アダムとイブと

   

 3人のチルドレンは、エントリープラグの中で、することもなく、ただ浮い
ている。エントリープラグもまた、ジオフロント内部の湖にぷかぷか浮いてる
のだった。
 静かだった。プラグ内部のほとんどを占めるモニターには何も写っていない。
射出後14時間はたとえ真空中でもパイロットを生かす生命維持システムが
作動しているため、何も心配はない。
 シンクロ実験中だったチルドレンの面々は、本部に進入した極微の使徒によ
る攻撃を避けて、プラグごと射出されたのだ。
 もし、問題があるとすれば、彼らがみな全裸だという事だった。
「なによ、…もう。なにをぐずぐずしてんのよぉ」アスカが力無くつぶやいて
いる。叫びすぎて声がかれている。本部の応答がなくても、救助信号が出てい
るはずなのだ。なのに、誰も助けに来ないなんて。
「あんまり騒ぐとそれだけ酸素をつかっちゃうよ」アスカのエントリープラグ
の中に、シンジの間延びした声が響く。こんなとき、この男の声を聞くとむか
むかするわ、アスカは思う。
「そんなの分かってるわよ、ばーか。十何時間もここにいるわけないじゃない。
ばーか」にへん、馬鹿といってやった。
「…それは、わからないわ…」一番腹が立つのは、この落ち着きくさった、こ
のおすましやの、この何考えてんだかわからない、この馬鹿野郎の、この女の
声だわ、アスカは思った。
「な、なんでよ!」
「…極小の使徒が、MAGIを乗っ取ったとき、きっとネルフ本部の自爆命令
をだすでしょう…」今日の天気のことを話題にするように、綾波レイは淡々と
言うのだった。
「…そんなことがあるわけないわ!」そんなことって、いかにもありそう、と
思いながらアスカは叫んだ。
「…そうなったら、だれも救助に来られないでしょうね」
「そうなったら、じ人類も何もかも終わりよ!サードインパクトね、きっと。
…だったら」しかたないじゃない、アスカはそう言おうとして、世界の終わり
があと数分で来るとしても、素っ裸で死ぬのは絶対にいやだ、と思った。それ
は絶対にやだ。地球が吹き飛んでもいい、素っ裸のあたしの死体が宇宙空間に
ただよって、どっかのETに拾われて…。そのETは緑色で触覚が生えてて、
ちびで中年男みたいに脂ぎってて、ほほう、こりゃ珍しいものひろったなあ、
なんて…。絶・対・に・い・や・だ。
「…だいたい、裸でシンクロテストぉ、みたいな変態実験をするのがいけない
のよ!」アスカは八つ当たりを始める。
「だってそうでしょ?シンジ、あんた学生服で初号機に乗ったわよね。そして
ビギナーズラックで戦闘に勝ったわよね」
「…うん」あれは『ラック』じゃなくて、『暴走』だったけど。
「学生服でシンクロ、裸でシンクロ、だったらプラグスーツは何のためにある
の?」
「そ、それを、言っちゃおしまいだと思うよ」
「何かおしまいなのよ、何が!…ったく」そのときアスカの心に名案が浮かん
だ。
「ねえ、シンジぃ」アスカは急に猫撫で声になった。
「な、なんだよ」シンジはどす黒い不安でいっぱいになりながら、答えた。
「あんた、ハッチ開けて、外にでて、泳いで岸に行きなさい。岸には確かボー
トがあったわ」一度加持さんと乗ったことがある。アスカは、船体の横に『USS
エンタープライズ号』と汚い字で書かれた、薄汚い木製のボートを思い浮かべ
ていた。
「あんたは、もし本部に異常がなければ、行って服を取ってきて、ボートを漕
いで私たちを助け出す。どう、名案でしょ?」名前も知らないネルフのおっさ
んに、ハッチを開けられるよりましだし。…リーダーとして完璧な指示だわ、
アスカは思った。
「いや、あの、その」シンジは口ごもった。
「…じっとしていたほうが、よくない?」レイがぼそっと言う。
アスカは逆上した。
「な、あんであんたたちは、二人そろって反対するの?だいたい助けが来ない
可能性があるっていったの、ファーストじゃないよ!それとも、なに、ネルフ
本部が爆発するまでここでじっと待ってろって言いたいわけ。そーう。待って
ろ、て言われりゃ、それこそこの世の終わりまで、ずーと待ってるの、あんた
たちは」
「そんなこと言ってないよ」
「じゃあ、どんなこと言いたいのよ。あんたはもしや『女の子』に素っ裸で泳
いでいって、服取ってこいって言いたいの。へーえ。そんな奴だったんだ」
「…わたしが」
「ファーストもいちおう女の子でしょ。こんな時に男のチルドレン使わないで、
いつ使うの?」
「つ、使うって」召使いみたいに、とシンジは思う。
「…ねえ。行ってよ。早く。『おねがい』って言ったげるから。お・ね・が・
い」アスカはさあびすで可愛い声を出してやった。最後の『い』が半音上がっ
ている。

