた鞄の中をまさぐりはじめ
た。
「あ、あれ?どこにやったかな?おかしいな。朝出るときにちゃんと入れたん
だよ。あれ」
「…たぶん、右の内ポケット」明日香は低い声で言った。真嗣はあわてて内ポ
ケットを探る。そして、あ、っと声をあげた。
「ほら、あったでしょ」
「うん、知ってたのかい?」真嗣は小さなプレゼントの包みを明日香に渡しな
がら、不思議そうに言った。
「あのね、4年もつきあって、唐突に指輪のサイズ訊かないでよね。それにこ
こ、あなたとわたしが初めて会ったホテルじゃない?」
「よく覚えてるね。そうだ。父さんの後輩の助教授の結婚式だった」
 明日香は答えず、包みを開けている。小さなダイヤの指輪だった。明日香は
指にはめてみる。それは明日香のきゃしゃな手にとてもよく似合った。
「…け、結婚してくれないかな?ぼくと」真嗣は言った。
「どーして、もっと早くそのセリフが言えなかったのかなあ、真嗣くん?」明
日香はおどけて言った。
「…ごめん」真嗣は苦笑した。


 明日香は、真嗣が白いベールを持ち上げて、自分にキスしようとする時の、
彼の表情がおかしくて、つい吹き出しそうになった。


 明日香は、仰向けに寝ながら、真嗣が赤ん坊を抱き上げているのを見ている。
「ほら、もっと手を首に添えて、しっかりと。もう、危なくって心臓に悪いわ」
明日香は言った。
「あ、ああ。こうかい?…こんにちわ、パパでちゅよ…笑ったよ!明日香。こ
の子ぼくを見て笑ったよ、わかるんだなあ」
「まだ目開いてないわよ」明日香はにべもなく言った。


 明日香は、泣いていた。
「ありがとう。母さんも喜んでるよ」娘を抱き上げながら、喪服を着た真嗣は
言った。


 明日香は赤いワンピースの水着を着ている。
「ほーら、なんでそこで沈んじゃうのよ」明日香は言った。
「ぷはーっ。…なんで人間が水に浮くのかわかんないよ!」真嗣がさけんだ。
「パパ!見て、パパ!わたし50メートルも泳げるのよ」二人の娘が言った。


 明日香は娘が家の前でボーイフレンドとキスするのを目撃してしまった。
「あいつ、まだ15のくせに!」自分のことは棚に上げて、彼女は言った。


 …明日香は病の床にあった。気がつくと夫の真嗣が、頭に載せたタオルを代
えている。
「目が覚めたかい」真嗣はやさしく言った。明日香は思わず夫の手を握っていっ
た。
「ありがとう…あなた」
「なんだよ、とつぜん」真嗣が言った。
「あなたが、ずっと、そばにいてくれたから、…あたしは…あたしでいられた
のよ…。ありがとう」明日香は涙ぐんでいた。
「よ、よせよ」真嗣は笑いながら、台所へ歩いて行った。明日香は真嗣の後ろ
姿が見えなくなると、急に心細くなって、丸くなって目を閉じた。
「母さんたら、風邪ひいただけなのに、いまにも死にそうな声だったわね」娘
がおかしそうに父に声をかける。
「『鬼の霍乱』ってやつかな?」真嗣は笑いながら言った。
「なによ、それ?」娘はきょとんとしている。
「おいおい、ちゃんとガッコ行ってるのか?」真嗣は、妻のために野菜スープ
を暖めながら言った。
「いってますもんねーだ」娘はそういって、お玉で鍋の中をかき混ぜる父の後
ろ姿を眺めながら思った。
 あたし、結婚するんだったら、絶対パパみたいな人がいいわ。


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