 シンジは必死で考えていた。彼は泳げないのだ。いや、正確には5メートル
ほどだったら足をつけずにプールを移動できるというべきか。この湖はどのく
らいの深さなんだろう?…足はつかないよな。エントリープラグはとりあえず、
ハッチ部分が上になって浮いている。ハッチを開けたっていきなり水が入って
くる事はない。ハッチを開けて体を起こして、ボートを漕ぐみたいに、前に進
めないだろうか?…できそうな気がする。
「泳げない」と正直に言う、という最善の方法は、なぜか思いつきもしなかっ
た。
「…行くよ。…行けばいいんだろ」なんとかなるはずだ。信じるんだ。なんと
かなる。なんとかなる。なんとかなる。シンジは頭の中できっちり三度繰り返
す。癖になっているのだ。
「…碇君」レイが言う。
「ファーストは黙ってて。…素直じゃない。だったら、さっさと行って来なさ
い」
 シンジはおそるおそるハッチを開ける。LCLが外に流れ出る。プラグを揺
らさないように、そっと体を起こす。げほっ、げほっ。肺にたまったLCLを
吐き出す。プラグは円筒形で、さざ波にも敏感に揺れている。シンジは、ネル
フ本部の方を見やる。なにも変化はない。岸までは約14、5メートルといっ
たところ。手を伸ばして、水の中に手を入れる。すっと掻いてみる。前へすす
んだ。いけるぞ。
 シンジは、プラグを揺らさないように、慎重に岸へ向かって漕ぎ始める。こ
とろが50センチも行かないうちに、この航法には『重大な欠陥』があること
に気がついた。片手で漕いでいると、プラグはぐるぐる回るだけのなのだ。あ
たりまえだ。日が暮れるまで漕いでも岸につけやしない。シンジは思い切って
身を乗り出して、両手で漕げないか、やってみようとする。目の下に広がる湖
の、深い暗緑色の水面は、見なかったことにする。…難しい。両手を水につけ
るなんて無理だ。
「ちょっとぉ!シンジぃ。さっきからパシャパシャって、なにあそんでんの
よ?水遊びでもしてるんだたったら承知しないわよ」アスカの声がプラグの通
信装置から聞こえてくる。
 シンジは焦った。そして思い切って身を乗り出した。プラグはくるんと一回
転し、シンジは湖水の中に放り出された。
「あわわわわわわ!ごぼごぼごぼ」シンジは暗く深い湖の中で逆さになってい
た。
「ど、どうしたのよ」アスカはシンジの悲鳴を聞いて、叫んだ。…応答はない。
ただ、ちゃぷちゃぷという、水の音がするだけだった。

 綾波レイは、躊躇しなかった。ハッチを開けるが早いか、水の中に飛び込ん
で、シンジに向かって泳いだ。彼のプラグは沈みつつあった。そのそばにシン
ジの、空中をむなしく掴もうとする手が見える。レイはクロールで彼に近づき、
手の届く位置までくると、立ち泳ぎになって、とまった。シンジがもがくのを
やめて、ぐったりするのを待っているのだ。助けたくないのではない。泳げな
い人間は水に放り出されるとパニックになり、じたばたする。それを押さえつ
けて岸まで泳ぐ力は自分にはないと判断したからだ。もしすぐに助けようとす
ると、暴れるシンジに体力を奪われて、二人とも溺れてしまうだろう。ほんの
数秒待った。シンジは湖に沈んでいく。レイは水中に潜り、シンジを抱きかか
えるようにして、水から引き上げる。そして、頭を水面から出してやった。レ
イはまったく息継ぎをせずに岸まで泳いだ。シンジはぐったりとなっている。
 あとわずかというところで、足がつった。激痛が走った。しかし幸いな事に
爪先が湖底についた。レイはシンジをおんぶして自分の足を引きずりながら、
岸に上がった。おそろしく体力を消耗していた。しかしレイは、歯をくいしば
り、ふらつきながらもシンジを平らな地面まで引きずっていくと、そこに寝か
せた。

 シンジの顔や体は真っ白になっている。レイは6ヶ月間のパイロット訓練の
カリキュラムの中に、たった2時間だけあった救急措置法の講義を思いだそう
とした。…まず肺に入った水を吐かさなければならない。どこを押さえればよ
かったのだろう?レイは両手でシンジのみぞおちのあたりを押さえた。何度も
押さえた。とにかく、口から水がすこし出てきた。次に肺に空気を送り込む。
レイは息を吸い込もうとして、自分自身肺にLCLが入ってたままなのに気が
付き急いで吐き出した。あわててはいけない。わたしらしくない。もう一度息
を吸い込み、シンジの口に自分の口を付けて、思いっきり、吹き込んだ。だめ
だ、呼吸しない。心停止している。力を込めて何度も胸を押す。もう一度息を
吹き込む。だめだ。もう一度心臓を刺激する。やり方が違うのか?わたしが間
違っている可能性は?レイは顔を上げる。わたしが間違っている可能性は?
 そのとき、どこかでボンっという鈍い音がした。レイはネルフ本部を見る。
何も異常はない。人を呼びに走るか?…だめだ。あと何分の余地もない。レイ
は人工呼吸を続ける。同じ動作の繰り返し。わたしが間違っているとしても、
何もしなれば確実に碇君は死ぬ。レイは、想像するということはしない。可能
性を検討するだけだ。レイは人工呼吸を続けながら、今、ここで碇シンジが死
んだ場合の可能性を検討してみる。碇君が死んだら。…たぶんマルドゥク機関
は新しいチルドレンを見つけてくるだろう。わたしは初号機に乗り、その子は
零号機に乗るのだろうか?…そんなことではない。そんなことを考えたいので
はない。レイは自分の肌色より白くなっていくシンジの唇に自分の唇を重ね合
わせ、息を吹き込みながら、必死で考えている。碇司令は悲しむだろうか?…
泣くのだろうか?…わたしはなぜ考えてばかりいるのだろう?レイはシンジの
胸を押す。あの数秒間がいけなかったのだろうか?わたしの判断が間違ってい
たのだろうか?あのまますぐに助ければよかったのだろうか?レイは、シンジ
の口に自分の口を付ける。冷たい。なぜ、いま、あのヤシマ作戦の時の、わた
しのプラグを開けて、のぞき込んだ碇君の顔が、頭に浮かぶのだろう。碇君は、
泣きながらほほえんでいた。不思議だった。なぜ泣きながら笑うのだろう。わ
たしが生きていたことが、泣きながらほほえむような事なのだろうか。なぜ、
あの時の碇君の顔が、あの笑顔が、わたしの頭の中ぜんぶを占めているのだろ
うか?わたしは可能性を検討しているのだ。碇君。碇君のいない未来というも
のの可能性を検討しているのだ。なにも浮かばなかった。どんな情景も、自分
が見たこともない「葬式」というものの光景も、もちろん浮かばないのだった。
気がつくとわたしは碇君の胸をやみくもに、どん、どん、と叩いている。息を
力いっぱい吸い込み、口を合わせる。だめだ。なにも浮かばない。夢を見ない
のと同じだった。朝まで延々と続く暗闇。また胸をたたいている。口に息を吹
き込む。頭の中の、もう一人の、とても冷静なレイが囁いている。あなたはパ
ニックに陥っているわ。いいえ。わたしはパニックになんかなってない。レイ
は死にかけた少年に命の息を吹き込み続けた。

 いっぽう、当の碇シンジは、お花畑にいた。
 光が、そこらじゅうから、光が射し込んでいるのだった。シンジはお花畑の
中を、ゆっくりと歩いていた。チョウチョが飛んでいるのだった。極彩色のチ
ョウチョだった。シンジは自分はチョウチョを追いかけているのだと思った。
しばらく行くと、父の碇ゲンドウが道ばたにたって、両手を空にさしあげてい
るのだった。
 …とうさん、なにをしてるんですか?
天を支えているのだ。バカモノ。ワシが天を支えているからこそ世界は滅び
ないのだ。
 …はあ。そう言われてみれば空がぐらぐら揺れている。どん、どん、遥か遠
くで雷鳴が聞こえる。
それよりお前、早く集合場所に行かないといかんぞ。ゲンドウが言う。
 …はい、と答えて、それってどこだろう?と考えていた。
 …それってここよ。いやに黒っぽい、たくさんの人影に囲まれた、バスガイ
ドの格好をした綾波レイが、手に持った黄色の小旗でシンジを手招きする。
 綾波。なんで。ここでバスガイドをしてるの?
 …バスが出るわ…。レイは相変わらず無表情だった。
 …大変だ。そりゃ乗らなきゃ。シンジは人影の列に加わろうとする。
 …待ってください。お客さん。料金払ってもらわないとこまります。レイが
言う。
 料金て、僕お金もってないぞ。
 それは、困りましたね。じゃ、キスで払ってください。レイは事もなげに言
う。
 しょうがないなあ、シンジはそういうと、バスガイドの制服を着て、目を閉
じて待っている綾波レイをそっと引き寄せ、彼女の薄い唇に自分の唇を軽くふ
れさせる。なぜか平気でそんなことが出来た。
 …料金足りません。そんなんじゃ、途中で降りてもらいます。
 冷たいなあ。シンジは今度はレイを抱きしめて、キスをする。
 ちゅぱ。離れるときに、大きな音がするほどのキスだった。…ちゅぱ。…ち
ゅぱ。

 ちゅぱ。シンジは、せき込んだ。ごほごほごほ。水を吐く。ひどい気分だっ
た。何か暖かい、柔らかいものに押さえつけられていた。重たいなあ。そう思
って、目を開けた。視界いっぱいに綾波レイの顔があった。レイの顔はびっし
ょりと濡れている。滴が彼の頬にしたたり落ちていた。水滴でも目に入ったの
か、彼女は目をぱちぱちさせている。自分を押さえつけているものがわかった。
レイだ。なんと裸のレイが自分におおいかぶさっているのだった。まったくな
んて夢をみているんだろうか…。シンジは思わず手をレイの背中に回している。
バス代を払わないといけないのだ。シンジは半身を軽く起こして、目をぱちく
りさせているレイにキスをした。…つもりだった。
 そのときレイは勢いよくシンジの口の中に息を吹き込んできた。
「ぶはっ。ぶはっ。な、なにするんだ」と言って息をついだとき、レイの背後
の湖がごごごっと盛り上がるのが目に入った。緑色の山のようなものが、のそ
のそと湖から出てくるのだ!…たく、なんて夢だ。と思った。夢の後半はなん
てリアルになっちゃったんだろうか?
「あ、綾波うしろ」シンジは言う。レイはすっくと立ち上がった。やっぱり裸
だった。ぼくはなんてエッチな奴なんだろう…、と思ったとき、ぱたぱたぱた
とまるでトランプで作った山が崩れ落ちるように、頭の中がはっきりしてきた。
これって…現実?
湖から出てきたそれは、表面に藻やゴミがいっぱい付いたクリーム色の塊だ
った。その怪物は水を滴らせながら、レイとシンジに向かって近づいてくる。
シンジはあわてて体を起こし、前を押さえる。
「…あんたたちぃ…まっぴるまから…あーに、やってんのよぉ…」その塊はど
こかで聞いたような声で言う。
「…碇君は溺れたのよ」レイはその塊をにらみつけ、怒ったような声で言う。
 その塊のてっぺんががばっとあいて、中から濡れそぼったアスカの顔が出て
きた。
「なによ、…その目。わたしが悪いっていうの?」アスカは間抜けな格好で前
を隠しているシンジに向かって叫んだ。
「…シンジ、あんたが悪いのよ!あんた最初から泳げないって、言ってりゃよ
かったのよ!それを、なに?…僕行きますって。あたしは泳げない人間に泳い
で服とってこい、なんて無茶いいませんよ!…あんたのおかげであたしは、フ
ァーストに、まるでオニ見るみたいな目で見られてるのよ!」
「…ごめん」そういえば、泳げないって、断ればよかったんだ。シンジは初め
て気が付いた。
 そうだ。アスカは正しい。碇君は断るべきだったのだ。レイは思った。わた
しは「オニ見るみたいな目」で睨んでいたのだろうか?
「…それより、ファースト、ちょっと前ぐらい隠したら?同性が見たって恥ず
かしいわ」アスカはそう言って、まとっている巨大な布のようなものの中に入
れと手招きする。レイはその藻やゴミだらけの布の端をつまんで、前を隠す。
「…いったいどっからそんな布拾ってきたんだよ」
「…パラシュートよ」アスカは怒ったように言う。
「へ?」
「パラシュートよ。エントリープラグを空中に射出したときに開くやつよ!知
らないの」
「知ってるけど、アスカ。ひょっとしてそれを開いて、引きずりながら泳いで
きたのかい?」
「あたりまえじゃないの。…あんたって、ばか?…なんでこのあたしが素っ裸
でおよがなきゃなんないの。…もう、死ぬかと思ったわよ」
それは恐るべき水の抵抗だったにちがいない。なんて女の子だ、シンジは思
った。
「…それより、あんたたち、さっき何してたの?」アスカは突然、狡猾なコヨ
ーテのような表情になった。
「な、なにってなんだよ」シンジは思わず身構えた。なんだか顔が熱くなって
きた。
「なにって、なによ。…マウストゥーマウスの人工呼吸って、されてる人が体
起こしてするもんかしら…?…それって、もう気がついてるんじゃない?…お
まけにあんた、ファーストの背中に手回すの見たわよ」
「そんなことないよ!…そんなことない。ぼくは、ぼくはほら、死後の世界に
行ってたんだ。ほら、ほらあの、りんナントカ体験」
「臨死体験でしょ?」
「うん、それそれ」シンジは賢明に頷く。
「で。目を開けたら天国にいて、かわいい天使が目の前にいたもんで、チュウ
しちゃったとか?」
「え?…い。いや、そんなことないよ、そんな」
「…本部は異常ないみたいだわ」レイは突然ぼそりといった。アスカとシンジ
は思わず本部の方を見る。なにも以上はない。トンビが二羽、輪をかいて飛ん
でいるだけ。
「あ。それよりあんた服とってきなさいよ」アスカはシンジに言った。
「え、…いいけど。でも、ぼくも裸なんだけど」
「あんたの裸なんか誰も見たかないわよ。ちょうどイチジクの茂みに隠れてる
じゃない。そいつを前に付けて走っていけばいいのよ。おお、この子、ネルフ
のマーク腰につけてますぅ、て表彰されるかも」
 冗談じゃない。しかしそれしか手頃なものはなかった。シンジはイチジクの
葉っぱを二枚ちぎると、前と後ろを隠して、立ち上がった。アスカとレイが、
どでかいパラシュートにくるまって、じっと見ていた。死ぬほど恥ずかしくな
ってきた。
「なに、見てるんだよ!」
「見てないわよ、ばーか。まるで創世記の『アダム』みたいね」アスカはそう
言って笑った。
  アダム…。とイブ。シンジはレイを見た。恥ずかしくなるほど平然とぼくを
見ていた。イブ。さっきの状況が頭に浮かんできた。アダムとイブ。裸のアダ
ムとイブ。
「早くいきなさいよっ」アスカは不機嫌そうに言った。

 わかったよ、と答えるとシンジは走り出した。すぐにネルフの職員らしき人
に会った。けれどぼく自身が服を持っていかないとアスカに何をいわれるかわ
からない、と思い、シンジは駆け抜けた。その人は呆然とシンジを見ていた。
シンジはネルフ本部前の門にたどり着いた。保安部の人が二人立っている。シ
ンジはしどろもどろになりながら、状況を説明する。しかし取りあえず規則だ
からと保安部の人は言ってシンジに指紋・声紋・網膜検査をする。もちろん、
全裸のうえにただのイチジクの葉っぱをつけただけの碇シンジと判定される。
シンジは礼を言うと、作戦指令室に行こうとする。まてまて君、イチジクじゃ
かゆいだろ、これもって行けと空のバインダーを二冊貸してくれる。あ、あり
がとうございます、とシンジは言い前後を今度はバインダーで隠す。そしてま
た走り出す。エスカレータの駆け足であがりきったころには、人の視線なんか
気にならなくなっている。通路でトイレに行こうとする、伊吹マヤに出会う。
あ。シンジくん!マヤは叫んだ。口に手を当てて、なんだかものすごくあわて
ていた。シンジはかまわず走る。ついに指令室にたどりつき、3台のむき出し
になったMAGIの前で、足を組んでコーヒーを飲んでいるミサトとリツコを
見つける。シンジは立ち止まり、怒りに震えながらミサトを指さして、みみみ
みみミサトさんっ!ぼくたちを忘れてたでしょ!と叫んだ。ミサトはあわてて
ネルフカップを置き、子どもに痛いところを突かれたら、とにかくなんでもい
いから理由をこさえて怒ってみせるに限るという子育ての秘訣を思い出し、こ
う叫ぶ。
「シンジくん!命令がなければまだ戦闘中よ!勝手にプラグから出てはいけな
いわ!」
「そうよ。プラグの中が一番安全なんだから」と言いながら、赤木リツコは食
べかけのハーシーのチョコレートの包みをシンジから見えないようにそっと灰
皿の向こうへ押しやる。

 いっぽう、そのころアスカとレイは、一言も口をきかずに汚れたパラシュー
トにくるまっている。寒くなってきた。
「…ねえ、ファースト」アスカは言う。レイの返事はない。ふん。どうせ返事
がなくてもいいわ。
「…あんたとシンジが『くっついた』って、べつにどうだっていいわ。あたし
には関係ないもの。でもくっついたら、ちゃんといいなさいね。あたしには関
係ないけど」
「…」レイは答えない。
「あんたに話しかけたあたしが馬鹿だったわよ。えーえ。わたし、ばかぁ、て
なもんね」
 しかしレイは答えない。くっつくというのが何を意味しているのか、懸命に
考えているのだった。

 その夜、どこかうしろめたいミサトのおごりで、3人のチルドレンはラーメ
ン屋に行った。ミサトが左端、その隣にアスカ、シンジ、レイの順に座ってい
る。シンジはチャーシューメンを食べている。ちゅるちゅるちゅる。口の中に
勢いよく黄色い麺が吸い込まれていく。怒ったようなアスカの目と目が合って
初めて、レイは自分がシンジの口元をぼんやりと眺めていたことに気が付く。
あわてて目をそらす。自分のラーメンを食べようと下を向く。ニンニクの香り
のする暖かな湯気がたち昇ってくる中で、綾波レイは、こう思った。

 …とにかく、碇くんは、生きているわ。





お  わ  り

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